人間は若い内しか価値が無い。じじいになったら姥捨て山に捨てるしかない。
他人の話を聞いているとこういう類のことをよく聞かされる。
悲しくなる。
「老害」という言葉もネットを中心に盛んに使われるようになった。
たしかに何かの健全化を邪魔する老人を「老害」というのは正しい使い方かもしれないが、昨今ではまるで「老いて存在している事がすべて害」のような使い方をする人が多い気がする。気のせいかもしれない。気のせいだと良いけど。
老いることの恐怖のひとつとして、若い内しか出来ない楽しい事があって、それをやっていなければ人生は取り返しがつかない、という思想があるように思う。
若い内しか出来ない楽しいことというと、たとえば「中学生や高校生の頃に好きな女の子といちゃつく」みたいな話がある。たしかに「中学生や高校生の頃に好きな女の子といちゃつく」というのはおっさんになってからは不可能だ。(「おっさんと中学生がいちゃつく」なら可能だけど逮捕されるリスクが出てくる。)
でも「好きな女の子といちゃつく」なんて何歳になっても可能じゃないか。なんで中学生の頃にとか、高校生の頃に、という但し書きがつくのかがわからない。おっさんになったら恋をしてはいけないかのような言い草だ。
しかしアニメやマンガ(それの原作にあたるラノベ等も含む)などをみると、中学生や高校生の主人公が女の子とイチャコラするみたいなものが多い。
かつてはこういうアニメやマンガを観たり読んだりするのが中学生や高校生くらいだからという理由が多かったが、今ではこんなのを観たり読んだりする層はおっさんが多くなった。マンガなんか22歳以上が主な読者層だったりする。
少子化だから当然といえば当然なんだけど、おっさんが作品群のメインターゲットなら、おっさんが主人公になって若い娘とイチャコラするアニメが増えても良さそうなのになんでか増えない。これがアメリカで作られた作品なら、そういうのがけっこうあるのに。日本でもおっさん向け雑誌のマンガとかはけっこうその手のがあった。しかし近年ではおっさん向け漫画誌でもそういうのは流行らなくなったみたいだ。
日本人は虚構の世界でも「おっさんが若い娘とイチャコラする」という事に夢をもてなくなったのか。なんでだ。
おっさんは恋愛してはいけないのか。じゃあおっさんとは何なのだ。おっさんとは働いて税金を納めるだけの生命体でしかないのか。
そんな中、短文投稿サイトTwitterのさる人気ツイートが目に止まった。
この人が何者か存じ上げないし、このつぶやきの文脈もわからないので、ここで取り上げるのが適切がどうかはわからないけど、テキストとして使わせてもらいたい。
高校時代、学校帰りに友達と連れ立ってサイゼリヤのミラノ風ドリアを食べながらドリンクバーで長時間ワイワイ・・・という経験をしたことのないまま大人になってしまった人は、その後どれだけリア充になろうが、決して癒えない心の渇きを抱えたまま生きることになる。
— terrakei (@terrakei07) 2015, 1月 3
冗談か、本気かはさておいて、この手の意見を本当によく見かける。そしてそれに「まさにそうや」と同調する人が多い。僕はそんなのを見てると本当に残念に思う。
高校時代に学校帰りにサイゼリアのミラノ風ドリアを食べながら長時間ワイワイするのがそんなに大事なことだろうか。
大学時代じゃダメなのか。
25過ぎたらダメなのか。
30過ぎたら意味ないのか。
サイゼリアのミラノ風ドリアを食べながらドリンクバーで長時間ねばってダベるのが高校生なら楽しいけど、おっさんたちがやっていたらタダの老害。そう言いたいに違いない。
別におっさんになってサイゼリアにダベリに行くことを推奨するわけではないけど、そんなのに憧れるのならいくつになってもやってみるべきじゃないのか。
なんでやらないのか。
おっさんになって美女を愛人にすることに成功しても、女子高生を愛人にすると犯罪の匂いしかしない。だから女子高生を愛人にするなら若い内しか出来なかった。もう取り返しがつかない。
こういうことか。これなら(少しは)筋が通っている気がする。
おっさんになって居酒屋かなんかでは長時間だべったりするのが許されるけどサイゼリアなんかに行ったら見苦しい(と自分では思っている)から、サイゼリアに行けるのは若いうちだけだった。もう取り返しがつかない。
これは言い過ぎだろ。僕が見る限りは、サイゼリアには高齢者も来ている。たまに行ってみるけど、楽しそうにしているグループは楽しそうだ。
そして何より、サイゼリアに行くことは犯罪でも何でもない。
そこまでサイゼリアに心残りがあるならいくらでも行けば良い。これがマクドナルドでも餃子の王将でも何でも同じだ。
「そういう事じゃないんですよ。文字通りとらえるとかアスペルガーだなあ。高校生の時に友達とワイワイ。これが重要なんですよ」
そんなことはもちろんわかっている。高校生の頃に友達と仲良く騒いだ経験が無いと、おっさんになってから友達を作っても取り返しがつかないということを言いたいに違いない。それを承知で言っている。
「おっさんになってリア充になっても取り返しがつかない」この手の人はすぐこういう事をいう。
そこで僕は疑問に思うのは「本当にリア充なのかそれ」ということだ。
僕の経験と主観だけでモノを言って申し訳ないが、僕はおっさんになってから本当に「リア充」だと自分で考えている。
僕はマンガみたいな恋人とイチャコラするような高校時代なんて送ってこなかった。十代なんてマンガ読んだり映画観たり地味そのもの。教室でも常に隅っこにいるような生徒だ。ただし常に最低限の会話をする友達はいた。だからサイゼリアでワイワイは経験ないにしろ(そもそもサイゼリアなんてまだ影も形もない時代だったが!)完全にぼっちで十代を過ごしてきた人の気持ちというのはわからない。
それから大人になって30過ぎて、去年はついに40歳になって、生きてきたわけだけど、「高校時代にもっとアレしたかったよなあ」なんて心のキズや満たされない欲望というのは全くない。
だって30過ぎても40になっても、それまで高校時代の地味さを取り戻すかのようなリア充っぷりで、後ろを振り返っているヒマなんか無かったから……。
そんなことを言ったら無茶苦茶な羽振りの良いIT長者のおっさんみたいなのを想像させてしまったかもしれないが、僕自身といえばお金も地位も家族も無い、タダのそのへんのおっさんのひとりである。でもそんなおっさんでも、これくらいのリア充にはなれたんだから、よほど特別な事を言っているとは思っていない。
だから「今はリア充だけど、高校時代の後悔を未だに引きずっている」という感覚はさっぱり理解できないし、高校生の恋愛ストーリーのアニメとかマンガとかにも興味がもてない。
そりゃ性的には若い肉体には興味があるけど、若い二人のドラマなんてのは自分にとっては全く意味がない。どうせなら僕みたいなおっさんが若い子にモテモテになるような設定の方が、同じ安易なストーリーにしても夢がある。日本のアニメーションでいえば『紅の豚』とか。あんな風なもので良いのではないかと思う。村上春樹の『ダンス・ダンス・ダンス』みたいなものでも良い。宮崎駿も村上春樹もおっさんの妄想が入りすぎて叩かれがちだけど、高校生同士がイチャコラするのを横から見てああだこうだ言うより健全ではないか。
繰り返していうけどいつまでも高校時代を引きずってああだこうだって人は「本当にリア充なのか?」という事にすごく興味がある。
「おっさんになって何かしても意味がない!意味が無い!」て、あまり繰り返して言うべきではないと思う。それによって追い詰められるのは、現在おっさんである自分だけである。決して得をするワードとも思えないのだけど。
自分語りをして哀れみを誘いたいのだろうか。それはリア充とは言えないのではとも思う。このテーマはもう少し考えてみたい。