東京新聞のニュースサイトです。ナビゲーションリンクをとばして、ページの本文へ移動します。

トップ > 千葉 > 1月1日の記事一覧 > 記事

ここから本文

【千葉】

永遠の平和(1) 「原点」3人の足跡たどる

二つの川に挟まれた野田市関宿町(本社ヘリ「あさづる」から)

写真

 戦後の「原点」は千葉にあった。その出発点となる太平洋戦争の終戦時、軍部による徹底抗戦の主張をかわし、混乱を抑えた首相の鈴木貫太郎。さらに時をさかのぼれば、千葉は日本の針路に関わった二人の外交官も生んだ。対英米協調で戦争の回避を図った石井菊次郎。そのおいでありながら、大戦の対決構図を作る日独伊の軍事同盟を推進した白鳥敏夫−。千葉ゆかりの三人の足跡をたどる。 (服部利崇、内田淳二)

(敬称略)

◆鈴木貫太郎 終戦の立役者

 利根川と江戸川に挟まれた野田市関宿(せきやど)町。戦後間もないころ、一八〇センチ近くもある大柄な老人が、よく妻を連れてあぜ道を散歩していた。ステッキをついて葉巻をくわえた姿は、田園風景の中で目を引いた。

 「向こうから『こんにちは』とあいさつしてくれる。優しい方でした」。地元の古老がそう振り返る老人こそ、日本を終戦に導く役割を果たした鈴木貫太郎その人だった。

 関宿は江戸時代、城下町として栄えた。士族の子だった鈴木は幼少期と晩年をここで過ごした。幼いころは「泣き貫」と呼ばれるほどの泣き虫。長じて海軍に入ると「鬼貫」と恐れられる武人となった。転機は一九二九年の侍従長就任。昭和天皇のそばで八年仕え、信頼関係を育んだことが後の首相就任につながる。

 しかし三六年の「二・二六事件」では、天皇親政をもくろむ陸軍将校の反乱により、死線をさまようことにもなった。鈴木ら重臣は、天皇の判断を誤らせる「君側の奸(かん)」とみなされていた。

 鈴木は自伝でその時の状況を記している。未明に邸宅を襲われ、頭や胸に四発の銃弾を受けた。「とどめはやめていただきたい」。妻タカは気丈に訴えた。血の海を見た指揮官は、そのまま引き下がった。

 鈴木は幼いころ関宿の川で溺れかけたこともある。鈴木の墓がある実相寺の住職、大野要修(67)は言う。「平和の礎をつくるために、生かされてきた人なのだと思います」

 戦況が悪化していた四五年四月、鈴木は七十七歳にして首相に就いた。「軍人は政治に関与せず」を信条としたが、天皇たっての願いだった。「もう他に人はいない。曲げて承知してもらいたい」。当時の侍従長、藤田尚徳はその場面を「心の底のふれあった、荘厳なる一幕であった」と書き残している。

 鈴木は本土決戦も辞さないとする陸軍の暴発を避けつつ、和平の機会を探ることになる。選んだのは、儀式的に開かれていた御前会議で、天皇の「聖断」を仰ぐ禁じ手だった。

◆石井菊次郎 親英米の外交官

 「石井菊次郎は、高校の教科書にも載っている日米の『石井・ランシング協定』を結んだ外交官です」

 茂原市の茂原中学校で昨年、郷土の偉人たちを紹介する市の出前講座が開かれた。講師を務めた職員の岸波宗岳(むねたか)(47)は「特に石井は、海外でも名の知られた数少ない茂原出身者」と語る。

 石井は一八六六年、上総国真名(まんな)村(現在の茂原市真名)に、大和久(おおわく)家の三人きょうだいの末っ子として生まれた。石井の兄のひ孫に当たる大和久一夫(67)は「子どものころから一生懸命勉強し、頭がものすごく良かったと聞いています」と話す。

 千葉中学校(現県立千葉高)から東大に進学。二十四歳で養子となり石井姓を名乗った。親英米派の外交官として、第二次大隈内閣で外相も務めた。

 石井・ランシング協定の締結は一九一七年、中国での権益をめぐり米国との緊張が高まっていたときだった。郷土史家の川村優(88)=白子町=は「中国での利益を認めさせると同時に、日米の友好信頼関係を築いた」と評価する。

 二七年に外交官を退いた後も、天皇の諮問機関である枢密院の顧問官としてご意見番を務めた。軍部の行き過ぎを憂え、「武を誇り覇権を弄(ろう)する為の軍備」(石井遺稿集「外交随想」)に反対した。

 だが三一年の満州事変以降、軍部はさらに増長し、日本は独、伊の枢軸国との連携に傾く。四〇年九月の枢密院本会議。三国軍事同盟の調印が翌日に迫る中、石井は同盟に苦言を呈する演説を行い、気骨の一端を見せる。

◆白鳥敏夫 石井のおい、独伊接近

 12月の雨が石畳をぬらし、イチョウの落葉が地面を黄色く覆う。

 東京・九段の靖国神社。駐イタリア大使を務め、戦後にA級戦犯として有罪判決を受けた白鳥敏夫はここにまつられている。

 2006年、昭和天皇の側近で元宮内庁長官の富田朝彦(ともひこ)が残した「富田メモ」が公表され、白鳥に再び注目が集まった。「A級が合祀(ごうし)され、その上、松岡、白取(原文のまま)までもが」。天皇は白鳥を含むA級戦犯の合祀に強い不快感を示したとされる。

 白鳥は1887年、長柄(ながら)郡長谷(ながや)村(現在の茂原市長谷)に生まれた。母方の叔父は石井菊次郎だ。同じ外交官となった白鳥だったが、石井とは正反対の道を歩んだ。

 白鳥は満州事変を機に英米協調外交からの転換を迫り、新しい国際秩序を模索した外務省の革新官僚のリーダーと目された。帝京大文学部教授(日本近現代史)の戸部良一(66)は「言論活動を通じ、三国軍事同盟に向けた世論の地ならしをした」と指摘する。

 枢軸国との同盟へ日本外交の潮目が大きく変わろうとしていた38年の秋。親英米派の外交官だった叔父の石井を、イタリア着任前の白鳥が訪ねた−。

 

この記事を印刷する

PR情報





おすすめサイト

ads by adingo