何故、日本人は臓器提供をしたがらないのか。
恐らく、欧米とは宗教的・文化的なものが異なっているから。島国が故、村社会特有の公共心の低さがあると私は思っている。
欧米では、医師の尊厳が日本よりも強く、医師が
「患者はお亡くなりになりました。」
と脳死下で告げると、もう患者は死んだのだと家族は受け入れます。
一方、日本では、医師が脳死下で患者の死を告げることはなく、また家族もまだ死んでいない。だって心臓が動いているもの。意識を取り戻すかもしれない。と考えるからです。そのような状況下で臓器を他人に提供すること=自分が家族を殺してしまった、という罪悪感が生まれるからです。
欧米では年間約8000もの臓器移植が行われるのに対し、日本では数百程度しか臓器提供が行われません。(ちなみにこれを書いている筆者も、腎臓の臓器提供待ちをしています。)
もっと臓器提供者数を日本は増やすべきだ。もっと臓器提供というものを、今までの日本の宗教観、倫理・道徳観を捨てて増やしていくべきだ。
日本ではご存知の通り少子高齢化が進んでいます。慢性腎不全・人工透析患者も年々増えています。その多くはお年寄りです。
人工透析患者は、国民健康保険の効く範囲では医療費は無料です。一人あたり月に約60万円ほど人工透析だけで税金が使用されています。臓器提供をもっともっと普及させなければ、医療費の負担は特に我々若者に重くのしかかることでしょう。
何故、日本人は臓器提供自体を嫌がるのか。
こういう記事を臓器提供待ちの私のような人間が書くと、
「お前が腎臓が欲しいだけだろ!!」
と言われてしまうのですが、いやそこは全くそのとおりなので否定はしませんよ? でも、それ以前に、私が例え健常者だったとしても私なら死んでしまった暁には全ての臓器を誰かの役に立てたいと思います。
そもそも、火葬して全て灰になってしまうことは許せるのに、臓器の一部だけを取り出すのを嫌がる意味が分からない。脳死下はまだ分かります。もしかしたら、意識が回復するかもしれない。恐らく、テレビの外国のドキュメンタリーなどを扱う番組で奇跡的に意識が戻った脳死者の番組などが過去にあったから、ステレオタイプの如くそういった「奇跡」が我々には刷り込まれているのかもしれない。
しかし、「死」を認める勇気も必要だ。医師の判断により、医師という医療のプロフェッショナルの判断により「もう意識を取り戻すことはありません。」と言われた場合、素直に死を受け入れる。そういった勇気も必要なのではないでしょうか。でないと、一生、植物状態の人間を前にして、前に踏み出すことが出来ません。ただ、その判断はあくまで医師が下すべきで、医師が少しでも意識が戻る可能性がある、と判断すればその可能性にかけるべきでしょう。
だが、病気や事故等で亡くなった場合に臓器を提供することを拒む人間が欧米に比べて日本は圧倒的に多いように思う。
何度も言うが、火葬して灰になることは許せるのに、死体から臓器を取り出すことは許せない、ということの意味が分からない。
「死体にメスを入れることを想像するだけで嫌だ。」
という人もいると思うが、じゃあ想像しなければいい。というより、死体を火葬するほうが解剖するよりよっぽど残酷ではないだろうか?
そもそも、墓なども土地資源の無駄遣いだと私は思っている。墓の中は年月が経てば骨も朽ちて何も残らない。何も残らない人間の為に土地資源を用意し、金を払う。まったくもって意味が分からない。
ハゲ坊主が変なお経を唱えて何十万、何百万と金を取るなんて、それに金を払うなんて「正気か?」と疑わざるを得ない。
創価学会は批判されるのに、そういった別の宗教は批判されないのは、日本に根付いた文化だからだろう。
日本人はもっと臓器提供に積極的になるべきだ。焼かれて灰になるならば、身体の一部を他人の為にでも使おうじゃないか。そのほうがハゲ坊主の懐を肥やすより、よっぽど現実的で人間らしいと思う。
そういうわけだ。
じゃ~の!
だいちゃん(∀)