昭和天皇が靖国参拝をしなくなった理由
第1次世界大戦で、日本が日英同盟を結んでいたことが遠因となってドイツから恨まれていたという話をしましたが、そのドイツと日本は1940年に日独伊三国同盟を結びます。
戦後、昭和天皇は昭和50年を最後に靖国神社の参拝を行っていませんが、このことと日独伊三国同盟には実は因果関係があるのをご存じでしょうか。
アーネスト・ヘミングウェイの長編小説「誰がために鐘は鳴る」の舞台になったことでも知られますが、1936年7月にスペインでは内戦が勃発し、左派の人民戦線政府と、フランシスコ・フランコを中心とした右派の反乱軍が衝突しました。
左派の人民戦線をソ連が、右派の反乱軍をドイツが支援して内戦は激化。この時、鉄道や道路など交通の要であったスペイン北部バスク地方のゲルニカが、ドイツ軍による空爆を受けました。これに怒りや抗議を込めて、スペインの画家ピカソが描き上げたのが、かの有名な絵画「ゲルニカ」です。
ちょうどこの頃、日独伊三国同盟の締結に向けた交渉が行われていて、日本では外務省の情報局長やイタリア大使を務めた白鳥敏夫という外交官が同盟を推進していました。日独伊三国同盟にはスペインも関与しており、フランコと白鳥の間で同盟への参加も画策されていたようですが、結果的にスペインは参加せず、日本だけが加わった。
こうして白鳥に半ば騙されるかたちで、日本は日独伊三国同盟に参加することになったため、昭和天皇は「彼がA級戦犯として靖国神社に合祀されている限り、私は参拝しない」と言いました。それほどに責任が重い出来事だったわけです。
開戦前夜に暗躍したソ連のスパイ
第2次世界大戦を語る上で忘れてはならないのが、ロシア連邦軍参謀本部情報総局(GRU)のスパイだったリヒャルト・ゾルゲが日本国内で諜報活動を行っていた「ゾルゲ事件」です。
ドイツの新聞記者を装って来日したゾルゲは、元朝日新聞記者で近衛文麿政権のブレーンでもあった尾崎秀実と結託して日本の情報をソ連に報告していました。その内容は日独防共協定やノモンハン事件など多岐に及びますが、中でも日本軍はシベリアに向かわずに南進するという情報は、独ソ戦のターニングポイントになりました。
この南進政策がきっかけとなって日米関係が悪化し、日本は米国から経済制裁を受け、そして満州などから日本軍を引き上げるように通告したハル・ノートを突きつけられました。こうして真珠湾攻撃を発端とする悲しい歴史が幕を開けることになるのです。
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