プロ野球選手からラジオ局の営業マンに――小桧山雅仁登場
「はじめまして、小桧山と申します」
プロ野球の選手だった面影は薄れ、物腰の柔らかさやハキハキとした口調はバイタリティー溢れる営業マンそのものだ。肩書きは「エキサイトベースボールプロジェクト リーダー」。現在、看板番組の1つであるプロ野球ナイター中継の営業を担当している。
小桧山雅仁――。
その名を聞けば個性的なアーム投法を思い出す人は多いだろう。桐蔭学園から慶大に進学し、145キロのストレートと落差のあるフォークを武器にアマチュアの強豪である日本石油で活躍。出場したバルセロナ五輪では予選リーグのプエルトリコ戦で完封勝利を果たすなど銅メダルの獲得に貢献し、その年のドラフト会議で横浜ベイスターズから1位で指名されたのだ。
しかし、ルーキーイヤーこそ大魔神こと佐々木主浩につなぐセットアッパーとして活躍して新人王候補にも挙がったものの、2年目以降の成績は伸び悩んでしまう。3年目から登板機会に徐々に減っていき、ひじの手術から復帰した99年に4勝をマークしながらも真の復活には至らなかった。結局は9年間在籍したベイスターズから01年限りで戦力外通告を受けることになる。
その後は02年に台湾リーグの中信ホエールズに移籍。しかし、その年の夏に再度ひじを痛めたことで引退を決意する。日本での通算成績は144試合に登板し、9勝14敗4セーブ。「アーム投法の小桧山」は平凡な記録以上に、個性的なピッチャーとして野球ファンの記憶に残っている。
アスリートとしての“第一の人生”をどう終わらせ、いま“第二の人生”をどう生きるのか。お話をうかがった。
プロ野球引退は誰にも相談せずに決断
――まずは引退に至った経緯を。
「台湾に渡ったのは、そこで活躍して日本球界に復帰したいというのが大前提としてありました。だけど、夏にひじを故障して投げられなくなって、引退というか、事実上のクビですよね。球団にはコーチとして残してもらったけど、言葉の問題もあってコーチの役割をなかなか果たせることができなかった。もう野球の世界に身を置くことは難しいな、と思って次のことを考えるようになったんです」
――野球界に対する未練もあったのでは?
「野球だけをやってきた人生だったので、これからもずっと野球に携わっていきたいという気持ちは当然ありました。でも球団からのオファーがなければコーチにはなれませんよね。そのときの私は、野球にこだわっても食ってはいけない、とすぐに覚悟を決めました。そこで大学の先輩にあたる松下賢次さん(元TBSアナウンサー)に今後について相談してみたら、TBSラジオの方を紹介してもらった。そこで『興味があるなら(試験を)受けてみるか』と話が進んで、入社が決まったんです」
――決断が早い(笑)。
「誰にも相談せずに決めましたからね。僕はベイスターズに入るときも、台湾に渡るときも誰にも相談していません。せっかちなんですかね(笑)。ただ、自分にとっていい話だと思えることに迷いを持たない性格なのかもしれません。TBSラジオのときも、並行して就職活動なんかしてませんでした。TBSラジオがダメだったら、また新しく探さなければいけないな、という思いでしたね」(次ページへ続く)