島田裕巳(宗教学者)
正月の三箇日、多くの日本人が初詣に出掛ける。その数は、全国で8000万人とも言われ、全国トップの明治神宮には320万人程度の人が初詣に訪れる。ほかにも、全国には、200万人から300万人の初詣客が訪れる神社仏閣がいくつもある。
私たち日本人は、初詣をたんなる「しきたい」としてとらえているが、神社仏閣は「宗教施設」にほかならない。
しかも、初詣に出掛けた私たちは。たんに神社仏閣の建物を見てくるわけではない。本堂や拝殿の前に立って、拍手を打つなり、合掌し、祈りを捧げる。それは、まぎれもなく「宗教行為」である。
もちろん、私たちの多くは、自分が神道の信者であるとも考えていないし、仏教の信者であるとも思っていない。けれども、外側からとらえれば、たとえば外国人の目からすれば、日本人は随分と信仰に熱心な国民に見えてくるはずだ。
世界中には、さまざまな宗教施設があり、そこは「聖地」と呼ばれる。イスラム教なら、メッカが聖地で、キリスト教のカトリックなら、バチカンやフランスのルルドの泉などがそれに当たる。メキシコのグアダルーペも、黒いマリアを祀る南米最大の聖地である。
イスラム教の巡礼月には、世界中から巡礼者がメッカに集まるが、その数はおよそ250万人である。年間でも、メッカへの巡礼者は500万人程度である。メッカがあるサウジアラビアの政府は巡礼者の数を制限しており、それがなければ、もっと多くの人間がメッカを訪れるはずである。
そうしたことはあるものの、250万人という数は、明治神宮の初詣客の数に及ばない。もちろん、メッカには世界中からイスラム教徒が集まるのであり、単純には比較できないが、200万人を超える初詣客を迎える神社仏閣がいくつもある日本の現状は世界的に注目されるものである。
外国人も多く訪れる浅草の浅草寺ともなれば、年間の参拝者の数は3000万人とも言われる。成田山新勝寺でも1000万人を超えると言われる。そして、日本人は、観光旅行の際にも、奈良や京都をはじめ、各地の神社仏閣を熱心に訪れている。
世界の宗教状況を見回してみると、日本の特徴が見えてくる。
まず、ヨーロッパでは、キリスト教の退潮が著しい。日曜日に教会に行く信者の数は激減し、イギリスだと全体の10パーセント以下にまでなっている。
ほかのヨーロッパ諸国でも同じで、教会税があるドイツや北欧の国々では、税を嫌って教会を離れる人間が急増している。
そのため、各地には信者がいなくなったために運営ができなくなった教会が続々と生まれている。そうした廃教会は、住宅に転売されたり、空間が広くとれるので、サーカスの練習場として売却されている。
意外に多いのが、イスラム教のモスクに転売される教会で、それこそ「居抜き」で売られている。
しかも、ヨーロッパ諸国では、イスラム圏からの移民が増え、イスラム教徒が増えている。スペインなどでは、イベリア半島全体がふたたびイスラム教徒によって征服されるのではないかという声さえ起こっている。
その一方で、経済発展が続く国ではどこでも、「福音派」と呼ばれるプロテスタントの宗派が伸びている。この福音派は、簡単に言ってしまえば、日本の新宗教にあたるもので、病気治しを行ったり、派手なパフォーマンスをくり広げたりして、それで信者を集めている。
それはとくに、BRICSと呼ばれる諸国で顕著に見られることで、中国でも、この福音派が増え、キリスト教徒全体の割合は人口の10パーセント程度にふくらんでいるとも言われる。
ブラジルは、カトリックの牙城で、これまで圧倒的多数をカトリックの信者が占めてきたが、現在では、プロテスタントの福音派に改宗する人間が増えている。バチカンはそれに強い危機感を抱き、その対策に乗り出しているが、効果は必ずしも上がっていない。
戦後、日本で新宗教の信者が増えたのも、経済発展によって急速な都市化が進み、そうした宗教が、地方から都市に出てきたばかりの人間たちを救うネットワークを提供したからだが、BRICS諸国では同じような事態が進行しているわけである。
中国も、気功集団の法輪功が勢力を拡大したときには、徹底的に弾圧したものの、キリスト教に対しては、それができなくなっている。経済格差が拡大し、宗教に救いを求める人々を無視できなくなったからだ。
BRICSには含まれないが、韓国ではすでにキリスト教徒の割合が30パーセントを超えている。韓国で流行しているのも、やはり福音派のキリスト教である。
日本では、キリスト教は16世紀と19世紀の2度にわたって入ってきた。とくにキリスト教は学校経営に力を入れ、多くのミッション・スクールができたものの、そうした学校に通っても、多くの日本人はキリスト教徒にはならない。
したがって、キリスト教徒の割合が人口の1パーセントを超えることさえなく、現在では、カトリックでも、プロテスタントでも、信者の高齢化が進み、勢力は確実に衰えている。
以前は、キリスト教の信仰をもつ知識人や作家が活躍したが、今はほとんどいなくなった。目立つのは曾野綾子氏くらいではないだろうか。
戦後拡大した新宗教も、最近では、同じように信者の高齢化が進み、活動が停滞している。かつては甲子園の常連だったPL学園の野球部が、監督さえ決まらない状態になっているのも、その背景には教団の急速な衰退がある。開祖の命日に行われる花火大会も、上がる花火の数が激減している。
既成仏教教団も、信者が訪れなくなり、衰退しつつある有名寺院が少なくないとも言われる。そうした寺院のなかには、関連する新宗教の教団にすっかり依存するようになっているとも言われる。
その点では、日本でもヨーロッパと同様に、宗教の力が衰えていく「世俗化」が進行しているとも言えるが、2013年の伊勢遷宮の際に、多くの人間が伊勢神宮を訪れたように、宗教に対する関心そのものは衰えていない。
ただ、日常的に宗教活動を実践する人間の数は減っているし、何より、地域において住民と宗教とのかかわりはかなり弱体化、希薄化している。
地方では、維持が難しくなった神社が年間数百の単位で他の神社に合祀され、檀家が減少したことで、経営が難しくなった寺院も次々と生まれている。
仏教の場合には、とくに葬式における仏教離れ、あるいは、檀家離れが進んでいる。
これまで、日本人が葬儀を行う際に、仏教式の葬儀を選択することが多かった。それは、寺院墓地に墓があり、その寺と壇家関係を結んでいる家が多かったからで、たとえ檀家になっていなくても、それまでの慣習で仏教式を選択する傾向が強かった。
ところが、近年では、火葬場に直行し、荼毘に伏すだけで終わりにしてしまう「直葬」が増えている。直葬の場合には、火葬場に僧侶を呼ぶことはほとんどない。したがって、直葬は自ずと無宗教式の葬儀になり、仏教とのかかわりはない。首都圏ではすでに、直葬が葬儀全体の4分の1を占めるまでになっている。
直葬ではなくても、葬儀の規模は大幅に縮小しており、「家族葬」が一般化した。身内だけ、あるいは参列者が少ない葬儀が増えているわけだが、そこには、企業が葬儀とのかかわりを失ってきたことも大きく影響している。
これまでは、社員やその関係者が亡くなった場合、同僚が受付や案内を行い、仕事上の関係だけで参列する人間も多かった。戦後の企業は、村にあった「葬式組」の役割を担ってきたのだが、近年では、企業と社員との関係が変わり、葬儀にかかわらなくなった。それによって、参列者の数が激減する事態を生んでいる。
このように、世界でも、そして日本でも、宗教をめぐる状況は大きく変わっている。経済や政治にかんしては、さまざまな形で報道され、議論にもなっていくが、宗教については報道も断片的で、メディアでも議論になることは少ない。
そのため、ほとんどの人たちは、ここまで述べてきたような事態が進行していることに気づいてさえいないが、21世紀になってからの世界の宗教状況は激変しており、日本もその例外ではないのである。
しかも、「イスラム国」に見られるような、イスラム教原理主義過激派の台頭は、テロリズムや戦争といった暴力的な事態を生み、世界の平和に対する脅威にもなっている。
それは、必ずしもイスラム教の教えが生んだものではなく、その地域の政治情勢が生み出したものである。ほとんどのイスラム教徒は穏健派であり、過激な行動に出るわけではない。
おそらく、イスラム圏において経済発展が続けば、過激派も力を失っていくであろうが、地域によってはその見通しが立っていないところもある。
日本でも、今から20年前の1995年には、「オウム真理教事件」が起こった。オウム真理教は、民間の宗教団体であるにもかかわらず、猛毒のサリンを製造し、それを実際に使って、無差別テロを敢行した。
1995年に、オウムに対する取り締まりが行われ、教祖や幹部、信者が大量に逮捕された時点では、やがてこの教団は消滅していくであろうと思われた。ところが、現実には、後継教団が存続し、近年では信者を増やし、財政基盤を確立しているとも言われる。
かつてのように、爆発的に伸びているわけではないものの、これは、日本の社会に、そうした閉鎖的な宗教集団への関心をもつ人間が消えていないことを意味する。
そこには、豊かさを実現したものの、さまざまな点で閉塞状況を生んでいる日本社会の現状が関係している。
いったいこれから日本の宗教はどのような方向にむかっていくのか。私たちは、世界の動向を踏まえ、その未来を予測する必要に迫られているのではないだろうか。
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