差別する側と差別される側がつねに非対称の関係になっている以上、マイノリティの出自や性的指向、障害などを、それらの属性を持たない者に攻撃されて「対抗言論でやれ」なんて無茶だ、ということを忘れないでほしいですね。
ネトウヨ第一世代の右傾化とは
野間[易通] 僕が小学生の頃、クラフトワーク(ドイツの電子音楽グループ)がロシア構築主義のモチーフで機械による音楽、テクノをやっていた。中学生になると中国で「四人組」が裁判にかけられ、江青に死刑判決が出た。そのとき坂本龍一と細野晴臣と高橋幸宏は人民服を着て、クラフトワークに強い影響を受けたYMOでヒットチャートに登りつめた。そして、大学生になったのはジョージ・オーウェルがビッグ・ブラザーの支配する全体主義時代として小説に描いた1984年です。ポル・ポト率いるクメール・ルージュの自国民大虐殺を描いた映画『キリング・フィールド』が公開されたのも同じ年です。
つまり左翼は抑圧的で全体主義的であるというのが、1970年代終わりから80年代前半の気分でした。ポストモダンの思想潮流が流行りだしたのもこの頃で、いま思えば左翼の終焉とポストモダンによる価値相対化の波を、多感な時期に同時に受けていたのだと思います。そこから、左翼と右翼の相対化につながっていく。だからいまアラフォー、アラフィフのネトウヨ第一世代が極端に右傾化していった気分のようなものを、僕も共有していると思う。
安田[浩一] それはどういうこと?
野間 左翼は自由を抑圧するからその抑圧から自由になろう、みたいな感覚。新しい歴史教科書をつくる会も、自分たちの歴史修正主義を「自由主義史観」と呼んでましたよね。また、たとえば在特会は、つねに「公正にしろ、特権を廃止して平等にしろ」という主張をしています。もちろん実際に言っている内容は幼稚な外国人排斥で、まったく平等主義なんかじゃないですが、彼らは「平等にしろ」「差別をするな」という主張に人々が抗いがたいということがよくわかっている。
リベラルが裏返ってネトウヨになった
野間 つまり在特会は、戦後リベラルのもっとも奇妙な変種なんですよ。基底にあるのは、すべての価値を相対化してフラットにしたポストモダンであり、リベラリズムなんです。僕から見れば、小林よしのりもずっとリベラルだったと思うし、リベラルであろうとするがゆえに、既存の左翼の抑圧性を告発していくなかで、どんどん右傾化して別の抑圧に加担していった。つまり、リベラルの裏返しなんですね。いまのネトウヨは、そういう流れの上に成立していると僕は思っています。彼らは天皇のこととかほとんど頭にないでしょ。
だから、いまやるべきことは、それをさらに裏返すということです。リベラルの裏返しを裏返して、表を向ける。
それと、リベラルや左翼が権力的なものを嫌うあまり、自らの強さや力までをも否定してしまったことがマイノリティへの過剰な暴力を招いた一つの原因であると僕は思っていて、しばき隊にはそれをひっくり返す意味合いもありました。
「僕らは優しいサヨクじゃない。力がある。お前ら、なめてたら取り囲むよ」と。
安田 たしかに躊躇ないもんね。
野間 しばき隊は非暴力でしたが、「アホ」とか「豚」とか汚い言葉で在特会を罵ったから、ちょっとは彼らの気持ちや名誉を傷つけたかもしれない。でも、これも対抗言論です。人権侵害しまくりのやつらの気持ちや名誉なんて、守るに値しないと思うんですね。
「表現の自由」の下、ヘイトスピーチは蔓延した
「表現の自由」の下、ヘイトスピーチは蔓延した
野間 桜井に「ヘイト豚、死ね」とか言ってると、ネトウヨや在特会だけでなく、人権派の人たちも「そんなことを言ってはいけない」と言う。でも我々は反レイシズム運動をやっているのであって、きれいな言葉運動をやっているのではない。だから怒りを抑制する必要はないということを必死で訴えたのが2013年のしばき隊でした。
安田 その主張は、メディアの欺瞞も撃ったね。「表現の自由がある」という文脈のなかで、ヘイトスピーチが擁護されてきた部分があり、メディアは、そこからいまだに脱することができないでいる。ヘイトスピーチを表現の一つとして見ている以上、『ニューズウィーク』の記事みたいなものが出てくるわけです(『ニューズウィーク』日本版6月24日号 深田政彦執筆記事「『反差別』という差別が暴走する」)。
野間 ああいう記事が在特会のようなものを背後から援護射撃し、また新たに生み出す土壌にもなっている。「差別に反対する側がじつは差別的なのだ」というストーリーが皆、大好きなんですよ。なぜなら”タブー”に切り込んだっぽい感じになるからです。あの記事を書いた深田にも「俺は言いにくいことを言ってやった」的な意識はあると思います。それって、同和利権だの在日特権だのとそっくり同じ構造でしょう。
どっちもどっち論の正体
どっちもどっち論の正体
安田 しかし、「差別はいけないけど、そこまでやるのはどうかね」というのは、おそらくメディアの中心的な物言いでしょう。
野間 在特会以降ということで話すと、僕は「ヘイトデモもカウンターもどっちもどっち」論がメディアでは主流だと考えていたから、もっと早くああいう記事が出るかなと思っていたので、意外と遅かったかなという気持ちです。
当初しばき隊が一切のマスコミ取材を拒否していたのは、プラカ隊のような穏健な運動に取材を集中させて運動の印象をよくしたいということがひとつ、もうひとつは両論併記をさせないためでした。
マスメディアの人間の多くは、「在特会のヘイトスピーチもあり、それに反対する意見もあり、いろいろな意見があります」ということを書くのが言論の自由だと思っているフシがある。でも、それは違いますよ、と。新聞や雑誌は両論併記でごまかすのではなく、言論機関として反ヘイトスピーチの対抗言論をしろ、ということです。
安田 野間さんの取材拒否によって、メディアは立ち位置を問われたと思うよ。
野間 両論併記は楽ちんなうえに、あたかも「自分は寛容で懐が深い」という印象をつくりだすことができる。でも、その正体は、判断忌避でしょう。「いろいろな意見があって、みんなちがって、みんないい」みたいな紋切り型の着地点を、自分が主体的に判断しないことの免罪符にしている。判断しないから、判断についての批判も受けずにすむ。こんな意見もあります、あんな意見もありますではなく、「お前の意見を言えよ」ということです。メディアだけの問題じゃないですが。
安田 サッカーJリーグの「JAPANESE ONLY 日本人以外お断り」についても「差別と受け取られかねない」という言い方で書きますよね。
野間 それです。主語なしの「受け取られかねない」ではなく、お前はどう受け取ったのか書けってことです。
怒りの表明は「同じ穴のむじなに落ちる」ことか?
怒りの表明は「同じ穴のむじなに落ちる」ことか?
安田 マジョリティに対してマイノリティは思い切り対抗していいということを旗幟鮮明にしたのは、野間さんたちの運動だと思っているんだけど。
野間 ちょっと違います。マイノリティには当然対抗する権利があって、身体を張って阻止する権利だってある、と僕は思っています。暴力で対抗してもいい。とはいえ、僕が「いい」と言ったって、それは法律上NGなわけですから、当事者はずっと我慢し続けてきた。
しかもちょっと強い言葉で抵抗すると、周りの上品な人たちから「それでは在特会と同じ穴のむじなになってしまう」とか言われてしまう。マイノリティ側はそこで二重の抑圧を受けることになる。さらにその上「あんなのは無視してればいい」とか言う人までいる。無視してると向こうからの攻撃がどんどん酷くなっていく。誰も文句言わないんならそうなりますよね。
これを改善するには、周りのマジョリティがマイノリティを代弁するのではなく、自らの声として文句を言えばいい。ここが重要なポイントだと思っています。逆に言えば、「マジョリティも思い切り文句言っていいんですよ」ということです。
マジョリティには「自分たちは在日じゃないのに、在特会をボロカスに言っていいのか」という逡巡なんかもあったりする。「そんな権利は自分にはないのではないか」とか。つまり自分たちは「正当な当事者」ではないかもしれないという迷いです。
しかしものすごいヘイトスピーチをしている奴らが目の前にいるときに、ヘイトの対象になっているマイノリティだけでなく、マジョリティである我々もやっぱりものすごく怒りに震えるわけです。ということは、当事者なんですよ。何の当事者かというと、この社会の当事者だということです。いじめの当事者は、加害者と被害者だけでなく、傍観者もふくまれるというのと同じです。
該当に出て初めてわかった!
該当に出て初めてわかった!
安田 野間さんはツイッター上でもレイシストを追撃しているけど、その切り返しは芸の域だよね(笑)。
野間 結局、僕自身、『ゴー宣』に影響を受けているんだと思います。「ごーまんかましてよかですか?」ですね。しばき隊がエラそうだったのも、その影響下にあるからじゃないですかね。しばき隊のメンバーは小林よしのり嫌いな人がほとんどなので怒られると思いますが(笑)。
ネット上では僕自身、言ってることは10年前から同じなんですが、そのメッセージをきちんと押し出すには、街頭に出る必要があった。これも結果的に気づいたことですが。
安田 街に出て肉体的に対峙することの意味。それも左翼が長らく忌避していた部分かもしれないね。
差別・被差別の関係は非対称だ
差別・被差別の関係は非対称だ
野間 でも、いまの日本の反レイシズム・カウンターアクションは、わずか1年半ほどの間に世界に出しても恥ずかしくないものになったと感じますね。ヨーロッパのANTIFAよりも非暴力で、なおかつ同じくらい激しい。
そういうものが当たり前のものとして定着したのは、よかったと思っています。いまは我々が一切呼びかけなくても、他の人たちが呼びかけたりしてヘイトデモには必ず数十人以上のカウンターが駆けつける状態です。
安田 当たり前のようにプラカードを持って集まり、レイシストを追いかけまわして罵声を飛ばす。僕は非常に健全な姿だと思います。
野間 プラカードくらい気楽に出していいんです。路上で「朝鮮人は殺せ」と叫ぶヘイトを前にして、冷静でいられる方がおかしい。
CRACや男組に集まっている人間のガラが良いとは言いません。でも、マジョリティの日本人がマイノリティの在日朝鮮人を抑圧しているいまの状況は、決して公正[ルビ:フェア]じゃないでしょう。
マスコミは、「言論の自由を抑圧する可能性のあるヘイトスピーチ規制法には反対」だが、「議論を深めていかねばならない」と悠長なことを言っています。だけど、ヘイトスピーチによって差別扇動の対象になっているマイノリティの表現の自由は侵されている。
だから僕は、「賢い学者と大手マスコミが、さっさと反ヘイトのキャンペーンを張って、ヘイトスピーチ規制の議論を詰めろよ」と言いたいわけです。
差別する側と差別される側がつねに非対称の関係になっている以上、マイノリティの出自や性的指向、障害などを、それらの属性を持たない者に攻撃されて「対抗言論でやれ」なんて無茶だ、ということを忘れないでほしいですね。その間にもカウンターの人たちは、硬軟織り交ぜた、ありとあらゆる反レイシズム・アクションを続けていきますよ。
安田 今回は、ヘイトスピーチ規制法や、ネット上の差別問題には踏み込めなかったんですが、次回、ぜひやりましょう。ありがとうございました。
(野間易通・安田浩一「レイシストしばきます―路上からの反レイシズム」、月刊「部落解放」、2014年11月号、701号)
※原文傍点部分を斜体に置換しています。