狼魔人日記

沖縄在住の沖縄県民の視点で綴る政治、経済、歴史、文化、随想、提言、創作等。 何でも思いついた事を記録する。

「真珠湾」の前の日米戦争

2011-03-02 05:27:29 | 歴史

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わが国にA級戦犯はいない!」の続きです。

 ■二人の「軍人の孫」

東條由布子氏はおそらくは祖父の汚名をそそぐのが目的の講演をしたかったと思われたが、ご本人の控え目な性格のせいなのか、実際の講演は、祖父の弁明は物足りないほど少なく、沖縄戦での戦没者に対する懺悔の言葉が大半を占め、冒頭も「申し訳ない」の言葉で始まった。

そして多くの県民が戦争の犠牲になった沖縄で、自分のような立場の者が講演するとは考えても見なかったと続け、石を投げられる覚悟で講演依頼を受けたとも。 

続く話題も東條大将の話にはあまり触れず、自身が体験したパラオでの遺骨収集の際、洞窟の天井に彫られた「島袋」の文字を見て、沖縄の人がこんな遠い南の南洋ででも戦っていたと実感し胸が一杯になったといった話が講演の大半を占めた。 途中で祖父東条英機の弁明のような話をしたが、いずれも軽く触れただけで、もっと強く祖父の弁明をしても良かったのに、と感じた。

同じ軍人の孫でも、沖縄守備の第32軍の司令官・牛島中将のお孫さんでありながら、沖縄で祖父を貶める講演をして回っている教員がいるのとは好対照であった。

毎年慰霊の日の6月23日前後になると、わざわざ沖縄にやってきて、祖父の悪口を言ってまわって自己満足している牛島貞満先生のことである。

牛島先生の講演は、日教組のイデオロギー洗脳の恐ろしさを示す。


軍抗戦「住民に犠牲」 牛島司令官の孫・貞満さんが沖縄戦語る

2005年6月20日      

沖縄戦について授業する牛島貞満さん(右)=豊見城市立長嶺小学校
 沖縄戦で日本軍を指揮した牛島満司令官(中将)の孫に当たる牛島貞満さん(51)が20日、豊見城市立長嶺小学校(大城早智子校長)で「牛島満と沖縄戦」のテーマで平和学習の授業を行った。「沖縄戦ってどんな戦争だった?」と児童たちに質問すると、「住民が多く死んだ」「持久戦だった」などと回答。牛島さんは「人が人でなくなるのが戦争。沖縄は本土の時間かせぎの戦争だった」などと説明した。

 牛島さんは東京都の小学校の現職教師。長嶺小学校では昨年10月にも授業した。今回は6年生の3クラスを対象に学級ごとに2回ずつ、2日間に分けて授業する。
 最初に自分の名前が祖父の「満」一文字をもらって付けられたことを紹介。実家には写真を元に描いた祖父の絵が額に入れられて飾ってあったことも話し「小さいころからいろいろな人に牛島司令官のお孫さんですかと聞かれ、大人になってから調べないとと思うようになった」と話した。
 米軍に大敗し、追いつめられた日本軍が首里決戦か南部撤退かを迫られ、南部撤退を選んだことで、さらに住民の犠牲を増やしたことを説明。司令官の役割について「作戦を決定することと、戦争を始め、終わらせること」と述べ、牛島司令官が「最後まで敢闘」するように伝え、自殺したことが、住民の被害を増やしたと指摘した。
 授業後、牛島さんは牛島司令官について「家では穏やかで、子煩悩な人だったようだ。沖縄でも当時、長勇参謀長らと比べて穏やかで軍人らしい軍人といわれているようだ。評価は難しいが、やったことから考えてもらいたい」と話した。
 名嘉竜治君は「どんな作戦があって、なぜ多くの住民が死んだか分かった。戦争は悲惨で、多くの悲しみと苦しみを生む」と感想を話した。

                       ☆

東條由布子氏の講演は祖父である東條大将の弁明というより、日本が真珠湾を奇襲攻撃をしたという理由で、アメリカが喧伝する「卑劣な日本」に対する反論に力点を置いていた。

日米が開戦する前から、「アメリカ軍が後に正規軍と認めざるを得なかった軍隊を、どんどん中国戦線に投入したという話があった。

偶然だが当日記は5年ほど前、これに関連する「フライングタイガー」についてエントリしている。

日米開戦前から卑劣な日本攻撃をしかけていたのは、実はアメリカの方であった。

それがこれ。

「真珠湾」の4年前から日本と戦っていたアメリカ人少将

 「幻のAmerica’s Sneak Attack on Tokyo」

 1941年12月8日。

日本の「真珠湾攻撃」によって日米戦争が始まった。

だが、その四年前アメリカは既に日本と戦っていた。

卑怯にも(sneak)日本攻撃(attack)の準備をしていたのだ。

そのときアメリカ製戦闘機を駆って日本軍と戦っていたアメリカ人士官とアメリカ人戦闘機集団がいた。

                    *

アメリカでは軍戦没者は一兵卒でも英雄として扱われる。

最近のテレビ映像等でもイラクで戦死した兵士の棺を星条旗で包んで国に殉じた英雄として丁重に扱うシーンが記憶に新しい。

昨年の2005年5月28日、アーリントン墓地に約四百人の老いた退役軍人が終結した。
彼らはフライングタイガースの元隊員であった。 

フライングタイガースの元隊員といっても、大阪の道頓堀川に飛び込む熱狂的な阪神ファンのことではない。

日米開戦の四年前、既に日本と交戦状態にあった中国に航空部隊として参戦した「アメリカ合衆国義勇軍」の事をフライングタイガースと称していた。

この軍戦没者慰霊祭に参列している一人の年老いた東洋系婦人がいた。

元軍人集団の中心にいるこの老婦人はフライングタイガースの創設者シェンノート元少将の未亡人、陳香梅であった。

時は遡り今から16年前の1989年。

あるアメリカの航空貨物会社が消滅した。

航空貨物会社「フライングタイガース」が世界最大のアメリカ航空貨物社「フェデックス」に吸収されたのだ。

この会社は大戦終了の年1945年に設立の44年の歴史を誇っていた。
しかしその社名の由来は終戦の年から更に八年時代をさかのぼり故シェンノート少将に行き当たる。

この航空貨物会社「フライングタイガース」の名前は1937年誕生のアメリカ合衆国義勇軍(American Volunteer Group,AVG)に由来していた。

日本では天空を駆ける想像上の生き物として「天馬」がある。

だが中国には飛竜が一般的だが、空を飛ぶ虎は無敵であるという故事から「飛虎」という想像上の無敵の動物を敬う。

中国を愛したシェンノートはこの中国の故事に因んでフライングタイガースという名の航空義勇軍を創設した。

因みに写真で見るフライングタイガース戦闘機は頭部に歯をむき出して大口を開けているサメの絵が描かれている。

戦闘機の体形上虎よりサメの方が描きやすかったのだろうが、フライングシャークス、「飛鮫」では大陸国家中国の空を雄飛するには格好がつかない。

その代わり乗務員は翼の生えた虎のマークの入ったエンブレムを背中に貼り付けていたようだ。

フライングタイガースを創設した故シェンノート少将。

アーリントン墓地ではその夫人が約400名の退役軍人にエスコートされ、
「中国人の誰もが知っているアメリカ軍将軍」として今でも中国人に愛されている故シェンノート少将といったいどんな人物なのか。

シェンノートは1893年9月6日テキサス州に生まれた。
1937年7月、中日戦争が全面戦争に突入すると、シェンノート大佐は昆明に航空学校を設立して、積極的に中国空軍の対日作戦を支援した。

大佐はパイロットの養成だけでなく、自ら戦闘機に操縦し戦闘にも参加している。

日米戦争が勃発すると、アメリカ政府は積極的に中国を支援する方針を採った。

1942年7月、航空志願部隊は第10航空隊中国特別派遣部隊に編入され、准将に昇進したシェンノート氏がそのまま指揮に当った。

1943年3月、部隊はアメリカ陸軍航空隊第14航空隊に再編入され、シェンノート氏は少将に昇進する。

1941年7月に組織されたアメリカ志願部隊は23戦闘機大隊から第14航空隊に編入されるまで、シェンノート氏は一貫して志願部隊の指揮を執り、自身も退役将校から少将にまで昇進した。

シェンノートン少将の中国に対する思いは深く、中国人を夫人にし、昆明に家を建てて、生涯を中国で過ごすことを希望していた。

1945年7月、日中戦争勝利を目前に、シェンノート少将は8年間暮らした中国を離れ、アメリカに帰国した。

このとき、中国人の群集がシェンノート少将を見送りに集まっている。
人々は彼の乗用車を取り囲み、まるで駕篭を担ぐように乗用車を担ぎ上げ、数時間かけて中心広場まで運んだという。
広場のひな壇はフライングタイガースのエンブレムで飾られ、花束でアーチが築かれていた。
別れを惜しんで握手を求める人々の長蛇の列にシェンノート少将は、感激の涙を流した。

この情景はマッカーサーがに離日した時の日本人のマッカーサーに対する惜別の表現を髣髴とさせるものがある。

・・・・・で、そのフライングタイガースが一体どうしたのかって?

今までの話は単なる前書きであって本題は今から始まる。

日本人には馴染みの薄いシェンノートというアメリカ軍人がアメリカ人による「義勇航空隊フライングタイガース」を中国に創設した1937年という年度に注目して欲しい。

その年シェノートが義勇軍を創設して数ヵ月後に事実上の日中戦争の開始とも言うべき盧溝橋事件が起きている。

そのころの中国大陸は蒋介石率いる国民政府、毛沢東率いる共産政府が分裂し各地で内戦が行われていた。その間を掻い潜るように日本軍が右往左往していた。

シェンノートは中国空軍の訓練教官及びアドバイザーとして国民党政府に雇い入れられた。

当時48歳であった彼は健康上の理由により軍では退役寸前であったが蒋介石は空戦経験の豊富な彼を中国空軍の航空参謀長とし階級も大佐としての待遇を持って国民党政府に招き入れた。

着任したシェンノートはまず重慶の基地を見回り中国空軍内を視察してまわった。

そしてそれまで爆撃機を主軸に活動していた中国空軍に対しシェンノートは蒋介石に「日本軍航空隊に対し中国軍は優れた戦闘機100機とそれを操縦する優れたパイロットを持つことで、中国空軍はこの脅威を退けることが出来るでしょう」とのアドバイスを行っている。

この意見は蒋介石に承認され、アメリカ合衆国と協議の結果、承認された。

アメリカは当時中立政策をとっていたため表面だって中国を支援する事は国民の支持を得にくかった。

「リメンバーパールハーバー」より遡ること四年前の事である。

つまりアメリカは「真珠湾の卑劣な攻撃(sneak attack)」の実に4年も前から日本と交戦していたのである。

歴史に「もし」は許されない。

だが密かに計画されていた「1941年9月下旬の
ロッキード・ハドソン長距離爆撃機による東京、大阪の空爆計画」が実行されていたら

「東京空爆を忘れるな!」(リメンバー;・東京)

が日本の合言葉になっていただろう。

これ嘘のような本当の話。

1958年7月27日、シェンノート少将はアメリカで死去したが、中国系アメリカ人の陳香梅夫人は今も健在である。

                        ◇

「フライングタイガーズ」のパイロットは、蒋介石の軍事顧問クレア・シェンノート氏によって、当時の新米パイロットの5倍相当に当たる月給600ドルと日本軍機1機撃墜ごとに500ドルという破格の報酬で、全米各基地から集められた。全員は農民や伝道師、エンジニアなどを装ってビルマに集結。蒋介石政権が米国に借金する形で資金を負担、弱体の中国航空部隊を裏で支えた」
(読売新聞1991年7月8日)

 

驚くべきことに、フライングタイガーズが東京や大阪の奇襲攻撃を計画していた

作戦には350機のカーチス戦闘機と150機のロッキード・ハドソン長距離爆撃機が参加の予定で、うまくいけば(1941年)9月下旬には東京や大阪に大量の焼夷弾をばらまいて木と紙の日本の家屋を焼き尽くすはずだった。だが、「フライング・タイガース」が集結したビルマの英空軍基地には10月下旬になっても肝心の爆撃機は到着しなかったのである。(中略)需要の多い爆撃機はその年の暮れになっても届かず、41年12月7日の真珠湾攻撃で日米が開戦すると、中国大陸を経由した日本爆撃そのものがほごにされ、計画はやみに葬られた
(産経新聞2000年7月15日

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