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愛心覚羅溥傑と嵯峨浩

かつて、国境を越えて結ばれた皇族いました。
ときは戦時中。
今日は、国家さえも崩壊する激動の時代に、愛を貫き通したお二人のお話です。
愛新覚羅溥儀といえば、映画ラスト・エンペラーでも紹介された満州皇帝として有名です。
映画ラスト・エンペラーに、わずか4歳の幼子が清朝第12代皇帝として、紫禁城で数万の兵士と謁見するシーンが出てきます。
これが、愛新覚羅溥儀です。
しかし、清王朝は1911年、孫文が起こした辛亥革命によって滅びます。
翌1912年、孫文は、清王朝にかわる新たな国家として“中華民国”を打ち立てる。
ところが、清王朝崩壊後も大清皇帝として紫禁城で暮らす愛新覚羅溥儀に不満を抱く中国の軍閥の長“袁世凱”は、自らが皇帝になるよう奔走し、1915年12月、中国内に“中華帝国”を打ち立てます。
ところがこの袁世凱も、各方面の軍閥の抵抗にあい、翌1916年3月には滅んでします。
袁世凱は、同年6月に死去します。
翌1917年になると、この政治的空白を利用して政権を獲ろうと画策した張勲によって、7月に溥儀がふたたび皇帝に復職。
ところが内紛によって張勲は紫禁城を追われ、溥儀の皇帝復職は、わずか13日間で挫折。
そして中国は、この後、長い内乱期に入り込んでいきます。
簡単にいったら、この後の中国には、政府がなかったのです。
いまでいったら、海賊や盗賊が略奪と暴行をほしいままにし、一般庶民は飢えに苦しむ無政府状態のソマリアと同じです。
そして当時の欧米列強は、すでに政府が崩壊している中国を、好き放題に切り取り、自国の植民地にしていた。
ほっておけば、中国の内乱と欧米列強による植民地支配の波は、早晩、日本へと波及してしまったでしょう。
とりわけ、ロシア革命によって新政権となったソ連は、太平洋側への領土ならびに植民地支配の拡大を目論んでいた。
このままでは、大陸だけでなく、韓半島、そして日本が危ない。

そう考えた日本は、愛新覚羅溥儀を招き、1935年、満州に満州国を建国し、溥儀を初代満州国皇帝とします。
中国にあった清王朝は、もともと満州地方に住む女真族です。いまから400年前に、ヌルハチがあらわれて、女真族を統一。そのまま中国に攻め入って中国皇帝となった。
それが“清王朝”です。
愛新覚羅溥儀は、ヌルハチから数えて12代目の清皇帝であり、その溥儀を迎えてもともとの女真族の本拠地である満州に新国家を建設し、せめて、満州国内の治安維持によって、満州国の政治的安定と、満州国民の生活の安定を図った。
それが満州国です。
満州国皇帝の愛新覚羅溥儀には、弟がいた。
弟の名前は、愛心覚羅溥傑(ふけつ)です。
この愛心覚羅溥傑と、彼の妻の嵯峨浩が、今日のお題です。
弟・溥傑は、1907年の生まれです。
1929年に日本の学習院大学に留学し、1933年には、陸軍士官学校に入学。
陸士当時の愛心覚羅溥傑を知る人は、一様に、彼を頭の切れる秀才、部下思いで優しい男、スケールの大きい立派な人と評しています。
彼には、立命館大学名誉法学博士なんて肩書もあります。
それとね、彼は書家としても有名です。独特の流水のような書は、流麗で人気が高いです。
ネットで画像検索したら出てくるけど、なんか濡れたような色気のある字を書く。
書は人を表すといいます。なにかわかるような気がします。
溥傑の書

この愛心覚羅溥傑のもとに、1937年、嵯峨侯爵家のご令嬢で天皇家の親戚にあたる嵯峨浩(さが・ひろ)さまが嫁ぎます。
当時のことですから、もちろんお見合い結婚です。
嵯峨家というのは、浩の祖母の叔母が、明治天皇の生母という名門の公爵華族。
明治初期、欧米風の爵位が日本でも用いられていた時期があった。爵位は、公・侯・伯・子爵・男の順番。だから公爵家のご令嬢という浩は、当時の我が国最高の姫君でもあらせられた。ようするに深窓の令嬢であり、すごい姫君です!!
えっと、お名前、“浩”と書くと、なんとなく(ひろし)って、男性名みたいな感じがするかもしれないけれど、呼び方は、(こう)です。れっきとした華族の女性です。
さて、その嵯峨浩、当時22歳。
お相手の愛心覚羅溥傑は、29歳。
お見合いのお席で、はじめて溥傑に会った浩は、
「軍服姿の気高い、ちょっと普通じゃお見かけできない立派な方だと思いました」
と第一印象を述べています。
そして、ご交際を通じて、溥傑の人柄にすっかり惹かれてしまう。
お二人の結婚式は、1937年4月3日、東京九段にある、軍人会館(いまの九段会館)で行われました。

この年の10月には、お二人で満州国へ帰国。
翌1938年には、長女慧生が誕生。
溥傑は、産まれた我が子のそばを離れたらがらず、溥儀皇帝から苦情のお言葉をちょうだいまでしたそうです。娘さんがよほど愛しかったんでしょうね。

1940年には、次女嫮生(こせい)も誕生。
夫の溥傑は、満州と日本を行ったりきたりではあったけれど、子煩悩の夫と、愛娘に囲まれたこの時期を、浩は、「幸福の絶頂期であった」と述懐しています。
日本の敗戦が濃厚となった1945年8月9日、突如ソ連軍が日ソ不可侵条約を破り、満州国に侵攻します。
一刻の猶予もありません。
溥傑、浩のご一家は、皇帝一行とともに特別列車に乗って、新京を脱出。
小さなお子様を抱いて、長白山中にある大栗子まで逃げのびます。
国を失った彼らに残された選択は、日本への亡命しかありません。
一行は奉天(いまの瀋陽)飛行場から、2陣に分かれて飛び立つことにした。
第一陣は、皇帝溥儀と、夫の溥傑、それとわずかなお供の者。
第二陣が、皇后と浩などの女・子供。
第二陣は、第一陣の到着の報を受けて出発することになっていた。
ところが、溥儀ら第一陣の一行は、出発直前、奉天飛行場でソ連兵に捕縛されてしまいます。
溥儀も、溥傑も、そのまま連行され、ハバロフスクの収容所に入れられてしまう。
残されたのは、女・子供ばかりです。
そして彼女らの逃避行が始まります。
満州に安全なところはどこにもない。
シナ人や、朝鮮人たちによる日本人への略奪や集団暴行、殺人、強姦などの被害が出始めている。
女性は、全員髪を切り、顔に泥を塗りつけ、男装しての逃避行がはじまった。
幼子を抱え、徒歩で大陸をさまよう旅です。どんなにかおつらかったことでしょう。
5ヶ月後の1946年1月、浩ら一行は、ようやく朝鮮との国境に近い通化(吉林省)に到着します。
ところがここで、八路軍(中国共産党)に捕縛された。
そして彼女らは、八路軍公安局のビルの2階の一室に幽閉されてしまいます。
当時の通化には、もともと1万4千人の日本人居留民、10万人以上の他の地域からの避難民がいた。
そして武装解除された日本兵が次々とシベリアへ送られていく。
日本軍が持っていた武器を、ソ連兵はその場で八路軍(共産軍)に渡し武装させていた。
武装して支配者となった八路軍と、八路軍から武器を分けられた朝鮮義勇軍たちは、武器を持たない日本人難民に対し、掠奪、暴行、拉致、殺戮の地獄を繰り広げた。
そして2月3日に起ったのが世にいう
「通化事件」です。

略奪や暴行を加える者たちの中には、延安からやって来た筋金入りの日本人共産党員もいた。
その日本共産党員が組織した「日本解放工作委員会」は、あるいは「清算運動だ」、あるいは「集団訓練だ」といって、居留民の財産没収、自由拘束、不服従者の人民裁判など弾圧を繰り広げた。
戦時中、共産主義に走り、日本を捨てて延安に行った彼らは、戦時中は“売国奴”として同邦の日本人にののしられた。
その日本共産党員たちは、日本が戦争に負けると、こんどは逆に英雄気取りとなり、
「避難民が乞食同然の生活苦に追いやられている時、彼ら工作員は立派な服を着て街を闊歩しており、罪なき日本人を売って得意となっていた。
そして彼ら日本共産党員は、一部の日本人が国民党と組んで八路軍(共産軍)を攻撃したという嘘をでっちあげ、理由で、大規模な日本人狩りを行なう。
そしてこの日、3千人とも4千人ともつかない日本人が、零下30度の寒さの中で、
両手を上げさせられて八路軍(共産軍)に銃剣で追い立てられた。
男性は、16歳から60歳まで、先頭から氷の上で射殺され、川に投げ込まれた。
途中で方向転換した列は、旧通運会社の小屋に100人近くが押し込まれた。
身動きできず酸欠で口をパクパクしている日本人たちを、八路軍は、窓からライフルで撃ち、足元が血の海になったが死体を外に出すことも許されなかった。
一週間にわたる拷問と銃殺、あるいは凍死によって軍とは何のかかわりもない民間の2千人近く殺された。
女性や子供たちがどうなったかは、記録がないのでわからない。
でも、それは“記録できないほど惨たらしいものであった”ことが容易に想像できる。
中国共産党の本拠地である延安から若い裁判官がやってきて人民裁判が始まった。
台の上に日本人が立たされる。
裁判員が、満州時代の罪状を民衆に問う。
黒山の野次馬の中から「俺達を酷使した」、「俺達を殴った」というデタラメな罵声が上がる。
裁判長が「どうする」と問うと、「打死!打死!(殺せ殺せ)」と民衆が叫ぶ。裁判は終わり、その日本人は背中に「南無阿弥陀仏」と書かれ、馬に乗せられて市内引き回しの上、河原に連れて行かれて次々と銃殺された。
この裁判によって、居留民会長であった寺田氏を始め、通化在住の実業家、著名人約180人は、こうして共産党の人民裁判により、罪状をねつ造され、処刑された。
そうした騒然とした通化の中で、旧日本軍人の一行が、浩たち一行の救出のため、決死隊を組んで公安局に乗り込んだ。
このため、逆に八路軍公安局の建物が、八路軍によって猛攻撃された。
機関銃の一斉射撃で窓ガラスが吹っ飛ぶ。
砲弾が落下する。
耳をつんざく轟音。
浩は、娘を抱きしめ、息を殺して祈るばかりだった。
浩の目の前で、校庭の老乳母が砲弾の破片で手首を吹き飛ばされた。
「痛い、痛い」と泣き叫びながら、絶命。
溥儀の皇后はあまりの恐怖のために、気が触れてしまった。
そして日本人義勇隊は、全員が絶命。
阿鼻叫喚の地獄絵図を目の当たりにしながら、浩たち一行は、なにもできないまま、4月、八路軍によって、長州(満州国時代の新京)に移送され、さらに、吉林・延吉・佳木斯へと身柄を移され、同年7月に佳木斯で釈放される。
釈放後、浩は、同年9月に葫芦島に至り、そこで日本への引揚船を待った。
しかし、こんどは同地で国民党軍に身柄を拘束されてしまう。
そして、北京を経由し、同年12月に、上海へと移される。
たまたま、上海には、旧日本軍元大尉、田中徹雄氏(のちの山梨県副知事)がいた。
彼の勇気ある行動によって浩たちは救出され、上海発の“最後の”引揚船に乗船することができた。間一髪のできごとだった。
翌1947年1月、浩たち一行は、ようやく日本に帰国する。
流転の日々、浩は帰国までの間、ずっと次女の嫮生を伴っていた。
そして、日吉(神奈川県横浜市港北区)に移転していた嵯峨家の実家で、長女の彗生と、涙の再開をはたした。彗生は、日本の小学校にはいるために、日本の実家の嵯峨家に引き取られていたのである。
浩は、父の経営する町田学園で書道教師をして生計を立てながら、娘たちとの生活を始める。
そんなある日、母や妹の苦労を仄聞し、行方知れずの父の身を案じる心優しい長女の彗生は、1954年(昭和29年)周恩来に「父に会いたい」という中国語で書いた手紙を出す。
周恩来はその手紙に感動し、浩と2人の娘と、夫との文通を認めた。
昭和32年(1957年)12月10日、学習院大学在学中だった慧生を、突然の悲劇が襲います。
交際していた同級生とピストル心中したのです(天城山心中)。
一緒に死んだ青年は、青森県出身の同級生だった。
生きる望みを失っていた青年に、心優しい彗生が、同情し、行動を伴にしたものだと伝えられています。
この事件で、浩は、すっかり打ちのめされてしまいます。
自宅の床に伏し、起きあがれなくなった。
中国撫順の収容所にいた溥傑は、手紙でこの事実を知ります。
「なんという悲しみであろう。清朝の子として、薄幸であることは宿命なのか。将来の夢のすべてを彗生と嫮生に託し、楽しい夢を描きながら苦しみに耐えてきたのに、なんということであろう。誰にも罪はない。もしあるとすれば、すべては私の罪だ」
溥傑は、清朝の血を背負う自らを責め、浩は娘を守れなかった自分の非力を責めた。
1960年12月、溥儀と、溥傑は、特赦になり、釈放されて北京に帰った。
浩は、夫のいる中国に渡る準備を始めた。
中国共産党に遠慮する兄の溥儀は、「日本人の義妹の顔など見たくない」と言って、浩の帰国に猛反対したといいます。
しかし、溥傑は、きっぱりと言った。
「私も妻も、お互い、信じ、愛し合っています。
娘もいます。
たとえ、民族や国が違っていても、夫婦親子一緒に暮らすことだけを願って、いままで私は耐えて生きてきました。
一家団欒の楽しみを、取り戻すのです」
1965年5月、溥傑は、広州駅のプラットホームで、香港経由で中国入りする浩と、嫮生を待っていた。
人混みの中に、夫の姿を見つけた浩は、たくさん用意していた言葉も出ず、ただ黙って頭を下げることしかできなかった。
溥傑も、黙ってうなずくばかりで、言葉にならない。
二人は、人眼をはばかることなく、肩を寄せ合って、泣いた。
それは、16年・・・16年の長かった別離が終わりを告げた瞬間だった。
浩は、大切に抱いてきた彗生の遺骨を差し出した。
そして、「申し訳ございません。。。。」と言って泣いた。
溥傑は、何も語らず、両腕に彗生の遺骨をしっかりと抱きしめた。
彼は遺骨を、ホテルに着くまで離そうとしなかった。
部屋に着くと、花を飾った机の上に遺骨を置き、「申し訳なかった・・・」とひとこともらしたあと、その場に泣き崩れてしまったといいます。
それから27年後の1978年、日中平和友好条約が締結された時期のこと、浩は、慢性腎不全を患い、人工透析を受けるようになった。
その頃、妻を看病しながら、「もし浩が死ねア、私も生きておれない」という溥傑のつぶやきを周りが聞いています。
そして1987年6月20日、夫・溥傑に見守られながら、浩は静かに息を引き取ります。享年73歳。
溥傑は、浩の遺体の枕もとに立って、ポロポロと流れる涙を拭おうともしないで、葬儀の参列者に丁寧に挨拶をしていた。
娘の嫮生は、溥傑が、浩の亡骸に取りすがって「浩さん、浩さん」と慟哭する姿を見たといいます。
後年嫮生は、
「母は、こんなにも父に愛され、惜しまれながら亡くなったのだから、幸せだったとつくづく思います」と述懐しています。
清王朝の皇帝の実弟として生まれた溥傑。
日本の華族の家に生まれた浩。
お二人の遺骨は、長女彗生の遺骨とともに、半分が日本の山口県下関市の中山神社(祭神は浩の曾祖父中山忠光)境内に建立された摂社愛新覚羅社に納骨されています。
浩・慧生の残る半分の遺骨は溥傑の死後、溥傑の遺骨の半分と共に中国妙峰山上空より散骨されたそうです。
次女嫮生(こせい)は日本に留まって日本人と結婚して5人の子をもうけ、2008年現在、兵庫県西宮市在住。
ねずきちには、お二人の数々の苦難を乗り越えた愛が、なにか、ものすごく大切なことを伝えてくれている気がします。
夫である愛心覚羅溥傑と、義兄の愛心覚羅溥儀の二人は、中国に抑留され強制収容所に入れられていた16年の間、両名とも中共によって徹底的な洗脳教育を受けているであろうことは想像に難くないです。
ときの中国は文化大革命まっさかり。
文化大革命という名前こそ立派だけれど、その中身は中国共産党幹部以外のあらゆる権威・・・学校の先生やお医者さん、商店主、政治家、宗教化等々を、ことごとく階級闘争の名のもとに弾圧し、追放し、殺害し、再教育と称して収容所で過酷な思想教育を施した、というものです。
とりわけ溥儀や溥傑は、日本との結びつきが強い皇帝とその弟であり、中共の反日プロパガンタのために、彼ら両名には、およそ人間の知恵で考えられるありとあらゆる弾圧と拷問による思想教育が施されている。
実際、釈放後の溥儀は、反日のための中共のカードとして、利用され続けた。
しかし、と、ねずきちは思うのです。
どんなに過酷な思想的弾圧と思想教育、拷問を施しても、溥傑の妻や子に対する愛までを、中共は奪うことはできなかった。
中国共産党に恐怖するする兄の溥儀は、「日本人の義妹の顔など見たくない」と言って、浩の帰国に猛反対したというけれど、それさえも、溥傑の愛を奪うことはできなかった。
溥傑も、浩も、日本の古い相互信頼主義の教育を受けて育っています。
浩は、溥傑に会って、彗生の遺骨を差し出したとき、「申し訳ございません。。。。」と言って泣いた。
それは、夫に託された子の命を守れなかった。愛する夫の信頼に答えられなかった自分を恥じての言葉であったろうとご推察されます。
そして溥傑も、、「申し訳なかった・・・」と泣き崩れた。
この言葉は、階級闘争主義じゃないです。子を持つ親として子を守ってやることができなかった、子の信頼に答えられなかった自分を恥じての言葉ということができます。
どんなに、どんなに中共が階級闘争主義をあおっても、人の心にある相互信頼の心は、この世が人と人との世の中である限り、絶対に変えることができない真実なのだと、ボクは思う。
なぜなら、相互信頼の心は、一家団欒の心、愛の心でもあるからです。
昨今、日本社会には階級闘争主義がまん延し、部下は上司を、民は官を批判し、批難するばかりで、自らを省みて恥じるということがない、そんな社会へと変貌しつつあります。一家団欒なんてない。
信頼より強圧、信頼より批判、信頼より中傷・・・それが正義と勘違いするヤカラが、ものすごい勢いで増殖しつつある。
それはまるで、映画バイオハザードに出てくるゾンビのようだ。
しかし、そういう批難と中傷と強圧による階級闘争主義というものは、どんなに正義ぶっても、どんなに理論武装(?)しようとも、所詮は、人間を社会を崩壊に導くものでしかない。
人にとってたいせつなことは、愛であり、一家団欒であり、相互信頼であると、今日ご紹介した物語を通じて、ねずきちは強く思うのです。
愛心覚羅溥傑と嵯峨浩に何かを感じた方
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満州国皇帝愛新覚羅溥儀の弟溥傑と妻浩の夫婦愛3/5
「知ってるつもり」で放送された映像です。
かなり偏向した内容もあるのだけれど、
お二人のお写真等が豊富です。1~5まであります。