戦後七十年近く続いてきた学校教育が岐路に立っています。もうこれ以上、子どもの不登校の問題を放ってはおけません。みんなの問題なのですから。
東京のJR王子駅の近くに東京シューレ王子はあります。六歳から二十三歳までの不登校の子たちのフリースクール。シューレとは、古代ギリシャ語で「精神を自由に使う」の意と聞きました。
神奈川から来ている牧野芙美さん(20)は、小学二年の夏休み明けから不登校に。暴れる男の子たちに耐え切れなかったといいます。
◆アラスカへ体験旅行
居場所と友だちを求め、たどり着いたのが東京シューレ。みんなで話し合い、体験活動や講座、行事を民主的に決める。参加は自由で、一人ひとりが主役です。
最高の思い出は、五年前の米国アラスカ旅行。「オーロラが見たい」。ある女の子の一言に興味を抱き、仲間と動きだしました。
オーロラの仕組みや、先住民の歴史や暮らしを調べ、学習会を重ねた。手作り弁当を売り、募金を呼びかけて資金をため、掃除や草むしりの有償ボランティアも。
二年がかりの計画でした。実現までの過程に多くの学びが詰まっている。達成感は自信と意欲をもたらしました。
いま、独学で高校卒業程度認定試験に挑んでいます。六教科九科目を受け、合格まで残り一科目です。今年中には東京シューレを出て声優を志す。学校にはない「マイペース」という空気が英気を養い、成長を後押ししています。
文部科学省によると、二〇一三年度の不登校の小中学生はおよそ十二万人。十七年連続で十万人を超えました。保健室に通ったり、欠席が年三十日に満たなかったりした子は含まれない数字です。
表面上は学校に復帰していても、悩んでいる子はたくさんいるはずです。不登校がみんなの問題である理由です。
◆不登校は「制度公害」
在野の教育研究者、古山明男さんは「不登校は制度公害です」と手厳しい。学校恐怖やいじめ、非行、学業不振、怠けは世界中にあるけれど、不登校が問題化するのは日本特有の現象だそうです。
学校教育法の決まりで、国が認めた小中学校でしか義務教育を受けられない制度になっているからです。いくら学校が嫌いでも、正規の学びの場はほかにない。
憲法も、教育基本法も子どもの学ぶ権利を保障しているのに、不登校になると奪われてしまう。下位の学校教育法が権利を使える場を学校に限っているからです。
欧米諸国は対照的です。親が家庭で学びを支えるホームエデュケーションやフリースクール、シュタイナー教育、モンテッソーリ教育…。さまざまな理論や思想、哲学を基とした学びの場が制度的に担保され、発展している。
子どもにふさわしい教育の場を、在宅を含めて選べるのです。そもそも市民には学校をつくる自由がある。“教育の主権在民”とはこのことでしょう。不登校問題は生じようもないのです。
戦後日本に定着した学校一本やりの教育制度は、人々の意識を縛ってきました。東京シューレ理事長の奥地圭子さんは「学校化した社会」と呼び、憂えています。
小中学校から高校へ、大学へと競争を勝ち進み、社会人に。学校の階段をつまずかないよう駆け上がる単線型の人生行路。それが当たり前の生き方として、世代を超えて刷り込まれてきたのです。
不登校ばかりでなく、競争に敗れてコースから外れると、自信を失い、追い詰められる。日本の子どもたちの自己肯定感が国際的に見て異常に低いのは、学校が心の自由を奪い、夢や希望を見失わせているからだと思うのです。
昨年九月、安倍晋三首相は東京シューレを視察し、フリースクールなどの学びの場を支援する意向を表明しました。国の初めての動きに期待が高まっています。
正規の学校ではないからこれまで公的支援はほとんどなく、どこも運営は苦しい。利用する子の負担も重い。小中学生なら本来は無償で教育を受けられる立場です。
不登校問題の背後には二重、三重の教育格差が潜んでいる。その是正こそが支援の主眼であるべきでしょう。エジソンやアインシュタインのような異才の発掘や選抜ばかりが目当てでは、学びの場が学校化しかねません。
◆競争力から共生力へ
奥地さんらは、子どもがニーズに応じ、自由に学びの場を選択できる制度づくりを訴えています。多様な価値観や生き方が芽生える可能性を秘めているはずです。
強い者だけが生き残るグローバル化の時代は息苦しく、社会がきしみます。だからこそ競争ではなく共生の、排除ではなく包摂の知恵が問われているのです。
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