Designing For Timmy : Daily MTG : Magic: The Gathering の訳。
二週間前、私は Melvin and Vorthos というタイトルのコラムを書いた。それは、プレイヤーを分析するための、メルヴィンとヴォーソスという軸について論じるものだ。その後フォーラムやメールを読んで、メルヴィンとヴォーソスが、ティミーやジョニーやスパイクとどう違うかということについて、ちょっとした混乱があることに気づいた。特によく見られたのは、それぞれのグループがカードのデザインにどう影響するかについての誤解だった。またそれとは別に、二ヶ月前のファッティウィーク1に、私はティミーとジョニーとスパイクのそれぞれに向けてどのように巨大クリーチャーをデザインするかを説明する記事(Fatty, Fatty, Two By Four)を書いた。それを読んだ読者たちからは、各サイコグラフィクス向けのデザインについてもっと聞きたいというフィードバックを得た。
読者の一部は、メルヴィンとヴォーソスのデザイン需要2についてより知りたいと思っているようだ。またそれとは別に(といっても大部分は重複しているだろうが)、ティミーやジョニーやスパイクのデザイン需要についてもっと聞きたがっている読者もいるらしい。過去の経験から言って、こんなふうにベン図の大部分が重なったとき、それはコラムを書くべきときなんだ。私が今からやろうとしていることを言おう。私はティミーとジョニーとスパイクとメルヴィンとヴォーソスのすべてをもう一度要約し、その個々の基本的なデザイン需要を説明しようとしている。それから、それらの軸が重なったときに何が起こるかを探り、その組み合わせについて語ろう。これが楽しそうだと思うなら、聞いていってくれたまえ。そうじゃなければ、二週間後にまた来てくれ(というのも来週はアメリカの祝日で、magicthegathering.com は更新されないからだ。でも、その次の週にはクールなテーマウィークをやるから楽しみにしていてくれ)。
本題に入る前にもう一つ。それぞれの違いを示すために、私は各プロファイルの極端な例について話すことになる。ひとつのグループにぴったり厳密に当てはまる人はごく少数だろう。これはつまり、私がティミーについて語るとき、それはジョニーにもスパイクにもまったく当てはまらないようなティミーについて語っているということだ。また、私は大げさな言葉で話をする。つまり、各サイコグラフィックや各人格の、細かな部分について大げさに注解する。そう、すべてのジョニーがまったく同じことを考えてるわけじゃないってことだ。この一般化はものごとを簡潔にするために行うもので、私がすべてのグループを大きな筆でいっぺんに塗り分けたいからじゃない。
まずこのビッグスリーから始めよう。この三つの用語は、プレイヤーのサイコグラフィクス(心理的側面)を指す。これらはR&D3で、ゲームをよりプレイヤーと共鳴させるべく用いられている。これらのサイコグラフィクスは、人々がマジックをプレイする心理的動機を理解するための助けとして作られた。また逆に、それらのサイコグラフィクスが生む需要にあわせたゲームを作る助けにもなる。以下が、これらのサイコグラフィクスに関する私の前のコラム(Timmy, Johnny, and Spike Revisited)から抜粋した、各サイコグラフィックとそのデザイン需要に関する私の考えの要約だ。
ティミーは何かを体験したがっている。ティミーがマジックをプレイするのは、プレイしているときに得られる感覚を楽しんでいるからだ。それがどんな感覚なのかは、ティミーごとに違う。でもすべてのティミーは共通して、プレイから生じる感情的な体験を楽しむんだ。またあとで述べるが、ジョニーとスパイクは、目的地を持ってプレイしている。ティミーの目的は、その旅自体なんだ。
デザイン需要:ティミーの動機は率直で、一点に向かっている。彼はプレイの過程でゲーム自体を楽しみたがってる。彼はカードをプレイすることで感情的な興奮を得るという体験をしたいんだ。これはデザインにおいてどういう意味を持つだろうか? われわれは、カードそれ自体を楽しいものにしなければならないということだ。他のサイコグラフィクスは、そのカードをどう使うか、あるいはそのカードがコストに見合った価値を持つか、ということを考えるのを楽しむ。ティミーはそうじゃない。ティミーは、そのカードが自分を熱くさせてくれるかどうかを今すぐ知りたいんだ。これは、ティミーカードがどう見ても強力なものであるか(多くのティミーはコストパフォーマンスを気にしないから、マナコストの高さは問題にならない)、あるいは些細な弱点を覆い隠すほど強力である傾向があるということを意味する。
またティミーは、一緒にプレイすべきカードを正しく示してくれるカードを好む。R&Dでは、そういった特定の他のカードとのプレイを推奨するカードを、リニアなものと呼んでいる(より詳しい説明は、私のコラム Come Together を見てくれ)。リニアカードのいい例は、ティミーカードとしても有名なものだが、《ゴブリンの王/Goblin King》だ。
《ゴブリンの王/Goblin King》を一目見れば、それで何をすればいいのかわかるだろう。たくさんのゴブリンと一緒にデッキにつっこむんだ。そいつは何をするだろうか? きみのゴブリンをより強くしてくれる。ティミー向けのデザインの鍵は、《ゴブリンの王/Goblin King》のような明快さなんだ。ティミーは自分を熱くさせてくれるカードを求めている。その興奮はいろんなところから生まれることを覚えておいてほしい。そのカードは、ぞくぞくするような能力やかっこよさを持っているかもしれない。そのカードは、ティミーが楽しいと思うことをやってのけてくれるのかもしれない。そのカードは、ティミーが既に使っているデッキに完全にフィットするのかもしれない。そのカードは、まったく新しい何かをしてくれるのかもしれない。
重要な点は、ティミーが湧き出るアドレナリンのためにプレイしているということだ。彼のためのカードは、一目見た時の興奮と、プレイ中での忘れられない瞬間の両方を生み出さなければならない。ティミー向けのデザインの難しさは、どんなものがティミーを熱くさせるかを、デザイナーが理解しなければならないというところにある。デザイナーは、ティミーがプレイの際にどんなものを望むかを理解しなければならない。他のものが拒絶されるにも関わらず、なぜ特定の欠点が(少なくともティミーカードにおいて)許容されるのかを把握しなければならないんだ。ティミー向けのデザインのためには、何がティミーを幸せにするかを予測する必要があるというわけだ。
ジョニーは何かを表現したがっている。ジョニーにとって、マジックとは彼の世界を表現する機会であり、彼がいかに創造的で、賢く、型破りであるかを示すためのものなんだ。そういうわけで、ジョニーはゲームの自由度にとても注目している。デッキ構築というのは、ジョニーにとってゲームの一面ではない。それはゲームそのものなんだ。
デザイン需要:ジョニーは、ティミーとほぼ正反対のものを求める。ティミーは、各カードが提供するものをさっさと見たがっている。一方ジョニーは、他のプレイヤーが見つけられないようなものを発見することこそがゲームだと考えている。そういうわけで、ジョニーは見た目以上の深みを持たないカードを好まない。ジョニーは、探索させてくれるカードを求めている。彼は、そのカードを使って何をしろという明確なメッセージを持たないカードが好きだ。そう、カードによって特定の方向を暗示することはできるが、ジョニーは自分自身のユニークなアプローチを可能にするだけの余地を求めているんだ。
これは、ジョニーがモジュラーカードを好む傾向にあることを意味する。モジュラーというのは、相互作用の相手を限定しないカードのことだ(繰り返しになるが、より詳細な定義は Come Together を参照してほしい)。ジョニーは、他の多くのカードとうまく合わさって働くカードが好きだ。これが、ジョニーがカードの組み合わせに重きをおく理由なんだ。どんなプレイヤーも、単に強い一枚のカードを見つけることはできる。本当にやりがいがあるのは、クールで興味深い相互作用を持つカードの組み合わせを見つけることなんだ。
ティミーのように、ジョニーも構築の要となるカードを好む。だがティミーとは違い、ジョニーは率直すぎるカードを好まない。ジョニーカードのいい例は、《倍増の季節/Doubling Season》だ。
ジョニーカードは、特定の方向へと背中を押してくれる。たとえばこのカードは、カウンターやトークンを使ったり作ったりするカードと、明らかに相性がいいものではある。しかしその方向付けは、たくさんのゴブリンを強化するようなものとはまったく違う。ジョニー向けのデザインのためには、《倍増の季節/Doubling Season》のように、それを使う独自の方法をジョニーに見つけさせなければならないんだ。ジョニーは自分を表現したがっている。彼のためには、それを可能にする道具をデザインしてやらなければならない。
スパイクは何かを証明したがっている。まず第一に、彼がいかに優れているかを。スパイクはゲームのことを、自分の能力を定義し実践することのできる精神的な挑戦の場だと考えている。スパイクは勝利によってもっとも大きな喜びを得る。なぜなら彼らのモチベーションは、ゲームによって自身の技量を示すことだからだ。勝利こそが自身を評価するための基準であるから、成功に一歩でも満たないものはすべて失敗だ。
デザイン需要:最大の神話のうちのひとつは、スパイク向けのカードをデザインする必要はないということだ。その神話が言うところによると、スパイクは単に最良のカードをプレイするだけだから、わざわざ特別に彼らのためにカードをデザインしなくてもいいということらしい。それに対する私の答えは、スパイクを幸せにさせることは、ティミーやジョニーを幸せにさせるのと同じくらい大事だということだ。カードのパワーレベルを上げるだけで、それをスパイクに使わせることができるだろうか? その答えはイエスだが、しかし、それでは彼を楽しませたことにはならない(スパイクは馬で、強力なカードは水なんだ4)。
じゃあスパイクにはどのようにカードをデザインすればいいんだろう? よし、まずは何が彼を動かすのかを見てみよう。スパイクは、自分に関する何かを証明したがっている。彼は、マジックというゲームをほしいままにする自分の能力を披露したがっているんだ(ご推察のとおり、そのための方法は無数にある)。つまり、スパイクを幸福にするためのもっとも簡単な方法は、優れたプレイヤーほど利益を得るカードをデザインすることだ。相手を打ち負かすこと以上にスパイクを楽しませるものはない。実際、スパイクがもっとも楽しめる環境というのは、運の善し悪しをプレイングスキルによって打ち消すことができるようなものなんだ。
スパイクのためのカードの例を見せよう。《嘘か真か/Fact or Fiction》だ。
たしかに、このカードは強力で魅力的だ。しかし、本当にこのカードがスパイクを惹きつけるのは、そのカードパワーが対戦相手の技量によって変動するからなんだ。対戦相手が弱いほど、このカードは強くなる。これはまた、ゲームにおいて他のプレイヤーが軽視するような特定の要素を扱うカードを、スパイクが好むということでもある(リソースマネジメント5がその大きな例だろう)。これによって、スパイクは多くの対戦相手に気づかれることなく自分の優位を確保することができるわけだ。そしてこのパズルの最後のピースは、R&Dが興味深い能力を持つカードを強化することを学んできたことにある。例を挙げると、これはまさに《嘘か真か/Fact or Fiction》に起こったことだ。開発部はこのカードを特別に強化した。なぜなら、彼らは高度なトーナメントプレイヤー6(その大部分はスパイクだ)こそが、このカードの能力を楽しむだろうと考えたからだ。
メルヴィンとヴォーソスは、人々がどのようにゲームを体験し評価するかを考えるために作られたスペクトラムの両端だ。サイコグラフィクスが人々がどのようにマジックをプレイするかを扱うのに対し、このスペクトラムは、人々がどのようにマジックを評価するかを扱う。
メルヴィンは、それがどのようにゲーム全体の構造にフィットするかという観点からカードを評価する。メルヴィンが探しているのは、一貫性と明確さと、相互の繋がりだ。そういうわけで彼は、ゲームの中での働きを定義する要素に惹かれる。つまり、ルール、カラーパイ7、デザインの制限、コストとパワーのレベル、などだ。メルヴィンは、ゲーム全体とぴったり合致するようなクールな個々のカードを創りだす技能を敬愛している。特に彼は、厳密なルールがデザインを制限する中で、なお多様性を作り出してくれる繊細な技術を味わうことを楽しむ。
デザイン需要:ここで、ティミーやジョニーやスパイクと、メルヴィンやヴォーソスがどう違うのかを説明しよう。ティミーやジョニーやスパイクのような、特定のサイコグラフィックのためにカードを作るとき、デザインチームは彼がプレイしたがるようなカードを作ろうとする。しかしメルヴィンとヴォーソスは、そのカードで何ができるかという点ではカードを判断しない。彼らは、そのデザインの技工と、そのカードがいかにゲーム全体の環境にフィットしているかによって、カードを判断するんだ。ここで比喩を使わせてほしい。私が映画を見に行く話だ。私には映画学校に通っていたという過去があり、映画を作る際の様々な技工をよく理解しているため、映画を批評的な目で見る能力があるとしよう。時々、私は出かけていって以下のような会話をする。
友人:それでMark、映画はどうだった?
私:最高によくできてたよ。監督が素晴らしいし、演技も最高だ。撮影と美術監督も気に入ったな。脚本は尺が足りなかったと思うが、よくあわせたと思うよ。
友人:それで映画は気に入ったのかい?
私:とんでもない。嫌いだね。第三幕の最初に抜けてきたよ。
どうしてこんなことが起こるのだろう? それは、映画の技工を賞賛することと映画自体を楽しむことが、映画鑑賞においてまったく別のことだからなんだ。一方は作品の質を判断しているのに対し、もう一方は体験の質を判断している(もしわかりにくければ、差別や偏見を賞賛する、最高にできのいい映画を想像してほしい)。このどちらが、私にその監督の次の作品も見ようと思わせるだろうか? 明らかに後者だ。私がその映画を見るという体験を楽しめていないなら、その芸術性になんの意味があるだろう? しかしほとんどの場合、私が映画のできを楽しむことと、映画自体を楽しむことの間には、ある程度の繋がりがある。たとえば私がもっとも好きな映画は『未来世紀ブラジル』だが、それはその監督と撮影と美術監督がすばらしいからだ。
メルヴィンがカードを見るとき、彼はそのデザインがいかに効率的であるかを考える。そのカードは可能なかぎり無駄がなく、エレガントであるか? それはもっともシンプルかつ直接的な方法によって効果を発揮するか? それはマジックという構造の中でうまく機能するか? ルールはちゃんと動くか? カラーパイに適切にフィットするか? そのカードの各要素は、カード自体ができることを広げるようなやり方で繋ぎ合わされているか?
メルヴィンはデザインの技工に眼を向ける。私の先週のコラムでは、《秘教の思索/Mystic Speculation》がいかにメルヴィン的なデザインであるかを説明した。
このカードは、ささやかな手段で大きなことをやってのける。そのカードのルールテキストは、なんと2単語しかないんだ。それは興味深い選択肢と、プレイに値する効果を提供してくれて、カードセットのテーマにもきれいにフィットしている。これ以上にメルヴィンを惹きつけるカードはないね。
ヴォーソスはカードを評価する際、その個々の雰囲気や、どのように全体と混ざり合うかということを基準にする。ヴォーソスは、全体論的にうまく繋がったカードを探している。彼は、全体がそれ自体の部分の和を越えるようなカードを求めているんだ。そういうわけで、彼はカードのフレーバーに惹かれる。イラスト、名前、フレーバーテキスト8、適切なカードメカニクス。ヴォーソスは、自分をファンタジーの世界に引き込んでくれるクールなカードの芸術性を賞賛する。特に彼は、カードの生み出しうる、ゲームのプレイをより豊かな体験にしてくれる感情の動きを楽しむんだ。
デザイン需要:まず、映画鑑賞の比喩をもう一度使わせてほしい。次のような会話を想像してみてくれ。
友人:それでMark、映画はどうだった?
私:脱水機に通されたみたいだ。最初は幸福な気持ちになって、次には怒りがわいてきた。そして最後には、泣きはらしていたんだ。
友人:それで映画は気に入ったのかい?
私:とんでもない。嫌いだね。第三幕の最初に抜けてきたよ。
ここで起こったのは、映画が適切な感情を呼び起こしたにも関わらず、私がそういった感情の操作を侮辱的に感じたということだ。その映画は私が涙を流すに値するようなものではなかったから、私は憤慨したのだ。裏返せば、素直なやり方で感情のローラーコースターに載せてくれるような映画は、記憶に残る体験を生み出せるということだ。私が『ハロルドとモード』(一応書いておくと、私の一番好きな映画だ)に関して好きなことのひとつは、強制的だと感じさせないやり方で、私を笑ったり泣いたりさせてくれることだ。
これがヴォーソスの件にどのように当てはまるだろうか? ヴォーソスは、メルヴィンのように、ゲームにおけるある特定の技工に目を向けているんだ。だがメルヴィンとは違い、ヴォーソスは、メカニクスの密接な繋がりに目を向けているわけではない。ヴォーソスはカードをその全体として見ているんだ。ヴォーソスを幸福にするためには、カードを構成するすべてのピースが、そのカード自体の総体的な雰囲気を生み出すために、協調していなければならない。
例として、《凍結/Frozen Solid》を見てみよう。
メルヴィンならば、このカードを見て疑問をもつことから始める。どうして青のカードがクリーチャーを破壊するんだ? 一方ヴォーソスは、もっと遠大な視点からカードに歩み寄っていく。青は冷気の色だ。それなら、青はものを凍らせる力を持っているはずだ。《凍結/Frozen Solid》は、相手を凍らせたらどうなるかというメカニクスを把握するのに十分なものだ。相手は凍りついて動けない。氷に衝撃を与えれば、その脆い性質のためにそれは砕け散り、凍っていた存在も死ぬだろう。
ヴォーソスは、ゲームの文脈ではなく、フレーバーの文脈によってカードを理解しようとする。メルヴィンは《秘教の思索/Mystic Speculation》に夢中になるが、ヴォーソスにとってはそれは何の意味もない。バイバック9も占術10も、現実的な意味をまったく持っていないからだ。そのように実質的なことを何も表さないカードは、ヴォーソスの目には失敗作として映るんだ。
ヴォーソス向けのデザインにおける難儀な部分は、R&Dが数年にわたって、効果を発揮しないメカニクスを取り除こうとしてきたことだ。たしかに、騎士がドラゴンに対するプロテクション11を持つことはフレーバー的におもしろい。だが、その能力がプレイ中に効果を発揮する機会がまったくなければ、基本的にR&Dはその能力を取り外すことにしている。これは、騎士がドラゴンに対するプロテクションを持つことに意味があると考えるヴォーソスにとっては、不幸なことだろう。
これですべての用語が定義された。それじゃあこれらが混ざりあったときに何が起こるのかを見ていこう。
ティミーは何かを体験することを好む。メルヴィンはゲームの構造を味わう。つまりメルヴィン・ティミーは、彼がカードを使って実現できる、クールなメカニクスを探しているということだ。メルヴィン・ティミーは、楽しいことをやってのけてくれて、それゆえにプレイするのが楽しいカードを求めている。メルヴィン・ティミーは、スリヴァー12や毒13に惹きつけられるプレイヤーだ。R&Dが部族デッキ14を強化するずっと前から、彼はそれを使っていた。メルヴィン・ティミーは、デッキが率直かつ楽しいことをやっているときに、もっとも幸福になれるんだ。
デザイン需要:メルヴィン・ティミーは、カード自身がやる行為によって、自分を熱くさせてくれることを望んでいる。カードを目にした最初の瞬間から、プレイしたいと思わせなければならない。彼の物語は、ゲーム中に起こるできごとに関するものになるだろう。特に、彼はプレイにおける大きな振れ幅が好きだ。たとえば、うまく働かないことがしばしばあるとしても、大きなことをやってのけるポテンシャルを持つカードを好む(うまく動かないというのは、そのカードを使用できずに手札にくすぶり続けることも含める)。
ティミーは興奮を好む。ヴォーソスは感情の動きを好む。つまりヴォーソス・ティミーは、印象的なフレーバーが滲み出るカードを好むんだ。彼は、その雰囲気のすばらしさによってプレイしたくなるようなカードを求めている。彼は、大きなフレーバーの世界の中で、その壮大さを表現してくれるカードをプレイすることを好む。たとえば、印象的なクリーチャーや、荘厳なアーティファクトや、圧倒的な呪文などだ。ヴォーソス・ティミーが自分のゲームを語るとき、彼はストーリーを物語る。なぜなら、彼がゲームをプレイするとき、彼はそこに生きているからだ。
デザイン需要:ヴォーソス・ティミーは、そのメカニクス自体からフレーバーが滲み出るようなカードを必要としている。最良の方法は、トップダウンのデザインを行うこと、つまりカードのフレーバーにあわせてメカニックをデザインすることだ。さらに彼は、フレーバーを強めてくれるようなメカニクスが付け加えられたデザインを愛する。ただし、R&Dは無意味な追加能力を排除してしまうから、二重の意味を持つメカニクスがベストだ。
メルヴィン・ジョニーは、興味深いメカニクスの組み合わせを発見するために生きている。彼にとってゲームの楽しさは、他の誰もやったことがないようなことを実行するデッキを作ることにあるんだ。それは大抵の場合、他の誰も考えつかないようなカードの結びつけ方を発見することによってなされる。特にメルヴィン・ジョニーは、そのカードを使ったデッキをうまく動かすために、完璧な組み合わせを求めてマジック全体を探し回る気を起こさせるような、“私を中心にしたデッキを作って”と主張するカードを愛する。
デザイン需要:メルヴィン・ジョニーはメカニックの繋がりを探している。だから、他のカードと組み合わせるための柔軟性を提供するのに十分な自由さを持つカードをデザインしなければならない。たぶん彼にとってもっとも芳醇なデザイン領域15は、彼のデッキに燃料を流し込む手段を与える“エンジン”カード(あるリソースを別のリソースに変換するカードのこと)だろう(ちなみに、メルヴィン・スパイクもエンジンカードを好む)。
ヴォーソス・ジョニーもまた、それを誇示するためにデッキを組む。メルヴィン・ジョニーとの大きな違いは、ヴォーソス・ジョニーはメカニクスの繋がりよりも、テーマを重視するという点だ。メルヴィン・ジョニーが4枚のカードで実現できる次世代の無限コンボを探している間に、ヴォーソス・ジョニーはお気に入りの歌や映画をテーマにしてデッキを作る。彼はそのデッキに何ができるかという点にはさほど注目しない。彼はそれ以上に、自分に課したテーマの制限(大抵の場合それはフレーバーに満ちている)の中でできたことを披露することを重視している。
デザイン需要:メルヴィン・ジョニーと同様、ヴォーソス・ジョニーはカード同士を繋げる方法を探している。メルヴィン・ジョニーとの大きな違いは、ヴォーソス・ジョニーがフレーバーを重視しているという点だ。彼はテーマの繋がりを求めている。この大部分はクリエイティブチームの手に委ねられているが、デザインもまた、その助けとなるメカニクスの繋がりを生み出す力を持っている。たとえば、インベイジョンブロックでは、ドラゴンのレジェンドたちとテーマ的につながるアイデアを持つカードがいくつも作られた16。また、上で述べたように、ヴォーソス・ジョニー向けのカードを作りたいと思っているデザイナーは、採用に足るメカニクス上の根拠を持つ、フレーバーに満ちた能力を加える方法を探す努力を常にしなくてはならない。
メルヴィン・スパイクは、ハードコアなトーナメントプレイヤーだ。彼は、ゲームのメカニクス的な原理のすべてについて、確固とした理解を持っている。彼の望むものは勝利だけだ。メルヴィン・スパイクは、ゲームにおけるアドバンテージ17を得ることができるあらゆる手段を常に探し求めている。
デザイン需要:スパイクの項で説明したとおり、メルヴィン・スパイクを幸福にするには、プレイヤースキルによってその力を引き出すことができるようなカードを作らなければならない。その他に、さらなるアドバンテージのために、プレイヤーがより深いゲーム構造の知識を利用できるようなカードを作ってもいい。
ヴォーソス・スパイクは、おそらくもっとも妙な複合の仕方だろう。彼はプレイスキルの領域においてではなく、フレーバーの領域において自己を研鑽する。カードのストーリーや創造的要素の理解度に大きな誇りを持っている人々がこれに当てはまる。彼は、マジックの小説では正確にはこうだったとか、このフレーバーテキストはここがちょっとおかしいとか、そういったことを議論する。ヴォーソス・スパイクにとって、フレーバーはまさに、自己の優位を証明するためのもうひとつの戦場なのだ。
デザイン需要:ヴォーソス・スパイクのためにデザイナーができる最良のことは、できる限りフレーバーに満ちたメカニクスの繋がりを作り、クリエイティブチームがそれを利用できるようにすることだ。
今日のコラムが、メルヴィンとヴォーソスが厳密にどんな存在であるかということをより明らかにし、ティミーやジョニーやスパイク向けのデザインをするときにデザイナーが考えなければならないものごとに関する理解を深める手助けになってくれることを願っている。私が今日話したことに対してきみたちが何を考えたのかを聞くのを楽しみにしているよ。
もう一度言っておくけれど、来週の月曜はアメリカの祝日のために更新がない。来週はテーマウィークで、私はいつもテーマに則って書くから(来週のテーマはおもしろいものになるはずだ)、再来週にはそのテーマについての記事を載せる予定だ。私がテーマウィークの最後の記事を書くというのは、そうよくあることじゃないね。
そのときまで、きみがすばらしい技工と体験を楽しんでくれますように。
ファッティというのは大型クリーチャーのことです。ファッティウィークは、そのファッティをテーマにしたコラムが連載された週です。 ↩
ここでは「design needs」という言葉を「デザイン需要」と訳しています。各プレイヤー像に対してどんなデザインが必要か、ということを指します。 ↩
M:TGの研究開発部の略称。 ↩
「馬を水辺まで連れて行くことはできるが、水を飲ませることはできない」という諺を踏まえています。「スパイクにそのカードを使わせることはできるが、楽しませることはできない」。 ↩
ライフやマナや手札といった資源を適切に管理することを指します。 ↩
M:TGでは賞金制のトーナメントが開かれており、それに参加する真剣なプレイヤーを指します。 ↩
M:TGは、他のゲームにおける属性のように、5色の色という概念を持っています。カラーパイとは、カードの役割やメカニクスが各色に適切に区分されるための指標です。 ↩
M:TGのカードには、ルールの下部に、カードの背景物語や世界設定を表すテキストが記されています。 ↩
カードを使用したあと、そのカードがまた手札に戻ってくるというメカニクス。 ↩
山札の上の数枚を操作するメカニクス。 ↩
耐性のようなもので、この場合は、ドラゴンに負けない能力を指します。 ↩
互いが互いを強化するクリーチャー群。集まるほど強くなります。 ↩
M:TGでは20点のライフを削る他に10点の毒を与えることでも勝利でき、それを目指すデッキはたいてい毒による攻撃に特化したデッキになります。 ↩
特定の種族のクリーチャーを集めたデッキ。 ↩
「design area」の訳で、R&Dの用語です。 ↩
インベイジョンでは、ストーリー上で重要な伝説のドラゴンたちがカード化され、それに関連するカードも多く作られました。 ↩
M:TGにおける用語で、ライフやマナや手札など、ゲームにおいて優位に立つことを指します。 ↩