通奏低音弾きの言葉では… 文●鈴木秀美(チェリスト、指揮者)

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音楽用語のなかでも、“わかったようなわからないような言葉”の筆頭といえば、「通奏低音」。2種類の鍵盤楽器──チェンバロとオルガンのあいだに挟まれて、チェリストはなにを考えて演奏しているのでしょうか。バロック音楽を中心にチェリスト、指揮者として旺盛な活動を展開する鈴木秀美さんが、「通奏低音弾き」の立場から、音楽に新しい視点をあたえてくれる連載です。

photo by K. Miura
PROFILE

鈴木秀美

チェリスト、指揮者

神戸生まれ。チェロを井上頼豊、アンナー・ビルスマに師事。18世紀オーケストラに在籍。ラ・プティット・バンド、バッハ・コレギウム・ジャパンの首席チェロ奏者を務める。2001年にオーケストラ・リベラ・クラシカを結成。ハイドンをはじめ古典派を中心とする演奏活動を展開している。第37回サントリー音楽賞、第10回斎藤秀雄メモリアル基金賞受賞。山形交響楽団首席客演指揮者。著書に『「古楽器」よ、さらば!』(音楽之友社)、『ガット・カフェ』『無伴奏チェロ組曲』(以上東京書籍)。www.hidemisuzuki.com (photo by K. Miura)

[Episode1]通奏低音?

 通奏低音という言葉をご存知だろうか。ただバスとか低音というのとどう違うのか。それをよく分かってか分からずか、世の中では時々新聞や雑誌などで比喩的に用いられるようだ。たとえば「通奏低音のごとく心身に響く」「通奏低音のように聞こえてくるのは……」「頭の片隅で通奏低音のように鳴り続け……」等といった感じで、大抵ずっと続く低周波とか地鳴りのようなものを指している。音楽にはドローンといって、ドとソをずっと鳴らした上に旋律を作っていく手法があるが、自然に鳴っているものや自分の意志と関係なく響いているものに通奏低音という言葉を用いるのは、実はハズレである。その全盛期であったバロック時代、通奏低音は楽曲全体を司るものであり、無意識どころか意識ありまくりの重要なものであった。


 一般的に人が音楽を聴くとき、まず耳に入ってくるものや後から思い出せるものは何といっても旋律、メロディである。メロディには言葉と同じように、少々変わっても大筋や意味合いには大差ない枝葉の音もあれば、これが変わっては大変、意味が変わり曲は違う方向へ行ってしまうという重要な音もある。その意味合いの大切さ加減や筋書きを作っているのが和声、ハーモニーであり、それを支えるのが低音である。土台が低音、ハーモニーの進行こそは物語の大筋であり、そのハーモニーの天辺を紡いで出来るのが旋律である。
 もっと平たくいえば、通奏低音は「伴奏」であり、和声は旋律の色合いともいえる。18世紀の楽譜は、例えば一般的なソナタなら2段の楽譜、つまり旋律と低音だけが書かれている。トリオ・ソナタなら旋律が2声部なので3段、オーケストラのスコアなら様々な楽器が書き込まれるが、一番下の段は低音パートになっている。その低音の段の下には数字で和声が書き込まれていて、作曲家が旋律の下にどういう筋書きや色合いを欲していたのかが分かるしかけになっている。ギターの人が見るコードネームと原理は同じで、和声は表すが正確な音の配置が書かれているわけではない。いわゆる「ピアノ伴奏」の右手が書かれておらず、代わりにそれを表す数字が下に書いてあるということだ。鍵盤奏者やリュート奏者は、その数字や旋律をみて、適宜その数字に合った和音や適切な対旋律を即興して弾いてゆく。このような作曲及び演奏の方法が通奏低音であり、奏者自体も、しばしば「奏者」を省いて通奏低音と呼ぶ。


 通奏低音奏者の第一は和声も受け持つチェンバロやオルガンなどの鍵盤奏者、それにリュート・テオルボなど和声を持つ撥弦楽器だが、そこにチェロ、ヴィオローネ、コントラバス、ファゴット、トロンボーン等々の楽器が加わって、響きの土台を作る。室内楽ではチェンバロとチェロやヴィオラ・ダ・ガンバなど1〜2人が普通だが、バッハのカンタータのようにオーケストラや合唱の入った作品やバロックのオペラ等では、上記の楽器が通奏低音グループを形成する。ティンパニもまた、加わったときには通奏低音の仲間と考えるべきである。つまり、通奏低音はある複合的パートの総称なのである。
 17〜8世紀──ものによっては19世紀前半も含む──の音楽は低音主体に作られているので、奏者もまた、旋律や中音域を受け持つ数々のパートと《通奏低音グループ》という分け方ができる。弦楽器と管楽器(時に打楽器)で構成されるオーケストラの中にあって、チェロやコントラバス、ファゴットは、オーケストラに属するのか通奏低音グループに属するのか。これが、実はなかなか微妙なところなのである。オーケストラの仲間、つまり弦楽器・管楽器それぞれと溶け合いながら、通奏低音としては鍵盤・撥弦楽器と共に全体を支えるひとつの「機能」となるわけだが、それぞれの役目に求められる反応や弾き方は必ずしも同一とは限らず、そこに様々な駆け引き、やり取りが生まれてくる。


 いわば「鍵盤楽器の隣」、通奏低音は長年私の定位置であった。バッハ・コレギウム・ジャパンの創設以来、またラ・プティット・バンドも1991年から2000年まで首席を務めたほか、ヨーロッパ各地でオペラ、室内楽やオーケストラに参加し、その間、J.S.バッハの全ての教会カンタータと殆ど全ての器楽曲、バロック器楽曲、声楽曲、前古典派・古典派の交響曲、オラトリオ、オペラ、そして数多くの室内楽を演奏してきた。音楽家が一生の間にどれほどの曲を演奏するのか、真面目に考えたことはないが、たいてい誰でも恐らく随分な数になるだろう。その間の、言わば「行間」の経験をつらつら書いてみようと思う。


 通奏低音は様々な規則によって成り立っており、ともすればアカデミック、学問的で頭でっかちな人間の集まりと受け取られがちである。しかも弾く音符はそれほど多くない、時には極端に少ないので、指はそんなに回らない人だとも思われる(実際、カンタータのレチタティーヴォなど、指は1本ありゃ十分! と思う曲もたくさんある)。何よりもまず、何が難しいのか、どういう仕事をしているのか、外にはあまり分からない。実は上声部を弾いている人もあまり分かってはいない。ジャンルを問わず、簡単そうな仕事や目立たない仕事にはいろいろと知られざる事情、悲喜交々の経験があるものだ。通奏低音もまた然り。こういう仕事をしている人、これからしたい人、また普段コンサートや録音で音楽を聴かれる方々にも、裏方の仕事の事情を少しばかり知っていただき、楽しんでいただければ幸いである。