コミュニティづくりのゾンビたち
2014年を振り返る上で象徴的だった記事に、すばる10月号に寄稿された藤田直哉氏の『前衛のゾンビたち – 地域アートの諸問題』があげられるだろう。特に現代アートに焦点を絞った寄稿であったが、問題の構造は決してアートの分野かだけに限らず地域活性という枠組み全体に当てはまる話と言える。
今の地域活性あるいはまちづくりの枠組みの中でのプロジェクトに出てくるキーワードは地域こそ違えど共通している。「クリエイティブ」「アート」「伝統」で「みんなで一緒に」「コミュニティデザインする」、といったところだろうか。(出てくるアウトプットまで似たりよったりなのは、他地域の前例模倣が暗黙の前提となっている日本の地域活性界の特徴だが、この問題は 「地域再生の罠 なぜ市民と地方は豊かになれないのか? 」(ちくま新書)に詳しく載っているので今回は取り上げない)
昨今のまちづくりや地域活性のトレンドに「コミュニティづくり」が挙げられるが、その流れを振り返ってみよう。90年代までの都市開発や地域開発のベースはトップダウンの「都市計画」であった。しかし、90年代の特に阪神淡路大震災を期に住民ベースのボトムアップの「まちづくり」の手法が注目されるようになり徐々に日本でも浸透してきた。Stuidio-L 山崎亮氏著の 「コミュニティデザイン―人がつながるしくみをつくる」 (学芸出版社) のブームもあり, 今では住民参加のまちづくりはどの地域でもお題目としてあげられるようになったといえよう。
ちょうど同じ時期、デザイン業界でも(最近ではビジネス業界でも)一部の巨匠のトップダウンの作品作りから、市民を巻き込んだボトムアップの制作プロセスが注目されるようになり、コミュニティづくりは様々な業界で耳にするようになった。
さて、ボトムアップのコミュニティづくりが浸透した現在、あらためて市民参加のプロジェクトづくりを冒頭の寄稿と照らし合わせながら考えてみると課題が浮かび上がってくる。当初の 「コミュニティデザイン」のコンセプトを自分たちの都合のいいように解釈し、結果何のためにコミュニティづくりを行っているのかわからなくなっているケースが自身の周りだけでも非常に多い。
何のために人と人がつながってコミュニティをつくるのか。例えば福祉の現場では、断絶された地域の人間関係を修復し、中の人たちが生き生きと暮らせるためにコミュニティづくりを行うケースがあるが、このように目的と手段(=コミュニティづくり)を一致させている事例はむしろ少ない。たとえば産業振興や経済活性、あるいは観光や文化振興といった大きな目的の中でコミュニティづくりとボトムアップのプロセスが最適な手段かといえば経験上必ずしもそうではない。
コミュニティづくりが進むと その関係者の絆は深まる一方、外からの介入の余地は段々と少なくなる。大切なのは中の関係者の満足度合い あるいは楽しかったかどうかであり、外から評価すべき話ではなくなってしまう。もちろん住民の満足度を高める目的のプロジェクトであればそれでよいだろうが、例えば産業活性や観光振興、文化振興といった分野では 最終的に質の評価を下すのはコミュニティ外の人たちになる。にもかかわらず、外からの評価を(あるいは建設的な批判も)シャットダウンし、「わかるやつにさえわかればいい」「僕たちこんなにがんばっているのに、なぜ評価してくれないのですか」こんな一方的な価値観の押し付けが実は各地のプロジェクトで見え隠れしているのが今の実態だ。
批評を排除し続けるアートと伝統の業界
産業振興や経済活性、あるいは観光振興といった分野では、、まだ外部からの評価を否応でも受けることになる。商品やサービスとして地域外に出していく以上マーケットのシビアな競争と評価に晒されることになるからだ。商品やサービスの質を気に留めず、内輪だけで盛り上がっていても売上の足止めという形でマーケットの評価はくだされる。
しかし、深刻なのはアートやクリエイティブ等の文化振興、あるいは伝統産業等の界隈だ。制作したものの評価が単純にマーケットで反映されないため、場合によっては作りての知名度あるいは、センセーショナルかどうかといった制作したものの質と別のところが持ち上げられることも少なくない。マーケットでの評価が難しいのであれば、代わりとなる批評の存在が必要であるが、外からの批評も受けながら質の向上を目指しているプロジェクトは少ない。アートや伝統といった言葉は耳障りも良いため、地域のコミュニティづくりのネタとされることも多く、そうしたプロジェクトには外からの批評はむしろ排除したい存在だろう。
アートにおいては冒頭の藤田氏の寄稿、伝統産業についてはD. アトキンソン氏の「イギリス人アナリスト 日本の国宝を守る」 (講談社+α新書) を見てみると、外からの指摘を受けない内輪の世界なのかが垣間見られるだろう。
例えば漆製品で、どう見ても10万円ぐらいの価値のものを、いやこれは伝統技術だからと100万円とか120万円で平気で売っていることがあります。最近まで呉服もそうでした。本来なら羽織袴はそれなりのスーツとほぼ同等の値段でできるはずです。反物の原価は数万円でしょう。でも、これは伝統技術です、いやこの黒はなかなか出ませんよとか言って、一式60万円とか100万円で売っているものがたくさんあります。当然、めったに売れないから単価を高くしないと売り手の生活が成り立たない。でも高いからさらに誰も買わなくなる。そういう悪循環が非常に多いです。(中略)
逆の例がすし職人だと思います。すし屋はどこにでもあって、すし職人を特別視することはあまりありません。まあ、中には握る米粒が毎回同じ数だとか、屁理屈を言う人はいますけど、30年ぐらい握ってれば当たり前だと思いますね。すしネタにはみな相場があって、需給に基づいて値段が決まっているものなので業界として成り立っていますし、人材が入ってきます。すし職人も厳しい世界だと思うけれど、若い人が入ってこないとか人が足りないとか聞いたことは1度もありません。
「みんなの参加」より「少数のアウトプット」を
自身、住民参加のプロジェクトづくりについて、学生時代から研究・実践してきた身であるが、この住民参加のボトムアップのプロセスも次のステップに進むべきと考えている。
住民参加の研究分野では「参加のはしご」というキーワードがあるが、参加の度合いは1人1人異なるものである。なんとなく輪に入りたい程度の人もいれば、がっつりと参加したいという人もいる。特にアウトプットの質を求めるプロジェクトであれば「なんとなく」の人をいくら呼びかけてもアウトプットはしれている。むしろ、少数でも高いモチベーション(と高い能力)を持つ人が必要になる。
今年話題になった本「ゼロ・トゥ・ワン」の著者 P. ティールもシリコンバレーのアウトプットの構造について以下のように述べている。
僕たちの運用するファウンダーズ・ファンドの結果を見れば、この偏りがよくわかる。2005年に組成したファンド中、最良の投資となったフェイスブックは、ほかのすべての案件の合計よりも多くのリターンをもたらした。その次に成功したパランティアへの投資は、フェイスブック以外のすべての案件の合計を超えるリターンを生んだ。この極めて偏ったパターンは、決して珍しいことじゃない。僕たちのすべてのファンドに同じパターンが見られる。ベンチャーキャピタルにとっての何よりも大きな隠れた真実は、ファンド中最も成功した投資案件のリターンが、その他すべての案件の合計リターンに匹敵するか、それを超えることだ。
シリコンバレーも多くのスタートアップの少しずつの成果を積み重なったロングテール式ではなく、少数の圧倒的な企業の成果が業界全体を支えている構造である。この構造は決して、シリコンバレーやITの業界に限った話ではないはずだ。
アメリカのポートランドも市民参加都市として有名だが、行政の政策は決して「みんな一緒で」ではない。数ある市民活動団体の中でも、その活動成果をきちんとモニタリングしており、成果の高い団体に行政の業務の一部を担わせる権限を与える適切な権限委譲のマネジメントを行っている。
参加すること以上に成果を求める分野では、たんなるコミュニティづくり以上の質の高いアウトプットを生む戦略とマネジメントが必要になる。かつてコミュニティづくりが話題になった頃に「都市計画の時代は終わった」という言葉もあったが、ゼロ年代のコミュニティづくりも今一度見直さないといけない時期だろう。