なかなか面白い内容だった。
正直、当事者どうしの問題に関してはあまり興味はなく「労働審判でも起こすしかないだろ」(正直、労基署はあまりオススメしない)ぐらいの事しか思わないのだが、今回の一件で思い知らされたのは、
小規模の組織にとって、「やる気はあるが責任はない」人は害悪
ということである。
「やる気はあるが責任はない人」とは
「やる気はあるが責任はない」というのはつまり、業務を遂行していくやる気があり、人や組織に対していろいろ意見をするが、その人自身は責任を取る立場にない人、ということになる。
今回の騒動で言えば、株式会社参謀本部の責任を取る人、といえばもちろん経営者=株主である。
だが、当該の人(個人攻撃が目的ではないので、直接名前を記すことは控える)は株主ではなく業務委託らしき雇用状況*1なのに、会社の行く末を案じて様々な発言・活動を行い、若干頼りなげな社長のために様々な助言を行っている。
これだけみると、「なんだ、いい人ジャン!」と思う人もいるだろう。
ところがこれこそが実は「やる気はあるが責任はない人」が小規模な組織にとって害悪であるという理由になる。
「やる気はあるが責任はない人」の問題点
例えば、社長と社員2人という組織について考えてみよう。 社員Aは意欲があり、会社をより良いものにしていきたいと思っている。社員Bは意欲はそこそこで自分の給料が毎月ちゃんと振り込まれるならいいと考えている。
会社がうまくいっているうちはいい。だが、うまくいかなくなった時にどうなるか。
社員Aは社員Bにこういうのではないだろうか。
「社長のやり方は間違っている。○○をやったほうがいいと思うんだよね」 と。
つまり、 「やる気はあるが責任はない人」は社長の対抗勢力として成立しやすいのだ。中川淳一郎氏がいう、
「最近社長のやり方にはついていけないんですけど、ヤマダさん、どうですか?」みたいな話になり「そうそう、私もそう思ったのよ!」なんて言って派閥が生まれる。
起業したいと思っているお前ら、この意識の低い4ヶ条でそれなりの零細企業を作れよこの野郎 - 僕と花子のルンルン生活だヨ!より引用
という状態である。しかも、この「社員A派閥」は株主=経営者とは違う目標を持って行動することになる。社員Aが社長と同程度の責任(つまり、会社に出資しているとか)であれば、「会社を大きくする(存続させる)こと」という大きな利害については同じことが多いが、社員Aが平社員である場合、「社員にとって良い会社であること」や「俺が有能であると証明されること」といった、全く利害が異なる行動原理によって動くため、利害の調整がより困難になる。で、小規模な組織である場合、こうした利害の調整をするほどの余裕がない可能性が高い。
また、「やる気はあるが責任はない人」は一般的にいう「頑張っている人」であることが多い。そのため、業務領域を多岐に広げがち*2で、他の社員との業務量のバランスが取れなくなることが多い。というか、まさにそうなるために「頑張っている」のだが、それと同時に待遇面での不満を持ちやすい。「自分はこんなに頑張っているのに…」というアレである。
自分で仕事を増やしておきながら「自分はこんなに頑張ってるのに報われない」と言い出すわけだから始末に負えない。
では、どうしたらいいのか
実は、「やる気はあるが責任はない人」はどんな組織にも一定数はいる。大きな組織でそれがあまり問題にならないのは、組織が強固なため、組織の序列を飛び越えた批判はできないのと、利害を調整する余裕があるためだ。
それができない小さな組織ではどうしたらいいのだろうか。一番簡単なのは、社員を2人にして、できれば2人の折半出資で会社を作ることである。
そして、重要事項は2人で決定し、実作業は外注(これは業務委託でもアルバイトでもいいけど)を交えて行うことだ。
それも難しい場合。「やる気はあるが責任はない人」にこう言ってみてはどうだろうか。
「じゃあ、●●君もウチの会社に出資して一緒に頑張ってみないかい?」
と。