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結城友奈は勇者であるからあの結末でいいんであるというはなし

12 31, 2014Posted in未分類
2014年もあと数時間で終わりとなります年の瀬に、皆様いかがお過ごしでしょうか。
コミックマーケットにおきましては、私主催のサークル「林檎亭」までたくさんのご来客ありがとうございました。夏も出るつもりなのでよろしくお願いします。

さて本題なのですが、そう、今期最シコの呼び声高いアニメイシヨン「結城友奈は勇者である」を全話拝見させていただきました。

恥ずかしながら、このアニメの情報を最初に手に入れた時は、「まーたクソラノベ原作のわけのわからん学園モノなのか、本当に死ねばいいのに」くらいに思っていました。ごみんなさい。

しかし、タイムラインの反応を見ていると、どうやらオリジナルらしい?何、下半身不随の女の子が出てくる??再起不能の障害を負う???えっ、なにそれシコれるじゃんという情報がちらほらと見えてくるわけです。どうせ君たち「ギルティクラウン」の篠宮綾瀬ちゃんとか覚えてないでしょ?僕は覚えてますよ、あれはシコれた。

そして先日迎えた最終回。タイムラインは賛否両論で溢れたわけです。
個人的には下半身不随の巨乳黒髪ロング美少女中学生が出てきてるアニメに何をそんなに不満があるんだという気もしたが、往々にして「ゆゆゆ」を評価する流れの中でかの伝説の大災厄、赫奕たる「ビビッドレッド・オペレーション」が顔を見せるわけです。
わさすらオメーのことだよ



「放送されてるアニメは全部1話は見て、最後まで見るか決める」っていう人に対して、基本的に僕は第一印象だけで視聴アニメを決めて、他は「ま、本当に名作ならまた会う機会もあるでしょ(笑)」という感じで放置するんですが、以前こういう記事を書いた以上、これはやっぱり見なくてはならないだろうと。というか下半身不随の女の子見たいし。
そういうわけで、「戦姫絶唱シンフォギア」以来の「そのクールが終わったタイミングで全話追いかける」ということをしたわけです。いやぁネット配信バンザイ。いい時代になりました。


とはいえ、これだけネットに溢れた感想を見てしまった後に見始めたアニメを、自分なりに一本まとめるってむちゃくちゃやりにくいのだが、個人的にかなり楽しめた部類のアニメであったことは、間違いない。

そこで、むしろ前情報のお陰で、女の子がボコボコにされ、全力を出して勝ってもカタワになるという至高のリョナシコアニメという姿勢で見てしまったというのが正直なところだったので、リョナアニメとして「ゆゆゆ」がいかに佳作くらいの面白さはあったよ、という話をしたいと思う。


そもそも、リョナというのは個人的に、あくまで女の子との対話の上に成り立つものなのである。暴力によって女の子に心的外傷を与えるのがリョナなのである。ただ上から殴って血と内蔵がでろーん、ではイカンのである。その過程で女の子が持つ恐怖、悔しさ、怒り、悲しみがご飯なのである。少女の歌に血が流れているように、少女の死体には物語と怒りと恐怖と悔しさと悲しみが詰まってないといけないんである。

つまり、バーテックスの攻撃でバシバシふっ飛ばされる女の子はとてもかわいいし、絶叫声が非常に嗜虐心をそそる声優さんばかりなのも、配役の妙と言える。極めつけ、満開したら身体機能の一部が欠損するよ!やったね!というのはもちろんリョナなのだが、欠損へと至る物語、欠損への恐怖、欠損することによる物語は決しておろそかにされてはいない。

また、リョナというのは幸福と絶望の相転移なので、そういう意味であくまで「日常」を基本とする本作のスタンスは理にかなっていると言える。歩み寄る日常の崩壊、日常の崩壊による絶望、そしてさらなる崩壊への恐怖。これら三段階を以って、女子中学生が当たり前に手に入れられたはずの夢と希望からの転落が事細かに描かれることによって、本作のリョナ的主題は達成されると言っていいだろう。

そう考えれば、9話以降の怒涛の展開の火蓋となった風パイセンの行動は、愛しい妹の夢が声を失い(日常の崩壊)、ヴォーカリストとしての夢を砕かれ(崩壊による絶望)、さらなるバーテックスの襲来の可能性を知る(さらなる崩壊への恐怖)という丁寧な三段階を踏んでいることが分かる。
夏凛ちゃんについては、戦い勝利することが日常であった彼女にとって、むしろ5話の決戦で満開散華できなかったことが崩壊へのきっかけとなっているのだが、その後数話続く日常パートにおいて、彼女にとっての日常は大赦からの使者から、勇者部の一員へとすり替わっていく。日常の崩壊と崩壊による絶望を克服してしまった彼女には、溜まりに溜まったさらなる崩壊への絶望が与えられることになる。そうして与えられる大舞台が、第11話の大立ち回りなのだ。どう転んでも絶望という状況の中で、彼女は果たせなかった使者としての使命を果たし、迫り来るバーテックスから友奈たちを守りきり、2つの彼女にとっての「日常」を守るが、再起不能へと陥る。
キーキャラである東郷さんにしても似たようなもので、既に勇者として散華した結果記憶と歩行機能を失うという、日常の崩壊と絶望を味わっているが、友奈によってそれは補完されている。だが、物語の核心に触れた時、一度失っているからこそ再び記憶と仲間を失うことにより深く恐怖するというリョナリティを発揮し、破滅的な選択と結末を迎える運命に投げ込まれるのである。

このように、日常からの転落というテーマと、各キャラクターの行動原理が一致していて、リョナ的な魅力はもちろんとして、大量に挿入される日常回の割には(むしろそれが良く作用して)、キャラへの感情移入と、事態の展開が一致した見やすいアニメだったのではないかと思う。


しかし、そんな中で唯一、リョナ的な魅力を放ってくれないのが、結城友奈なのである。既に勇者として散華した東郷、大赦から遣わされた風パイセン及び夏凛、コンプレックスを持っていた樹とは違い、彼女は不自由ない日常から、自ら望んで、わざわざ勇者としての戦いに身を晒し、満開散華する。
そして彼女は味覚を失うのだが、合宿回では味覚以外で食事を楽しもうとするし、挙句みんなのために自分も入れた数のシュークリームを買ってくる。何を食べても一緒だとウィダーだけ飲むような女の子になってくれるとこちらとしてもシコりやすいのだが、そうはならない。



何故か。勇者だからだ。



女の子が理不尽な運命に巻き込まれた挙句ボコボコにされて、時に自暴自棄になる姿を見るためのリョナシコアニメとして「ゆゆゆ」を見た時、結城友奈だけがリョナり手(バーテックス・大赦・神樹)の力に屈しないのである。

勇者“システム”による暴力が彼女たちを襲った時、常に友奈は“勇者”としての“意思”を示し積み重ねていた。
味覚の消失にも気丈に振る舞い、大赦を潰そうとしたパイセンを止めた時の第一声はシステムのためでもない、世界のためでもない、「先輩が人を傷つける姿を見たくない」であった。「世界を救うには選択肢はなかった」と分かったような口を聞きもするが、「勇者だから」「先輩のためなら、これくらい」と、満開も辞さないと言うのである。この「勇者」は明らかに「勇者システム」が求める「勇者」ではない意味を持っていることは明らかだろう。

唯一彼女が迷い、立ち止まった東郷さんの絶望と暴走に対しても、なんの根拠もなく「東郷さんは私が守る、私が忘れないと思っている限り絶対に忘れない」と言い張り、グーパンで更生させる。勇者システムによる力ではない、その意思の力強さこそが彼女の「勇者」たる証なのだ。
製作者が用意した状況に対して、リョナラー視聴者の欲望を一手に担い、現状ベストなシステムであるという言い訳の元、行き着くところまで陵虐を実行するシステムが「勇者システム」であるとするなら、その皮肉な響きに真っ向から立ち向かい、「勇者」の真の意味と意思を示し、積み重ね、取り戻し、日常への回帰を果たす。それが「私は、讃州中学勇者部!勇者、結城友奈!」という叫びなのだ。それが結城友奈という存在なのである。

勇者システムという最悪なシステムを徹底的に描き倒した上で、それを「結城友奈は勇者である!」という根性と奇跡で殴り倒すアニメ。だから、勇者システムを変えてみせた勇者である友奈は、東郷さんの読み上げる勇者の物語を聞いて、復活するのである。

もちろん、そんな友奈をもってすら、バーテックスが迫り続ける閉鎖的・崩壊へと歩み続ける世界は変えられなかったし、結界の侵食による災害はなくなっていない。それは、友奈の関心は勇者部としての現在を取り戻すことにあり、不必要に過去と大未来に干渉する必要もなければ、理由もないからだろう。彼女らの心情に則して、丁寧に追い詰められるために与えられていた暴力に対向する奇跡として、バランス感覚を保っていると言えるのではないだろうか。


他にも検証するべき事柄や、『「まどマギ」と「ビビオペ」がダメでなんで「ゆゆゆ」がOKなんだよ!』という問いに対する詳細な検討は必要だと思うが、とりあえず、「ゆゆゆ」が何故個人的に、それなりに気持よく見れたのかを言語化してみた。
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