「支那」呼称について


支那は唐虞以来、数々國を改めて古へより一定の國名なし。「支那」と云は歐羅巴及び印度等諸々西土の邦より稱する所にして即ち吾邦より「もろこし」と呼ぶが如く、古今の通稱なり。故に予これを以て稱す

───前野良澤『管蠡祕言』


 現在、支那のことを「中国」と言い換え、「支那」という呼称が「差別用語である」というおかしな主張する人が少なからずいます。が、わたくしは逆に「支那は断じて差別語にあらず」「逆に『中国』という語こそ不用意に用いるべきではない」と信じております。このため、私のページでは「現代の中華人民共和国」の略称としてのみ「中国」を用い、それ以外の通時代的・地域的・文化的な呼称はすべて「支那」を公然と用いています。

 理由は以下のとおりです。

  1. 本来「支那」は、支那大陸を初めて政治的に統一した王朝・「秦(シン)」がインドに伝わって訛り「シナ」となって、支那を指す総括的語彙とされたもの。それがわが国にも古代に伝わり、また別に西洋に伝わって「China」「Sina」と呼ばれたものが再び江戸時代末期に再輸入された語である。「支」も「那」も「シナ」の音を当てはめただけで、特に意味を持っていない(逆に朝鮮・支那人が日本を侮蔑する「倭奴」「鬼子」「チョッパリ(豚の足の意)」は字義・語義から言っても差別的である)。それどころか、「震旦」「脂那」「至那」などのいくつかの候補の中から支那人自らが選び出した呼称でる。従って西洋人が「China」「Chinese」に何ら侮蔑的意味を込めず普通に呼んでいるのと同様、「支那」の語の使用にも何ら他意は含まれていない

  2. そもそも「中国」とは日本国内に於いては、わが国の山陰・山陽地方を合わせた地方名である。自国内の地方名と外国の名前が重なった場合、自国内の呼称を優先させるのは、普通の国であれば当然である。たとえば「中国で大地震」などという表現は、誤解を生じやすい。日本の地方名と外国の地域名を区別する意味からも「支那」を使う方が便利である。

  3. 百歩譲って「中国」が「中華人民共和国」もしくは「中華民国」の略称だと認めても、辛亥革命以前の、あの地域を指す呼称としては全くふさわしくない。通時代的に用いる呼称としては、欧米でも「China」が用いられており、「China」と同義の「支那」を用いるのがふさわしい。

  4. 学術・文藝分野でも「中国」呼称はあまりふさわしくない。「古代中国文化」という表現は現在そこにある国名を無理に使っている点で「古代カナダ文化」と呼ぶのと同様に滑稽である(呼ぶなら「北アメリカ文化」であろう。「アメリカ」はUSAを指す国家名であると同時に地域を指す汎用的な呼称である。私は両者を区別するためUSAのことは「米国」と呼ぶ)。また、「中国」という国名に関しては相当にイデオロギー的側面(国家承認の問題、自由主義と共産主義の問題、中華民国と中華人民共和国の正統性の問題)を持つ政治臭漂う言葉であるため、文学作品(歌・句・詩など)にも合わないし、歴史叙述でも論者の立場を縛ってしまうため、使用しにくい。

  5. 日本国内には「多くの中国人が『支那』と呼ばれるのを嫌っている」という怪説があるが、全くのウソである。現在の中国人の多くは「支那」が差別語であるとは感じていない。日本国内で生まれた迷信である。それ以前に、日本で自分たちの国を「支那」と呼んでいる人がいるということ自体ほとんどの人は知らない(考えてみれば当たり前の話で、英国民5900万人の中に自分たちの国が日本で「エ−コク」と呼ばれていることを知っている者がどれだけいるか)。中国人口13億人の中に「支那」という呼称が日本で用いられていることを知っている者はたかだか0.1パーセント未満しかいない。その中でも「差別語である」と主張する者はもっと少ない。そんなごく少数派の都合に合わせるのは無意味である。

  6. 現代の中華人民共和国で最も権威ある国語辞典「漢語大詞典」によれば、「『支那』は、『秦』の音の訛りであり、古代インド・ギリシャ・ローマ・日本などがわが国を呼ぶ名である」と書いてあり、蔑称であるとは一言も記されていない。むしろそこに引用されている参考文献には「単なる名称であって別段の意義はない」と明記されている。中国国内には「支那」を差別的呼称とする一般的な通念は存在しないのである。

  7. 確かに戦前(昭和5年)、中華民国政府は大日本帝国に対し、「支那」呼称をやめ「中国」と呼ぶように要求し、日本政府もこれを受諾したが、あくまで国家間の外交文書の中で国家名を指す場合のものである。国家名以外の文化・学術分野で「支那」と呼ぶことには何の支障もないし、日本は中華人民共和国と違って言論自由の国であるから、政府が決めたとて国民個人がそれに従う義務もない。また、あくまで上記要求は中華民国政府外交部からなされた要請であり、中華人民共和国政府との間の約定ではない。

  8. いかなる国民も、他国・地域の呼称について当事国から強制されることなどない。假に中国政府が日本国民にたいして「中国」呼称を強制しようとも、従う義務は全くない。主権侵害である。まして、中国政府がそのような強制をしているわけでもなく「支那呼称を嫌う中国人がいるらしい」等という不確かな情報を元に呼称をねじ曲げようとするのは論外である。

  9. 「現在、中国は『支那』と名乗っておらず、『中国』と名乗っているのだから『支那』を使うべきでない」という言説も耳にするが、この主張には全く説得力がない。第一、この理屈では中国成立前の清朝以前の歴史を語ることができない。第二に、その国の自称を日本でも用いるべきというなら、メキシコは「メヒコ」、ドイツは「ドイチュ」、ハンガリーは「マジャールオルザーグ」、フィンランドは「スオミ」と言わなければならないが、わたくしはそのような呼称を普段から使用している日本人に、いまだかつて会ったことがない。中国だけ特別視するのは逆差別である

  10. 現在「中国」呼称を用いる人たちの間には「中国人」というと「漢民族」を指すのと大差ない意識があり、現状と甚だしく異なる。中華人民共和国は55の民族からなる国家であり、「中国人」と呼ぶことは漢民族以外の54の民族の自尊心と主権意識を損なうものである。またこれら諸民族を含めて「中国人」と言うならもっと無礼である。これは不法な手段で強制的に「解放」した満洲・チベット・東トルキスタン・内モンゴルなどの主権を「古代以来わが国固有の領土」と捏造し、反対勢力を武力弾圧する中国共産党政府の主張を全面的に認めるものであり、人道的・人権的に大問題である。これら虐げられた人々を一緒くたにまとめて不用意に「中国人」と呼ぶことは、1959年に突如不法占領され、以来40年間に130万人以上も虐殺されたチベット人をはじめとする中国国内の54の民族の誇りを傷つける蛮行である

  11. そもそも漢語で「中国」という語の本義は「わが国」「世界の中心の国」という意味で、外国人が支那をさして呼ぶにはまったくふさわしくない。江戸期の学者の文章には、逆に日本をさして「中国」と書かれている例もある。また、「中国」は世界の中心であるとの誤った概念(華夷思想)から、支那歴代皇帝に対して諸外国が臣下として呼んだ例もある。そのため逆差別となる恐れもあり、「支那」の方が、より客観的である。

  12. 「中国人」みずからが「支那」「Sina」と名乗っている。自らをさして「支那」と名乗る例は古く唐代から始まっており、近代中国の父・孫文や魯迅も自ら「支那人」を称している。また、現在でもインターネット上でも「Sina.com」などのメジャーサイトが存在する。これらは誰かから強制されたわけでも自ら卑下して名乗ったわけでもない。自らを「支那(シナ)」と表現することに客観性があると認められているからである

  13. 「かつて戦前の日本人は『支那』を蔑称として用いていた」という言葉も聞くが、これもウソである。現代の人間が例えば「大村は使えない奴だ」「花田は頭が悪いんじゃないか」というとき、「大村」「花田」という語自体に侮蔑的意志があると感ずる人はいないだろう。話者が大村氏・花田氏をどう思っているかと、その呼称が侮蔑表現かどうかは何ら関係はない。戦前、支那人を軽侮した日本人が一部に存在したことは確かだが、それをもって「支那」という語を侮蔑表現として使用したとするのは暴論である。

  14. 「たとえ少数の人でも差別的・不快に感じる人がいるのだから使うべきでない」という意見もしばしば耳にするが、説得力がない。逆に、わたくしのように不用意な「中国人」発言を不快に思い、「支那」という伝統ある言葉を無くそうという動きに不快を感じる向きも少なくない。そういう人たちへの配慮が考えられていないからだ。この手の論議は「言葉狩り」と呼ばれる確信犯的な言語破壊行為の便法として使われるが、世の中に差別語などない。差別する人間がいるだけであるいたずらに語を削減して臭い物に蓋をするのは偽善である


以上の理由から、わたくしは現代の中華人民共和国を指す略語として使うときのみ「中国」呼称を用い、それ以外の場合は「中国」を日本の地方名として用い、あの国・地域を指す通時代的呼称としては「支那」の方がふさわしいということを確信します。従って、「大河内但馬守のホームページ」以下の各ページにおいても「支那」呼称を使用します。

ただし、わたくしは「支那」のことをどうしても「中国」と呼ぼうとする人をあえて妨げるつもりはありません。

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大河内但馬守(中村彰宏)
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