この1枚から始まった
[厚27才 / 嘉代子20才]
復員してほどなく結婚した私は焼け野原の新宿で写真館を見つけた。結婚式もハネムーンも夢だったので、せめてもの記念にと考えて平服で二人の写真を撮った。
28才にしてついに一家の主となる。末永く平和にして円満なる神田家を築くべく心に誓う。
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さあ 70年のタイムトラベルの始まりです
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1945
1945年、焼け野原の東京でひと組の夫婦が生まれました。
神田厚(かんだあつし)さんと嘉代子(かよこ)さんです。
「結婚式の代わりに2人で写真を撮ろう」
以来、毎年欠かさず家族写真を撮り続けました。
そこにはニッポンの家族が歩んだ戦後70年が記録されています。
あなたの両親や祖父母が生きた時代をたどってみてください。厚さんが日々つづっていた日記の言葉で振り返ります
復員してほどなく結婚した私は焼け野原の新宿で写真館を見つけた。結婚式もハネムーンも夢だったので、せめてもの記念にと考えて平服で二人の写真を撮った。
28才にしてついに一家の主となる。末永く平和にして円満なる神田家を築くべく心に誓う。
耳を澄ました途端に赤ん坊の産声が聞こえた。小さな赤ん坊が生まれたままの状態におかれてあった。女児であった。 ついに父になった。妻・嘉代子も安どの色を浮かべていた。
家族の証しとして1年に1度どんなことがあっても写真を撮ろうと決めた。
背に腹はかえられぬ。若干危険を伴う闇商売を始めた。たばこ・チョコレート・キャラメル・化粧品を目いっぱい買い込むと、出る時はMPの背中ごしに退散する。
次女・敬子出生したり。元気すこぶる旺盛にて母子ともに肥立ちよし。
インフレが45年から48年まで急激に上昇していることがよくわかる。
夕食を済ませるとひとしきり長女・澄子の遊び相手。買い物ごっこだと言って古いハンドバッグをぶら下げ押入れへ出たり入ったりして、大根だ肉だ揚げだと言ってはお金を下さいとかお釣りだとかいう。
都営住宅は外れ通し。そこで夜考えるのが小住宅の設計とそこに描かれる生活の夢。
朝から娘たちを連れて動物園へ行き、その間に嘉代子はダンスを楽しみにでかけた。四六時中子どもと過ごしている嘉代子にとっては半日であっても家庭から解放され気分転換を満喫することだろう。
今年はよくよく次女・敬子に悩まされた。日曜に出かけたが泣いて撮らせず、今日出直したがやはり泣き出し、そのまま撮ってきた。これも笑い草になるだろう。
三度の飯を切りつめても、と悲壮な決心をし、有り金はたいて頭金に充当。建坪12坪の我が家が完成した。
プロレスがあると、奥方は上の子の手を引き、もう一人を背負って街頭テレビを見に出かける。
嘉代子は非常に幸福だとのことで本当なら嬉しいが、日常の家計費を節約せよとけちけち言い、子どもの玩具も服も買ってやれず、娯楽もラジオだけという生活をさせねばならぬのは一寸つらい。
長女・澄子は今春から幼稚園。 一寸クスグッタイ。敬子はなかなかのお茶目。お姉ちゃんのまねばかり。
家族写真9枚目。子どもがこの企画を有意義にしてくれる。毎年大きくなり、顔もかわいくなったり憎くなったりする。
薄毛の私に家内は「親子に間違えられるから帽子をかぶって」ですって!開いた口がふさがらない。
記念写真もいよいよ10枚目。あと10年たったら自分はたぶんツルツルだ。妻・嘉代子はしわもできるが子供じみたところは抜けないだろう。長女・澄子は18才で少しは色気も出て、16才の次女・敬子はちゃっかり娘になって親父顔負けかな。
撮影のために妻・嘉代子は毎年洋服を手作りする。真新しい服を着て、撮影の後家族で外食をするこの日は娘たちにとっても一年でいちばん楽しみな日だ。
ついに14インチテレビを入手。夜自宅に持ち帰る。家族一同大喜び。頭が痛いとコタツに寝ていた長女・澄子まで起きて遅くまで見た。一同終日テレビテレビで大騒ぎする。
家内は子どもたちにおそろいの服を作って撮影をするのが楽しみでしかたないらしい。
電気使用量が文化生活のバロメーターなら、我が家もだいぶその程度を高めた。起床と同時に電気コタツを入れる。電気釜が切れて温かいご飯が待っている。電気洗濯機が動き出し、28秒動いては2秒止まって反転する。
5年もたつと親父は娘にやっつけられることだろう。それが楽しみでもある。
長女・澄子のこの1年の発育ぶりには驚いた。勉強はしないが図体だけは大きく毎日テレビにかじりつきプロ野球と映画の芸能ニュースが飯より好きといった子が出来上がってしまった。これも時流と思っている。
娘たちに「お父様は、参観日や運動会には来て欲しくないの」と言われた。頭が薄い私が恥ずかしいらしい。深く傷つく。
待望のブルーバードを入手した。実に快調。結婚15年を記念して箱根へドライブした。
待望の電話がひけた。何しろ便利になった。
次女・敬子が澄子に続き中学校に入学。毎日二人で元気よく通学している。
ケネディ大統領がライフル銃で撃たれた。初のテレビ中継でその実況を見た。刃に倒れた力道山は39歳。プロレス好きの小生には残念に思われる。
東京の街はオリンピック一色、海外からの選手や外国の観光客が闊歩する。長女・澄子は私が入手したレスリングの試合を、次女・敬子は学校を休んでサッカーの試合を観戦した。
澄子は18歳、敬子が16歳。無事に成長したことを祝福する気持ちでいっぱいだ。
長女・澄子は高校を無事卒業し短大に入学。 次女・敬子は高二に進む。
車中のラヂオで全日空のボウイング727型機が消息を絶ち、乗員133人絶望かとのニュースを耳にした。相次ぐ大惨事に世界中の耳目が日本に集まっている感じがする。
長女・澄子さん、成人式。
「3億円あったら何に使う?」「使い切れないよね」などと娘たちの学校でも持ちきりだったそうだ。
娘二人に「お前たちはお見合い結婚をするのか」と聞いた。二人とも「見合い結婚はしません」と答えたので「それなら干渉しないから自分で責任を持ってよい人を探しなさい」とだけ言った。
次女・敬子さん、成人式。
部下の不祥事の責任を取って解雇され、収入は3分の1になった。家内にだけは話したが、娘たちには従前通りふるまっていた。結婚前にそれまでの生活を落としてくれとは言えなかった。
25歳になる長女・澄子は青年との付き合いが始まったようだ。スキーで骨折した彼の見舞いに行ったり、退院後デートしたり、家へ連れてきたり・・・。
正式にあいさつがあり、当方もこれを快諾、長女・澄子の結婚が正式に決まった。
クラクションがプープー鳴ると澄子は喜々として出迎え、10時頃まで遊んでくる。結構!結構!
迷った末、思い切って長女・澄子と夫・並木隆一さんを家族写真に誘った。並木さんが「写真をいっしょに撮ることで家族になれます」と言ってくれたのがうれしかった。家族は5人になった。
次女・敬子丹精のドレスは清そで気品があった。澄子の花嫁姿はなかなかの美人で嬉しかった。
背中のレースに並んだボタンが目に入って、そればかり見ていたような気がする。
「結婚することにしました。二人でアパートを決めてきました。結婚式はしません。」次女・敬子が家を出ていく。式も披露宴もしないという。さすがにいろいろ考えて眠れなかった。
敬子さんも夫の笠間均さんも、慣習的なことへの反発から家族写真に消極的だった。笠間さんはその思いをセーターを着ることで表した。家族同士の交流はほとんどなかった。
長女・澄子に長男が生まれおじいちゃんになってしまった。初孫がかわいくて、ついつい見せびらかしてしまう。家族は7人になった。
次女・敬子に長女が誕生したが、肺炎にかかり入院が1カ月以上続く。つきっきりで看病する敬子のために家内が朝に夕にと病院に食事や洗濯物を届ける。
孫の入院は家族の距離が近づくきっかけになった。敬子さんと夫・笠間さんは神田家でいっしょに食事をするようになり、家族写真にも快く参加するようになった。
野球と言えば、もちろん巨人。王選手が世界記録を達成したという。あっぱれ!
次女・敬子に2人目の子どもが生まれた。色白のかわいい女の子だった。
2才と1才の孫娘が遊びに来たのに肩が上がらなくなり抱くことができない。年をとったもんだ。
新聞を開くと非行少年、校内暴力、家庭内暴力の記事が氾濫し、理解しがたい風体をした青年が、青山・渋谷あたりをウロツキ、竹の子族とやらが乱舞している。
ルービックキューブなるものがはやっているらしい。6才の孫もすっかり夢中。
外食産業なるものが雨後の筍のごとく出現した。「イエスタデイ」「ロイヤルホスト」「アニーズ」「すかいらーく」とややこしい名の店が立ち並び、朝から深夜まではやっているのには驚いてしまう。
長女・澄子さんの話:
私も妹も思春期の頃には家族写真がいやになったこともありました。今ながめてみると我が家の歴史がそこにあります。 自分たち結婚して以来家族写真を撮るようにしています。いつか子どもに残してあげたいです。
今年6歳になった孫娘はオチャラケで、時々面白いことを言う。去年まで私のことを“ザ・ハゲツル”と呼んでいた。“ザ・チャンス”という番組をもじったものらしい。あまりにドンピシャリと決めつけられて恐れ入ってしまった。
20歳だった妻・嘉代子も還暦を迎えた。 人に夫婦円満の秘訣を聞かれ、私が「お互い譲り合うこと」と答えたのに対し、家内が「忍耐じゃないですか」と喝破したのには参った。
家内はかつて子どもたちにしたように、孫たちにおそろいの服を仕立ててやるようになった。また家族写真の楽しみができたらしい。
我が家の世話女房は一寸度を超している。北向きの玄関を出る時に「行ってらっしゃい」の声に送られ、東側の道路に出ると東の窓から「行ってらっしゃい!」、少し歩いて振り返ると、南側の窓から顔を出している、というあんばい。
天皇陛下が大量吐血された。各方面の行事は自粛ムードが高まり、なんとなく重苦しい空気が漂っている。
昭和は大戦争の後復興を達成して平和な時代にいたる、激動の時代だった。戦死した同僚を思うと私たちは幸福だと思う。 自分もいつお迎えが来てもおかしくない。天国か地獄かだけ教えてほしい。よろしくお願いする次第だ。
礼宮さまと川嶋紀子さんが結婚。こんなにすばらしい女性がいたのかと驚きだった。理想的な女性を選ばれた腕というか眼力にも恐れ入った。 さて私自身は、夫婦どちらかがこの世を去るまで、添い遂げる自信はある。
湾岸戦争で目にしたのは、大空襲が様変わりしたピンポイント爆撃だった。将来、戦争が想像もつかない程の様変わりを呈して、人類滅亡につながるようなことの無いように祈るばかりである。
アッシーだ、メッシーだなどという言葉を聞くとなんとも情けなくなる。アレッ、いつの間にか「いまどきの若い者は」調になってしまった。“大正一桁”はやはり昔の説教じいさんと変わりない。そろそろ退散した方がよさそうだ。
飢餓と戦いながら祖国の復興に励み、勇敢な企業戦士として働いた“大正っ子”としては、社会になるべく迷惑をかけずに静かにこの世を去っていくことを祈りたい。それが“大正っ子”の最後の務めかもしれない。
1. 自分に余計なノルマを課さないこと。2. 万歩計・規則正しい体操・食物の制限などはすべて気にしないこと。3. 誰とでも親しくお付き合いすること。4. 世界は自分を中心に回っているなどと思わないこと。
金婚式と喜寿と古希を迎えるトリプルクラウンの年。家族写真も51枚目になる。いちばん嬉しいのは50年間夫婦そろって健康に恵まれ元気に過ごせたことと、娘二人の家族も平穏に暮らしていることだ。
私が死んだら妻・嘉代子が一人で暮らすようになることを考え、マンション購入に踏み切った。
シルバー人材センターから安全就業推進員の仕事をしてもらいたいと頼まれた。「75歳の老人になぜ?」と聞いたら「神田さんなら怪我(毛が)ないでしょう」なんて言われて変に納得してしまった。
我が家に人の集まるようになったのは一方的に家内の功績によるものだということに気付いた。家内のお客さんをお招きする気持ちは真に純粋で、どうしたらお客さんが喜んでくださるだろうか、という一点に絞られていた。
外出するときにくしを持たなくなったのは30年も前のこと。岬で強風にあおられて一同がキャーキャー騒いで髪の毛を押さえたときも、このおじい様一人だけは泰然自若としていた実績もある。
長女・澄子一家が階下に住んでいることは何かと心強い。毎朝見回りに来るし、ちょくちょく食事に現れる。せっかちな両親に似合わずどっしりと落ち着いていて私も頼もしく思っている。
我が家では互いに記念日を覚えていて何かを贈りあうのがしきたりになっている。それは毎年撮影する家族写真が影響しているように思う。
しわだらけになった自分の顔を、家内は「最近のお父さんの顔はいい」と言ってくれる。
「最期は床について一カ月くらいで死ぬのがいいな」と言ったところ、家内が「一週間くらいでいいんじゃない」とのたまった。そこに顔を出した長女は「朝起きて見に行ったら、息絶えていたというのが理想的なんじゃない?」と喝破した。恐れ入りました!
人に対して家内が気を遣うのは彼女の真心から出ていたものだった。家内の方が私を飛び越えていることに今頃になって気付いた次第。この際素直に頭を下げて、今後は奥方様のことを賢妻とお呼びすることにしたいと思う。
長女・澄子さんは自分の家族写真を撮り続けている。
孫の祐輔さんも、結婚して新しい家族の写真を撮るようになった。
楽しく生きていくためには、男女が仲良く暮らしていくことが大切だと信じている。男性はいくつになっても女性に関心を持っていると思う。その気持ちが無くなった時は、死期が近付いたと思ってもいいのではないか。
孫の恭子さんは月に一度は赤ちゃんを連れて厚さんの家を訪ねる。厚さんはニコニコしながらひ孫の様子を見つめていた。
元気に米寿を迎えることができた。自分が死んだ時は、通夜・葬儀は家族に知らせるだけの密葬をしてもらいたい。親しい人々を招いて簡単な昼食会かお茶会でも開いてくれたらうれしいと思う。
毎年クリスマスには家族同士で行き来して、プレゼントを渡すのが習慣になっている。
この年、厚さんは体調を崩しがちで、年末には時々胸が苦しいと訴えるようになった。それでも月に一度の床屋は欠かさず、みんなで食事に行く時はおしゃれをして、勘定は必ず厚さんが払った。
自宅療養していた厚さん。2月15日、眠るように亡くなった。夕食の時「最後の晩さんだ」と言ってみんなを笑わせた翌朝のことだった。 厚さんがいなくてもみんなで家族写真を撮ろうという孫・祐輔さんの提案で、撮影は例年通りにぎやかに行われた。
亡くなる直前、見舞いの家族に厚さんはダジャレを連発。誰もがまだまだ元気だと思っていた。
一人になったことを気遣う家族に対し、妻・嘉代子さんはいつも「あら平気よ。せいせいするわ」と答えた。生前と同じように毎朝欠かさず厚さんのためにコーヒーを入れて供えている。
嘉代子さんは、「ひ孫が2人に増えて、私も歳をとる訳だわねぇ」と言いながらも、きっと厚さんも喜んでいるだろうと感慨深げだった。
孫の久美子さんも毎年家族写真を撮るようになった。
次女・敬子さんの話:
父が亡くなってから、以前よりも父を身近に感じるようになりました。それは家族写真のおかげです。いろいろあったけれど、写真を見ると、優しかった姿や大事にしてもらった思い出が浮かびます。
厚さんが亡くなった後も世代を越えた家族の交流は続いている。
孫・祐輔さんの話:
祖父が居なくなってからは、家族で写真を撮ると祖父のお墓参りをしているような気持ちになります。
ひ孫が2人生まれ4人に。68年前、厚さんと嘉代子さんが結婚して始まった家族は四世代15人になった。
孫・恭子さんの話:
4世代の家族が今もすごく仲が良いのはなんてすてきなことだろうと思います。当たり前だと思ってたけど、当たり前じゃありませんでした。おじいちゃんがいつも中心にいたから今の幸せがあるんだと思います。
神田家と同じように、あなたの家族にも戦後70年の物語があります。
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「おじいちゃん、力道山の空手チョップってすごかったの?」
「おかあさんが結婚した年ってどんな出来事があったか覚えてる?」
あなたの知らない“戦後70年”に出会えるかもしれません。
総合テレビ | 1月1日(木) 午後9:00 |
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再放送 | 1月2日(金) 午前8:35 |
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