荒川碩哉
スパイ捏造と財産略奪策動を弾劾する
二〇一四年十二月一日
わたしは、わたしをスパイとして除名した党中央(革命的共産主義者同盟)を弾劾する。
わたしは断じてスパイではない。わたしは一人の革命的共産主義者である。スパイ捏造を許さない。しかもこの問題は、わたしの財産の略奪策動と一体である。わたしは白昼公然とした強盗行為を許さない。さらに、わたしと「有無を通じていた」としてスパイ呼ばわりし、機関紙「前進」に名前を公表・列挙した諸氏に対して謝罪せよ。いや、記事そのものの撤回と謝罪を求める。党中央への批判を封殺するための反対派狩りをやめよ。
2013年5月8日、突然わたしの杉並区内にある自宅に4人の男が押し入り、高井戸事務所に連行した。以後6月4日に銀行(貸金庫)から自力で脱出するまでの28日間、反党分子として監禁され、査問にさらされた。さらに党中央は、わたしを銀行に連行したうえで、父母からの遺産と財産を略奪せんとしたが、略奪に失敗したうえ、わたしをとり逃がすという大失態を演じた。この事実を隠ぺいするためにスパイをデッチあげ、扇情的に「前進」に発表したのだ。この過程での全行為を断罪する。
わたしは、2005年に心臓大動脈解離で倒れ10時間を越える救命手術を受け、当時、自宅療養中であった。その経過観察中に膀胱がんがみつかり、2013年4月には三度目のがん摘出手術を受けた。その術後処置を翌5月9日に控えた前日に、自宅を急襲され、監禁されたのである。監禁は致命的で、脱出後に4度目の摘出手術を受けたが、治療の中断と放置による進行は避けられなかった。この点についてだけでも卑劣で、許されない行為だ。
沸々とした怒りが噴出していたが、わたしは自制して沈黙を守った。
それは半世紀近く、人生を賭けてきた党への愛着である。脱出直後から、革共同を潰す千載一遇のチャンスとして、権力の追及は熾烈なものがあった。わたしは一共産主義者として、断罪すべき党中央への刑事弾圧を跳ね返すために、エネルギーの多くを費やさざるを得なかった。この権力の動きを鎮静化させるためには、かなりの時間を必要とした。
監禁に至る契機は「妻の密告」と党内には流されていた。そうだとすれば深刻な家族問題に発展する。二人の間には一人娘もいる。党中央により家族との連絡は遮断され、娘は人質に取られていた。自宅も監視下にあった。こうしたなかで、事実を見極めるために手段を尽くす必要があった。それらのためには決断を必要とした。
さらには同志たちへの配慮があった。わたしの意思ではないにせよ、今回のデマにより党の再生にむけて努力されてきた多くの同志に対して、結果的に大きなご迷惑をかけることになった。わたしが何も語らぬことによって、同志たちがあらぬ疑いをかけられ、迫害を受けているのを目の当たりにして、最低限の義務だけは尽くさなければならないと痛感した。
脱出後の病状は深刻であった。二度にわたるがん摘出手術を受けて、しばらくは回復と維持を優先せざるを得なかった。気力と体力の再生は不可欠だった。これらの諸点、くりかえすが、党への愛着、権力の介入への警戒、何よりもわたしの健康、そしてこの問題が、党組織の問題であるとともに家族の問題であることから、わたしは一年半近くの沈黙を守ってきた。しかし、わたしに残された時間はそんなに長くはない。限られた範囲ではあっても、最低限の事実とわたしの態度を表明する義務がある。
「前進」への批判は、事実を語るだけで十分である。
内部粛清ねらうスパイ捏造
「除名分子・反党分子=スパイ」と規定
「前進」(革命的共産主義者同盟全国委員会機関紙2588号2013・6.17.発行)は突如として、
「権力のスパイ荒川碩哉を打倒。この歴史的な地平を強大な労働者党の建設とプロレタリア革命の勝利へ」
という見出しで大々的にスパイ摘発記事を掲載した。その発表によると、わたしは
「日帝国家権力の最高中枢が革共同の奥深くに放った希代のスパイであり、その全貌が暴き出された結果、6月4日に家族を含む三人を公安警察に逮捕させ保護された、今回のスパイの挑発・打倒の闘いをもって、ついにプロレタリア革命の勝利へ前人未到の挑戦が開始された、これはプロレタリア革命の偉大な勝利である」
とする。そしてこれこそ「階級的労働運動路線の胸のすくような勝利だ」と。
18年間にもわたって奥深く党中央がガラス張りになっていて、権力中枢の判断で動かされていたとすると、いったいどこが勝利なのか。大敗北ではないのか。
実は、あの勝利宣言の裏には、激しい党中央批判が噴出した事実が隠されている。当然にもスパイが事実とするならば、党中央は権力に敗北し続けていたことになる。責任問題となるはずだ。しかも本人を取り逃がすという大失態を演じたうえに、事実関係を何ひとつとして明らかにしてない。癌の切除手術直後の処置期間を狙って28日間にわたって監禁し査問し続けたこと、にもかかわらずスパイである証拠を何一つ明らかにしていないこと、三人が逮捕されたのがみずほ銀行の貸金庫であること、そこで財産を強奪しようとして失敗したこと・・・など。発表はこうした事実を何ひとつとして明らかにしていない。事実を隠ぺいして公表することがもろ刃の剣になることぐらいは承知していただろう。そこで生じる事態の深刻さは十分に理解していたはずだ。しかし党内事情から曖昧な態度は許されず、現場労働者の怒りの前に吹き飛ばされかねない。追いつめられた結果、「階級的労働運動の前進でスパイを摘発できた、反対派があぶりだされた」などと強弁し、非難・批判を抑え込むために、「シロ」を「クロ」に捏造し、「敗北」を「勝利」と言いふくめ、それに異議を唱える人間を処分し口を封じるしかなかったのだ。
しかし、発表の核心は後半にある。
「『党の革命』に敵対した岸、水谷、石川(「死亡」ママ)、藤本。最悪の分裂主義者である塩川一派の塩川(橋本)、茂木、奥田(死亡)。さらに岩本、結柴、新城など除名分子と陰に陽に結託し、権力の意を体して彼らをそそのかし、党の分裂・解体を策した」。「次に、除名分子に連なる反党分子の甘糟、奥村、浅野、本間、広瀬らとともに新たな党破壊工作、動労千葉破壊工作にのめりこんでいった」。「今なお党破壊のためにうごめいている輩は、おのれの策動がどれほど権力を利するおぞましい反階級的な犯罪行為であるかを、今こそ思い知るべきである」
わたしが除名分子とつながって反党行動を行ったことを問題にしているのだ。
わたしを「スパイ」に仕立てあげて見せしめにし、これにつながるものだとして「すべての除名分子・反党分子」を恫喝することこそが、この発表の目的の核心なのである。ここではさらに踏み込んで「すべての除名分子・反党分子=権力のスパイ」と規定した。これは決定的な飛躍である。
当時、党内は査問と粛清の嵐が吹きあれていた。マルクス主義青年労働者同盟書記局などを解任・解体し、三人組の掌握する地区党の介入を強化させた。反発するものを「党の革命に反対するもの」「動労千葉特化論に反対するもの」「反党分子」として摘発・査問し、「スパイにつながるものだ」と烙印を押して粛清した。それがさらに党の基本組織の分散状態と分解を促進した。反対派フラクションがどこまで拡散しているのかわからないほど党内は疑心暗鬼に陥り、収拾がつかない泥沼にのめり込んでいた。現在も反対派狩りは潜行して進行している。そうして追いつめられた党中央を牛耳る三人組(天田三紀夫・純子夫妻、坂木)が反対派を恫喝することを目的として発表したものこそ、冒頭の「前進」の記事だ。
文面にその慌てぶりがにじみ出ている。
除名や処分してきた同志を何の脈絡もなく、一覧にして実名で公表した。そのうえで理由も根拠も示さずに「陰に陽に結託し」、権力に加担する行為であると断定している。塩川派と岸・水谷・石川を同列で扱い、岩本・結柴・新城を同列で扱う。さらに甘糟・浅野・本間・広瀬の間に奥村を挟んだ。わたしが監禁・査問を受けたのは、彼らとの関係についてであったが、いくら責めてもついに具体的には何もでてこなかった。
イライラした結果、指摘した記載の順序といい、ピンピンして生きている石川を調べもせずに「死亡」と誤認したり、脈絡もなく藤本を記載したり、無理やり奥村を甘糟・浅野と結びつけたり・・・。軽薄このうえなく信憑性を疑わせる文面になった。さらには塩川氏だけをわざわざ(橋本)と括弧して記載して、実名を権力に暴露して見せた。
この態度こそが色濃く彼らの意識を反映し、真意が投影している。この発表はいったい誰に向かって発せられたものなのか。あきらかに党内に向けた恫喝であり、「前進」に公表することで権力に「反党分子」を売り渡しているのだ。
摘発の根拠は党中央への批判
第一に、わたしは内調、公調のスパイであったなどというのは、完全な捏造である。当然にも、発表された文面をいくら読んでも、わたしがスパイだと断定する根拠が何一つ示されていない。
(Ⅰ)決定的なのは、わたしがいったいどこのスパイなのかという核心部分が、まるではっきりしない。主張はこの一点ですでにグラグラである。
スパイと断じた「主要な三つの発表文」をきちんと読めば歴然とする。
「主要な三つの発表文」とは以下のとおりである。
① 「前進」(2588号2013.6.17.)。
「権力のスパイ荒川碩哉を打倒。この歴史的な地平を強大な労働者党の建設とプロレタリア革命の勝利へ」
という見出しで突如として大々的にスパイ挑発の記事を掲載した。
② 革共同集会の天田書記長の基調報告。(「前進」2595号2013.8.5.に再録)
同年7月28日、豊島公会堂で開催された革共同政治集会で天田書記長は
「革命的共産主義運動50年の地平と大恐慌―世界革命勝利の時代の到来」
と題して基調報告をおこない、「前進」(2595号2013.8.5.)夏期特別号に全文発表している。
③ 革共同50年史『現代革命への挑戦』(2013.12.20.)。
時期が半年間遅れているので、整理されたものと言っていい。
この「三つの発表文」での基調は最初の「前進」である。筆者は査問の責任者である坂木(政治局員。東京都委員長兼労対部長)である。坂木はわたしを《内閣官房長官の管轄下にある内閣情報調査室の特別職員、公安調査庁に直結》と規定した。
二つ目の天田書記長の基調報告は、このスパイ摘発に「革共同の対権力闘争勝利の集大成」と超弩級の新たな規定を追加している。この基調は『50年史』にも繰り返されている。しかしおどろおどろしい規定にもかかわらず、わたしに関しては《国家権力中枢》という表現しかなく、内閣官房情報調査室とか公安調査庁だとか具体的規定はない。
それを指摘されたのか慌てて三つ目の『50年史』には、具体的に記述して、でっち上げの馬脚を現した。そこでは《内閣官房長官の管轄下にある内閣官房内閣情報調査室と直結した関係だが、表の組織ではなく、その裏にある特別な情報収集組織のもとで行われた。裏の組織は七つの外郭団体があり、その中の一つの特別職員であった》と規定している。しかし七つの外郭団体のどの団体とは特定していない。それだけではない。《安倍内閣の日本版NSC(国家安全保障会議)のもとで内閣官房事務局に諜報員を配置し、日本版CIA(中央情報局)をつくりだそうとしているが、その先取り》と規定している。しかし、七つの外郭団体のどこの特別職員だったのか、内閣官房事務局の諜報員だったのかどうか、など何一つ具体的な断定はしていない。さらにここでは、《公安調査庁とも直結していた》とある。
ところが、同じころ刷り上がった「前進」新年号(2614号2014.1.1.)では《内閣官房・内閣情報調査室のスパイ》と規定しているが、ついに公安調査庁という規定が消滅した。公安調査庁との関係は、当初より淡白な扱いに終始しているのは一貫していた。
あらためて問いたい。いったいわたしはどこのスパイなのか。スパイと規定しながら、核心部分で何一つ特定がない。こんないい加減な根拠で、よくスパイと断定したものだ。
『50年史』に細かく書かれていることは、内閣官房のホームページに掲載されていることの丸写しである。何一つ目新しいことも、わたしにつながる指摘もない。
「嘘は大きいほどごまかせる」
その典型が、革共同集会での天田書記長の基調報告である。党中央の動転ぶりが、こうした混乱として透けて見える。
わたしが内閣情報調査室の特別職員や、公安調査庁の諜報員であると断定したにもかかわらず、党中央は弾圧に対して第二指導部を形成するとか、当事者を潜伏させるとか何一つ防衛策をとっていない。もし発表が事実なら権力は千載一遇のチャンスとして、一斉摘発にのりだすだろう。そんなことは容易に想像できるにもかかわらず、何一つ真剣に反弾圧体制をとらないのは、彼らがわたしを権力中枢のスパイなどとは微塵も考えていないからである。
わたしは内閣官房情報調査室なる組織については現在にいたるも、よくは知らない。そもそも内閣官房がこうした現場に出て諜報活動をしているのかは疑問だ。集めた情報の分析を官僚がしているだけではないのか。
これをつなげた理由は査問の経過からすると以下のことだろう。わたしの部屋のガサで、現在の自民党幹事長で前法務大臣(元自民党総裁)の谷垣禎一とのツーショットの写真が出てきた。「彼は学生以来の実兄の刎頚の友で、兄の長男の結婚式に同席したときの写真だ」と査問中に何度も説明した。そんなはずはないと写真の日付を調べて当時国家公安委員会委員長を兼務していたのだという。「経産省とか金融庁とかの大臣だったと記憶しているが、国家公安委員長は知らない。が事実ならそうだろう」と応えた。それ以上でも以下でもない。しかし、ならばどうして内閣情報調査室とか公安調査庁だったのか。国家公安委員長なら警察のトップなのだから、警察庁ではないのか。これらの発表で不自然なのは、警視庁公安にまったく一言も触れていない点だ。
いくつか推認できることはある。わたしが疑われた根拠は、党は『妻の密告』と公式会議で発表している。それだけではないだろう。査問で、前年9月に発覚した甘糟氏らの反三人組フラクの過程が追及され、わたしも仲間だろうということで、ずうっと監視していたという事実が出た。このころは、党中央が党内批判勢力の広がりに驚愕し、あいつも怪しい、こいつも怪しい、と反対派狩りに血眼になっていたときである。こうした最中にあった本社ガサで、公安の責任者が「荒川を放置しておいていいのか、あいつは内調と公調のスパイだ、警視庁は無視されて上からたたかれている」と本社の責任者にささやいたという。半信半疑だが、事実ならば警視庁公安が発表に入っていない理由も説明がつく。
当初から監禁・査問の目的は、反三人組分子とのつながりだった。喫緊の課題は、反三人組フラクを形成したとして査問中に前進社本社から脱出した東京都南部地区責任者で、国鉄担当者であった浅野氏との関わりの追及だった。結局は何もでてこなかった。やがてそれが塩川派にかわり、マルクス主義青年労働者同盟書記局がらみの追及にもなった。反三人組フラクションの人物特定のためだろうが、その結果、十年近くも前の事実を掘り起こして、反党行動の証明だといわんばかりに査問の対象を広げたりした。
この過程でわたしは「党中央への失望」という論調の意見を書いた。査問中に返事はなかったが、天田三紀夫が「再生不可能だな」と坂木に漏らしたらしい。財産没収へと方向を変えてきたのは、その直後である。この過程で妻が財産問題を追及するように強く進言したらしい。恐らく部屋から没収したPCやUSB、書類を分析したのであろう。途中になって財産略奪に転換した。反党フラク問題を権力との関係にすり替えようとしていたのであろう。しかし、反党フラクションの特定と、わたしの財産形成の問題はまったくかかわりはない。追及は明らかに一貫性がなく、査問中に転換があったのは容易に推測できた。
(Ⅱ)そこで何が話されたというのかとなると、たちまちにして何一つ具体的ではない。
「党の内部情報から全国の情報、さらに新左翼諸党派、体制内労働運動にいたるまで情報網を張り、情報の分析までやってみせ・・・」
などと一般論になる。スパイと特定できる事実など何ひとつ存在しないのだ。
これも査問中のやり取りで心当たりがないこともない。強奪したPCや文書類のなかには、清水丈夫議長が初めて書いた国鉄論文への批判レジュメ、浅野監禁未遂の顛末メモ、塩川派の機関誌、白井朗や松本意見書、梶村文書とそれに対する政治局員たちの意見、さらにはWOBや東京都委員会の会議録など秘密性が高いもろもろの文書・・・等々があった。これらの文書類に対しての入手経路、レジュメやメモ類の使途目的などについての査問と追及は厳しいものがあった。
さらには強奪したものの中から、朝日新聞や毎日新聞、外国紙の報道機関・記者、連合や自治労・日教組などの関係者、全労協・全労連加盟の単組執行部、都労連など東京都の労働運動関係者の名刺やレターがたくさん出てきた。それらについても追及を受けた。そんなことは中央労対であれば当たり前に接触する。ナショナルセンターや主要単組・単産の運動方針などを分析するのは当然である。笹森や山崎など連合や全労協の会長にも、村山富市や福島瑞穂など元首相や前党首にも会っている。「体制内労働運動のなかに情報網をはり、その情報を分析する」のは中央労対としては当たり前ではないのか。
さらには査問中に、少なくとも半年近くの尾行や監視行動の事実も披歴された。わたしは三人組の私党化に疑問を持っていたのだから、さまざまな立場の意見を聞くのは当然のことだった。「3・14決起」(2006年)そのものと、「党の革命」(2006年〜)とは異質なものを感じる。まして党内権力闘争には疑問があった。それに対しては意見も書いた。批判を受けて弁明もした。なんら隠すこともない。
これらを反党活動として査問を受けた。誰といつどのように会っていたのかは、当然にも活動基盤とフラクション形成に深くかかわる。しかしこれらの活動をスパイ行為と結び付けるのであれば、もはや論外である。
(Ⅲ)さらに声明にはほとんど具体的事実が書かれていないなかで、唯一例外といえるのはスパイ活動を始めたとする時期の部分である。
内閣情報調査室とは1995年と断定し、公安調査庁とは2000年から2001年にかけて、とあいまいな表現となっている。では、その根拠とは何か。
「1995年とは、日帝の体制的危機の深まりの中で日経連プロジェクト報告『新時代の日本的経営』が出され、政治支配・労働者支配の転換が始まった時期だった」。だからこれと軌を一にしてスパイ活動を始めた、というのである。まったく訳がわからない根拠だ。
しかしさすがにこれはマズイと気がついたのか、革共同集会の基調報告(「前進」夏期特別号政治局論文)で天田書記長は、「1995年以来、スパイ工作者として育成して、2000年から本格化した」と修正している。微妙だが、大きな変化である。この2000年こそ行き詰まった国鉄決戦、いわゆる「四党合意」をめぐる攻防と敗北を打開するために、中野洋氏が本格的に党改革を決意し、党内闘争を開始する年である。今日の路線形成のうえで決定的なターニングポイントだった。三人組はわたしを、動労千葉・国鉄決戦破壊、ひいては革共同の破壊のために送りこまれた「稀代のスパイ」として描きたかったのである。しかしそれは便宜上の理由にすぎない。そんな事実はまったくないし、当然にも何ひとつ証拠もない。
ではなぜ1995年なのか。根拠は押収した入金記録である。
1994年に私の実父が亡くなり、1995年は父の相続を受けた年である。追うように1995年の秋に実母が逝った。この過程でわたしは遺産を手にした。実業家であった実父は、生前から相続税対策に手を打っていた。それが順次手に入り始めたということにすぎない。調べてみればすぐにでも判明することである。杉並にある自宅も、この過程で後日、故人の遺志に沿って、その遺産で購入したものである。同時に、このとき遺産の一部は現金で天田書記長に直接手渡した。彼は欣喜雀躍して『革命的共産主義者同盟書記長 天田三紀夫』と署名した実兄にあてた受領書まで切った。その額面もはっきりと記憶している。その場には坂木も同席していた。
1995年や2000年という年は、すべて入金記録と結びついている。当初より査問と追及は、わたしの財産略奪と深くかかわっていたのかもしれない。父母の遺産を「多額の報酬」と置き換えたのである。
また担当者が何人とか、「特別職員」とか特異な表現がある。仮に国家公務員特別職なら、今回の逮捕監禁後も解雇される理由もないから、国家公務員として給料をもらっていることになる。その具体的証拠を挙げることが出来ないのはそんな事実はまったくないからだ。デマということは明々白々である。
(Ⅳ)「膨大な告白文書」についてである。天田の基調報告では「自白文書」に変わっている。「告白文書」というのならば言い得て妙だが、「自白文書」なら大違いである。
一説によると、査問中に筆記補助者として同席していたSが、隠しマイクを机の下に仕込んで、査問のやり取りを要約して前進社本社にいる天田に報告した文書ではないか、とささやかれている。そういう姑息な手段で作成した文書ならならありうる。彼らがやりそうなことだ。「告白」ならまだしも「自白」というならば、当然わたしに読ませて、同意を得なければならない。こんなものは見たこともない。もちろん署名などあり得ない。仮にあったとしても要約者Sの書いたものだ。パソコンに打ち込んだのならいくらでも改作できる。まして手術直後に監禁し、劣悪な環境で無理やり追及すること自体が正義に反する。そんなものは何ひとつ任意性も証明力もない。コソコソと回覧などしないで、当の本人に見せてみよ。
それとは別に査問中に提出せよと追及され、意見書は書いた。ただし、わたしの方から意見を書く立場にはない。監禁した方が追及してきて、それに対する反論・釈明・意見・事実関係という順序であろう。誠実には回答した。手術直後の体調を考え、妥協はしても自分の生命維持を優先させようと考えたからである。それでも治療を中断した打撃は大きく、その後のがんの浸潤は防げなかったが。
したがってわたしの書いた文書は、追及に応じて書いたのだから、それぞれが独立したものである。すべて自筆である。私が原稿を提出していた編集局や出版局や労対の一員ならすぐ分かるはずである。真意はともかく「膨大な告白文書」なるものは連続した文書だと聞く。加筆修正してつなぎ合せたものとも想像するが、現物はわたしも見ていない。それはもはやわたしの書いたものとは無縁である。
なぜ銀行内(貸金庫)で三人が逮捕されたのか
第二に、なぜ三人が逮捕されたのか、また逮捕された場所が銀行の貸金庫だったのか、逮捕劇と貸金庫を巡る事態について、党中央はなぜ沈黙しているのか、についてである。
三人が貸金庫で逮捕され、逮捕・監禁の事態がもはや隠しきれなくなって表面化した。しかしなぜ逮捕された場所が貸金庫だったのか、その貸金庫で何があったのか、なぜ監禁中にもかかわらずに危険が伴う銀行の貸金庫にいったりしたのか・・・。肝心な点は何ひとつ明らかにしてない。ただただ警察に同志を売ったとか、家族までも逮捕させたとか、扇情的に騒ぎ立てるだけである。彼らは逮捕されたことは認めざるを得ないが、そこで何が行われようとしていたか一切語らない、語れないのである。実に「前進」発表の目的は、事実を隠ぺいするためのデマキャンペーンにあった。ここでは警察が、都合よく前面に登場する。
三人組が「シロ」を「クロ」と言い続けるのであれば、わたしは限られた範囲内でも、逮捕時の事実を明らかにせざるを得ない。
6月4日に銀行の貸金庫で何が行われようとしていたのか。
場所はみずほ銀行西荻窪支店。JR西荻窪駅南側の繁華街のど真ん中にある。実に、ここで戦前の非合法日本共産党を解体にまで追い込んだ、大森ギャング事件のような略奪行為が行われようとしていた。28日間の監禁目的から激しく逸脱し、反党分子とのかかわりとは無関係の全財産の略奪のためにのみ、銀行の貸金庫に連行したのである。略奪に失敗した結果、とり逃がしたとは一言半句たりとも触れられていない。絶対に書けないのである。
事実はこうだ。
前日の6月3日夜10時すぎ、前進社本社で天田・坂木と打ち合わせたSが高井戸に帰って、その決定をわたしに伝えに来た。
「明日4日午前7時頃に高井戸事務所を出発して、みずほ銀行西荻窪支店の貸金庫へ行く、そこで貸金庫の解約手続きをとって貸金庫にあるものを全部取り出す、以後は西荻窪・荻窪・吉祥寺の金融機関で解約と送金手続きをとる、明日はできるところまでやる、明後日以降も継続する、7日は早朝に車で名古屋に向かい、名古屋にある貸金庫から登記謄本などとりだしてその日のうちに帰京する、財産の処分についてはできるだけ妻が同行するようにし、Yがその補助者として立ち会うが、妻が同行しなくてもY単独でもやる、ワゴン車と運転手は本社から派遣される」。
当日4日は早朝5時すぎにYが高井戸に来て、Sと打ち合わせをしていた。7時に高井戸事務所を出た。ワゴン車と天田三紀夫付き運転手Oは、すでに高井戸事務所の駐車場で待機していた。そこへYとわたしの二人が乗車した。バイク二台がついてきた。途中で妻が合流した。わたしは体調がすぐれないので、20分間ほどベンチで横になった。この休憩時に最終的に貸金庫での脱出を決めた。直接的には病況の悪化があった。このままでは生命の危険を感じていた。Yは事務的作業に関心が集中している。別働隊も銀行内に入れば距離がありすぎる。
9時20分ごろ銀行に入った。Yや妻は西荻窪支店の貸金庫の場所と手続きの方法を具体的には知らない。当然一階の貸金庫の窓口に行って、解約手続きをとってから貸金庫に入るものと想定していたらしい。しかしわたしはいったん先に解約してしまうと金庫の保管義務が銀行にはなくなるのでマズイと考えた。解約手続きをとる前に金庫に入ってしまうことが必要だった。そこでわたしは初めて「貸金庫は二階にあり、手続きは不要である」旨伝えて、ともかく二階に急いだ。その際、「解約手続きも二階でできるはず」と言った。ここで妻に金庫カードと金庫のキーを渡すように要求した。妻は貸金庫のカードやキーなどが入ったバックを渡した。
Yや妻も一緒に入ろうとしたが、監視カメラを確認して「警備員が飛んできたら困るな」と言い、入り口で待つこととなった。わたしは「15分か20分間くらいで出てくるから」と言い残してカードと掌紋反応で金庫に入った。
金庫を開錠して銀行印、実印といくらかのカードをとり出し、あとは証券や通帳などほとんどはそのままにして金庫は閉じた。すぐに金庫内に設置してある内線電話で、「緊急事態だから」と言って銀行員を呼び出した。若い女子行員が「何事でしょうか」と不審そうにやってきた。「金庫内のわたしの財産を奪い取ろうとして入り口で二人立っている、そこを通らないで通用門から出してもらえないか」と頼んだ。若い女子行員は事情が呑み込めないのか、上司に伝えると応じて出ていこうとした。そこでみずほ銀行西荻窪支店のわたしの顧客担当者Kの名前をあげたら、はじめて笑い顔をして連絡に走ってくれた。
しばらくしてKu課長(女性)と顧客担当者Kが一緒に駆けつけてくれた。支店長は接客中で課長が対応すると紹介されたので、概略の説明をした。説明はしたが一知半解の様子であった。それはそうだろう。28日間も監禁されていて、大胆にも白昼堂々と貸金庫から他人の財産を略奪しようなどと言う説明は、にわかに信じがたいのは当然だ。とりあえず「金庫控室の前で待ち構えている二人の前を通過しないで出る方法はないか」と尋ねたら、控室から別室に誘導された。そしてKu課長は、「お客様の身の安全を第一に考えて対処したい、荻窪警察署には通報する体制があるからすぐに警察に通報しよう」と提案してきた。わたしは「事態をこじらせたくない、目的は銀行前で監視している二人ないし数人の監視要員から脱出したいだけなのだ」といった。彼女は「それでは通用門を見てきます」といって出ていった。帰ってきて「通用門の前にも不審な人が立って見張っている」というのである。それは「駐車場から出てきた運転手ではないか」と伝えたら、警備員に見てきてもらうと連絡していた。しばらくして「地下駐車場には真っ暗なところで運転席に待機したままで動かないでいる人がいる。運転席ひとりだけなのか、奥に人が乗っているかどうかまでは暗くて確認ができない」との報告が入った。「通用門の前にも不審者がどうなったのか警備員にもう一度見に行ってもらう」と説明を受けた。
あれこれしているうちに時間が経過し、10時を回っていた。Yは不審に思ったのだろう、妻を一階の金庫係の窓口に向かわせて、妻は「金庫に夫が入ったまま出てこないが確かめてほしい」と追求してきたらしい。最初の若い行員が「奥様が金庫内でなにをされているのか尋ねてきている」と伝えに来た。わたしは「金庫の解約手続きを二階でしているからと言って時間を稼いでください」と頼んだら、Ku課長と二人で出ていった。しばらく妻と対応した課長が帰ってきて、「夫は心臓血管の大病を患っていて心配だから私が付き添いたい。金庫室に入れるように取り計らってくれ、と奥様が言っているがどうしますか」と尋ねてきた。わたしは「妻も財産を簒奪しようと強いる仲間だから入れないようしてほしい。銀行の貸金庫契約をたてまえにして断ってほしい」と返答をした。
しばらくして「大きな男の人(Y)が貸金庫の入り口で大声を出している、ほかのお客さんに迷惑をかけるのでやめてくれと言っても聞かない、奥さまは一階の金庫係の前の椅子に座ったままだ」という報告があった。そのうち荻窪警察署から署員が二人駆けつけてきて、わたしに事情を尋ねてきた。銀行が独自の判断で警察に通報したと思われるが、Ku課長や顧客担当者Kが説明していた。生活安全課なのか事情がよくわからないようで、ともかくわたしは貸金庫のカードと免許証を見せた。そして「とりあえず銀行を出て荻窪警察署に移ってください」という。銀行から無事に脱出するのにはそれがベストであると銀行が判断して要請したという。その際、荻窪署で任意で事情聴取したいとの意向を示した。わたしは「事情聴取には応じられない」と主張し、しばらくやり取りがあったが、「現住所は所轄内だからとりあえず本日はこれで」ということになった。そこで通用門からすきを見計らって外に出た。その後は当初計画した通りの経路を通って無事脱出することに成功した。
Yらはその後もわたしが金庫内にとどまっていると勘違いしたのか、銀行が閉まる午後3時過ぎまで銀行内で居座って、みずほ銀行内で住居侵入か不退去かの現行犯で逮捕されたらしい。そのときすでにわたしは遠方に移動中であって、その事実は知らなかった。
以上が6月4日に貸金庫で起こった事実である。事実だからいくらでも詳細は明らかにできる。警察は強盗未遂事件として立件する目的で銀行側からすでに調書を録取していると聞いた。天田など三人組はパニックに陥った。特に坂木にとっては、すでに自分の反党分子摘発能力の成果として東京都委員会の会議で流していたから、隠しようもない大失態である。まさにこのときに当事者を取り逃がすという事態が発生したのである。
事実はたちまち党内外に漏れて流れ、指導部批判が噴出した。ただちに政治局は直轄の「糾察隊」と称する捕捉・追跡の専門部隊を結成し、必死の追及行動を開始した。わたしの知る限り、自宅、兄弟姉妹宅、叔父叔母など親せき宅や銀行、病院、交友関係まで及んでいる。その中には90歳を越えたり、公明党の婦人部長だったりしていて、年齢や主義主張などに関係なく無差別である。態度は横暴で、かえって事実を見抜かれたりしている。
特に家族との接触は厳格に監視され、メールなどの連絡は遮断されている。膀胱がんの切除手術の経過措置中であり、心臓血管大動脈の観察のためには、通院・診察と処方が必要である。そのために援助や協力を必要としているが、その先々に追及があり、今でも身の危険を感じている。
機関紙「前進」(2588号2013.6.17.)は、この事態に対し、
「この日帝国家権力の最悪の手先は、自らの反革命的所業が暴かれる中で、6月4日、反革命の本性をむき出しにして警察に保護を求めた。この時、自らの家族を含む3人の同志を公安警察に逮捕させ、権力の懐に逃げ込んだのである。だが日帝権力は荒川を使ったスパイ活動が摘発・暴露された闘いに震え上がり、判断停止に陥る中で、3同志の拘留請求もできずに釈放せざるをえなかった。家族まで警察に売って権力の懐に逃げ込んだ荒川の反革命と極悪さに対して、われわれは煮えたぎる怒りを抑えることができない。膨大な告白文書によってすでに基本的な決着はついているとはいえ、荒川を絶対に見つけ出し、その階級的大罪に最後の処断を下す決意である。今回の弾圧、そして今後のいかなる権力の取戻し的な弾圧も、まったく無力である。」
と最大級の非難を展開している。
いま一度いう。6月4日に何が行われようとしていたのか。28日間の監禁目的から激しく逸脱し、反党分子とのかかわりとは無関係の全財産の略奪のためにのみ、銀行の貸金庫に連行したのである。そして略奪に失敗したうえ、わたしを取り逃がしたのである。
家族を裏切ったのはどちらなのか。みずから不正義を自覚していたために、実行するに及んで妻を利用した。逮捕されたのは不審な動きをした者たちに対する銀行側の通報によるものである。大失態をとり戻そうと判断停止に陥ったのはいったいどちらか。
三人の逮捕についても、銀行の中で騒げばどうなるかはわかっていたはずである。かりにわたしが銀行員の便宜で、すでに通用門から脱出していた事実をYらが知らなかったとしても、閉店になっても銀行で騒ぐというのは逮捕してくださいといわんばかりの自虐行為である。わたしを取り逃がすという失態に仰天し、三人組は事後に党内的な言い訳のために敢えて妻以下の三人を逮捕させた。すくなくとも逮捕を回避しようとしなかった。これまで査問の前面に出ていた坂木やSなどは、この日に限って表には出てこなかった。実行行為に加わることの危険を察知していたということだ。その危険な場所に敢えて妻を同道させるという、妻らを盾にして使い捨てたのである。この事実だけでも許し難い。
「家族まで警察に売った」のは天田や坂木ではないのか。大失態に動転して同志を逮捕させて体面を取り繕おうとした天田らの極悪さに対して、わたしは煮えたぎる怒りを抑えることができない。3人に対して警察が拘留請求をしなかったというのは、のちになってこっそりと訂正され、送検されたが検事が拘留請求をしなかったとされた。ここでも混乱していたのは天田や坂木である。同時に「今後のいかなる取戻し的弾圧」との表現で、自分たちが逮捕・監禁、強盗未遂などでの刑事追及を恐れているとの認識を吐露している。わたしが『被害届』を出すかもしれないと身構えているのである。そうすれば組織中枢は一網打尽である。
「荒川を絶対に見つけ出し、その階級的大罪にふさわしい最後の処断を下す決意である。」という文面は、この脈絡の中で理解しなくてはわからない。わたしはこうした威嚇に対して自分の防衛のために事実を整理した。
この発表への批判は事実の一端を語るだけで十分である。そしてその権利をわたしはいまも担保している。ここでは脱出に関わる記載部分だけを指摘するにとどめる。
白昼公然と銀行強盗を策動
これが「革命党」の行為か
第三に、ではなぜ銀行強盗などという愚劣な行動に走ったりしたのか。
監禁・査問の目的が明らかに途中から変わった。わたしの反党分子への共鳴や党中央批判の態度に対して、天田は「再生不能だな」と漏らしたらしい。芋づる式に拡大し続ける反党分子の摘発は、先を見通せない状態まで泥沼化していた。
さらには監禁・粛清が続いている党内動向に、権力が注視し、弾圧の機会を狙っていた。すでに監禁・査問の事態は権力の知るところとなっていただろう。術後処置の通院の異常な監視体制と不自然な対応、自宅や監禁場所での出入りや異様な雰囲気が一か月近くも続けば、もはや隠しようがない。査問中も坂木らは極度にガサを恐れていた。硬直した事態の打開が早急に求められていた。そこで財産に着目し、略奪して決着しようとしたのだろう。
5月30日の杏林病院での術後の処置治療が終わってから、事態は急展開した。「家族や父兄の援助を含めて、財政状況を整理して文面にしろ、所在の一覧表を書け」と言ってきた。
すでに妻の協力で財務表や通帳などは押さえられていた。隠しても致し方がない。丁寧に説明した。その後の追及はどうして党に申告しなかったのか、さまざまな形態で分散・運用しているのは秘匿する目的だったのではないか、妻に秘匿したのは不正な財産だからではないのか、というような追及が続いた。支援カンパは当事者に直接尋ねればハッキリする、遺産については兄が配慮して党組織に直接渡らないようにさまざまな工夫を凝らした、わたしと妻とは別会計でお互いに収入も支出も知らない、妻や娘が受け取りの保険や郵便年金などは誰もが行う範囲で運用していたにすぎない、さらに株などは相続したまま売買していないだけである・・・など説明した。
もちろん完全に実態を記入したわけではない。それは節税上の問題であり、社会的には常識である。不明朗なものは一切ない。
6月1日には「預貯金、社債や保険・年金などの名義を妻に書き換えよ」、と指示してきた。「それでは贈与税ががっぽりとられるがよいのか」と疑問を呈したところ、坂木は抵抗していると理解したらしく怒り出し「税金など関係ない」と開き直った。しかしその後、天田らと連絡を取って「名義変更はやめて解約せよ、解約して現金化せよ、その現金をすべて妻の口座に移せ」と変更してきた。わたしの抵抗を排除するために財産管理を妻に一任するとしたのだろうが、いったん妻に渡ったら痕跡は残るのは同じことである。その後、妻がどう処分するかはまったく触れない。これで天田らの魂胆が財産没収にあることがわかった。稚拙この上ないと思ったが、敢えて抵抗はしなかった。しかし、どう考えても略奪である。
わたしの今後の生活についても触れた。「三里塚現地闘争本部に移って、少なくとも二年くらいは生活してもらうので生活費はかからない。病院は紹介状をもらって千葉に移ってもらう」。これまでの方針とはまったく別の構想である。ここまで具体化しているのは、既に決定した方針だと思われた。この段階での結論的言及は意味深長である。もし彼らが、この時点で「稀代のスパイ」と信じているのなら、即刻除名・追放処分以外にはありえない。「三里塚で生活せよ」などというのは、これまで数多くの例があるが、三人組に従わない幹部党員を「自己批判しろ」と称して、隔離・飼い殺しにする常套手段である。スパイ云々などと言うのは、彼らがわたしの財産を強奪するための脅しとしていっているだけで、まったくスパイなどとは思っていなかった。だから除名・追放ではなく、「三里塚に移れ」なのだ。わたしはすでに詳しく見てきた銀行(貸金庫)での財産強奪策動の失敗、しかもわたしを取り逃がすという大失態の結果、はじめて「稀代のスパイ」として「前進」に発表されたのである。
この方針の転換を聞いて脱出をはじめて考えた。財産を略奪したいだけではないか。こうした構想をする人間は天田以外には考えられない。
最後の査問は、すべての債権・保険・年金・株などを短時間のうちに現金化すること、それをわたしの都市銀行の普通口座に移すこと、妻の補助要員としてS弁護士事務所の事務長Yをつけること、今後財産処理に関してはYが一括して責任者とすること、という新たな方針が提示された。贈与税を回避する魂胆である。1日の査問後に坂木から報告を聞いた天田は、実務に精通しているYの派遣を決めた。この人事配置に天田の財産没収の強い意志をみてとれた。党の意思も明確になった。あとはどうするのか。わたしの決断だけだった。
わたしの普通口座から換金した多額の現金を、短期に集中して引き出せば、税務署にとらえられる。現金化し天田らにわたった財産は霧散して痕跡を残さない。「使途不明金」の痕跡を深々と残すわたしに対しては、翌年度に贈与税ががっぽりと課せられる。妻は自分の口座にいったん入金したあと引き下ろされて党に現金が渡ったら、贈与税が自分にかかることがわかっているから、決してひき受けない。妻は坂木の方針に異を唱え、承知しなかった。わたしの財産の没収には賛成だが、自分に降りかかる火の粉はふり払うということだろう。坂木は終始狼狽していたが、かえって天田の意図は包み隠さず理解できた。
すべての意図は理解した。この方針にはとても従えない。いったん従ったら奴隷の道しか残らない。病況や残された余命時間などを考えたら脱出しかないと考えるようになった。
いろいろ考えた結果、みずほ銀行西荻窪支店の貸金庫しかチャンスはない。名義変更にせよ、解約にせよ、送金にせよ、貸金庫に最初にいかなくてはならない。貸金庫カードと金庫のカギは、当日は金庫に入るために妻が必ず持参する、金庫はわたししか入室できない、監視体制は金庫入り口ではずれる。そうと決めれば、そこに誘導する計略が必要となる。それは同時にまちがいなく他の財産の回収に向かうだろうから、貸金庫で確保できなかった他の財産は放棄するということを意味したがやむを得ない。
以上が事実経過である。
起こったことは単に財産を略奪しようとした強盗行為にすぎない。そこにはなにひとつ階級的正義も規範もない。単なる金ほしさの強盗行為である。この意識と体質とは何なのか。
「情報提供として多額の報酬を受け取っていた。その金をすべて隠匿してきた」という。監禁と査問の行き着いた先が財産の略奪だったとはさすがに書けない。そのために略奪を正当化しようと試みたにすぎない。さすがに2ヵ月後の革共同集会の基調報告(夏期特別号政治局論文)ではこうした表現はすべて消えた。
わたしの財産の源泉は父母からの遺産相続と支援者のカンパしかない。遺産の預貯金や保険など契約日時を確認すれば、スパイの報酬などというねつ造が通用しないことは一目瞭然である。
なぜ父母の遺産がスパイの報酬で、天田ら三人組がそれを没収する正義があるのか。現に実母の遺言でその遺産で購入した妻子が住んでいる杉並の自宅を乗っ取るらしい。もしわたしが「権力中枢の放った希代のスパイ」ならば、すぐに違法行為や未遂罪で逮捕されることぐらいわからないはずはないであろうに。この一事ですべては説明がつき、疑問は払しょくされる。
路線なき野合と内部粛清
第四に、「前進」では「日帝国家権力の狙いとは何か」として、血債主義を国鉄決戦の解体のためだとしたうえで、カクマルも日帝国家権力の革共同の分裂破壊攻撃だったと位置づけた。こういう規定は初めてだ。
(Ⅰ)全体を血債主義派と国鉄闘争派の対峙関係に描いている。やがて夏期特別号政治局論文(革共同集会基調報告)にいきつく。あの基調報告は革共同とは異質な天田新党の立ち上げである。国鉄基軸派が血債主義派をやっつけたという構図である。返す刀で国鉄決戦唯一派(動労千葉特化論)の正当性の論拠としていくのである。
まず、血債主義派か国鉄労働運動派かの二律背反的選択の不毛さである。
差別反対運動が階級的に労働者の解放とつながらない限り、反動に組織される。しかしこのことが、差別排外主義とのたたかいをいささかでも後退させることにはならない。現に排外主義の嵐は労働運動を直撃している。このとき労働運動がこれと闘わない限り、反動と戦争に駆り立てられていく。両者を並列して扱った第6回大会は、明らかに路線的な後退だった。これを書かせて承認させた清水議長の責任は大きい。
しかしそもそも民族問題や農業問題は資本主義の発生以前から存在し、資本主義の枠を越えて包摂されない。資本主義が終焉したから解決できるような簡単な問題ではない。コミンテルン第二回大会テーゼは、民族問題がいかに遠大なたたかいであり、革命政権にとって核心的に突きつけられた課題であるかを明確にしたものだ。その後のレーニンのスターリンに対する最後の闘いが、いかに本質的で重要なものかを改めて想起すべきだ。
国鉄決戦の問題については、査問中に坂木と、わたしは激しいやりとりした。
われわれは動労千葉の決起によって国労組合員が必ず決起すること、その戦略的展望を国労闘争団の獲得の中に置いていた。遠くは51年新潟大会、さらに86年修善寺大会、2000年「4党合意」を巡る大会・・・。いずれも闘う国労の獲得をめぐるものだった。この点で「動労千葉・国労高崎連合」の失敗は致命的だった。そして01年国労臨時大会で「4党合意」を巡る国労内攻防で反対派が統制処分されていく。この頃から、国鉄闘争に展望を失っていくのである。
問題は闘う国労と闘争団の獲得になぜ失敗したのかということである。この過程の事実の隠ぺいと総括のあいまいさこそが、その後の三人組の行動綱領といってもいい。すぐれて党の2000年「四党合意」攻防以来の指導の失敗である。私が「三人組」と呼称する理由と重なるが、このことは改めて詳細するときが来るかもしれない。
チャンスは何度もあった。国労高崎との連合の際は、権力との闘いで致命的敗北を喫した。鉄建公団原告団を獲得することにも失敗した。これは単に闘う国労・国労闘争団を獲得できなかったというだけではない。国鉄支援陣形の獲得にも失敗した。国鉄支援陣形は、連合結成に抗し、階級的労働運動を標榜する労働運動再生の核心だったのである。
2003年の新指導路線の核心はなにか。中野洋氏はこの頃から盛んに国際連帯とか四大産別とか青年部運動とか強調を始める。この根底にあるのは国鉄1047名闘争、闘う国労闘争団の獲得に失敗した党中央への失望である。新指導路線から始まり、2007年の党の革命にまでとどまることがない一貫した中野氏の意識は、党中央の解体的出直しであった。
この核心をめぐるやりとりが、この声明には反映している。国鉄闘争派は本当に国鉄闘争を闘ってきたのか。血債主義派批判は、三人組が国鉄決戦を闘ってこなかったことへの隠れ蓑でしかない。今までに彼らからなにひとつまともな国鉄闘争方針を聞いたことがない。
(Ⅱ)スターリン主義を越えて、とかスターリン主義批判を繰り返しているが、これもこれだけでは意味不明である。査問のやりとりを色濃く反映している。
三人組批判の核心は、スターリン主義的な党運営をやめよ、ということであった。常に敵をつくりだし、批判し、打倒して党を維持していくやり方はスターリンそのものではないか。スターリンの思想的核心をひとことでいえば、『あいつは敵だ、あいつを殺れ』ということである。いまの三人組そのものではないのか。
この間、どれだけの同志を切り捨ててきたのか。この過程で塩川派を切り捨てるやり方はおかしい、松本意見書についても党員なら誰だって意見は言えるはずだ、結柴・新城氏の除名だって彼らの資質を問題にするならば、議員活動を丸投げしてきた党の責任をまずハッキリさせるべきだ。これはついに高木徹氏を「再生不能」だから除名するという前代未聞の処分に至るのである。これだったら理由などいらない。このように政敵を除名していくというのは、スターリンそのもののやり方ではないのか。
分派は禁止なのか。
党中央を牛耳る三人組にはスターリン主義的官僚組織についての定見も批判もまるでない。分派は禁止、分派は反革命、分派活動は反党行為、として反対意見を締め出すことに腐心している。基本会議では議論が成立しない。
レーニンもボルシェビキも分派活動を否定したことはない。路線で組織した。農業・農民問題でエスエル左派の農業綱領を剽窃した。民族問題でもムスリム同胞団からの意見をそのまま取り入れている。むしろ農民問題や民族問題に対して革命ロシアが期待を裏切ったときに農民や諸民族が離れていったのである。それを強制的に統制したところにスターリン主義の発生根拠はある。わが同盟も同じである。路線と方針が転換するたびに強制力で反対派を屈服させるか、屈服しなければ切り捨ててきた。
分派活動は反革命とは全く別の概念である。反革命規定は重いものである。これが糾弾主義の根拠となり、糾弾のいきつく先は打倒であり、追放であり、抹殺である。今回の事態も例外ではない。獲得するための議論というものが今の党には存在しなくなっている。
その結果、招来している事態は恐るべきほどのイデオロギーの頽廃である。イデオロギーがいかに後退しているかは、党の文献が、最近はまったく発行されていないことでも明らかである。後退の根拠は、批判を恐れて自由な論議がなされず、誰も書かないのである。
2001年第六回党大会で選出された中央委員30名中、すでに18名は除名・排除され、政治局員は13名中、大半はいない。中央委員が半数割れして誰が政治局員を選出しているのか、そんなものは認めるわけがない、と文書にした。全国代表者会議で中央委員会や大会を代行している、との坂木の反論に対して、党規約のどこを見てもそんな会議の規定はない、ともいった。除名については規定に厳格にのっとるべきで、そのためには大会を開くべきだ、ともいった。それでは高木徹の意見と一緒だ、と坂木は反論した。当時は理解できなかったが、今回の高木除名でなるほどと思った。
発表は「スターリン主義の暗部」という表現が出てきているが、あれも査問のやりとりが反映している。宮本顕治は治安維持法ではなく殺人罪で実刑を受けて、網走刑務所にいた。治安維持法違反の幹部党員は豊多摩や宮城刑務所にいたが、出所したのは1945年10月である。ところが宮本は8月に一般刑事罰なのに、網走刑務所を仮釈放で出所している。野坂参三の延安での米国務省とのボス交もふくめて(天皇制廃止に傾いていた国務省に対して野坂は天皇制存続=利用を主張した)、日本共産党の転向過程を、いまだ解明されていない『暗部』といったのである。この間のわが党の除名は、職権も討論内容も処分理由もなにもない、単に三人組に反対しただけではないか。それはスターリン主義の『暗部』と同じではないか、といったのだ。
(Ⅲ)「プロレタリア革命運動の偉大な勝利」と打ち出している。これも唐突で、これだけでは意味不明である。背景は査問の過程から推しはかることはできる。すべては三人組の自己保身である。何度もリフレインされている労働者階級の党、特に階級に根差した地区党建設の成果、その堅実な地区党建設がスパイをあぶりだしたから「勝利」とする。あの勝利宣言の裏には激しい党中央批判が噴出した事実が隠されている。
わたしを疑った根拠を『妻の密告』と公式に発表した。妻は生粋の労働者であり、地区党の古参のメンバーである。この間の階級と党の一体的建設を体現する地区党、妻はまさにそれを体現している。ここには路線性のすべてが凝縮している。失敗することは許されない。そこで地区党を体現している妻が最初に看破して、献身的に党に密告したという構図を描き上げた。だから大勝利なのだ、という脈絡なのだろう。一番つらい思いをして、夫を密告した妻たる同志のたたかいを批判することは何人たりともできないはずだ。これで疑問は押さえこめる。こうして中央批判をかわす意図で、地区党建設の成果として妻を盾にして三人組は批判をかわした。低意ある収拾に対して妻は納得しているのだろうか。その意図を看破できているのだろうか。そう考えない限り大勝利とはとても理解に及ぶものではない。
分解する党、メルトダウンする革命の志
わたしは1967年「10・8羽田」にはじまる「激動の7か月」に身を投じて以来、半世紀を革共同ともに生きてきた。高崎経済大学で1970年前後に学生自治会委員長を二期務めた。このときの副委員長は星野文昭君で、獄中39年4か月、現在も無期懲役刑で徳島刑務所に下獄している。1971年11月の「渋谷暴動(沖縄返還協定批准阻止) 闘争」では、やはり学生自治会執行委員だった奥深山幸男君と三人で、15年間共同被告人として法廷で闘った。そしてわたしは実刑判決を受けて15年3か月を獄中で送った。奥深山君は拘禁性障害を抱えて裁判停止のまま40年5か月、今なお闘病中である。治癒しても、彼にはまだ15年の懲役刑が残っている。かれらこそ最もよく闘い、革共同を代表している。彼らからわたしを切り離せるとでも考えているのか。
満期出所して、まず目の当たりにしたのは党の惨状だった。とりわけ中央指導部の路線的不一致と私党化は目を覆うものだった。獄中の彼らに対し恥ずかしくないのか、と。
わたしは出所後、「前進」編集部への配属を固辞して、より労働現場に近い労対(WOB)をたたかいの場に選んだ。特に東京と首都圏の労働運動の中に党再建の鍵を求めた。そこは可能性に満ち溢れていた。ソ連邦の崩壊と日本社会党の解体により、労働組合は連合に呑み込まれてはいたが、それに抵抗する労働運動は健全であった。また日米安保の実態である沖縄では、怒りが沸点に達していて、統治の体をなしていない状態であった。情勢は、たたかう指導部と反帝・反スタ世界革命の党を求めていたのである。この時にわが党は何をしていたのか。現場から離れて、党内権力闘争と反対派狩りに明け暮れていたのではなかったのか。そんなことにエネルギーを費やしていた党が、吹き飛ばされたのである。致命的だったのは、80年代の民営化攻撃の核心を見誤ったことである。当時、「新自由主義」規定は禁句だった。
この点で、動労千葉の孤軍奮闘をもって党のたたかいを代置させることはできない。まさに、とってかわる新しい方針、新しい運動、あたらしい党をつくりだす必要があったのだ。
が、道半ばでわたしは病に倒れた。しかし党としてたたかった日々に後悔はない。だが今回の事態に直面して、わたしが人生をかけた党が、こんなもんだったのか、と慚愧の念でいっぱいである。
革共同は変節に変節を重ねて、今や草創の体をなしていない。まったく別の党となった。
その集大成が『革共同50年史』である。不都合な事実は秘密のベールがかぶせられていて、透明性がまったくない。偽装された事実はやがて真実へと糊塗されていく。そして今や老化した指導部の権力維持の手段に化した。これもスターリン主義の手法そのものだ。副題は「革命への挑戦」だが、一つの革命党が50年間失敗し続けたということは、すでに社会的審判が下されたということだ。
「党の革命」で打倒されたのは一部の政治局員だけではない。中央全体が打倒されたのだ。三人組も同罪である。それを清水議長の自己批判をもって自分たちを免罪し、かつ清水議長を復活させて、おのれたちが党中央を居直ることを正当化したのである。動労千葉にすがり、生き延びただけである。特に天田三紀夫は1997年以来、清水議長とともに書記長の要職にある。ともに政治局の責任者として党を運営してきたのである。書記長やそれに連なる三人組が何の痛みもなく、中央に居直ることは許されない。本人たちがいかに弁解しようとも、与田らの党の私物化を許してきた点では、あなたたちも同罪である。「党の革命」に対して三人組たちがいかに右往左往したかは、塩川氏らが証明して見せたとおりである。
「革共同50年史上の最大の勝利」とまで極言する三人組に対して、まともな論議が成り立つとは思われない。権力を守るためには今回以上のデマや捏造に走ることは目に見えているが、慎重な配慮のうえで、疑いを払しょくするために事実の一部を明らかにした。
諸君! 旧弊を打破して、前進しよう!
◆参考資料として「前進」(2588号2013.6.17.)をこの小パンフレットに差し込みます。
〔あらかわひろや〕