2007-02-26 09:49:54

李香蘭がいた時代

テーマ:ブログ

上戸彩が李香蘭を演じるテレビドラマがあった――――。

李香蘭は、満洲という国があった時代に数々のヒット曲を飛ばして名をはせた
日本人の歌姫だ。李香蘭という名前を、日本人の父親の親友である育ての

親の李氏にもらった山口淑子という一人の女性が、実際に経験したことを

ドラマ化したものであるが、ーーー満洲の征服者として、傲慢な態度の悪い

日本人達の姿も表現されていた。

川島芳子という、清国の皇帝のお姫さまとの交流をピリッときかせ、ロシア人
の親友リュバとの友情が心に残るいいドラマなのだが、戦争の悲惨さも十分

感じることができた。――――「五族協和」という言葉が出てくるなど、歴史を
勉強していない人には何のことか分からない部分もかなりあると思った。

満州は現在の支那の東北地方と、内モンゴル自治区の北東部を併せて存在

した国で、日本が日露戦争に勝った後、それまでロシアが持っていた鉄道の

権利を手に入れていた。

満州には、モンゴル人や清国の支配者であった満州人が住んでいた。また

貧しくて土地のなかった漢人が、清国の許可無しに勝手に移り住んで開拓し

て住んでいた。そこは無国籍地帯さながらで、ロシアが開拓中の漢人から

土地を購入するなどして鉄道をひいていた。

守ってくれる政府がないので、住民は馬賊を雇って自衛していた。馬賊の長

であった張作霖は、満州をまとめた人だ。辛亥革命の後、革命派を始末して

中華民国が建国されたとき、それに対抗した。


袁世凱が死亡すると同時に、中華民国東北総監の段芝貴を失脚させ、

張作霖の馬賊仲間だった張景恵が独立を宣言した。

独立といっても、元々満州は漢人の土地ではなく、万里の長城の北の、ロシア
が長年支配する場所だったのだが、日本はその土地を清国に返して鉄道の

権利だけを得ていた。

ロシアが負けた後、満州には日本人もどんどん移住してきたので、国際色

豊かな地域だった。大連などは、元々ロシアの地名の「遠い」という意味の

ダーリニーの当て字。建築物もロシア人が作っており、清国の土地ではなく

ロシアの土地というほうが妥当な有様だった。――――清国は、先祖の

墓参りもロシアに許可をもらって行っていた。

清国とモンゴルは親戚付き合いをしていたので、当時の満州にはモンゴル人

もいた。張作霖が満州の権力者になり、国民党の蒋介石が満州は攻めないと

宣言すると、日本の関東軍にとっては張作霖の存在が急に疎ましくなり、彼の

乗った列車を爆破して殺害してしまった。

張作霖の息子の張学良は怒って、日本に敵対し反日運動を盛り上げていった。
┌--------
註)関東軍:(出展:Wikipedia その他)
関東軍[かんとうぐん]は、大日本帝国陸軍の総軍の一つ。関東州(現在の大

連市とその付近)、満州に駐留した帝国陸軍の部隊名。南満州鉄道附属地

警備を目的とした守備隊が前身で、大正8年に関東軍と改称。
└--------

ーーー張作霖の死後、満州国の建国には日本の関東軍が関わった。

満州にどんどん移住してくる漢人による、日本人や朝鮮族日本人に対する

殺傷事件が多発するので、満州を漢人の国と分けなければ安全な社会が

実現しないと関東軍は考えた。

ーーー満州国が存在したのは、1932年から1945年迄の短い間だった。

日本がアメリカとの戦争に負けてからは、一時ソ連と支那共産党の手に渡り、
その後国民党の支配下におかれたが、結局は共産党が内戦に勝って東北

地方と称される地域となった。

ソ連は、日本がアメリカに降伏しそうだと知った途端、日本が戦闘を停止する
6日前の昭和20年8月9日、日ソ不可侵条約を無視して満州国に侵攻した。

満州は、ソ連と仲間である支那共産軍に支配され、日本の国民は財産を没収

され、女性は乱暴され、武装解除しているのにも関わらず日本兵はまとめて

シベリア送りにされ、極寒の地で鉄道敷設工事に使役された。

また、満州の重要施設は、ソ連が日本の満鉄職員を奴隷のように使ってソ連

に運んだ――――。

満州国では、民族自決の原則に基づき、満州国に多く住む日本人・漢人・朝鮮
人・満州人・蒙古人の五つの民族のための「五族協和」を掲げた国民国家であ
ることを宣言していたが、日本が戦争に負けてからは「満州国」の名前は消し
去られ、中華民国や中華人民共和国には偽満州国または偽満と呼ばれてい

る。

満州国は日本の傀儡[かいらい]国家であったと、ドラマでは当たり前のように
語られていたが、傀儡国家であったかどうかは、当時の日本からするとトンデ
モナイ言い掛りだ。

満州は、元々ロシアが支配していた地域で、日本が日露戦争で利権を獲得し、
日本の国家予算を注ぎ込んで大きく発展させた場所だったからだ。

当時、日本の満州に対する力の入れようは凄く、満州の都市は日本の都市

よりも発展したチャーミングな街だったようだ。

ーーー傀儡[かいらい]という言葉には気を付けなければならない。

今の日本だって、北朝鮮からは、日本はアメリカの傀儡国家と言われている。
日本人だって自虐的に「日本はアメリカのポチだ」と言ったりする。だが実際
には日本は独立国だ。外国がある国を傀儡国家と呼ぶ時は、プロパガンダと

して使っている場合が多いのだ。

だから、満州が日本の傀儡国家であったかどうかについては、当時の日本側

からみるならば「否」である。当時の世界が日本をどうみたか、公平な第三者

の目で見て傀儡国家かどうかを検討しなければならない。

リットン調査団が調べに来て、調査結果を出しているが、なかなか難しい問題
だったようだ。事後承認ながら、実際に満州国を承認した国も多数ある。

当時の支那は戦国時代のような状態で、一つの国というより、いろんな戦力が
各地で争乱を繰り広げているアブナイ場所であったから、漢人は続々と安全

で豊かな満州に移ってきていた。

漢人の数が急激に増えたから、満州は漢人の国だという認識が漢人の心に

湧いたのか、当時の支那では、反日、侮日のスローガンが町中に貼られてい

たそうだ。漢人がナショナリズムに目覚めたのだが、それも共産党の作戦で

あった。

上海、北京、天津などの大きな都会では、西洋人やロシア人がそれぞれの

租界で安全に暮らしていたが、外国人専用のバーには「中国人と犬はお断

り」というひどい立て札もかけられていたそうだ。

租界ではそれぞれの国の軍隊が自国民を守っていた。支那人が何度も外国

の公館や外国人を殺傷する事件を起こしたからだ。

滅亡した清の最後の皇帝である愛新覚羅溥儀が、漢人にダマされて財産や

住む家を奪われ、先祖の墓を爆破されたので、身の危険を感じたとき日本に

助けを求めるようにイギリス人から勧められた。

日本は最初戸惑ったが、満州は満州民族の先祖の土地であるし、清は満州

族が建てた帝国であるということで、溥儀は満州で皇帝となった。けれど、

実際に満州で力があったのは日本の関東軍であったことは否定できない。

当時の国際連盟加盟諸国は「満州国は日本の傀儡政権であり、満州地域は

中華民国の主権下にあるべき」とする中華民国の立場を支持して日本政府を

非難した。それで1933年、日本は国際連盟を脱退した。

国際連盟は、満州が清国の祖先の土地だという認識が薄く、満州には漢人が

多いから漢人の国だろうぐらいにしか思わずにいたし、リットン調査団が宣教

師から受け取った漢人が持ち寄った手紙にも、日本の悪口ばかり書かれて

いたので、欧米人は心情的に日本よりも漢人の味方だった。

リットン調査団は、漢人が不当に日本製品不買運動をしたり、数多くの犯罪を
犯して、日本がロシアから勝ち取った利権を侵害していることを理解していた
のだが、国民党は経済が発展している満州を手に入れたがっていたし、米英

は日本を嫌って支那に武器援助をしていた。

ソ連は支那共産党に、日本と国民党が戦争になるようにたきつけ、共産党は

あちこちでそうした工作を行っていた。

溥儀は、東京裁判で、満州国が傀儡であったという証言をしたが、後に自伝で
謝っている。満州にソ連軍が侵攻してきたとき、日本に逃げようとしていたと
ころを奉天でソ連に捕まって、強制収容所に入れられていたので仕方がな

かったのだ。

こうした時代だったので、正式な満州の持ち主でも、正式な清国の後継者でも
ない漢人が日本を侵略者だと決めつけたり、皇帝のいない戦国時代さながら

の支那と満州は国民党のものだと決めつけた欧米が正しかったとはいえない。

満州国に対する評価は、戦争に勝ったアメリカから見たもので、アメリカから
すると、東京裁判で傀儡であったということにしたので、それでケリがついて
いる話になるわけだ。
ーーーリットン調査団だって、満洲を日本が侵略したとは一概にはいえない地
域であると報告している。

それはさておき、日本の関東軍が満州で威張っていたのは事実である。

支那で生まれて支那で育った李香蘭が日本に帰るときに、清国の女性の衣服

であるチーパオを着ていたら、日本の入管の係員に「貴様は、一等国民の

日本人でありながら、三等国の支那服を着て支那語をしゃべって、恥ずかしく

ないのか!それでも日本人か!」と怒鳴られて驚く。

人間に「等」をつけて差別するというのは間違っている。「日満親善」という
スローガンを掲げながら、実際には人種差別をする日本人がいたのは事実だ。

日本が戦争に負けたときは、満州では共産党が日本人の財産を没収したし、

町から出るのも党の許可無しには動けなかった。――――李香蘭が日本人

だという書庫である戸籍謄本を上海に持っていかなければ、漢人の敵として

銃殺刑にされるという時期にでも、両親には外出許可は下りなかった。

そのとき、ロシア人の親友リュバが、李香蘭の戸籍謄本を上海に軟禁されてい
る李香蘭の元に届けてくれたのだった。

戦争に負けた事実は認めても、昔の日本が100%悪いとする支那のプロパガ
ンダと欧米風の考えに毒されず、かといって昔の日本人にも傲慢で民主的で

ない人がいたという事実にも目を背けず、公平な目でまっすぐに昔の日本を

みつめてみてはどうだろうか。

個別にはいい人はたくさんいただろうけれど、国家としては日本は民主的な国
ではなかった。人を差別する国は民主的ではないのだ。

山口淑子氏は、最初は李香蘭として満州国で利用され、途中からは支那人と

して「若いときに変な映画に出てごめんなさい」と支那人に謝り、次には支那の
ために働いているつもりであったのに漢人の敵として処刑にされそうになると
いう大変な人生を過ごした。

川島芳子という女性も、満州国の皇女として高貴な生まれの人であったが、日
本のために生きても満州のために生きても利用されるばかりで居場所がない。
何をしても評価されず、ついには、漢人の敵として銃殺された――――。

いったい誰のせいなのだろう。何が悪かったのだろう。

一人の人間が他人から差別されたり、自由に人生を選べない社会になったり、
自由に意見を言えない社会は、いけない社会なのだ。

そういう意味では、関東軍は威張りすぎであった。同じような理由で人の命を
粗末にする支那の共産党も同じだけいけない。

支那の国民党は、自分のものでもない地域を自分のものだと主張し、事実と

違う事を掲げてアメリカを抱き込んで日本の正当な権利を奪った。昔も今も

やっていることは同じである。

当時は、ロシアも支那の共産党に入れ知恵して、国民党が日本と和解しない

ようにした。アメリカ、イギリス、オランダは、アジアを植民地にして自分の国
だけいい思いをしようとする政策も続けようとした。ーーーそこが悪かった。

そういう反省をみんなで、地球人してしてみたらいいと思う。

決して日本人だけが、不当に貶[おとし]められていてはいけない。日本だけが
証拠も碌にない数で大量虐殺の国として偏見の目で世界から見られてはい

けない。現代の支那に日本のイメージを操作されてはいけない。
ーーー日本は濡れ衣を着せられないように抵抗しなければならない。

また日本は、地球や動物や人の命を大切にする生き方を世界に発信し、

人々が伸々と、地球と共存し生きたいように生きることができる社会を実現

できるよう、地球人の考え方を変えていくようにしなければならない。

過去の日本を悪く宣伝し、現代の日本のイメージまで下げようとする支那の作
戦に負けず、しっかり情報戦を戦いぬくと同時に、地球温暖化をみんなで考え
る方向に世界をリードしていかねば、温暖化で海の水が増えて、日本が沈没し
て消えてしまうという可能性だってあるのだから。ーーー地球はみんなのもの
だ。

過去は過去として反省し、戦争を前提に衛星を打ち落とす実験をしたり、勝手
に日本の島を自分のものだという支那に、主張すべき事は主張しつつ、バカに
されない規模の自衛の軍備を備えて、日本人として誇り高く、生きていければ
いいと思う。

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