2014-12-31
映画『永遠の0』感想
まもなく2015年を迎える。太平洋戦争終戦から70年が経つ。その前年の2014年に大林宣彦は『野のなななのか』において、「戦争はまだ終わっていない」と言ったが、『永遠の0』を観ていると、同じく「戦争はまだ終わっていない」という感慨を抱く。しかし、大林宣彦が、決着を付けなければいけないものとしてその言葉を言う反面、『永遠のゼロ』は、恐らく企画に関わった誰ひとりとして、戦争、あるいは特攻隊という題材に何ひとつ明確な姿勢を打ち出せていないであろうことを確認した時に、その言葉が頭をよぎるのだ。
まず先に言っておくが、私はこの作品を徹底的に貶す価値があると思っている。人それぞれ好き嫌いこそあろうが、間違っても「感動超大作」や「名作」などとして語り継がれて良い作品ではない。その理由として、まずはこの作品の演出的な欠点から述べていこう。
本作は、100万部を売り上げた、百田尚樹氏の同名タイトルの小説を原作としている。
戦死した特攻隊員・宮部久蔵の人物像を、2004年に生きる孫の慎太郎が、戦争当時の久蔵を知る人物たちの元を訪ねて話を聞き、回想を交えながら探っていくという形で話が進められる。同じ部隊に所属する兵として、生徒から見た教官として、同じ特攻隊員としてと、次々と語り部を変えながら、それぞれが見た久蔵の人物像が語られていく。
まず真っ先に挙げると、この構成に沿うような話の作られ方がなされていない。というのも、語り部が変えられることが、久蔵という人物を掘り下げることに、何ら役立っていないからだ。
慎太郎はライターである姉から協力を求められる形で、久蔵の話を聞いて回ることになるのだが、当時を知る人々は口々に「宮部は臆病者だった」と述べる。慎太郎は次々と祖父である久蔵の悪評を聞かされ、嫌気がさし始める。しかし、病床に伏せている一人の元部下である井崎から、「素晴らしい飛行機乗りだった」という話を聞いたことから、「臆病者」以外の久蔵の姿を知る事になる。そこで映画も回想シーンに突入するのだが、そもそも「臆病者」というミスリードとして働かせるためには、まず臆病者である父の様子を回想シーンに収めなければなるまい。回想シーンの中でも、同じ部隊の隊員の噂の中でしか臆病者であることは語られない。(さらに話を戻すなら、自ら死の中に飛び込むという特攻隊員のイメージとはそぐわない、「臆病者」というイメージにこそ食いつくとも思うのだが・・・)その隊員から聞いた久蔵の姿は、死して国に殉じることよりも、生きて帰ることが大事だと語り、何よりも平和を尊ぶ者としての姿だった。その後、今度は教官として教え子を抱えていた久蔵の姿を知る元兵士から、別の顔が語られる・・・かと思いきや、それまでの姿と大きなギャップを見せるようなエピソードは、ほとんどと言っていいほど語られない。多くの生徒を送り出すことへのプレッシャーを感じて気に病むのも、結果的に自分が特攻隊員として作戦に加わるのも、最初のエピソードから考えると意外と呼ぶほどのものは語られない。
加えてひどいのは、その語り口である。久蔵が家に遺してきた妻の写真を肌身離さず持ち、部下に見せる場面の後、現在のシーンでその話を語った元・部下が「それは、愛しているということですね。」というセリフを言ったり、飛行機に乗り込む久蔵の顔を映した後、「棺桶に片足突っ込んだような顔をしていた」というセリフを言ったりと、過剰な説明がとにかく多い。こんな風に説明過剰になり、視点の変更によるキャラクターの掘り下げも行われないのであれば、久蔵個人の視点で物語が進められていくほうがよほどスマートだったろう。そのおかげで、見所としてVFX出身の監督も力を入れている零戦での空中戦のシーンを楽しむ映画としても、ノイズが多すぎる結果になっている。
しかし、その見所であるはずの空中戦も、迫力に欠ける印象がある。というのも、恐らく精巧に作られたであろう戦艦を画面内に映すとき、いちいち空撮による全景で捉えようとするカメラワークに顕著であるように、本作、というより白組がVFXを担当している作品は往々にして、CGそのものの造形を見せることに重きが置かれており、それをいかに機能させるか、画面に対してどのような躍動感を与えるかということに対してのはたらきかけを行えていない。序盤、久蔵の航空技術の程度を表すシーンとして、戦艦の甲板に次々と零戦が着艦するシーンがあるが、ここにおいては久蔵の乗る機体は、鮮やかな運動的な美を見せなければいけないにも関わらず、それをまるで安いミニチュアでやってみせても同じようなロングショットでしか捉えられていないのは、本作の大きな欠点であると呼んで差し支えない。全景だけ説明的に見せて終わらせているのなど、映画製作者のくせに『ヒッチコックの映画術』すら読んでいないのかと言いたくなる。
では、どのように見せなければいけなかったかといえば、それこそ日本の国民的映画監督であり、唯一といっていいほどの航空映画の名手である宮崎駿作品を参考にすれば良い。宮崎駿作品が、なぜ航空映画の名手なのかといえば、「目で追いきれないものを目で追いきれないものとして映す」ことに長けているからである。アニメ的な表現にはなるが、宮崎作品で人物が飛行機や車を駆る、あるいは走るといった一定以上のスピードを表現するとき、風景は光や色の塊となり、まるで溶けているものかのように描かれる。この「目で追いきれないものを目で追いきれないものとして映す」ことは、実写作品においても同様に有効である。映画は断片の芸術である。人の知覚の認識が追いつかず、断片的な情報を追い、それが画面の切り替わりなどによって次々とつなぎ合わさる瞬間にこそ、人々は映画的な快楽を得られるのである。つまり、CGのその精巧さを見せることに重点が置かれている時点で、映画的な美学とはまるで逆の方向に行っているのだ。
零戦の空中戦にしたって、むしろ見せようとしてるのは零戦の躍動感であるというより、時間をかけて取り集めたという大量の空撮の映像素材そのものであろう。空の中を飛び交う零戦が見せたいのであれば、むしろひと画面に収まらないような速度であっという間に駆け抜ける零戦を映し出したほうが効果的なはずなのだが、空撮映像の素材の中に収まる形でしか零戦は捉えられていない。結局戦艦内部の映像も映されることはほとんどなく、あっても恐らく考察に基づいたであろう記号的な戦艦内部が映し出されるだけで、CGで作られた戦艦の全景、海上で取られたであろう甲板のシーン等と呼応することもない。その考察に基づいた美術設計が、機能的に映画に働きかけることもない。
私が近年の日本映画を「貧相だ」と言って憚らないのは、こうしたコストを払って得たものを羅列するだけで、何らかの効果が得られると思い込んでいる製作側の貧乏臭い根性が透けて見えるところだ。いくら巨大な予算規模で精巧に戦艦を模してみせようが、いくら膨大な歴史的資料に基づいた細かい考察に基づいていようが、それが映画的な美に還元されないのであれば、なんら意味はない。つまりは無駄金である。持っているリソースと、そこから支払えるコストの絶妙な配置のために、演出や製作に手腕が求められるのだ。ただ金をかけて歴史的な建造物を再現したいというだけなら、それこそ歴史資料の展示施設等に資料として寄贈してみせたほうが、まだ有意義であろう。
端的に言うならば、身体性の欠如である。それは役者に付けられている芝居を見ても明らかだろう。登場人物の心が動いている瞬間が、「大きい声を出す」以外のことで表されたことがあっただろうか?終盤、久蔵を間近で見てきた人物の正体を、聞きまわってきた人の内の一人から渡された、数十年間秘密裏に保管された貴重な資料から発見したとき、その驚きを表現するからといって、その資料を土砂降りの雨の中で広げて棒立ちになっているという演出を、「間抜け」以外のなんの言葉で言い表せるのだろうか?そもそも、最後に現れることになる、最も意外かつ(というほどでもなく、むしろ真っ先に話を聞くべき人物として名前が挙がっておかしくないのだが)重要な語り部になる人物に、染谷将太という現在若手実力派俳優として名を挙げてる役者を配し、それまでの回想シーンの中で何度も画面の中に登場させてる時点で、制作側の身体性というものに対する感覚の欠如が如実に表れているのだ。有名役者が画面に何度も出てきているのに、それが後に重要な人物として再登場することを予想しない観客などいるわけがなかろう。
このように、『永遠の0』は演出、製作の観点から見て極めて間の抜けた点の目立つ作品でありながら、邦画では今年最大のヒット作となっている。それはなぜか、といった時に考えねばならないのは、広告の効果もさる事ながら、その物語の性格だろう。
以下は多くの観客を集めた物語として『永遠の0』を検証していこう。
曰く、「家族と平和を愛する者の物語」であることが、特攻隊というセンシティブな題材でありながら多くの観客を集めた要因であるようだ。劇中でも、手に職をつけてスーツに身を包む同級生たちが設定した合コンに参加し(この"無職vs軽薄なサラリーマン"というシーンの設定自体、まるで「いかにして若者はネット右翼になっていくか」という様子を類型的に描いたものでもあるかのようなのだが)「特攻隊は自爆テロリストと同じ、ヒロイズムに殉じていっただけの狂信者だ」と同級生から言われ、「違う!」と慎太郎が声を荒げるシーンがあるように、決してヒロイズムやマッチョイズムを称賛するものではない、というのが本作の姿勢のようである。恐らく制作側もそうしたパッケージングを行うことで、企画を通したとも思うのだが、ハッキリ言おう。これはれっきとした特攻隊讃美の映画である。
思い出して欲しい。宮部久蔵は、「国のために我が身を捧げ、戦場で散ってみせることこそ誇りだ」とされている時代に、「家族を守るため、未来の日本を守る為に生きて帰ることが大事」と部下に諭す人物である。ならば彼が守ろうとしていたものは一体何なのか。それをきちんと描くことこそが、久蔵の話を聞いて回る慎太郎が、久蔵の死を受け止めるために必要なものだったはずだ。それを映すチャンスは、軍務の束の間に帰宅してくるというシーンにあった。しかし、久蔵がまだ赤ん坊である娘と風呂場に入ったときに、娘が粗相し、家族全員が微笑むという、本作の中でも数少ない微笑ましいシーンを、風呂場を覗く妻の背中のみ映すという形でしか描かなかった。代わりに時間を割いたのは、これから戦場へ向かう久蔵を、妻が抱きしめ、「必ず生きて帰るから」という(それまで何度も言っている)セリフを言い、妻の腕から離れていくシーンだ。この2つのシーンの描かれ方の差からして、押し出しているのが「守るべき平和」よりもヒロイズムになっているとは誰もが思うはずだ。
さらに決定的なのは、この映画のラストシーンである。最後、すべての話を聞き終えた慎太郎は街へ飛びだし、街中で幸せそうに微笑む家族たちを見つめ、そこでふと見上げると、零戦に乗り、慎太郎へと合図を送る久蔵の姿を見つける。この画面の連なりが何を意味しているかといえば、制作や演出側の意図はどうあれ、「今日の日本の平和は、特攻隊員の死によって築き上げられている」ということを語っている。そして飛び去った久蔵の零戦は、海上に浮かぶ敵の戦艦の甲板へと突っ込み、かすかに微笑む久蔵の顔が映り、そこで突如としてタイトルが映り、そこからエンドクレジットになる。
何度でも言おう。久蔵が望んだのは、「平和」であり、「家族の元へ無事に帰ること」である。結果的に特攻作戦に従事して死にはしたが、もし慎太郎が現代にその姿を見つけるとするなら、むしろ幸せな家族の一員として微笑む父の姿でなければいけないし、その場所も飛び出した街の中ではなく、真相を聞かされた母方の実家の庭や縁側でなければいけないはずだ。しかし、結果的に描かれたのは、戦争当時に国民に触れ回られたような「勇敢な特攻隊員」のしての姿だ。これが特攻隊讃美でなく、何と言うのだろうか。
いや、むしろ特攻隊讃美ですらない。最後に久蔵に微笑ませてしまったことは、その「勇敢な特攻隊員」として散ることを久蔵が望んでいたかのようにも見える。この姿は同級生から言われた「狂信的なヒロイズムに殉じた自爆テロリスト」そのものではないのか。つまりこの映画は、「家族と平和を愛する者の物語」にはなっておらず、「特攻隊員は自爆テロリストと同じ」と言っているのだ。
しかし、この事実に対して製作側はほとんど無自覚だろう。無自覚なままに、特攻隊を国を救った自爆テロリストとして讚美したものを、「家族愛」と銘打って世に出してしまったのだ。なぜこのようなことが起きたかといえば、センシティブな題材を角が立たないように扱おうとしたがための結果だろう。
もし本当に「家族と平和を愛する者の物語」で、劇中で非人間的な存在であるかのように語られた特攻隊員を一人の人間として描きたかったのなら、まず人それぞれが多様な幸せを望むという人間性の根底に関わる部分を「お国の為」の一言で否定され、命を捧げなければならないという特攻隊の性格そのものを全否定しなければならない。特攻隊を除いても、戦死者の大半が兵站軽視による餓死者だという事実が物語っているように、それほどまでに愚劣な軍部によって先導された作戦が特攻隊であり、凄惨な戦争だったのだから。抗議を受けるからと戦争そのものへの批判的な言及を避け、タイトルになっているからだとか、原作者の零戦への偏愛を理由にし、あのラストにしたと言うなら、全く馬鹿げている。
宮部久蔵の類型的な人物像から、その他の人物の全く人間味の与えられていない演出に至るまで、なんら人間というものに向き合おうとしない人々によって、今日の日本の娯楽映画は形作られている。しかし、真に感動を誘う映画の多くは、人間というものはなんであるかを突き詰めて捉えている。真っ当な娯楽映画を取り戻さなければ、先の戦争のような全体主義に陥ってしまう。人間を描かねばならない。
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