2014ねん12がつ29にち
フィリップ・K・ディック『市に虎声あらん』を読む
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アカ狩りがはびこりレイシズムとセクシズムの壮絶な暴力が横行する街。核戦争の恐怖に覆われた末世澆季、ハルマゲドンを預言する黒人カルト教祖の荘重な声が響き渡る…異常なまでの外見偏重とその裏返しの内面の歪み、肥大化した自我のケダモノと化した青年の破滅と現実への帰還を描く「カフカ的パルプ・フィクション」。ディック二十五歳の処女作。あまりの過激さゆえ長く筐底深く沈めることを余儀なくされ、死後四半世紀を経てようやく日の目をみた問題作。待望の日本語版。
おれには大好きな作家が何人かいて、そのうちの一人がフィリップ・K・ディックだ。おれがSFを読み始めたのはディックの『ザップ・ガン』からだ。抜群の切れ味を見せる短編、どこかに連れていってくれる傑作長編、「なんだこりゃ」という失敗作(『ザップ・ガン』もそれに入るかもしれないが!)……どれも愛すべきものだ。そして、衒学と神秘思想にまみれた『ヴァリス』三部作(四部作?)だって好きだ。ともかく、ディックは好きな作家なのだ。
とはいえ、おれはディックを読み尽くしてはいない。大好きな作家だからこそ、未読のものを残しておきたいという気持ちが働く。いつまで本など読める身分であるのかわからないわりに、変な余裕がある。逆にセリーヌを全部読んだりする。そういうところがある。
ディック幻の処女作『市に虎声あらん』(まちにこせいあらん)。これも図書館の本棚で見かけた知った一作である。本作はSFではない。読後感としては『ティモシー・アーチャーの転生』に近い。って、『ティモシー・アーチャー』は最後期の作品じゃないか。最初の最初から、ディックはディックだった。
エレンは考えこんだ。「あなたのこと、目に入ってないと思うわ。誰かを見習うってこと、彼は学んだことがないのよ。彼が望んでいるもの、探しているものって、あまりにも漠然としてて、浮世離れして抽象的なの。名前もない。百年前なら、それは恩寵って呼ばれてたわ。彼は信じられる誰かを探してるの。彼を落胆させない誰かをね」
主人公は中古タイヤの溝掘り職人……ではなく、しがないテレビ販売店のセールスマンのスチュアート・ハドリー。若い妻エレンと生まれたばかりの赤ん坊がいる。とはいえ、彼はそこに収まるような器ではないのかもしれない。彼自身、そう考えている、感じているのかもしれない。周りの人間にもそう見えてるのかもしれない。実際のところはどうなのかわからない。
僕に魂魄があるなんて、誰も教えてくれなかった。思わずげらげら笑いだしたくなる。そいつは何だ? どこにあるんだ? たぶん、魂魄なんて失くしちまったんだろう。たぶん、僕が売るか貸すかして、忘れてしまったのさ。たぶん、もう魂魄を持って生まれてくる人なんていないんだ。でも、魂魄という言葉は無じゃなかった。だから、僕は反応したんだ。
ただ、なにか見の内側から澎湃たる「何か」がある。その「何か」は、平穏であってもよい日常から新興宗教の教祖への興味へ、あるいは他の女性へと向けられる。やがて、彼は元の日常から大いにそれる。それて、やがて別のものとして帰還する。なにかを失い、なにかを得て。
ディックの「普通小説」。でも、普通であって普通じゃない。普通の裏側には何かがある。あるいはその時代があるのかもしれない。もちろん、ディックの世界観はあるに決まっている。しみったれた現実世界と、そうでないものの気配がある。
その晩、ハドリーが家に歩いて帰るころ、まだ外は明るかった。ジャケットを腕にひっかけ、宵の街路をとぼとぼ歩いていく。胸いっぱい、すがすがしくて温かい空気を吸いこみ、住人や宅地を貪るように見つめた。芝生に水撒きする男たち、組んずほぐれつ戯れる子供、家の正面ポーチで黙って座っている老人たち。
彼は足を引きずっていた。できるだけゆっくりと歩く。目に矚いたものを賞翫し、飽きるほど長く香をかぎながら、自分のアパートの扉の前まで歩き通した。途中でしばらく立ちどまって、わずかに傾斜した丘の向こう、商店街のほうを眷る。七時少し過ぎだった。家々から洩れてくるラジオの音。その音にまじりあう夕餉の匂い。筋向かいでは老女が撓んだ如雨露で、せっせと花壇に水を注いでいた。薄汚れた灰色の牡猫が、彼女のあとについてまわり、濡れた葉や茎をくんくんかいでは、ひょいと伸びあがると、水のしたたる花葩に鼻先を突っこんだ。
こういうわりとなんでもない光景の描写。あまりそういう作家だという印象は正直ないのだけれど、なにかいいなぁと思ってしまう。そうじゃないか? え? 読めない漢字がある? というか見たことがない?
……というわけで、本書はかなり訳文に特徴があるということは言及しておかなきゃいけない。山形浩生の「推薦の辞」にはこうある。
つーわけで、なにやら漢文から持ってきたであろう見知らぬ単語や言い回しがゴロゴロ出てくる。が、しかし、全部にわかりやすいルビが振ってあるので心配は無用。とはいえ、おれは少し気になったかな。このあたりは人によって感じ方も違うかもしれない。まあ、そもそも原書を読めないので、ディックが古典英語を使ってるのかどうかも確かめようがないし(たぶん使ってない)。
ああ、それにしてもディック。なんと興味深い作家、これが(普通小説で、ボツを食らいまくって長年「引き出しの中に書く」(ソヴェート・ロシアの言い回しね)ことになっていた処女作とは。だってこれ、まったくもって破綻もないし、丁寧なペース配分と一気の末脚、そして余韻、見事なもんだぜ。今年読んだ本のベスト5に入ってもおかしくない。そして、彼が鈴木大拙の本に接していたのは知っていたが、ザック・スナイダーあたりの影響をわりと近くで受けていたとか、そういうのもある(訳者解説)。おれの興味は別々のところから出て、どこかで繋がっている。そんな発見もあった。
まあ、それはどうでもよろしい。ひょっとしてディック未読のあなた、案外この本から入ってみてもいいんじゃないでしょうか。わりと無責任にそんなふうにも思ったり。それじゃ。
>゜))彡>゜))彡>゜))彡
……10年も前の感想だ。なぜか競馬に例えるのは「ホースラヴァー」だからしらん。
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……ところで新訳版が気になる。見たら買いそう。