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【関西の議論】
「真田丸」は孤立無縁の砦だった 最新の等高線調査が崩した“定説” あえて敵の大軍を引き寄せた真意とは…
徳川家と豊臣家が国を二分して戦った「大坂の陣」。その豊臣方の知将・真田信繁(通称・幸村)が大坂城の堀の外側に築いた出城「真田丸」は従来、城内と簡単に行き来できる構造と考えられてきたが、真田丸推定地の最新の等高線調査によって、城とは大きな谷を隔てた孤立無援の砦だった可能性が高まった。専門家は「あえて敵の標的となって大軍を引き寄せた」と推測。実際に、幸村は真田丸をめぐる攻防戦で徳川軍の主力を散々に打ちのめした。その計算し尽くされた戦略の真意とは-。
(川西健士郎)
■専門家も舌を巻く作戦
「まさに背水の陣。血祭りに上げてくれ、といっているようなものだ。この状況で勝ち切るとは、見事というよりほかない」
真田丸が孤立無援の砦だったとする新説を唱え、幸村の知略に驚くのは奈良大学長の千田嘉博氏(城郭考古学)だ。「真田丸攻防戦の信繁の戦いは、従来の常識とはまったく違う」と言い切る。
大坂の陣は慶長19(1614)年、最初に冬の陣が勃発。翌年の夏の陣に続く前半戦と位置づけられる。
全国の大名を主力とする徳川軍20万が大坂城を包囲。豊臣軍10万が城に籠もった史上最大の籠城戦だ。その最も激しい戦闘が真田丸攻防戦だった。
大坂城は東西と北の三方を川や湿地帯で囲まれた天然の要害。一方で、南に続く上町台地が唯一の弱点とされた。真田丸は、この弱点を強化するため、城の東南部に築かれた。
戦記などによると、真田丸攻防戦では、徳川軍が誇る精強部隊が真田丸や大坂城を攻めたが、真田丸や城内には侵入できず、豊臣軍はほぼ無傷。それに対し、徳川軍は数千人もの兵を失ったとされる。