正論 平成25年 10月号 産経新聞編集委員 岡部伸
http://www.amazon.co.jp/dp/B00ENMGQ4A
http://www.fujisan.co.jp/product/1482/b/952472/
イギリスで発見!「共産主義の戦争責任」追及に新証拠
日本を赤化寸前まで追い込んだ「敗戦革命」工作
やはり「敗戦革命」は存在した−。英機密文書が明かす恐るべき謀略
2013.10.26
正論 平成25年 10月号 産経新聞編集委員 岡部伸
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イギリスで発見! 「共産主義の戦争責任」追及に新証拠
日本を赤化寸前に追い込んだ「敗戦革命」工作
やはり「敗戦革命」は存在した−。英機密文書が明かす恐るべき謀略
日本中枢のコミンテルン汚染
思わず腰を抜かしてしまった。今年5月に訪れたロンドン郊外キューガーデンにある英国立公文書館。対日参戦の準備を進めていたソ連に日本が米英との和平仲介を頼った工作。この愚かな工作はなぜ進められたのか。そのナゾを解くべく、イギリス政府の通信傍受機関、ブレッチリーパーク(GCHQ 政府暗号学校)が大戦末期に世界各国の外交電報を傍受、解読した最高機密文書ULTRAの束と格闘していた時だった。
「日本政府の重要メンバーの多くが共産主義者たち(コミンテルン諜報網)に降伏(魂を明け渡)し、ソ連に助けを求めている」
こんな衝撃的なULTRAが飛び込んできた。電報の発信者は、スイスのベルンに駐在する中国国民政府の陸軍武官(インテリジェンス・オフィサー)。第二次大戦末期の1945年6月22日付で重慶の軍参謀本部あてに打たれ、入手先は「米国からの最高機密情報」とある。そして本文は次のように書かれていた。
「国家を救うため、現在の日本政府の重要メンバーの多くが完全に日本の共産主義者たち(原文では日本共産党だが、日本共産党は党組織が壊滅していたため、日本に存在した共産主義者たちの地下ネットワーク、あるいはコミンテルン=国際共産主義者の諜報網と訳す)に降伏している。あらゆる分野部門で行動することを認められている彼ら(共産主義者たち)は、全ての他国の共産党と連携しながら、モスクワ(ソ連)に助けを求めようとしている。日本人は、皇室の維持だけを条件に、完全に共産主義者たちに取り仕切られた日本政府をソ連が助けてくれるはずだと(米英との和平仲介工作を)提案している」
ベルン駐在の中国武官は、日本が国体護持(皇室の維持)だけを条件に、ソ連に接近して米英との和平仲介を委ねようとしていることを突き止めた。その背景で中枢が「完全に共産主義者たち(コミンテルン諜報網)に降伏して、取り仕切られている」と分析。ソ連及び国際共産主義コミンテルンが中枢に浸透し、水面下で操っていることを見抜いたのだ。そして、「全ての他国の共産党と連携しながら」ソ連に助けを求めていると断じ、日本の共産主義者たちが延安の中国共産党などとも協力関係にあったと指摘していた。
まずこの電報の情報源が「米国からの最高機密情報」であることに注目していただきたい。中立国スイスの首都であるベルンは、当時、連合国、枢軸国、中立国のインテリジェンス・オフィサーが暗躍する世界で最もホットな諜報戦の重要拠点だった。とりわけドイツ降伏後は、ドイツから逃れた諜報員たちが移り、枢軸国で唯一残った日本の動向をめぐって熾烈な情報戦が繰り広げられた。その中でも群を抜いていたのが後の米中央情報局(CIA)長官となる戦略情報局(OSS)欧州総局長、アレン・ダレスだった。電報が打たれた2ヶ月前の4月には、北イタリアのドイツ軍との停戦・降伏交渉を成功に導き、見事降伏を実現させている。世に言う「サンライズ作戦」である。その余勢を駆って日本とも5月ごろから亡命ドイツ人でOSSの工作員、フリードリヒ・ハックを介してベルン海軍武官補佐官、藤村義朗中佐と接触。さらにスイスの国際決済銀行理事、ペル・ヤコブソン、国際決済銀行に出向していた横浜正金銀行の北村孝治郎、吉村侃を介して陸軍武官、岡本清福中将と加瀬俊一公使らとも和平交渉を行っている。アレン・ダレスは各国スパイが暗躍するベルンの「主役」だった。中国武官が「最高機密情報」と記した米国の高官とは、アレン・ダレスにほかならない。となると、この電報はアレン・ダレスつまり当時の米国の情報機関OSS(戦後CIAとなる)が見立てた見解となる。ならば、少なくとも米国と中国国民党政府が「日本が共産主義者に降伏している」ことを見抜いていたことになるだろう。
国策決定当日の打電
この電報がベルンから重慶に打たれた日付に注目していただきたい。1945年6月22日、東京では最高戦争指導者会議が開催され、鈴木貫太郎首相が4月から検討して来たソ連仲介和平案を国策として正式に決め、近衛文麿元首相を特使としてモスクワに派遣する計画が具体化した。奇妙にもソ連仲介案が正式決定したその日に、ベルンから「共産主義者たちに降伏した日本がソ連に助けを求めている」と報告しているのである。スイス・ベルンは日本から夏時間で7時間遅れの時差があることを差し引いても、国策が決まった直後に打電されていることには、アメリカの素早い情報のキャッチとともに驚くしかない。しかも中国は以前から「迷走」する日本の動きを正確に捉えていたのである。
「HW12」のレファレンス番号に分類されている最高機密文書ULTRAをヤルタ会談が行われた45年2月に遡り、終戦までをチェックすると、この武官は、日本の終戦工作の全てを把握し、ソ連の対日参戦の動きを逐一捉え、日本を丸裸にしていたことが分かる。
例えば、同年2月15日付では、「ヤルタ会談の公式発表では明らかにされていないが、真実はテヘラン会談で合意したこと(ソ連がドイツ降伏後に対日参戦)を正式に決めたこと」とソ連参戦の「密約」が交わされた事実を伝え、5月4日には、「スイス情報によると、極東へ大規模な兵力移送が続いており、ソ連は直ちに参戦する可能性がある」と報告。また5月22日には、「フランス情報で、日本は米英との和平交渉の仲介をソ連に依頼したが、ソ連は拒絶した」と打電。さらに「最近当地スイスで日本が和平交渉を始めた」(6月19日)、「日本公使館員は駐ベルンアメリカ大使館とパイプのある人物と和平交渉に入った」−とも報告していた。
この中国の武官はいかなる人物だろうか。一連の電報の中には、(Robert)・Chitsunという名前が記されているものがあった。情報源も、今回のアメリカのほかフランスなど連合国からスイス、スウェーデンの中立国、さらに敵国ドイツまで複雑多岐にわたり、ドイツ降伏後、世界から孤立する日本を全方位からチェックしている。国民政府の資料では、大戦末期のベルンには「斎?」という武官が駐在しており、ULTRAに登場するChitsuinと同一人物だろう。斎?は1940年にドイツ・ベルリンに陸軍武官として赴任したが、45年初めごろベルンに移り、表の肩書きは公使館の経済班員だった。陸軍武官でありながら、ブレッチリー・パークの傍受解読分類で、外交電報で登場するのは、経済班の外交官という表の肩書きを持っていたためとみられる。帰国後は国民政府軍事委員会秘書を務めたという。多くの国のインテリジェンス・オフィサーと人脈を築き、日本のすべてを読んでいた諜報力には驚愕される。ULTRAでは、国民政府武官と記載されているが、大戦末期は、第二次国共合作が行われた時期であり、斎?武官が中国共産党員であった可能性もある。「日本が共産主義者に降伏している」との電報も、ことごとく日本の動きを正確に把握していた一連の電報の一つである。それゆえ信頼性が高いのである。
蔓延する対ソ連携という幻想
では、「共産主義に降伏している」政府中枢とは一体誰のことだろうか。大戦時は、陸軍とりわけ統制派が主導権を握っており、陸軍統制派と考えるのが一般的だろう。それを裏付ける史料がULTRAにあった。ヤルタ会談が終わった直後の45年2月14日にベルン駐在ポーランド外交官が、ベルンの日本外交官談話として、ロンドンの亡命ポーランド政府に送った電報である。
「日本はドイツ敗戦後中立国との外交が一層重要になる。ソ連との関係がカードとして身を守る保険として重要になる。日本とソ連は結合してアングロサクソンに対抗、アジアの影響力と利害を分け合う関係に変わるかもしれない。日本の軍部では、いまだに、東京−ベルリン−モスクワで連携して解決する幻想を抱いている。ここでベルリンとは、共産党政府もしくはソ連に共感を抱く政府のことである」
軍部が、なお日独ソの連携に幻想を抱き、共産主義に共感を抱いているというのだ。アングロサクソンに対抗するためソ連と結合してアジアの利権を分け合うというのは実現性に乏しい白日夢だろう。ソ連はヤルタで対日参戦の密約を交わしている。ポーランド外交官が日本公使館員から聞いた情報として伝えているので、日本の外務当局が「軍部は共産主義に共感を抱き、ソ連に幻想を抱いている」と理解していたとも考えられる。中国の電報が指摘した日本政府の指導層とは、軍部とりわけ陸軍統制派であったに違いない。
ここまで来れば合点が行くことだろう。日本は早くからソ連が中立条約を破って参戦してくることを察知していた。1945年2月、クリミア半島ヤルタでソ連が対日参戦を正式に決めた密約を会談直後にストックホルムから陸軍武官、小野寺信少将が参謀本部に打電していた(詳しくは拙書『消えたヤルタ密約緊急電−情報士官・小野寺信の戦い』=新潮選書=をご覧いただきたい)。さらに同3月に大島浩駐ドイツ大使が「ロシアが適当な時期に参戦する」と外務省に打電。5月以降は、ベルン海軍武官やリスボン陸軍武官らもソ連参戦を機密電報で報告している。6月22日の最高戦争指導会議でソ連仲介和平を決定する時点で、陸軍、海軍、外務省ともソ連参戦情報は掴んでいたのだ。にもかかわらずソ連が「最後は助けてくれる」「交渉で参戦阻止できる」と希望的観測を抱き、ソ連に擦り寄り、和平交渉を委ねたのである。この様な非論理的行動も、政府中枢にコミンテルンが浸透し、水面下でソ連と気脈を通じる人物がいたのなら理解出来よう。愚策ではなく、共産主義国家建設に向けた「敗戦革命」工作だったと解釈すれば筋が通るのだ。
この中国武官の電報(OSSの見解)が見抜いたように、ソ連仲介による終戦工作を推進する中で、コミンテルンの浸透を許した日本中枢の共産国家ソ連に対する認識は極めて甘かった。軍部だけがソ連に傾斜していたのではなく、時代の空気だった。その典型的な人物は内相として天皇の最側近だった木戸幸一だ。時代の針をソ連仲介工作が顕在化する1945年春まで戻す。同年3月3日、木戸は日本銀行に務める友人の宗像久敬に、「ソ連仲介工作を進めれば、ソ連は共産主義者の入閣を要求してくる可能性があるが、日本としては条件が不面目でさえなければ、受け入れてもよい」という話をしている。『宗像久敬日記』によると、さらに木戸は続けた。
「共産主義と言うが、今日ではそれほど恐ろしいものではないぞ。世界中が皆共産主義ではないか。欧州も然り、支那も然り。残るは米国くらいのものではないか」
驚いた宗像が「共産主義になると皇室はどうなるのか、国体と皇室の擁護は国民の念願であり木戸の思いでもあるはずだ」と問い返し、「ソ連ではなく米国と直接接触すべき」と反論すると、木戸は驚くべき返答をした。
「今の日本の状態からすればもうかまわない。ロシアと手を握るがよい。英米に降参してたまるものかと云う気運があるのではないか。結局、皇軍はロシアの共産主義と手を握ることになるのではないか」(『宗像久敬日記』)
「木戸は陸軍内の親ソ・強硬派に籠絡されているに違いない」。そんな印象を抱いた宗像は日記に、こう書いている。「要するに彼(木戸)は確固たる方針なく陸軍の態度によりソ連接近なり」
ロシア革命以来、日本は国体である皇統とボルシェビキ革命政権のイデオロギーは相容れないと考えていた。にもかかわらず、天皇側近の木戸までが天皇制と共産主義が両立できると考え、その動きを容認していたのだ。
当時の国家総動員体制の中で国家社会主義が日本の中枢に巣くっていたことは間違いない。国家総動員体制を推し進めたのは、「革新官僚」と呼ばれる左翼から転向した者たちだったことはよく知られている。そうした転向者の中には、内心ではマルクス主義・共産主義を捨てずに皇室を支持していると表明して弾圧を逃れる「偽装転向」組も多くいて、統制派の軍人や革新官僚、そして民間の左翼が一種の「統一戦線」を組んで国家社会主義政策を進めながら巧妙に社会主義の実現を目指していたことが、本誌別冊15号『中国共産党』中の特集「中共・ソ連・共産主義の戦争責任」中の「共産主義者が主導した戦争翼賛体制」(勝岡ェ次著)で紹介されている。
日本中が彼らの思うままに動いているようだった。日本を代表する哲学者である西田幾多郎も同年2月11日、近衛の首相秘書官や高松宮の御用掛を務めた細川護貞に米国よりもソ連共産主義を礼賛する談話を残している。
「将来の世界はどうしても米国的な資本主義的なものではなく、やはりソヴィエット的なものになるだろう。ドイツのやり方でもソヴィエットと大差はないし、又ソヴィエットでも資本主義こそ許さぬが、それ以外のものは宗教でさえも許している有様だから、結局はああいう形になるのだろう。日本本来の姿も、やはり資本主義よりは、ああいった形だと思う」(『細川日記』)
陸軍上層部も仮想敵国ソ連に異常に傾斜していた。『細川日記』には、梅津美治郎参謀総長が同年2月9日、天皇に上奏した報告が記されている。「大本営の意見では、米国の方針が、日本の国体を破壊し、日本を焦土にしなければ飽き足らぬのであるから絶対に米国との講話は考えられない、ソヴィエトは日本に好意を有しているから、ソヴィエトの後援の下に徹底抗戦して対米戦を続けなければならない」
いかなる根拠で、米国が国体を破壊し、ソ連が日本に好意を持っていると明言できたか。陸軍上層部は、宿敵であるはずのソ連が「味方」であるという手前勝手な妄想を膨らませたのである。
日本は政治家から軍人、学者から官僚まで根拠もなくソ連への信頼と期待、幻想を募らせ、ソ連に傾斜して和平を仲介してもらうという不思議な時代の空気が蔓延していた。多くの国民もアングロサクソン民族よりもスラブ民族の方が頼りになる、とソ連に対して、独りよがりの幻想を抱いていたのである。
近衛元首相の忠告も空しく
こうしてソ連に傾く政府、軍部に警告を発したのが元首相、近衛文麿であった。盧溝橋事件以来、泥沼の日中戦争から日米開戦に突入したことに、「何者か眼に見えない力に操られていたような気がする」(三田村武夫著『戦争と共産主義』復刊では『大東亜戦争とスターリンの謀略』)と述懐した近衛は同年2月14日、早期終戦を唱える上奏文を天皇に提出した。
「米英では敗戦後の国体変革(天皇制廃止)までは考えておらず、憂慮すべきは敗戦の混乱に伴う共産主義革命である。今や共産革命に向かって急速に進行しつつあり」「欧州ではソ連が共産主義ないし親ソ容共政権を樹立させており、東アジアでも同様の工作が行われている」「日本でも共産主義革命が起こりうる情勢にあり、国体と共産主義が両立する論があり、少壮軍人の多数は、国体と共産主義は両立するものと信じて共産主義が受け入れやすくなっている」と指摘。「軍部内に徹底的米英撃滅を唱える一方で、親ソ気分が高まり、ソ連さらに中共とさえ結ぶべしと主張する者があるが、これらは民間右翼と結んで終戦工作を阻止し、国内大混乱に乗じて共産革命を達成しようとする・・・」と警告した。
皇室を否定するソ連を警戒し、陸軍内部の親ソ派を粛清し、米英との直接和平によって米国の「民主主義」と国体護持の両立を訴えた近衛の情勢分析は正鵠を得ている。しかし、ソ連に傾く陸軍統制派とその影響を受けた木戸の意見を聞いた天皇が選択したのは「一撃後の和平」とソ連を介しての和平だった。『木戸日記』には、天皇は、「米国は国体変革を考えているという軍部の観測(海津参謀総長)は誤りか」と近衛に質し、「自分は戦果を上げてからでないと終戦は困難だと思う」と述べた、と記されている。
「日ソ中立条約不延長」通告という離縁状をソ連から突きつけられたのは近衛上奏から1ヶ月半余りの4月5日だった。小磯内閣は総辞職、7日に鈴木貫太郎内閣が成立すると、ソ連に和平仲介を依頼する近衛特使の派遣計画が胎動を始めた。陸軍は本土決戦準備と沖縄戦で奔走する中、22日午後、参謀本部の新任次長、河辺虎四郎中将は、有末精三第二部長を伴って外相官邸に新任の東郷外相を訪問、対ソ仲介による和平工作を持ちかけ、渋る東郷を河辺は説得した。
「特使は大物中の大物・・・出来れば外相ご自身か近衛公・・・。大物が直接スターリンに会って、欲するものを欲するままに与えるという条件ならば動きます。一世一代の大工作に賛成して頂けませんか。ソ連への引き出物は書類にしてお目にかけます」
しばらくして参謀本部から、東郷外相に4月29日作成の「今後の対『ソ』施策に対する意見」と「対ソ外交交渉要綱」がもたらされた。作成したのは参謀本部第二十班(戦争指導班)班長、種村佐孝大佐だった。対ソ和平の意見書は、「ソ連と結ぶことによって中国本土から米英を駆逐して大戦を終結させるべきだ」という主張に貫かれていた。全面的に対ソ依存して、日ソ中(延安の共産党政府)が連合せよというのである。
対米戦争継続には「日ソ戦争を絶対に回避すべき」で、そのために、「ソ連側に確約せしむ条件は日『ソ』同盟なり」と主張、日本の対ソ交渉は「ソ連側の言い分を持ってこれに応ずるという態度」(ソ連の言いなりに従え)、ソ連が寝返ってソ連の干渉(仲介もしくは恫喝)で戦争終結が余儀なくされる場合には、「否応なしに仲介もしくは恫喝に従わざるをえない」と唱えた。ソ連に与える条件は、「ソ連の言いなり放題になって眼をつぶる」前提で、「満州や遼東半島やあるいは南樺太、台湾や琉球や北千島や朝鮮をかなぐり捨てて、日清戦争前の態勢に立ち返り、対英米戦争を完遂せよ」としている。
ソ連と日本列島との間にある北側の領土と日本の南側の台湾、沖縄までソ連に差し出せば、日本はソ連に包囲され、東欧が辿ったように共産政権によるソ連の衛星国になっただろう。沖縄まで献上するというのは、ヤルタ密約にさえない。
さらに「対ソ外交交渉要綱」は、「対米英戦争を完遂のため、ソ連と中国共産党に、すべてを引き渡せ」と述べている。米英の「世界侵略」の野望に対して、日・ソ・支三国が「善隣友好相互提携不侵略の原則の下に結合し、以て相互の繁栄を図る」ため、ソ連との交渉役として外相あるいは特使を派遣し、「乾坤一擲」を下せと進言している。支那との交渉相手は延安(共産党)政権として、同政権の拡大強化を計り、希望する地域から日本軍を撤退させ、必要ならば国民政府を解消せよとも主張。ソ連には、北支鉄道も満鉄も漁業条約も捨て、満州国も遼東半島も南樺太も割譲し南方占領地域の権益を譲渡せよと訴えていた。
同じ頃(同年4月)、種村の前任の戦争指導班長だった松谷誠大佐(当時)も「同年5月から9月ないし12月までの戦争終末期」の国家再建策として「終戦処理案」を作成した。松谷の回顧録『大東亜戦争収拾の真相』に、その内容や経緯が書かれている。
ソ連が「7、8月に(米英との)和平勧告の機会を作ってくれる」と和平仲介に乗り出すことを前提に「終戦構想」を作成している。そこで「ソ連に頼って和平を行う理由」として、説明している。
○スターリンは独ソ戦後、左翼小児病的態度を捨て、人情の機微があり、左翼運動の正道に立っており、恐らくソ連は日本に対し国体を破壊し赤化しようとは考えられない。
○ソ連の民族政策は寛容。白黄色人種の中間的存在としてスラブ民族特有のもので、人種的偏見少なく、民族の自決と固有文化とを尊重し、共産主義化しようとする。よってソ連は、国体と共産主義とは絶対に相容れざるものとは考えない。
○ソ連は国防・地政学上、日本を将来親ソ国家にしようという希望がある。東アジアの自活自戦態勢の確立のため、満州、北支を必要とし、更に海洋への外郭防衛圏として日本を親ソ国家にしようと希望している。
○戦後、日本の経済形態は表面上不可避的に社会主義的方向を辿る。この点より見ても対ソ接近は可能である。
○米の企図する日本政治の民主主義化よりも、ソ連流の人民政府組織の方が将来日本的政治への復帰の萌芽を残す。
驚くべきことに敗戦後に目指すのは、米英の民主主義よりもソ連の共産主義国家体制だというのだ。しかもソ連の民族政策は寛容で日本の国体も護持されるだろうという。まさに近衛が上奏文で危惧し、木戸が宗像に語った「両立論」である。独裁者スターリンは1930年代後半に日本人を含む最大で700万人を大粛清している。その男のどこに人情の機微があるというのか。希望的観測から広がった妄想としか理解できない。
「ソ連に対して和平の仲介を頼んでみたらいかがですか。スターリンという人は西郷南州(隆盛)に似たところもあるようだし、悪くはしないような感じがする」
鈴木首相は6月22日の最高戦争指導会議で、ソ連仲介和平案を決める理由としてこのような言葉を残している。終戦を実現させた宰相として評価が高い鈴木首相だが、ソ連とスターリンに対する認識は甘すぎた。世界最悪の恐怖政治を行った独裁者を維新の英雄、西郷隆盛に準えて絶賛した。その背景に「スターリンは人情の機微がある」と報告した松谷の「終戦処理案」があったのは間違いないだろう。松谷が『大東亜戦収拾の真相』に「終戦処理案」は、「総理大臣を補佐する上、非常に有力な指針となった」と記しているからだ。
常軌を逸したソ連頼みの深層
なぜ、これほどソ連に対して甘い認識に立った「終戦処理案」を作成したのであろうか。その謎を解く鍵は松谷が協力依頼した識者にある。『大東亜戦争収拾の真相』の中で、松谷は「昭和18年3月以来、参謀本部第20班長(戦争指導)および杉山陸軍大臣秘書官時代の協力者だった企画院勅任調査官毛利英於冤、慶応大学教授武村忠雄はじめ、各方面の識者数人に、極秘裏に集まってもらい、終戦指導および終戦後の国策を討議した」と書いている。また「外務省欧米局アメリカ課の都留重人、太平洋問題調査会の平野義太郎と個別に懇談した」とも話している。毛利、平野ともに革新官僚であるが、平野はフランクフルト大学に留学してマルクス主義を研究した講座派のマルクス主義法学者で、太平洋問題調査会に所属し、治安維持法で検挙されると転向し、戦争推進に協力する右翼の論客となり、戦後は再び平和運動や日ソ友好などで活動した。
都留重人も治安維持法で検挙され、第八高等学校を除名後、ハーバード大学に留学、同大大学院で博士号(PH・D)を取得し、同大講師を務めていたが、開戦となり、帰国後、妻の伯父である木戸内相の紹介で外務省に嘱託として入った。カナダ人外交官、ハーバート・ノーマンと親交があり、戦後、米国留学時代に共産主義者であったことを告白している。都留は1945(昭和20)年3月から5月まで外交クーリエとしてモスクワを訪問しており、「終戦処理案」を作成した4月は日本にいなかったが、松谷とは昭和18年ごろから面会しており、「終戦処理案」でも何らかの示唆を与えた可能性もある。ソ連仲介和平が本格化する時期に都留はいかなる理由でモスクワを訪問したのか。共産主義者であった経緯から、ソ連幹部と面会して何らかの交渉を行ったのではないかと推測されている。
つまり、種村や松谷が作成した「終戦構想」は、国内では「一億玉砕」と本土決戦の準備を通じて国民統制を強化しながら、ソ連に仲介和平交渉を通じて接近し、敗戦後、共産主義国家を建設し、日本、ソ連、中国(共産政権)と共産主義同盟を結び、アジアを西欧帝国主義から解放するという革命工作だった可能性が高いのである。
これこそ、レーニンが唱え、コミンテルンが引き継いだ「帝国主義戦争を内乱(筆者註:革命)に転化せよ」という「敗戦革命」のテーゼそのものであり、近衛が考えたとおり、日本中枢で「敗戦革命」工作が水面下で進められていたのである。この中国武官電報(OSSの見解)は、終戦末期のこうした日本の情勢を的確にとらえたものではなかっただろうか。
前述「共産主義が主導した戦争翼賛体制」には、偽装転向して近衛のブレーン集団「昭和研究会」に入り、国家社会主義を隠れ蓑に社会主義革命を目指していた元左翼が「(社会主義実現の過程で)天皇制が否定されることは当然であります」と供述する当局の尋問調書が紹介されている。「国体と共産主義の両立」など革命分子の言葉の罠だったのであろう。
1939年12月から参謀本部戦争指導班に所属し、1944年7月から戦争指導班長を務めた種村は1944年2月5日から3月30日まで、外交クーリエとしてモスクワに出張していた。『大東亜戦争収拾の真相』では、「独ソ和平に関し出先の事情をつかみ、その後の施策に役立てた」と記されているが、独ソ和平は進展しなかっただけに、真相は藪の中である。
帰国した種村は同年4月4日、木戸内相を訪ね、ソ連情勢を説いている。この日の木戸日記には、「種村佐孝大佐来庁、武官長と共に最近のソ連の実情を聴く。大いに獲る所ありたり」と記されている。木戸が共産主義への甘い幻想を語っているが、それは種村による影響だったことがうかがえる。
種村や都留らと同様にクーリエとしてモスクワを訪問した瀬島龍三の隠密行動も謎に包まれている。「陰の参謀総長」といわれた陸軍参謀本部のエリート参謀は1944年のクリスマスに厳寒のモスクワに向かった。偽名で、片道2週間かけて到着したモスクワに約1週間滞在して、逆ルートを辿って東京に戻ったのは翌年1945年2月10日だった。奇妙にも、瀬島が帰国してからソ連仲介とする終戦工作が本格的に動き出す。ここに興味深い証言がある。シベリアに行きの途中、新京にあった関東軍司令部で休憩をとった瀬島と同じ飛行機に乗っていた新任の連隊長(高橋照次元少佐)が『歩兵第十四連隊史』に手記を載せていた。
「瀬島参謀の任務はモスクワに在る日本大使館へ、日本と米英両国との講和について、ソ連に斡旋を依頼する訓令を持って行った特使です。私共は総司令部に於いて竹田宮(作戦主任参謀)を初めとしてひそかに壮行の宴を持って、瀬島参謀の重大使命の成功を祈ってお別れしたのですが、不幸にして不成功に了ったことは皆様ご承知の通りです」
種村はポツダム宣言が出された後、第17方面軍参謀として朝鮮に渡って終戦を迎え、1950年に帰国するまでシベリア抑留された。1954年に在日ソ連大使館2等書記官だったユーリー・ラストヴォロフKGB中佐がアメリカに亡命して「ラストヴォロフ事件」として注目を集めたが、その際、志位正二(現共産党書記長志位和夫の叔父)少佐(関東軍第三方面軍情報参謀)と朝枝繁春中佐(参謀本部作戦課参謀)は警視庁に自首し、ソ連のエージェント(工作員)だったことが判明した。
ラストヴォロフの米国での証言は、「(抑留中に)十一名の厳格にチェックされた共産主義者の軍人を教育した」として志位、朝枝の他に瀬島、種村の名前を挙げている。共産革命のための、これら日本人トップ工作要員に対する訓練は、モンゴルのウランバートルにあった「第七〇〇六俘虜収容所」という偽装看板の特殊学校で実施された。種村は帰国後、日本共産党員になっている。
真の戦争犯罪人はスターリン
太平洋戦争開戦目前の1941(昭和16)年10月、リヒャルト・ゾルゲとともにソ連のスパイとして逮捕された尾崎秀実は、我々の目標は、「コミンテルンの最終目標である全世界での共産主義革命の遂行」で、狭義には、「最も重要な支柱であるソ連を日本帝国主義から守ること」だったと供述している。
これに対して昭和25年に元内務官僚で衆議院議員を務めた三田村武夫が上梓した『戦争と共産主義』の序文で、後に首相となる岸信介は次のように振り返っている。
「支那事変(日中戦争)を長期化させ、日支和平の芽を潰し、日本をして対ソ戦略から、対米英仏蘭の南進戦略に転換させて、遂に大東亜戦争を引き起こさせた張本人は、ソ連のスターリンが指導するコミンテルンであり、日本国内で巧妙にこれを誘導したのが、共産主義者、尾崎秀実であった」
近衛が「目に見えない力に操られた」と回想した「何者か」については、「スターリンが指導するコミンテルンと共産主義者、尾崎秀実」と指摘したうえで、「近衛文麿、東条英機の両首相をはじめ、この私まで含めて、支那事変から大東亜戦争を指導した我々は、言うならば、スターリンと尾崎に踊らされた操り人形だったということになる」と懺悔。さらに「私は東京裁判でA級戦犯として戦争責任を追及されたが、今、思うに、東京裁判の被告席に座るべき真の戦争犯罪人は、スターリンでなければならない。然るに、このスターリンの部下が、東京裁判の検事となり、判事をつとめたのだから、まことに茶番というほかない」と東京裁判に言及している。
岸は、軍部の中枢に共産主義が浸透したことについて、「何故それが出来たのか、誰しも疑問に思うところであろう。然し、考えてみれば、本来この両者(右翼・左翼)は、共に全体主義であり、一党独裁・計画経済を基本としている点では同類である。当然、戦争遂行のために軍部がとった政治は、まさに一党独裁(翼賛政治)、計画経済(国家総動員法→生産統制と配給制)であり、驚くべき程、今日のソ連体制(筆者註:昭和25年)と酷似している。ここに先述の疑問を解く鍵があるように思われる」と分析している。
ベルン発中国の電報は、ゾルゲ・尾崎事件以降も終戦まで日本中枢にコミンテルンが浸透していたことを物語っている。となれば、岸元首相が指摘したように、日中戦争を長期化させ、南進から太平洋戦争に突入させたのはスターリンが指揮する国際共産主義コミンテルンであり、スターリンこそ真の戦争犯罪人となる。共産主義の戦争責任を問うことは東京裁判史観を問い直すことでもあるのだ。
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