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「70年」ではなく「100年」で考えるべし:「1920年代」の意味

田中直毅
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 今年2015年は日本にとって戦後70年という記念すべき年となる。集団的自衛権行使を可能にする安全保障関連法案の行方や、その先に政治化するであろう憲法改正というテーマが重い。70年を回顧する中で日米同盟や近隣諸国との関係を改めて位置づけたい、という願望が我々の内部にあることは間違いない。

 私は今後の日本社会の骨格を展望するためには、敗戦時で区切るのではなく、過去100年という単位の歩みを改めて見つめ直すことが必要だと考えている。それは軍国主義化して無謀な戦争を引き起こした日本の失敗がどこにあるのかをはっきりさせる必要があるからであり、また経済再建のためには、日本国家が抱え込んだリスクの封じ込めが必要なことを自覚せねばならないからである。日本社会を自分たちの手で自己統治するための教訓や知恵を歴史の歩みのなかで得ようとすれば、100年という単位は間違いなく明日を照らすはずだ。今日の日本、そして明日の日本について思索するとき、そのための手掛かりは豊富なものでなければならない。

戦後20年で崩れた「均衡財政」

 70年ならば日本国憲法の制定から始まり、サンフランシスコ講和条約と駐軍協定としての日米安保条約の締結という枠組みがまず論じられることになろう。そして、日米安保条約の改定によって、基地の提供と日本の防衛が対となった日米同盟の骨格が論じられよう。集団的自衛権の行使という新しい枠組みの意味を探るためには当然の手続きでもある。

 また、戦前の日本の軍事化と財政破綻から学ぼうとした戦後70年の歴史の始まりは、「均衡財政」の政治理念の保持でもあった。被占領の時代が終わっても1965年までは財政の入りと出とを均衡させねばならないとする政治的矜持は保たれていたのである。

 私はサンフランシスコ講和条約が発効した1952年に小学校に入学し、大学に入ったのは1964年だったので、「均衡財政」主義が貫かれた期間の日本の社会の貧しさを十分に知っているつもりだ。貧しい家計の子供たちからも、教科書代金は徴収されていたし、給食費も然りだった。ある同級生の家を訪ねた時のことを鮮明に覚えている。茅葺の屋根の下に畳もなく、土間と板であった。家具らしきものもほとんどなかった。

 ブラジルをはじめ中南米各地への移民は、1960年代のはじめまで続いていた。国家財政の破綻だけは絶対に回避するという政治路線は、自民党政治の骨格だった。1965年の不況は税収不足を生み、赤字国債の発行が初めてなされた。そしてこの時をきっかけに財政収支の均衡という政治的主張は消えた。70年は20年と50年とに画然と区別される。50年間に保守政治は変容を重ね、ついに今日の財政状況に至ったのだ。

 

供給過剰と金融恐慌

 70年単位ならば吉田茂、岸信介、田中角栄、福田赳夫と並べて、小泉純一郎、安倍晋三に至る道筋になるだろう。安全保障と財政という2つの軸で、冷戦、脱冷戦そしてノンポーラ(無極)までを論ずることになろう。

 しかし、これを100年単位でみればどうか。決定的に重要なのは1920年代についての理解であると私は思っている。「日本の脱線」はここから始まっている。時代を追いながら3つの論点を抽出する。私が21世紀の展望においても欠かせないと考えるものばかりだ。

 第1点は経済の供給側についての考察だ。第1次世界大戦は日本の産業の重化学工業化という課題に対する条件整備の面があった。欧州での戦争は苛烈を極めた。日本にはアジアを中心に経済進出の機会が天与のように到来した。だが、問題は戦争が終わった後だったのだ。当然のことながら、国際的にみても供給は過剰化する。日本では、せっかく手に入れた虎の子の重化学工業を能力過剰だからといって廃棄するには忍びないとの声が広まった。

 1920年から21年にかけて高橋是清蔵相のもとで金融緩和策が採用された。これによって短期的には商品投機の相場状況が生まれた。この時の過剰能力問題は10年の単位で尾を引いた。投機によるバブルの発生とその崩壊後、卸売物価は下げ続けた。デフレとも言えるし、喪失の10年とも言えよう。当時の言葉では「財界整理」が基調となった。価格メカニズムを回復させるためには、供給側の整頓が課題だという認識である。ところが現実には、秩序だった供給能力の削減は実現しなかった。歴史は「金融恐慌」という形で帳尻を合わせようとしたと言ってよい。

 

国際協調と財政規律

 第2のポイントは国際協調の歴史を読み誤ったことだ。第1次大戦の惨禍から学ぼうとした欧州を中心に、軍縮、不戦というテーマが揚げられ、第1級の政治家はこれをこなすべく努力を重ねた。日本は「5大国」の一角に入ったと踊ったのみで、この流れが理解できなかった。国際協調の時代にアジアの地で近隣を巻き込む別の動きを行ったのが日本ということになったのだ。

 このポイントは同盟を論ずるとともに、さらに大きな歴史の流れのなかでの自らの立ち位置を考えようとすれば、21世紀においても欠かすことのできないものだ。

 第3のポイントは財政規律に関わる問題だ。日本の保守政治の源流のひとつに民政党・浜口雄幸内閣における財政緊縮策の実施が位置づけられるべきだ。公務員給与の削減や行政経費の圧縮を行ったという輝かしい実績がある。海軍軍縮もこの流れの中に位置づけるべきだ。井上準之助蔵相ともどもテロの対象となってしまうという歴史の歩みは悲しい。しかし、財政破綻のリスク回避こそが日本社会の最も重要な防波堤と考える保守政治家が、21世紀の日本に登場することは当然視すべきであろう。70年単位ではなく、100年単位で考えることの意味はここにある。

1945年9月2日、東京湾に停泊中の米第3艦隊旗艦の戦艦ミズリー号上での無条件降伏文書の調印式に臨む日本側全権団。中央の燕尾服姿が首席全権である東久邇内閣重光葵外相。右側は大本営代表の全権梅津美治郎陸軍参謀総長(大将)。日本側はこの両氏が署名、連合国側は最高司令官マッカーサー元帥のほか、米、英、中国など計9カ国全権が署名した。ここに至るまでの30年間に何があったのか (C)AFP=時事



田中直毅

執筆者:田中直毅

国際公共政策研究センター理事長。1945年生れ。国民経済研究協会主任研究員を経て、84年より本格的に評論活動を始める。専門は国際政治・経済。2007年4月から現職。政府審議会委員を多数歴任。著書に『最後の十年 日本経済の構想』(日本経済新聞社)、『マネーが止まった』(講談社)などがある。

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