戦後70年――。今年、私たち日本人は、また1つの節目を迎えます。
日経ビジネスオンラインでは特別企画として、戦後のリーダーたちが未来に託す「遺言」を連載していきます。焼け野原から輝ける時代を築いた当事者たちの言葉には、若い世代が持ち得ない強靭な視座があります。
第1回は、スズキの鈴木修会長兼社長の「遺言」。今年1月末で85歳を迎える中小企業のヒーローは、「人生は、やる気とこんちきしょうだ」と言い切ります。
この連載は、日経ビジネス本誌の特集「遺言 日本の未来へ」(2014年12月29日号)の連動企画です。本誌特集では、戦後リーダー34人にご登場いただきました。
鈴木修(すずき・おさむ) スズキ2代目社長の鈴木俊三氏の娘婿。銀行を退行して1958年にスズキに入社し、78年社長就任。軽自動車「アルト」(79年発売)が大ヒットし、排ガス規制の対応に遅れて経営難に陥っていた同社を再建した。入社時に年商60億円を目指していた同社を、3兆円企業に飛躍させた。会社で一番好きな場所はトイレ。毎日40分、こもって書類や新聞を読む。1930年1月生まれ。(写真:的野弘路、以下同)
未来への遺言ですか。私にとっては「会社が潰れないように」。それだけだな(笑)。
でもね、今回話そうと思ったのは、やっぱり、私の話がこれからの時代を担う皆さんの参考に少しでもなるのならと思ったからです。
私が小さいときは、そういう指針がなかったんですよ。小学校の先生とか町長さんとかも話すことは挙国一致とかそういうのだけだった。でもね、日本が戦争に負けてしばらくして、昭和25年(1950年)に成人式に行ったんです。それで、町長さんが祝辞の中で言った言葉が強烈に残った。
人生のバックボーンとなった町長の言葉
「私たちは戦争をやって、負けてしまった。みんな、ご存じのように焼け野原になった。だけど、自分は齢60を超えて、もう復興を担う力はない」
欧米に追い付け追い越せと言われた覚えはないんだけれども、まあ、とにかく復興をしてほしい、と。年寄りでは、申し訳ないけれども、とても復興の力になれないと。「若い青年、成人に達した皆さん方が頑張ってほしい」と、町長さんが言ったことを覚えていますよ。それが私のバックボーンになったことは事実ですよ。
我々は食糧不足の中で、戦後の混乱の中で青年時代を過ごしてきて、東京に進学した時だって焼け野原で大変だった世代ですよね。昭和25年(1950年)に来ましたから。そういう時代の混乱、戦前、戦中、戦後、それで、再建という日本の縮図を経験した中で何を考えたかというと、「こんちきしょう」とか、「頑張らなくちゃいかん」とか、「やる気出そう」とか、そういうことに尽きるわけです。