モノクロのネガ
引き続き腕を掴まれたまま、片膝を付いて麻生を睨み上げる。
ただ事ではないこの光景を客観視したら、駄々を捏ねる子供を、親が無理やり引きずって連れ帰ろうとしているようだ。
「あの、大事な被写体なんで、もっと丁寧に扱ってください。」
頭上から、古谷の声が降ってきた。
俺の腰骨に釘付けになったままどんな想像を繰り広げていたか知れないが、自分の世界に浸っていた古谷がようやく現実へ戻ってきた。同時に、被写体である俺を雑に扱う男の存在を認識したようだ。
「被写体?」
言うことを聞かない子供を見下ろす親の如く、麻生は俺を一瞥した。それからすぐに怪訝そうな顔で古谷を見つめ返した。
「その手を、放してください。」
言って、古谷は持っていた鉛筆の芯を勢いよく麻生に向けた。
麻生との距離が離れていたからよかったようなものの、あと数歩どちらかが歩み寄っていたら、鈍く光る鉛色の芯は麻生の額に突き刺さっていた。
麻生と古谷、双方に注意を向けていないとどちらかが血を流しかねない。少し大袈裟なくらいにハラハラしている俺の気など知れず、本人たちは何の心配もなくただ目の前の相手の目を見つめた。
「被写体が無事なら、あとの人間のことはどうでもいいってわけか」
麻生は自分に突きつけられた、デッサン用に粗く削られた芯を見つめ鼻で笑った。
そうして薄ら笑いを浮かべたまま、蔑みの色と哀れみの色を汚く混ぜ合わせたような、とても気分の悪い視線を俺に向けた。
「ほんと、お前はつくづく頭のおかしい人間に縁があるんだな」
余計な言葉を足すくらいなら、言葉足らずなほうがいい。麻生のどろどろとした感情が、いまの言葉にすべて込められているようだった。
今度は古谷を見据えた麻生は、空いている方の手のひらをゆっくりと開いて古谷の顔に手を伸ばした。
白くて小さい古谷の顔を覆い隠すかのように、骨ばった大きな手のひらが完全に開き切った。本能的に危機を感じたのか、古谷は一歩後ずさった。
腕を掴んでいる麻生の手を振り払い、俺は情けなくよたりながら古谷を背にして立ち上がった。
「お前もなかなか頭のおかしい人間に分類されるけどな。」
反撃とばかりに言い返した。
ハイブリーチのせいでカラカラに干からびた前髪の隙間から見える麻生の片眉がぴくりと吊り上った。
こちらからケンカを売る気はまったくなかったのだが、結果的にそうなってしまった。
昔からそうだ。どうか穏便に済ませたい場面でも、目付きの悪さと口下手なせいで殴り合いのケンカに発展しなかった試しがない。ちなみにいつも叩きのめされる側だ。
雰囲気が刺々しいとか、顔つきが生意気だとか、不本意な理由で絡まれるのが常。特に上級生には何かと些細なことで文句を付けられた。
麻生の手を振り払ったことが戦闘開始の合図だった。ありふれた何でもない昼下がりは、突然、隔離されたかのように生徒たちの楽しそうな笑い声から遠ざかり、険悪な空気に包まれた。
次にどちらか一方が動いたとき、確実に何かが起こる。そう思った。
「穂坂――っ」
曇り空を貫く一筋の光のように、その声が響いた瞬間。
動いたのは俺でも麻生でもなくて、視界から外れていた古谷だった。
俺の手首を強く掴むと、古谷は麻生がいる方向とは逆に迷いなく走り出した。
貧弱そうな体のどこにそんな力があるのかと、白いブラウスが眩い、細い背中を追いかけながら思う。
後ろから、麻生の怒声が聞こえた。
まさか麻生が髪を振り乱してまで追いかけてくる奴だとは思わず、振り返ったときに見えた陸上選手並みの走りにはかなり驚いた。
「古谷っ 麻生が追ってくるっ」
俺は今までにないくらい目を見開いて天敵をしかと捉え、この逃走劇の舵を握る古谷に向かって叫んだ。
「大丈夫っ 大事な穂坂はわたしが守るからっ」
「大事って…」
危機的状況での古谷のこのセリフ、一見胸がきゅっとなるように聞こえるが、『大事な穂坂』の『穂坂』にふりがなを付けるとしたら、『穂坂』となる。
うむ。喜べない。嬉しくない。
麻生からの逃走は午後の授業に食い込むほど長引いた。
先頭を走る古谷と、追いかけてくる麻生はいつまでも元気だった。が、俺はと言えば、古谷に引っ張られているから辛うじて走れていたものの、限界はもうすぐそこだった。
*
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