「もともとは自宅です」。自費でロンドンに夏目漱石の資料館「ロンドン漱石記念館」を開いている。漱石記念館の始まりをこう語る。ロンドンで入手できる漱石関係の資料を趣味で集めていたが、旅行会社を経営していたため来英する日本人の学者との接触の機会が多く、その口コミで興味を持ち「ぜひ見せてほしい」という人が引きも切らなかった。そうした来客があれば喜んで、あるだけの資料を広げてみせた。しかし当時住んでいた1LDKフラットでは、そのたびに後片づけをしなければならず、その煩わしさにまいってしまった。疲れ果てて、より広い部屋にということで84年、ロンドン南西部、地下鉄ノーザン・ラインのクラパムコモン駅に近いザ・チェイス80番地の2LDKのフラットを買って移った。ここの広いリビングを資料公開専用の部屋としたのが、漱石記念館の始まりだ。
■漱石旧居は斜向かい
筆者は以前、このフラットが漱石の旧下宿のひとつと勘違いしてコラムに書き、恥をかいたことがある。漱石が留学時代最後の1年4カ月間住んだのは同フラットの斜め向かいの81番地。本当はそこを買いたかったのだが、持ち主の言い値が、80番地より2ケタも高かったためあきらめた。当初は、あくまでも自宅のつもりだったが、日本の全国紙に社会面で「ロンドンに漱石記念館できる」と大々的に書かれてしまった。やがて結婚もし、手狭になったため住居は引っ越し、名実ともに記念館専用となり、毎週水曜、土曜、日曜の3日間(日曜は午後のみ)開館している。
■どの記念館にも負けない
英国には著名文学者ゆかりの建物を使った記念館が多い。しかし漱石記念館はそのどれにも引けをとらないと自負している。英国の文学者記念館はストラトフォードのシェークスピア記念館が良い例だが、展示資料が恐ろしく少ないのが常だからだ。それに対し、漱石記念館は写真や書籍など1,000点余りを保有している。漱石記念館を訪れる人は圧倒的に日本人が多い。なかでも夏休み、春休みを利用した学生、教師、学者が最大の比重を占める。数十人の高校生の団体が来た時は、築100年以上の建物の床が抜けるのではと冷や冷やした。英国はじめ欧州人の来館は少ない。「欧州人の日本に対する関心は、経済に偏っているのではないか」と疑っている。実際、80年代の短かい「経済大国・日本の全盛期」には、日本について学ぶ英国人層が底上げされ、訪れる人も比較的多かった。しかしバブル崩壊から10年も回復しない国に愛想をつかしたか、近ごろはめっきり減った。一方、少ないながらも欧州人の熱心な漱石ファン、研究者は存在する。かつて訪れて、資料をむさぼり読んだポーランドのワルシャワ大学の学生モニカ・シフルスカさんは現在、文部省の奨学金を得て日本留学中だ。漱石作品の翻訳に日夜取り組んでいるという。フランスからは『我が輩は猫である』をフランス語訳したリヨンの大学教授ジーン・ショーリー氏の教え子も訪れたことがある。漱石は世界20数カ国で翻訳されている。
1951年に鹿児島市で生まれた。桜美林大学文学部英語英米文学科を卒業後、74年に初めて英国の土を踏む。留学したかったのだが、その費用がやりくりできず、ホテルの研修生という形でやってきた。
ランカスター・ゲート付近のホテルに勤務する一方、ロンドン大学ユニバーシティー・カレッジで言語学の聴講生となった。大学に通うのは週3回だが、ホテルの夜勤を午前7時に終え大学へ。早い講義は午前10時から始まるため、ほとんど寝る時間がなかった。さらに当時から夏目漱石への興味が尽きず、食べるものも食べずに漱石留学当時の書籍、新聞、写真など資料を買いあさった。そのため体重が50キロまで減るという健康状況で、ついに学業は挫折する。
ホテルに5年間勤めた後、知人が支店長を務める日系旅行社の出資でその子会社を設立し、代表取締役となる。マナーハウス(庄屋屋敷)宿泊ツアーなどの斬新な企画を次々と当て、経営は成功した。89年、後半生を自分の好きな仕事で生きることを決め、旅行社経営から離れた。
現在は、ロンドン市内で日本関係英語文献の古書店を経営。そのかたわら文筆業にいそしむ。欧州を訪れた日本人の足跡を追うことをライフワークにしている。著書は訳書を含め20冊近い。
最近、日本関係の出版物を多く手がけている米タトル社から漱石作品3冊の英訳の話が来た。大学生のころから、なじんだ出版社であり「一生の思い出に1冊でも、ここから訳書が出せれば」と夢見ていたが、何と一挙に3倍もかなってしまった。
■牧野義雄の『霧のロンドン』
ライフワークの最大の対象はもちろん漱石だが、それに次ぐのが画家の牧野義雄。20世紀初頭、英国で一番有名な日本人だった芸術家だ。陽気な社交家だった人物で、随筆集など英文の著作も多い。そのロンドン日記『霧のロンドン』を翻訳して日本で出版したところ、「牧野氏の生き方に感動した」との多くの反響を得た。
■あと一歩の『漱石賞』
海外で日本研究の論文を英語で書いた人を顕彰する『夏目漱石賞』を創設したいと常々思っている。実は、以前に実現一歩前までいった。朝日新聞社が協力を申し出てくれ、同社を通じて、漱石と英留学中に親交のあった『味の素』の発明者・池田菊苗博士の縁で味の素株式会社の後援もほぼ決まっていた。だが、「われこそは漱石研究の第一人者」という大物評論家から「ノーベル賞並みにしろ」と横やりが入り、立ち消えになった。
「大げさなものでなくていい、賞金は漱石記念館が出す。航空会社やホテルに協賛してもらい、受賞者を日本に呼び1年間滞在させてもらえないか。いつかは必ず実現したいと思っています」。
記念館を開いて17年、『地球の歩き方』をはじめ、日本の大半のガイドブックで紹介され、少なくともロンドン在住の日本人には周知されていると思っていた。ところが最近、現地の私立小学部のPTAの集まりから帰ってきた妻に「お母さん5人に聞いたら、5人とも『ロンドン漱石記念館なんて知らない』と口をそろえていた」と言われてしまった。
=終わり=
(インタビュー・小林一成)
次回はクリフォード・チャンス法律事務所/弁護士中田浩一郎氏です。