【朝日の戦争責任】「戦争は血走った軍部の責任」と糾弾する朝日。「正義の朝日」自身はさぞやその軍部に抵抗したのだろう…
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●支那事変が泥沼化すると、マスコミはその原因を米英の援蒋活動に求め、こぞって反英キャンペーンを展開し、各紙とも英国と一戦を辞さずといった強硬な論調を張った。これは軍部の覚悟をも上回る勇み足だった。 当時のマスコミは政府に弾圧されてというより、積極的に迎合し戦争熱を煽っていたのだ。そして敗戦に狼狽したマスコミは、自らの責任を軍部に転嫁するのに躍起となった。
《稲垣武 諸君!2003/7月号》
●朝日新聞の論調や編集方針が満州事変を契機に豹変したことに関しては、決定的ともいえる証拠がある。それは満洲事変勃発から1ヵ月後の10月12日、「大阪朝日新聞」が上野精一会長以下で役員会を開き、事変支持の方針を決定したというものだ。当時の秘密報告書もある。
●朝日が社論や報道姿勢を転換せざるを得なくなった要因は、在郷軍人会を中心に展開された不買運動であった。部数減少によって経営圧迫されるのを恐れた企業要請からである。
また競争他社の中にはこれに便乗して、「朝日は反軍的新聞」とする宣伝ビラを配布、読者を奪おうとした新聞社まであった。
●さらに当時急伸した新しいメディアであるラジオに対抗するための、速報競争に莫大なコストをかけて新聞が狂奔した結果、大衆感情に迎合する紙面づくりで部数拡張に努めざるを得なかった。
●緒方竹虎朝日新聞主筆(米内光政海軍大将の伝記に寄せた序文)…
「筆者は今日でも、日本の大新聞が、満洲事変直後からでも、筆をそろへて軍の無軌道を責め、その横暴と戦っていたら、太平洋戦争はあるひは防ぎ得たのではないかと考へる」
●戦後、「マスコミは軍部に強姦された」との説が横行しているが、事実は「軍部と同衾した」といったほうがより正確だろう。 《稲垣武 「朝日新聞血風録」 他の著書「このヒジョーシキが日本を滅ぼす」》
●マスコミの責任も大きい。世論をアジテートして軍部をイケイケドンドンにさせた。その理由は、戦争反対というと売れなくなるから。弾圧があって戦争反対と言えなかったというのはウソ。 《田原総一朗 「日本はなぜ負ける戦争をしたのか」》
●第二次大戦中、いちばん戦争を煽ったのはマスコミ、当時では新聞だった。軍の厳しい制約があったが、もっとも大きな旗を振ったのは新聞・ラジオだった。戦犯第1号として新聞を挙げる論者もいる。 《尾川正二 「戦争虚構と真実」》
●新聞はみんな裏返ったけど、「文芸春秋」をはじめとする雑誌は裏返らなかった。「中央公論」・「改造」と、みんなまだ反戦平和主義だった。 ●政府も軍部もまだ本気で連盟脱退を考えていない時、新聞が率先して脱退せよと政府の尻を叩いた。
《半藤一利 「昭和史の論点」》
●メディアと世論が醸し出したムードに乗って身を誤った典型例が、松岡洋右。1933年に国際連盟を脱退した時、松岡は日本に帰ったらどんなに非難されるだろうとうなだれていた。ところが途中で日本の報道を見たら、国民的英雄として報じられている。港に着いたら、まるで凱旋将軍のように迎えられたのである。それが松岡と日本の不幸の始まりだった。 ●当時ドイツはパリを陥落させ、ロンドンに空襲をかけるなど、大勝利に沸き立っていた。国際連盟脱退に続いて、ここでも松岡外交を世論が後押ししてしまった。「バスに乗り遅れるな」と。(三国同盟)
《鳥海靖 諸君!2005/8月号》
●朝日新聞などは率先して社員から募金してでも何十億円かの賠償金を出すべき。満洲事変以来、軍部に積極的に協力して戦争熱を煽り立てていたのだから。企業としての戦争責任は、当時の軍需産業以上に明白だ。 《稲垣武 「日本と中国 永遠の誤解」》
●戦前、国家機関の情報局総裁を輩出した2つの大手メディアがあった。朝日新聞の主筆とNHKの会長である。「権力側が影響力のある報道機関から総裁を選びたいと考えた結果でしょうが、これに応じた朝日とNHKには、もともと権力に擦り寄る体質があったということにほかなりません」…朝日OB・柴田鉄治氏 《ダ・カーポ 2005/8月号》
●朝日は紙面だけで戦争を煽ったわけではない。満洲事変に関する講演会や映画上映を頻繁に行ったのである。特派員による満洲事変報告演説会は東日本で70回開かれ、聴衆は合計60万人、映画班による事変のニュース映画の上映は、1501ヵ所で4002回公開され、1千万人の観衆が訪れたという。 ●さらに、軍に物資や資金を提供する企画も実施した。
例えば、昭和6年10月16日付大阪朝日新聞朝刊には「満洲に駐屯の我軍将士を慰問、本社より1万円、慰問袋2万個を調製して贈る」と題した社告が載る。社が費用を負担して満州の前線将兵に日用品など様々な品物を詰めた慰問袋を送るという試みで、直接軍を支援したのである。これと同時に読者に対しては慰問金募集も呼び掛け、短期間に巨額の慰問金を集めている。
この企画はその後の日中戦争、太平洋戦争時に受け継がれ、「軍用機献納運動」などの形に発展する。同運動は朝日新聞社主催で同社や読者からの献金で、軍に航空機を納める運動であった。
●言論統制下でも、公然と軍・政府に異議を唱えた新聞社はある。中でも当時の新聞界のもう1つの雄、毎日新聞社が起こした「竹槍事件」は、厳しい言論統制下でも新聞社が抵抗の姿勢を示した事件として知られている。
敗色濃厚となってきた昭和19年2月、戦争の見通しを危ぶんだ毎日新聞は発禁処分を覚悟して検閲を通さずに、戦局悪化の事実と戦争指導のあり方への批判を内容とする記事を掲載した。これが東條首相の怒りを買い、毎日は廃刊の危機にさらされたのである。(内閣内で、「大新聞をあのくらいの記事で廃刊ということになると、世論の物議をかもす。ひいては外国から笑われる」ということで廃刊にはならなかった。
●福岡日日新聞(現西日本新聞)、信濃毎日新聞なども軍批判を行った。
●言論統制に対する抵抗の仕方はあったはずである。
例えば、戦況報道はできるだけ大本営発表のものに限り、それ以外は極力掲載しない方針とし、感情的な表現でことさら読者をあおる報道を避けることはできなかったのだろうか。もし、それが軍・政府の圧力で不可能であったならば、主張すべきことは主張して、廃刊するのも1つの方法であったはずである。国家の圧力で大新聞が消えたことを国民が知れば、それだけでも国民に事態の異常さを訴えかけることができたのではないだろうか。
当時の朝日記者に「新聞人」のプライドがあったとすれば、それも保てたはずだ。
《安田将三 石橋孝太郎 「朝日新聞の戦争責任」》
●戦前は言論の自由がなかった、と勘違いされているが、現在のポルノグラフィーの規制と同じで、一定の法則にしたがってある部分を伏せるなど工夫すれば自由にやれたのである。 《猪瀬直樹 「瀕死のジャーナリズム」》
●いかに朝日が満洲事変でフィーバーしたか。 それは昭和6年9月から翌年1月までに、なんと131回も号外を出したことからもうかがえる。また特派員も10人から38人と大幅に増員し、航空機を活用した戦場写真の速報性と臨場感で他紙を圧倒している。
《櫻井よしこ 諸君!2006/7月号》
●朝日は当然ハルノートを難じ、「米国の平和的原則論は偽装的言辞」だ、「日米会談は最早や多くの時間を要することを許されない」(11月29日)と強調し、国民に堅い決意を促した。 《片岡正巳 諸君!2006/7月号》
●昭和7年に朝日は、公募して「満州行進曲」を作った。満州で頑張る兵士たちを慰問する歌を作ろうというのがその趣旨である。しかもこの詩に採用されたのは、朝日の現役記者・大江素天で、満州事変の報道にも携わった人である。その内容は… 一番 : 「過ぎし日露の戦いに 勇士の骨を埋めたる 忠霊塔を仰ぎ身よ
赤き血潮に色染めし 夕陽を浴びて空高く 千里広野に聳えたり」 ●5・15事件の首相暗殺のテロリストたちを無罪にしろ!法を枉(ま)げろ!法なんかなんだ!と、あの朝日新聞(東京)が社をあげて連日、一面トップの大キャンペーンを展開したことを忘れてはなるまい。 《中川八洋 「大東亜戦争と『開戦責任』」 他の著書「近衛文麿の戦争責任」》
●靖国神社を「軍国主義のシンボル」と批判する大新聞があるが、戦前、靖国をシンボルに仕立て上げたのは同じ大新聞の商魂である。 ●朝日は戦時中、「戦争美術展覧会」「聖戦美術展」「大東亜戦争美術展」「陸軍美術展」など、国民の戦意を高揚させるイベントをいくつも手がけている。(朝日新聞社史)
●昭和14年1月には、靖国神社を主会場とする「戦車大展覧会」を主催し、戦車150台を連ねた「大行進」が東京市中をパレードしたこともある。(これは社史にはなぜか載っていない)
《斎藤吉久 正論2007/9月号》
●満州事変が勃発した翌年の昭和7年1月、日本軍が錦州(張学良政権の拠点)を占領したとき、朝日は号外まで出してこれを大々的に賛美した。このときの記事によると、中国軍によるあらんかぎりの略奪行為に泣いていた錦州の良民は、日本軍を解放軍として大歓迎した、となっている。 《佐藤貴彦 正論2007/9月号》 ●軍部を抑えることができるのは、軍人かつ皇族である東久邇宮以外にいなかった。近衛も東條も彼を推した。大方、東久邇宮で決定となるかと思われたが、皇族首班に強く反対したのが木戸幸一だった。木戸は東京裁判で「私は戦争をくいとめるために東條を指名しました」と述べている。皇族の責任を回避するためには、やはり軍部を抑えられる人物として、東條以外に選択肢はなかった。 ●しかし、新聞を中心とするメディアが盛んに戦争を煽ったこともあり、国論はすでに「開戦」一色となっていた。東條が組閣を命じられら日、朝日新聞は「国民の覚悟は出来ている。ひじきの塩漬けで国難に処せんとする決意はすでに立っている。待つところは、『進め!』の大号令のみ」と記した。 《竹田恒泰 Voice2008/1月号》
●先の戦争で、三国同盟を結んだときに事実上、日本は英米と戦う運命が決まった。ロンドンやベルリンの駐在武官はそれを警告したのに、マスコミが「鬼畜米英と戦え」「アジアとともに立て」と煽ったために、結局それらの警告を両方とも無視した。東條はむしろアメリカと戦争しないように、最後まで交渉していた。マスコミが戦犯である。 《葛西敬之 正論2008/3月号》
●作家の田辺聖子さんが、かつてこう書いている。「朝日の記事は毎日より勇ましゅうて派手で威勢が良かった。みんな朝日読んでたら気い大きゅうなる」 《元木昌彦 「これが日本の本当の話」》
●朝日は、昭和20年11月7日朝刊に「国民と共に立たん」という謝罪社告を掲載したが、この社告はわずか33行(1行13字)で、一面下方に小さく掲載。太平洋戦争の約3年8ヵ月にわたり、連日国民を戦争に駆り立てた割には、あまりにも目立たない扱いだ。 ●朝日は村山社長・上野取締役会長以下全重役・及び編集総長・同局長・論説両主幹が総辞職した。
しかし、その数年後には辞職したはずの村山は会長、上野は取締役として経営に復帰(昭和26年)。その後村山は社長、上野は会長に就任し、昭和39年まで経営の実権を握るのである。
さらに同じく辞職した上野精一の息子・淳一も、昭和45年に取締役に就任するとともに社主の座につく。
他の殆どの幹部は国会議員、企業経営者など見事なまでの”転身”を遂げ、各分野でリーダー的な地位についている。現場の記者を管理した部長職の多くは、そのまま社内に残り、殆どが出世。中には長谷部忠のように社長にまで登りつめるなど、幹部として活躍した。
●毎日新聞では戦争終結直後、有力幹部が次々と辞表を提出した。
高杉孝二郎編集局長は、「その日まで戦争をおう歌し、煽動した大新聞の責任、これは最大の形式で国民に謝罪しなければならない」としながら、「本社は解散し、毎日新聞は廃刊、それが不可ならば重役、ならびに最高幹部は即時退陣」という2案を社長に提出。敗戦とともに高杉局長自身は辞職している。この後、8月20日には奥村信太郎社長が辞表を提出したほか、29日には有力幹部が続々と退陣を表明した。そして全重役を一新した。
《安田将三 石橋孝太郎 「朝日新聞の戦争責任」》
●朝日新聞の「戦後50年 メディアの検証」と題した企画の中で、戦争責任の検証を試みてはいる。しかしその検証は不充分といわざるを得ない。この検証には、自分たちは軍に同調してきてしまったという反省はあるのだが、最終的には全て当時の言論弾圧に起因していると結論づけてしまっているからだ。自分たちの商業主義の部分も見事に隠している。 《猪瀬直樹 「瀕死のジャーナリズム」》 ●朝日が満州事変後、翻った理由… ◇事変が中国軍の「計画的破壊行為」と信じて、非難した。
◇在郷軍人会の一団が、高原操名誉主筆の家まで押し掛けてきた。(軍部・右翼は事変までの朝日の主張を「満蒙放棄論」として高原攻撃を続けていた)
◇右翼団体「黒竜会」の内田良平が、社の幹部に面会を求めた。
◇在郷軍人会による朝日不買運動に頭を悩ませた。
◇内務省による報道規制も「軍事機密保護」を理由に強まった。
…村山龍平社長の事変1年後の発言「事変以来、本社の前の主義と相反した方向。対暴力の方法なし。やむをえず豹変。とにかく無事にきた」(当時の「役員会議記録」)
《朝日新聞社会部 「言論の不自由」》
→全部、「他人のせい」ではないか!卑怯千万!《管理者》
●新聞記者のように、戦争の前と後でぜんぜん言うことが違うのは、人間として最低のこと。大新聞が日本人を戦争にかりたてていった責任は間違いなくある。こういう立派な記者さんたちが、自分の会社のことは棚に上げて、昔から反対していたようなこと言いながら、日本人は反省が足りないなんて主張するのは本当に恥ずかしいこと。 《福田和也 「魂の昭和史」 他の著書「俺の大東亜代理戦争」》 ●ベルリンから帰ってきた守山義雄特派員などは、戦時中はナチス・ドイツを讃える記事をさんざん書き送りながら、敗戦後は「ついに言論は自由になった」と米軍占領による日本の解放を讃える記事をデカデカと書いた。 《平川祐弘 諸君!2006/7月号》
●戦争中は敵の邪悪のみをあげ日本の美点のみを説き、敗戦後は敵の美点のみを説き日本の邪悪のみをあげる。 《山田風太郎 「ぼくらの『侵略』戦争」》
●戦後の朝日は、出発点で大きく道を間違ってしまった。つまり、戦争責任をとるべき人たちが戦争責任を追及してしまった。 《佐々淳行 〃 》 ●ワシントンのメリーランドにある「ナショナル・アーカイブズ」での私の調査で、朝日新聞が中国で「大陸新報」という新聞を軍の中枢の参謀本部と深く関わったかたちで出し、汪精衛・傀儡政権のメディア活動に介入していたことを示す資料が見つかった。朝日が批判してやまない大陸への日本の侵略を、朝日自体がメディアの面で積極的に担っていたのだ。 《山本武利 「これが日本の本当の話」》 ●朝日新聞社刊『新聞と戦争』の「はじめに」… 朝日は45年11月7日、「国民と共に立たん」という宣言を掲載して戦時報道の責任を明らかにし、新たな陣容で「平和国家」への出発を目指した。戦後の論調はつねに武威への戒めと外交・対話の重視であり、私たちも先輩から日々、戦時報道の過誤と愚かさ、その責任の重さを教えられて育った。 しかし論調の変化には当然、歴史の背景と、それを受け入れた記者たちの葛藤があったに違いない。記者の信念という問題だけではない。当時の部数獲得競争や、販路の拡大など、経営上の要請もあっただろう。裏を返せば、その時代の軋みと記者たちの身悶えを知らない限り、私たちもいつ、同じ過ちを犯さないとは限らない。(中略) この本を、過ぎ去った歴史の記録ではなく、記者たちの手になる明日への自戒と指針としてお読みいただければ、幸いである。<朝日新聞前ゼネラルエディター外岡秀俊> …当時の日本国の「身悶え」は一顧だにしないのに、自社の「身悶え」だけを主張し自分たちだけを弁護している。こんな恥知らずな責任論はない。 《管理者》 ●朝日新聞論説主幹・若宮啓文氏…「私は戦後生まれで実感はないのですが、軍部に迎合していた戦前の新聞の姿を知れば知るほど情けなくなる。朝日新聞の歴史も、あのころは涙が出るほど情けない。でも、あの状況に自分がいたとして何ができたかを自問しないと意味がない。新聞が売れなくなる、つぶれるかも知れないという時、それを覚悟で、どこまで正論を書いていけるか、と」 (朝日新聞07年10月12日 新聞週間特集の筑紫哲也氏との対談で) …これも上記・外岡氏と同じ主旨。これが朝日の社是なのか?2つの意味で呆れてしまう。 ①日本が潰れるかもしれないというあの状況の中、自分の新聞社の心配だけをしているエゴイズム。結局、自分の保身や金儲けのために戦争を煽ったと白状しているだけではないか。日本の行く末を本当に心配していたのなら、たかが朝日新聞の一社くらい潰れてもどれほどのものだろう。(潰れてもらった方が戦後の日本にはどれほどよかったことか) ②「あの状況に自分がいたとしたら」だと。あの時代、戦争に突っ込まざるを得なかった日本の苦渋の選択にはまったく触れないで、自分の会社に対してだけは当時の社員の立場に立って擁護する。こういう人間、こういう会社をどう形容したらいいのだろうか。 《管理者》 ●昭和史の節目節目において、日本の帝国主義的拡張に酔い、対外硬を主張する国民世論とそれを代表するマスコミが、軍よりも先を走っていた例は少なくない。それを、政府と軍の宣伝に踊らされていたからだというのは卑怯な史観である。 《岡崎久彦 「吉田茂とその時代」》 ●1945年、広島・長崎に原爆が投下され、日本が瀕死状態にあったとき、朝日新聞は8月14日の社説でこう書いた。 「すでに幾多の同胞は戦災者となっても、その闘魂は微動だもせず、いかに敵が焦慮の新戦術を実施しようとも、一億の信念の凝り固まった火の玉を消すことはできない」 ●一方で、日本政府内では同年8月9日から10日にかけて、ポツダム宣言受諾と降伏に向けての動きがあわただしかった。そして「実録朝日新聞」(58年発行)によると、「新聞社にだけはこの情報が入っていた」。 つまり朝日は、日本降伏の可能性を察知しながら報道せず、国民に”微動”だにしない”闘魂”を求め、一億総国民が”火の玉”となって戦い続けよと社説で檄を飛ばしたのだ。 《櫻井よしこ 「櫻井よしこの憂国」》 【5月28日更新分】
●『朝日新聞七十年小史』(昭和24年発行)… 「朝日新聞はもちろん、戦争には反対であった。しかし、それを公然と主張することは許されなかった。もしそれをあえて試みたとすれば、直ちに朝日新聞そのものの抹殺となったに違いない。本紙はただ行間に見えざる文字をもって意とするところを述べるにとどまった。 開戦の日、12月8日の紙面を見れば、社説は『満州農業と食糧の自給』について論じ、当面の重大問題であった日米交渉については、『米政府の態度硬化、重大段階に到達』と特電をもって報ずるのみであった。朝日は戦争に反対する態度をとったばかりでなく---というよりその結果であるといえるだろうが、その方面のニュース源からも疎んぜられていたのであった。一見、間の抜けたこの日の朝日の紙面に対し、毎日は『太平洋の浪荒し』として、一触即発の空気を濃厚に漂わせている。が、一度開戦となってはあくまでも報道の大任に徹しなくては成らない。わが社は広大な通信網をさらに拡充して新事態に遺憾なきを期した」 …と言い訳から書き出す。苦渋と矛盾に満ちた苦心の作である。ライバル紙の毎日のことまで引き合いに出して、わが社は戦争に反対していたからニュース源において劣っていたといい、「行間に~意とするところを」述べたという。新聞において“見えざる文字”とはどういうことなのか。開戦前夜の朝日新聞の紙面を見れば、とても戦争反対の意を伝えているとは思えない。 《岩川隆 「ぼくが新聞を信用できないわけ」 他の著書「日本の地下人脈」》 ※この恥知らずな卑怯さ、無責任さは昔からの朝日の「伝統」である。 見事に受け継がれている「社風」で、いまもまったく変わっていない。《管理者》 ●緒方竹虎は朝日新聞退社後、戦時中の小磯内閣に国務大臣・情報局総裁として入閣した。ここでいう情報局とは、1940年に作られた内閣直属の政府機関で、戦争に向けた世論形成のために、国内の情報収集、戦時下における言論・出版・文化の統制、マスコミの統合や文化人の組織化、および国民に対するプロパガンダを内務省・陸軍省などとともに行った。戦争遂行および国内治安維持を目的としながら、国民生活を抑圧するための政府機関といっていいだろう。 《土屋大洋 「情報による安全保障」》 |
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