中国兵が綴った「日中戦争」の体験記を読めば、『南京大虐殺』の真実が見えてくる
西尾幹二氏の『GHQ焚書図書開封3』に、中国兵の陳登元氏が自らの戦争体験を綴った『敗走千里』という本の解説がある。

この本はGHQによって焚書処分にされてしまったために、戦後はほとんど日本人の目に触れる事がなかったのだが、最近になってこの解説を読んで、中国の戦争の仕方が日本人の戦争の常識とは随分かけはなれたものであることを知って、驚いてしまった。
今回は『敗走千里』の文章や西尾氏の解説を引用しながら、中国軍と日本軍との違いについて纏めてみることにしたい。
著者の陳登元氏は14、5歳の時に日本に留学するために来日し、日本の大学に進学して昭和13年には卒業する予定であったが、日中戦争が拡大したのを心配して一度郷里に戻ったところ、強制的に兵隊にとられて戦線に送られてしまう。二カ月ほど兵隊生活を送り、かなりの重傷を負って病院に収容され、傷も良くなってからこの本の原稿を書いて、日本でお世話になった大学教授に送ったのだが、1938年(昭和13年)3月にこの原稿が翻訳されて出版されたのがこの『敗走千里』であり、大虐殺があったとされる「南京事件」(1937年12月)に近い時期に書かれたものであることは注目して良い。
初めに紹介するのは、彼が兵隊にとられる場面である。
原書の文章は旧字・旧仮名だが、読みやすいように新字・新仮名とし、[ ]内のコメントは西尾氏のものである。
わが国なら戸籍に基づいて召集令状(赤紙)が来て、誰しも心の葛藤はあったにせよ、最後は逆らうことなく赤飯を炊いて出征兵士を送り出した。
一方、当時の中国には戸籍がなかったので、募兵官が直接人集めにやってきて、こういう時に中国人は、いかに徴兵から逃れるかが関心事であったようだ。彼は家の中の秘密の部屋に隠れて徴兵を逃れようとしたのだが、五六人の兵士が両親を縛り上げて、八方に分かれて家宅捜査を始めたのである。なかなか見つからないので募兵官が老夫婦を脅迫するところから引用する。

「探しあぐねた兵士たちは、店先に取って返してそこに縛られている父や母をまた責めだした。
『お前たちが飽くまで自分の息子をかばうというなら、こっちにも考えがある。群衆に命じて略奪もさせよう。群衆はお前たちも承知の通り、屋根の瓦から、床板まで剥がして持っていくだろう。むろん、お前たちは国家の統制を乱すものとして銃殺だ。…どうだ、それでもまだかばうつもりか。』
老人夫婦はふるえるばかりで口も利けなかった。顔も上げられなかった。その時、店先にたかっていた野次馬の中から
『その家には、秘密の地下室があるんだ、その中に隠れているに違いねえ』と言うものがあった。誰か近所の、事情を知っているものらしかった。
彼は遂に発見された。」(同上書 p.152-153)
「彼」というのは主人公の事で、著者の陳登元氏は自分の事を「陳子明」という名で登場させている。彼は徴兵忌避の罪で銃殺刑に処せられるところを、彼を知る中隊長に命を助けられて軍隊に入り斥候(せっこう)を命じられる。斥候の主な任務は敵軍の様子を探り監視することである。斥候を命じられた中国軍の仲間たちがどんな行動をとっていたかがわかる部分をしばらく引用する。
「下士斥候は大概の場合、五名か六名だ。それが揃っていざ出発という場合、彼等[斥候を命じられた兵士たち]はにやりと何か意味ありげな微笑をかわす。陳子明の如き、わずか1カ月ほど前から強制徴募されてきた新兵には、その微笑が何を意味するものか、初めは全然わからなかった。
が、二時間ほどして、意気揚々と帰ってきた彼らを見て、新兵たちは初めて、彼らが何故にあの危険きわまる斥候を志願するかが解った。彼等は実におびただしい種々雑多な戦利品をぶら下げているのである。主に時計とか指輪、耳飾り・・・・といったような、小さくて金目のものだが、中には重いほどそのポケットを銀貨でふくらまして来るものがある。…
ある一人の兵が持っていた耳飾りの如き、現に、たった今まである女の耳にぶらさがっていたものを無理にひきちぎってきたからだろう、血痕が滲んでさえいた。しかもその兵の、無智、暴戻、残虐を象徴するかのごとき、ひしゃげた大きな鼻、厚く突き出た大きな唇、鈍感らしい黄色い濁った眼・・・・その眼が何ものかを追憶するようににたりにたりと笑い、厚い大きな下唇を舐めずり回している顔を見ていると、陳子明の胸には、何かしら惻々(そくそく)とした哀愁が浮かんできてならなかった。あの血痕の滲んだ耳飾りと関連して、何かしら悲惨なことが行われたような気がしてならないのだった。」(同上書 p.158-159)
時計や指輪などが略奪してきた品々であることは言うまでもない。中国の兵隊は斥候をしながら中国民衆から金品を巻き上げるだけではなく、女性を凌辱する者もいたのである。
この会話はさらに続いて、耳飾りをしていた女性を殺したのかという質問に対しては、この兵士はあいまいにして答えなかったのだが、この言葉のやり取りまで引用すると長くなるので省略することとして、彼が軍隊の本質を述べている部分を引用する。
「陳子明はすべてを見た。そして、聞いた。彼はこれだけで戦争なるもの、更に軍隊なるもの、本質を残らず把握したように思った。戦争なるものがひとつの掠奪商売であり、軍隊なるものはその最もよく訓練された匪賊*であるということである。
しかし、そんなことは今どうでもいい。問題は、自分が好むと好まざるとにかかわらず、国家という大きな権力の下に、自分がその匪賊の仲間入りしたことである。自分一人は純潔のつもりでいても、濁水の中に交った清水は結局濁水である。」(同上書 p.161)
*匪賊:集団で略奪などを行なう盗賊
次の場面は、彼の所属する軍が窓覆いをおろされて外の景色が見えない電車に乗せられ、どこかわからないところに移動しているところである。仲間同士で、もうすぐ日本軍と大激戦になって死ぬ者がかなり出るだろうという話題になり、そこで軍曹が、おれが指揮官だったら兵隊を犬死させないためにこういう策戦をとると、周りの兵隊に話を持ちかけた。ポイントとなる部分を引用する。
「『ほう、どんな策戦です?』
声明が助かるということだったら、今の場合、どんな児戯に類したことでも聞きたい。それは偽りのない彼らの心境だった。
『それは、敵に気づかれないように、ここの戦線をそっと引き揚げるんだ。そして、奥地の山岳地帯に敵を誘い込んで、ここに現れたかと思うと、彼方に現れ、あちらに現れたかと思うとこちらに現れ、敵を奔命に疲らすんだ。そして、俺達は全部、便衣になるんだ。そしていよいよ追い詰められた時は、百姓になって誤魔化してもいいし、商人になってもいい。とにかく良民に化けて敵の眼からのがれる工夫をするんだ。』」(同上書 p.165)
「便衣」というのは普段着のことだが、要するに切羽詰ったら軍服を脱いで一般人に変装して前線から逃れたり、あるいは隙をついて日本軍に攻撃を仕掛けようと言っているのだ。しかもその「便衣」も、どこかの村などから衣服を略奪することが多かったようだ。
大虐殺があったとされる「南京事件」では、実際に中国兵が軍服を脱ぎ捨てて一般人になりすまして日本軍を攻撃したのだが、このような行為は明らかな戦時国際法違反である。「便衣兵」はつまるところゲリラであり、交戦資格はない。なぜなら、このような戦法を認めれば多くの民間人を巻き込んでしまうからだ。
それゆえに、もし平服で敵対行為をすれば戦時重罪犯の下に、その場で死刑かそれに近き重罪に処されることは戦時公法の認めるところである。この場合にゲリラを処刑する行為は「虐殺」にも「捕虜殺害」にもあたらないのだ。
下の画像は岩波新書『南京事件』P107にある便衣兵の画像である。

次に紹介するのは実際の戦いの場面であるが、日本軍の追撃におされて、退却しようとする中国兵に味方の兵が銃を撃つ場面である。
「退却部隊はひっきりなしに、ざっ、ざっ、ざっ・・・・と走っている。終いになる程、ただ色でない顔つきになってくる。みんな必死の顔だ。服装までが裂けたり、泥だの血だので汚れ返っている。しかも、追撃に移った敵軍[日本軍]の銃砲聲が、猛烈に、手に取るように近々と聞こえ出してきた。本来ならここらで一旦退却体制を整備して、反撃に移らなければならないのだ。…
が、この死にもの狂いの見方の軍隊の顔つきを見ると、それは到底不可能だと諦めに到達する[もう一回日本軍と戦うことはとてもできないという意味]。…こうなっては自然に任すより他はないのだ。…
要するに、彼も…一緒に走るより他ない。だから彼は走った。走っていると、より一層早く走らなければならないという気持ちに駆り立てられる。…
町に近づくにつれ、異様な光景が眼につき出した。仲間の退却軍であろう。あちこちに屍骸をさらしているのだ[味方から撃たれて、死体の山ができている]。自分が肘をやられたと同じく、味方から発砲されて、やられたものに違いない。
退却部隊は、町の入口近くで急に右に曲がって、町の北側の方向に延々と続いて走っている。おかしいぞ------と思っているうちに、彼はその曲がり角のところに来た。そして見た。
急拵えの鉄条網が町の入口を塞いでいるのである[町の中に入れないようにしてある]。そして、その背後に武装した兵士がずらっと、機関銃の銃口とともに、自らの方向を睨んで立っている。しかも、そのすぐ前には、堂々と塹壕の掘削工事が始められている。…」(同上書 p.171-173)
要するに、兵士が簡単に退却することがないように、町の入口に鉄条網を張って町に入れないようにして、退却しようとする兵士は味方の中国兵によって銃殺されていたのである。
ちなみに、主人公の陳子明氏は鉄条網の向こう側にうまくもぐりこんで命を拾ったのだそうだ。
この本の中に何度か出てくるのだが、中国軍には前線の後方にいて自軍の兵士を監視し、命令無しに勝手に戦闘から退却(敵前逃亡)したり、降伏するような行動をとれば自軍兵士に攻撃を加え、強制的に戦闘を続行させる任務を持った「督戦隊(とくせんたい)」という部隊が存在した。この督戦隊に殺された中国兵士が日中戦争では少なくなかったのである。
次のサイトは中国語のサイトであるが、
「在中日8年戰爭中的中國軍督戰隊是使中國軍隊死亡數目最多的原因之一。」
と書かれている。
日中戦争で多数の中国軍兵士が死亡した最大の原因のひとつがこの督戦隊によるものであるという意味のようだ。
http://www.buddhanet.idv.tw/aspboard/dispbbs.asp?boardID=12&ID=27094&page=7
『南京事件』では、南京の城門のところに多数の中国人の死体があったことが、多くの日本兵士によって目撃されており、日本軍との戦争で死亡した兵士よりも、自軍の督戦隊に射殺された兵士の方が多かったと多くの人が指摘している。司令官が「死守」と言えば、兵隊は文字通り死ぬまで戦わされていたのである。

南京城にいた蒋介石総統は12月7日に南京を脱出し重慶へ逃げた。その後を任された唐生智(とうせいち)防衛司令長官は12月11日に全軍に「各隊各個に包囲を突破して、目的地に集結せよ」と指令しておきながら、12日の夜に南京の守備を放り出して逃げてしまった。その時に兵は逃げられないようにトーチカの床に鎖で足を縛りつけ、長江への逃げ道になる南京城の邑江門には督戦隊を置いていったという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E4%BA%AC%E6%94%BB%E7%95%A5%E6%88%A6
指揮官がいなくなってしまって軍紀が乱れ、多くの中国軍は民衆に暴行を加え衣服を奪い取り軍服を脱ぎ捨てて、一般人になりすまして逃亡したといわれているが、『敗走千里』に記されている中国兵の実態を知らずしては、「南京大虐殺」の本質を見誤ることにならないか。
『敗走千里』という本の内容は決してフィクションではない。陳登元氏が体験した戦いの場所は異なるかもしれないが、中国軍の本質は南京事件においても同じで、当時の別の記録や外国の新聞記事などからもその裏付けをとることが出来る。

水間政憲氏の『ひと目でわかる 日韓・日中歴史の真実』という本は、当時の史料を多数紹介されているのでお勧めだが、その44ページに南京を逃げ出した蒋介石の1937年11月30日の日記を紹介しておられる。
「抗戦の果てに東南の豊かな地域が敗残兵の掠奪場と化してしまった。戦争前には思いもよらなかった事態だ(中略)撤兵時の掠奪強姦など軍規逸脱のすさまじさにつき、世の軍事家が予防を考えるよう望むのみだ」
蒋介石のこの文章は無責任極まりないものであるが、明らかに自国にとって不利となる発言をしている点についてはもっと注目して良いのだと思う。
また国民党軍の敗残兵が南京城内になだれ込み便衣兵になったことを、南京陥落前に米紙が報道しているのだ。

水間氏の著書の56-57ページに、ニューヨークタイムズ紙のダーディン記者が報じた12月12日(日曜日)付の記事が引用されている。南京が陥落した日はその翌日の事である。
「日曜日の正午…中国軍の崩壊が始まった。第八十八師の新兵がまず逃亡し、たちまち他の者がそれに続いた。…将校たちは状況に対処することもしなかった。一部は銃を捨て、軍服を脱ぎ、便衣を身につけた。記者が12日の夕方、市内を車で回ったところ、一部隊全員が軍服を脱ぐのを目撃した…多くの兵士は下関へ向かって進む途中で軍服を脱いだ。…中には素っ裸となって一般市民の衣服をはぎとっている兵士もいた。」
「日曜日の夕方には…軍服とともに武器も遺棄された軍装品の量はおびただしいものだった」
南京事件における中国軍の残虐行為や略奪行為などは、次のURLにさらに詳しい史料とともに記述されている。
http://www.history.gr.jp/~nanking/nanking.html#10

水間氏の著書にも、ニューヨークタイムズの記者が12月7日付で、中国軍が南京市外10マイルの地域内にある全村落に火を放ったことを報じていることを伝えた12月9日付の朝日新聞の画像がある。
またWikipediaには1938年1月4日付のニューヨークタイムズ紙の記事が紹介されている。元将校たちは何のために女子大にいたのか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E4%BA%AC%E4%BA%8B%E4%BB%B6_(1937%E5%B9%B4)#cite_note-29
「<元支那軍将校が避難民の中に 大佐一味が白状、南京の犯罪を日本軍のせいに>
南京の金陵女子大学に、避難民救助委員会の外国人委員として残留しているアメリカ人教授たちは、逃亡中の大佐一味とその部下の将校を匿っていたことを発見し、心底から当惑した。実のところ教授たちは、この大佐を避難民キャンプで2番目に権力ある地位につけていたのである。この将校たちは、支那軍が南京から退却する際に軍服を脱ぎ捨て、それから女子大の建物に住んでいて発見された。彼らは大学の建物の中に、ライフル6丁とピストル5丁、砲台からはずした機関銃一丁に、弾薬をも隠していたが、それを日本軍の捜索隊に発見されて、自分たちのものであると自白した。この元将校たちは、南京で掠奪した事と、ある晩などは避難民キャンプから少女たちを暗闇に引きずり込んで、その翌日には日本兵が襲ったふうにしたことを、アメリカ人や外の外国人たちのいる前で自白した。」
民間人に対する残虐な行為が南京陥落前後にどの程度あったかは今となっては知る由もないが、その原因の大半は中国兵の方にあったと考える方が自然ではないのか。
それでも通説の通り残虐な行為があったのは日本軍だけだと思いたい人はいるだろうが、日本軍が制圧したのちわずか1か月で、南京の人口が20万人から25万人に増えていることを、どう説明すればよいのだろうか。また南京安全区国際委員会の委員長ジョン・H・D・ラーベ氏が、国際委員会を代表して日本軍に感謝状を贈ったことをどう理解すればよいのだろうか。
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この本はGHQによって焚書処分にされてしまったために、戦後はほとんど日本人の目に触れる事がなかったのだが、最近になってこの解説を読んで、中国の戦争の仕方が日本人の戦争の常識とは随分かけはなれたものであることを知って、驚いてしまった。
今回は『敗走千里』の文章や西尾氏の解説を引用しながら、中国軍と日本軍との違いについて纏めてみることにしたい。
著者の陳登元氏は14、5歳の時に日本に留学するために来日し、日本の大学に進学して昭和13年には卒業する予定であったが、日中戦争が拡大したのを心配して一度郷里に戻ったところ、強制的に兵隊にとられて戦線に送られてしまう。二カ月ほど兵隊生活を送り、かなりの重傷を負って病院に収容され、傷も良くなってからこの本の原稿を書いて、日本でお世話になった大学教授に送ったのだが、1938年(昭和13年)3月にこの原稿が翻訳されて出版されたのがこの『敗走千里』であり、大虐殺があったとされる「南京事件」(1937年12月)に近い時期に書かれたものであることは注目して良い。
初めに紹介するのは、彼が兵隊にとられる場面である。
原書の文章は旧字・旧仮名だが、読みやすいように新字・新仮名とし、[ ]内のコメントは西尾氏のものである。
わが国なら戸籍に基づいて召集令状(赤紙)が来て、誰しも心の葛藤はあったにせよ、最後は逆らうことなく赤飯を炊いて出征兵士を送り出した。
一方、当時の中国には戸籍がなかったので、募兵官が直接人集めにやってきて、こういう時に中国人は、いかに徴兵から逃れるかが関心事であったようだ。彼は家の中の秘密の部屋に隠れて徴兵を逃れようとしたのだが、五六人の兵士が両親を縛り上げて、八方に分かれて家宅捜査を始めたのである。なかなか見つからないので募兵官が老夫婦を脅迫するところから引用する。
「探しあぐねた兵士たちは、店先に取って返してそこに縛られている父や母をまた責めだした。
『お前たちが飽くまで自分の息子をかばうというなら、こっちにも考えがある。群衆に命じて略奪もさせよう。群衆はお前たちも承知の通り、屋根の瓦から、床板まで剥がして持っていくだろう。むろん、お前たちは国家の統制を乱すものとして銃殺だ。…どうだ、それでもまだかばうつもりか。』
老人夫婦はふるえるばかりで口も利けなかった。顔も上げられなかった。その時、店先にたかっていた野次馬の中から
『その家には、秘密の地下室があるんだ、その中に隠れているに違いねえ』と言うものがあった。誰か近所の、事情を知っているものらしかった。
彼は遂に発見された。」(同上書 p.152-153)
「彼」というのは主人公の事で、著者の陳登元氏は自分の事を「陳子明」という名で登場させている。彼は徴兵忌避の罪で銃殺刑に処せられるところを、彼を知る中隊長に命を助けられて軍隊に入り斥候(せっこう)を命じられる。斥候の主な任務は敵軍の様子を探り監視することである。斥候を命じられた中国軍の仲間たちがどんな行動をとっていたかがわかる部分をしばらく引用する。
「下士斥候は大概の場合、五名か六名だ。それが揃っていざ出発という場合、彼等[斥候を命じられた兵士たち]はにやりと何か意味ありげな微笑をかわす。陳子明の如き、わずか1カ月ほど前から強制徴募されてきた新兵には、その微笑が何を意味するものか、初めは全然わからなかった。
が、二時間ほどして、意気揚々と帰ってきた彼らを見て、新兵たちは初めて、彼らが何故にあの危険きわまる斥候を志願するかが解った。彼等は実におびただしい種々雑多な戦利品をぶら下げているのである。主に時計とか指輪、耳飾り・・・・といったような、小さくて金目のものだが、中には重いほどそのポケットを銀貨でふくらまして来るものがある。…
ある一人の兵が持っていた耳飾りの如き、現に、たった今まである女の耳にぶらさがっていたものを無理にひきちぎってきたからだろう、血痕が滲んでさえいた。しかもその兵の、無智、暴戻、残虐を象徴するかのごとき、ひしゃげた大きな鼻、厚く突き出た大きな唇、鈍感らしい黄色い濁った眼・・・・その眼が何ものかを追憶するようににたりにたりと笑い、厚い大きな下唇を舐めずり回している顔を見ていると、陳子明の胸には、何かしら惻々(そくそく)とした哀愁が浮かんできてならなかった。あの血痕の滲んだ耳飾りと関連して、何かしら悲惨なことが行われたような気がしてならないのだった。」(同上書 p.158-159)
時計や指輪などが略奪してきた品々であることは言うまでもない。中国の兵隊は斥候をしながら中国民衆から金品を巻き上げるだけではなく、女性を凌辱する者もいたのである。
この会話はさらに続いて、耳飾りをしていた女性を殺したのかという質問に対しては、この兵士はあいまいにして答えなかったのだが、この言葉のやり取りまで引用すると長くなるので省略することとして、彼が軍隊の本質を述べている部分を引用する。
「陳子明はすべてを見た。そして、聞いた。彼はこれだけで戦争なるもの、更に軍隊なるもの、本質を残らず把握したように思った。戦争なるものがひとつの掠奪商売であり、軍隊なるものはその最もよく訓練された匪賊*であるということである。
しかし、そんなことは今どうでもいい。問題は、自分が好むと好まざるとにかかわらず、国家という大きな権力の下に、自分がその匪賊の仲間入りしたことである。自分一人は純潔のつもりでいても、濁水の中に交った清水は結局濁水である。」(同上書 p.161)
*匪賊:集団で略奪などを行なう盗賊
次の場面は、彼の所属する軍が窓覆いをおろされて外の景色が見えない電車に乗せられ、どこかわからないところに移動しているところである。仲間同士で、もうすぐ日本軍と大激戦になって死ぬ者がかなり出るだろうという話題になり、そこで軍曹が、おれが指揮官だったら兵隊を犬死させないためにこういう策戦をとると、周りの兵隊に話を持ちかけた。ポイントとなる部分を引用する。
「『ほう、どんな策戦です?』
声明が助かるということだったら、今の場合、どんな児戯に類したことでも聞きたい。それは偽りのない彼らの心境だった。
『それは、敵に気づかれないように、ここの戦線をそっと引き揚げるんだ。そして、奥地の山岳地帯に敵を誘い込んで、ここに現れたかと思うと、彼方に現れ、あちらに現れたかと思うとこちらに現れ、敵を奔命に疲らすんだ。そして、俺達は全部、便衣になるんだ。そしていよいよ追い詰められた時は、百姓になって誤魔化してもいいし、商人になってもいい。とにかく良民に化けて敵の眼からのがれる工夫をするんだ。』」(同上書 p.165)
「便衣」というのは普段着のことだが、要するに切羽詰ったら軍服を脱いで一般人に変装して前線から逃れたり、あるいは隙をついて日本軍に攻撃を仕掛けようと言っているのだ。しかもその「便衣」も、どこかの村などから衣服を略奪することが多かったようだ。
大虐殺があったとされる「南京事件」では、実際に中国兵が軍服を脱ぎ捨てて一般人になりすまして日本軍を攻撃したのだが、このような行為は明らかな戦時国際法違反である。「便衣兵」はつまるところゲリラであり、交戦資格はない。なぜなら、このような戦法を認めれば多くの民間人を巻き込んでしまうからだ。
それゆえに、もし平服で敵対行為をすれば戦時重罪犯の下に、その場で死刑かそれに近き重罪に処されることは戦時公法の認めるところである。この場合にゲリラを処刑する行為は「虐殺」にも「捕虜殺害」にもあたらないのだ。
下の画像は岩波新書『南京事件』P107にある便衣兵の画像である。
次に紹介するのは実際の戦いの場面であるが、日本軍の追撃におされて、退却しようとする中国兵に味方の兵が銃を撃つ場面である。
「退却部隊はひっきりなしに、ざっ、ざっ、ざっ・・・・と走っている。終いになる程、ただ色でない顔つきになってくる。みんな必死の顔だ。服装までが裂けたり、泥だの血だので汚れ返っている。しかも、追撃に移った敵軍[日本軍]の銃砲聲が、猛烈に、手に取るように近々と聞こえ出してきた。本来ならここらで一旦退却体制を整備して、反撃に移らなければならないのだ。…
が、この死にもの狂いの見方の軍隊の顔つきを見ると、それは到底不可能だと諦めに到達する[もう一回日本軍と戦うことはとてもできないという意味]。…こうなっては自然に任すより他はないのだ。…
要するに、彼も…一緒に走るより他ない。だから彼は走った。走っていると、より一層早く走らなければならないという気持ちに駆り立てられる。…
町に近づくにつれ、異様な光景が眼につき出した。仲間の退却軍であろう。あちこちに屍骸をさらしているのだ[味方から撃たれて、死体の山ができている]。自分が肘をやられたと同じく、味方から発砲されて、やられたものに違いない。
退却部隊は、町の入口近くで急に右に曲がって、町の北側の方向に延々と続いて走っている。おかしいぞ------と思っているうちに、彼はその曲がり角のところに来た。そして見た。
急拵えの鉄条網が町の入口を塞いでいるのである[町の中に入れないようにしてある]。そして、その背後に武装した兵士がずらっと、機関銃の銃口とともに、自らの方向を睨んで立っている。しかも、そのすぐ前には、堂々と塹壕の掘削工事が始められている。…」(同上書 p.171-173)
要するに、兵士が簡単に退却することがないように、町の入口に鉄条網を張って町に入れないようにして、退却しようとする兵士は味方の中国兵によって銃殺されていたのである。
ちなみに、主人公の陳子明氏は鉄条網の向こう側にうまくもぐりこんで命を拾ったのだそうだ。
この本の中に何度か出てくるのだが、中国軍には前線の後方にいて自軍の兵士を監視し、命令無しに勝手に戦闘から退却(敵前逃亡)したり、降伏するような行動をとれば自軍兵士に攻撃を加え、強制的に戦闘を続行させる任務を持った「督戦隊(とくせんたい)」という部隊が存在した。この督戦隊に殺された中国兵士が日中戦争では少なくなかったのである。
次のサイトは中国語のサイトであるが、
「在中日8年戰爭中的中國軍督戰隊是使中國軍隊死亡數目最多的原因之一。」
と書かれている。
日中戦争で多数の中国軍兵士が死亡した最大の原因のひとつがこの督戦隊によるものであるという意味のようだ。
http://www.buddhanet.idv.tw/aspboard/dispbbs.asp?boardID=12&ID=27094&page=7
『南京事件』では、南京の城門のところに多数の中国人の死体があったことが、多くの日本兵士によって目撃されており、日本軍との戦争で死亡した兵士よりも、自軍の督戦隊に射殺された兵士の方が多かったと多くの人が指摘している。司令官が「死守」と言えば、兵隊は文字通り死ぬまで戦わされていたのである。
南京城にいた蒋介石総統は12月7日に南京を脱出し重慶へ逃げた。その後を任された唐生智(とうせいち)防衛司令長官は12月11日に全軍に「各隊各個に包囲を突破して、目的地に集結せよ」と指令しておきながら、12日の夜に南京の守備を放り出して逃げてしまった。その時に兵は逃げられないようにトーチカの床に鎖で足を縛りつけ、長江への逃げ道になる南京城の邑江門には督戦隊を置いていったという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E4%BA%AC%E6%94%BB%E7%95%A5%E6%88%A6
指揮官がいなくなってしまって軍紀が乱れ、多くの中国軍は民衆に暴行を加え衣服を奪い取り軍服を脱ぎ捨てて、一般人になりすまして逃亡したといわれているが、『敗走千里』に記されている中国兵の実態を知らずしては、「南京大虐殺」の本質を見誤ることにならないか。
『敗走千里』という本の内容は決してフィクションではない。陳登元氏が体験した戦いの場所は異なるかもしれないが、中国軍の本質は南京事件においても同じで、当時の別の記録や外国の新聞記事などからもその裏付けをとることが出来る。
水間政憲氏の『ひと目でわかる 日韓・日中歴史の真実』という本は、当時の史料を多数紹介されているのでお勧めだが、その44ページに南京を逃げ出した蒋介石の1937年11月30日の日記を紹介しておられる。
「抗戦の果てに東南の豊かな地域が敗残兵の掠奪場と化してしまった。戦争前には思いもよらなかった事態だ(中略)撤兵時の掠奪強姦など軍規逸脱のすさまじさにつき、世の軍事家が予防を考えるよう望むのみだ」
蒋介石のこの文章は無責任極まりないものであるが、明らかに自国にとって不利となる発言をしている点についてはもっと注目して良いのだと思う。
また国民党軍の敗残兵が南京城内になだれ込み便衣兵になったことを、南京陥落前に米紙が報道しているのだ。
水間氏の著書の56-57ページに、ニューヨークタイムズ紙のダーディン記者が報じた12月12日(日曜日)付の記事が引用されている。南京が陥落した日はその翌日の事である。
「日曜日の正午…中国軍の崩壊が始まった。第八十八師の新兵がまず逃亡し、たちまち他の者がそれに続いた。…将校たちは状況に対処することもしなかった。一部は銃を捨て、軍服を脱ぎ、便衣を身につけた。記者が12日の夕方、市内を車で回ったところ、一部隊全員が軍服を脱ぐのを目撃した…多くの兵士は下関へ向かって進む途中で軍服を脱いだ。…中には素っ裸となって一般市民の衣服をはぎとっている兵士もいた。」
「日曜日の夕方には…軍服とともに武器も遺棄された軍装品の量はおびただしいものだった」
南京事件における中国軍の残虐行為や略奪行為などは、次のURLにさらに詳しい史料とともに記述されている。
http://www.history.gr.jp/~nanking/nanking.html#10
水間氏の著書にも、ニューヨークタイムズの記者が12月7日付で、中国軍が南京市外10マイルの地域内にある全村落に火を放ったことを報じていることを伝えた12月9日付の朝日新聞の画像がある。
またWikipediaには1938年1月4日付のニューヨークタイムズ紙の記事が紹介されている。元将校たちは何のために女子大にいたのか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E4%BA%AC%E4%BA%8B%E4%BB%B6_(1937%E5%B9%B4)#cite_note-29
「<元支那軍将校が避難民の中に 大佐一味が白状、南京の犯罪を日本軍のせいに>
南京の金陵女子大学に、避難民救助委員会の外国人委員として残留しているアメリカ人教授たちは、逃亡中の大佐一味とその部下の将校を匿っていたことを発見し、心底から当惑した。実のところ教授たちは、この大佐を避難民キャンプで2番目に権力ある地位につけていたのである。この将校たちは、支那軍が南京から退却する際に軍服を脱ぎ捨て、それから女子大の建物に住んでいて発見された。彼らは大学の建物の中に、ライフル6丁とピストル5丁、砲台からはずした機関銃一丁に、弾薬をも隠していたが、それを日本軍の捜索隊に発見されて、自分たちのものであると自白した。この元将校たちは、南京で掠奪した事と、ある晩などは避難民キャンプから少女たちを暗闇に引きずり込んで、その翌日には日本兵が襲ったふうにしたことを、アメリカ人や外の外国人たちのいる前で自白した。」
民間人に対する残虐な行為が南京陥落前後にどの程度あったかは今となっては知る由もないが、その原因の大半は中国兵の方にあったと考える方が自然ではないのか。
それでも通説の通り残虐な行為があったのは日本軍だけだと思いたい人はいるだろうが、日本軍が制圧したのちわずか1か月で、南京の人口が20万人から25万人に増えていることを、どう説明すればよいのだろうか。また南京安全区国際委員会の委員長ジョン・H・D・ラーベ氏が、国際委員会を代表して日本軍に感謝状を贈ったことをどう理解すればよいのだろうか。
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Author:しばやん
京都のお寺に生まれ育ち、大学の経済学部を卒業してからは普通の会社に入りました。
若いころはあまり歴史に興味を覚えなかったのですが、50歳のころに勝者が叙述する歴史が必ずしも真実ではないことに気が付き、調べているうちに日本史全般に興味が広がっていきました。
4年ほど前にあるブログサービスでブログを始めましたが、容量に限界がありバックアップもとれないので、しばらく新しい記事を掲載しながら、過去の主要な記事を当初の作成日にあわせて、4か月ほどかけてこちらのブログに手作業で移し替え、平成26年に入ったのを期に正式にこのブログに一本化しました。
従来のメインのブログでは読者の皆様から、数多くの有益なコメントを頂きましたが、コメントまでは移しきれなかったことをご容赦願います。
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コメント、トラックバック共に歓迎しますが、記事内容とあまり関係ない内容を論拠を示さないまま一方的に自説を唱えたり、どこかの掲示板などの文章をまるまる引用しているだけのコメントは削除させていただくことがあります。
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