資料提供 お釈迦さまに帰ろう 照智一生
同様の考察が、と仏陀は言う、彼の教えにもなされなくてはならない。「私の教義を私への尊敬のために受け入れてはならない。先ずそれを自分で試してみなさい。金は火によって試されるのだから」。
詭弁家のブラーミンに仏陀は答える。「おお、ブラーミンよ、夜を昼と、昼を夜と主張する人はたくさんいる。しかし私は、夜は夜であり昼は昼であると主張する」。
仏陀の教えの基礎とは何か、仏教と他の宗教の違いは何か話してほしい、と多くの人達、特に若い人達に頼まれます。これは一回の会話や講義でできることではありません。けれども仏教の根本的な基盤を形作っている教えとか、仏教を他の宗教から大きく分かつ違いについてなら、お話することができそうです。
先ず最初に、仏教とは単なる信仰ではないのだ、ということをお話する必要があります。それは何よりも生き方なのです。私達が仏陀の教えられたとおりに生きるのでなければ、私たちが何を信じているかなどはほとんど重要ではありません。
仏教全体は、この世に偶然に起こることは何もない、という基本の教えの上に成り立っています。仏陀はすべてのことには原因があると教えました。これには私達の幸福も含まれます。仏陀が教えたのは、もし人生をより良く、より幸福に、より健康で、より裕福に送りたいのなら、すべての原因を変えることでより良い結果を生み出さなくてはならない、ということです。仏教ではこれはカルマの法則と呼ばれ、科学では原因と結果の法則と呼ばれています。
どこへ行っても「不運」に関する苦情を聞きます。裕福で健康に恵まれ幸福な人達を見て、多くの人がそれは彼等が「幸運」だからだと言いますが、それは間違いです。仏教は運というようなものはないと教えています。良い原因が良い結果を生み出し、悪い原因が悪い結果を生み出すのです。もし私達が不幸なら、それは私達の過失であって、誰を責めることもできないのです。
善良な生を送っているのに不運なことばかり起きる、と言う人がたくさんいます。仏教の師達は、それは過去生の悪いカルマを今生で刈り入れているのであって、調度、植物を植えたらそれを刈り入れるには熟すまで待たなくてはならないのと同じだと言っています。カルマもそれと同じです。時には熟すのに長い時間がかかって、今生でしたことが来生で実を結ぶのです。
悪いことを行う人達が栄え、快適な人生を送っているのをよく見かけます。しかし私達は、彼等の蒔いている悪い種は遅かれ早かれ不幸を実らせる、ということを知っています。カルマの良い種についても同様です。良い種だけを植えるなら、遅かれ早かれ私達は良い収穫を得るのです。私達から良いカルマを奪うことは誰にもできないのです。
善も悪もすべては私達の思いから生まれてくる、と仏陀は教えています。良いことや思いやりのあることを思えば、良いことや思いやりのあることをするのです。これが功績の良い種(良いカルマ)となるのです。もし私達が暗く邪悪なことばかり考えていたり、またとても怠惰で思いやりのあることなどほとんど考えたりしなければ、良かれ悪しかれ、その思いのような人生を送るようになるのです。しかしすべてのカルマは、悪い思い、良い思い、怠惰な思いのどれかから起こります。
普通の人はみな、幸福になりたいと思っています。動物はみな、痛みから逃げ出して幸福になろうとします。凍えるような朝には、犬は日向に寝転びたがります。それは日向のほうが居心地がいいからです。それが犬の幸福探しのやり方なのです。雨が降るとカエルが喜ぶのは、雨を好むのが彼等の性質だからです。雨が降らず水がほとんどないと、カエルは幸せではありません。生きている者はみな幸福を求めているのです。けれども幸福を誰よりも求めているのは人類です。
他の宗教はみな、幸福とは何か死んでから得られるものだと言います。仏教は、私達は今・ここで天国にいることができる、今生で幸せになることができる、と言うのです。仏陀の重要な教えはすべて、いかに悲しみから逃れるかという主題についてです。仏陀は、今生でそしてこの生を離れた後に行く別の世界で、いかに幸福を探したらいいかについて、とても明瞭な指導をしてくれました。
三つの真理として知られているものがあります。それは次のようなものです。最初は、悲しみはすべてにやって来る。二番目は、永遠なものは何もない。三番目は、我というものでさえも常に移ろっている。これを苦(ドゥッカ)無常(アニッチャ)無我(アナッター)と呼びます。三つの中で最も重要なのはアニッチャ・無常で、あらゆるものは常に変わり続ける、その変化は良くも悪くもなり得る、という法則です。
現代科学は宇宙で静止したものを見つけることはできませんでした。すべてが動いているのです。すなわち、あらゆるものが運動している。静止したものは何もない。私達は、前進するか後進するかです。より良くより幸福になるか、あるいは良くない方向へ成長していって不幸を蓄積するかです。ですから、いかに幸福の方向へと動いていくか、が仏教徒としての私達の主要な関心事なのです。
ここに、悲しみを乗り越え幸せになるための心得があります。これら人生の心得は、お金持ちにも貧乏人にも、身分の高い人にも低い人にも、教育がある人にもない人にも、すべての人種、男にも女にも、成人だけではなく子供にも、過去、現在、未来と時代を超えて同一のものです。これらの人生の心得は、とても簡単に聞いて覚えることができます。難しいのはこの心得を使うことです。慈悲や慈善について語るのはとても簡単ですが、自分自身の行為をもって、慈悲や慈善を示すのがいつも簡単だとは限りません。
中国の古いシンボルである陰と陽、つまり一対の両極について、多分みなさんは知っているでしょう。この世界にあるものにはみな、それと反対のものがあります。このように仏教の教えでは、生きていくための規則には陽(積極的)と陰(消極的)がある、と言っています。最初の規則は五つあって、みな陰の側のものです。つまり、してはいけないことです。
なぜこんなにも多くの人達が、ほとんど幸福のない人生を送っているかという主な理由の一つは、彼等が八つの積極的な規則「八正道」に従っていないからということです。彼等は五つの消極的な規則「五戒」に従っているだけです。このように言う人がたくさんいます、「何も悪いことをしていないのに、私は不幸だ」と。彼等はどうして自分が不幸なのか知りたがります。答えは簡単です。彼等は何も悪いことをしていない、でも良いことも何もしていないのです。彼等の人生は全く消極的なのです。それは、陰はあるけれど陽がない、またはその反対のようなものです。別の言い方をすれば、片足で歩こうとしている人や片方の翼だけで飛ぼうとしている鳥のようなものです。バランスのとれた人生を送るためには両極を知ることが必要です。悪を行ってはいけないが、同時に善を行わなくてはならないのです。そうでないとバランスが崩れます。
では、積極的で幸福な生活のための八つの規則とは何でしょう。それは暗唱するのも覚えるのも簡単です。問題は、私達がその規則を実際に日常生活の中で使おうとする時です。私が「日常生活」と言ったのに注意してください。これらの規則に聖なる日だけ従うとか、時々従うとか、香を炊くために寺院へ入る時だけ従うとかいうのでは、あまり役に立ちません。規則は毎日使うものです。
ダンマパダ 5
仏教のすべては、私達が「四つの聖なる真理」と呼ぶ四聖諦「苦・集・滅・道」の上に成り立っています。平易な言葉で表現すればこうなります。
赤ん坊でさえ悲しみを知っています。お腹が空いたり、喉が渇いたり、暑過ぎたり、寒過ぎたりすると泣き出します。それが赤ん坊の不幸の表現方法です。
私達が病気になった時はそれが悲しみです。失望した時はそれが悲しみです。不幸になるには様々な道があります。私達は幸福な時でさえ、それが永遠には続かないのを知っているのです。
偶然に起こることなど何もありません。あらゆることには理由があります。悲しみの原因は無知であり、それが欲望を引き起こすのです。「無知」というのは、生の本質を知らずに正しい生き方を理解できない、ということです。
苦しみは終わらせることができます。始まりがあるものには必ず終わりがある、と仏陀は教えました。仏陀が来て、無知から自由になる方法を教えてくれるまでは、不幸の本当の原因やそれの乗り越え方を知る者は誰もいませんでした。苦しみを乗り越え、本当の幸福を見つける方法は四番目の真理の中に見つかります。
幸福を見つける方法は、道や行路のようなものです。実際それは、聖なる八つの道・八正道と呼ばれています。道や行路というのはその上を歩くためにある、ということは誰でも知っています。使えない道など価値がありません。仏陀の聖道は、私達が人生で毎日使うものです。人生という道を歩く時には、いつも八つのことを覚えておかなくてはなりません。仏陀の教えに従おうとするならば、この八つのことを心にとめておかなければならないのです。覚えるのは難しいことではありませんし、もし幼い頃から八つのことすべてを使い始めるならば、仏陀の聖道を歩くことは、後で成長してからやり始めるよりもずっと容易であるのに気づくでしょう。では理解し使っていくために、この八つの道を記憶しましょう。その八つとは次のことです。
ずっと昔、広い砂漠に隊商の道がありました。日中砂はとても熱くて焼けた炭のようでした。飲み水もなく、尖った石や茨があって、道に迷った人の足を傷つけていました。賢い旅人達は水と食料を大量に持ち、正しい道を知っている経験を積んだガイドを雇い、砂漠の様々な危険を避けて隊商を安全に導きました。
けれどもある愚かな旅人が、危険に満ちた砂漠をガイドなしで渡ろうと決めました。彼は間もなく道に迷ってしまいました。尖った石が彼の足を切り、茨が彼の身体を引っかき、彼もラクダもすぐに水を飲みきってしまいました。渇きと暑熱と負傷のために瀕死の状態だった時、ガイドを連れた賢い旅人に彼は助けられたのです。
砂漠とはこの世界であり、危険とは私達が出会う問題や悲しみです。良いガイドとは仏陀であり、砂漠を渡る安全な道とは聖なる八つの正道です。
先ず第一に、できる限り最高の思考するようにしなくてはなりません。さて、これはどういうことでしょうか。「最高の」というのは、自分ができる限りで最高の、最良のという意味です。ある人にとっては最高でも、別の人にはそうでもないかもしれません。けれども人それぞれに、自分にとって最高の、最良の思考をしなくてはなりません。その結果として私達は最高の理解を得ることができるのです。もし最高の理解がなかったら、ハイウェイで車の運転の仕方を知らずに車を走らせようとしている人と同じです。大事故を起こすのは確実です。車を運転する前に車について理解していたら、その人は仏陀のアドバイスに従うでしょう。先ず第一に私達は、でき得る限りの思考を巡らして、生についてでき得る限り最高の理解を得なくてはならないのです。
先のレッスンで学んだように、良い理解と良い思考は、決して離れることのない双子のように同伴するものです。しかし、仏教徒が宗教と関連して思考という言葉を使う時、それは特別な意味を持っています。誰かが「私は決心した」と言う時、私達はみなそれがどういう意味なのか良く知っています。その人は自分が何をしたいのか決めて、それをする決心をしたのだ、ということであるのを知っています。それが決然たるものであり、正しい目的を持っていると考えることなしには、正しい理解を得ることはできません。
正しく向けられた思考から生まれる正しい理解を持つことなしに、正しい確信を持つことはできるかもしれませんが、誰か他人の意見を受け入れてしまったら、仏陀のアドバイスである、自分自身で考えて自分自身の目的を持ちなさい、に反することになります。「彼は実に目的のない人だ」とか、「彼はまるで考えなしの人だ」とか言うのを時々聞きます。ダンマパダの中では、考えない人は死人のようだと言われています。このような人は決断するのを嫌い、人生に本当の目的を持っていないのです。
様々な言語に見出される、古いことわざがあります。それは私達にとっていいアドバイスをしています。それは、「飛ぶ前に見よ」です。仏教が教えているのは、私達はそれぞれ自分自身で人生を作らなくてはならない、ということです。もし本当の決心というものがなく、人生において良く練られた目的がなく、ほとんど考えることをしないなら、結果は混乱と不幸だらけの人生でしかないでしょう。自分の不幸を「不運」のせいにするのは愚かなことでしかありません。そんな時にすべき最良のことは、老いも若きも、誰にとっても羞恥のもとでしかないような、暗く醜い考えから心を開放することです。たとえば私達の心から、怒り、悪意、貪欲、憎しみ、嫉妬、妬み、怠惰などを一掃しなくてはなりません。明瞭に考え思慮深く行動するためには、本当の意志を持たなくてはなりません。こういった目的を持たなかったら、不幸が襲いかかった時に、自分を責めるしかないのです。
無頓着な愚か者
とても年を取ったお金持ちのブラーミンがいて、彼の人生における唯一の目的はできる限りの興奮と快楽を得ることでした。彼は不愉快なことは決して考えないように決心しました。いつかは自分も死ぬのだという事実さえ、考えることを拒んでいました。この愚かな男が、自分のために立派な快楽の館を建築しようと決心したのです。館が完成すると、彼は百年分の富と贅沢品でそこを満たしました。
仏陀は、その愚かな老人に説いて、より良い人生の目的を持ち、もっと良い考えを持つことを促すために、彼のもとへアナンダを送りましたが、そのお金持ちの老人は聞こうとしませんでした。愚かにも彼は、自分が死ぬことは決してないと確信していたのです。彼の目的が間違っていたので、彼の考えも間違っていたのです。アナンダが老人のもとを去って間もなく、老人は卒中を起こして死にました。この知らせが仏陀のところに届いた時、仏陀は言いました。「愚か者よ、賢者が彼を指導した時でさえ、知恵を理解することができなかった。それは、彼が愚かで自分勝手な考えしか持っていなかったからだ。スプーンがスープを味わうことができないように、誤った考えで心がいっぱいの人は、決して悲しみから自由になることができない」といわれたのです。
一つ一つ見ていくと、八つの道を理解するのはいつも容易だとは限りません。言葉と行為は一緒に起きます。言葉と行為は、私達の心の中で何が起こっているのか、知人達すべてに知らせます。このレッスンでは言葉だけを取り上げて、行為は四番目に回しましょう。しかし、正しい言葉の意味を理解しようとするに従って、正しい言葉の後には直ちに正しい行為が続くという事実に、注目しないわけはいきません。この二つには密接な関係があるのです。
人生には、本当の秘密というのはそう多くはありません。私達の使う言葉は知人達すべてに、私達がどんな人間なのか知らせます。賢明な人達は愚かな言葉は使いません。愚者は賢者のようには話しません。親切な人達は残酷で粗野な言葉づかいはしません。本来残酷な人達は、軟らかく親切な言葉を使って一生懸命に人を騙そうとするかもしれませんが、遅かれ早かれ彼等の本質は現れてきます。
正しい言葉は、マイナス(−)とプラス(+)の両方でなくてはなりません。つまり、不誠実さがなく、怒りがなく、あらゆる醜悪さがないのでなければなりません。私達の言葉は、偽り、ゴシップ、愚かなお喋りから自由でなければなりません。私達はいつも理性のある親切で優しい言葉によって、話している相手に幸福を運ぶような話し方をすべきです。もし言葉によって幸福を運べないなら、少なくとも間違った言葉によって相手を傷つけてはいけません。嘘をつくのは間違った言葉の最悪のものです。誰かを傷つける嘘はその中でも最悪です。また真実を語ってはいても、それによって人を悲しませたり傷つけたりするのは間違いです。ただ黙っているほうがいい時もあるのです。時として仏陀は、「賢者の高貴な沈黙を守りました」。仏陀は自身の例によって、時に沈黙は語ることより優れていると、真実の言葉でさえあると示したのです。
行為について言えば、行為、振舞い、行動、その他何であれ、それは「正しい行為」と呼ぶに値するものでなくてはなりません。
古いことわざにこういうものがあります。「行為は言葉より雄弁である」。良い言葉には良い行動が伴わなければなりません。いつも立派に話そうとどんなに如才なく振舞ったとしても、行動が言葉に伴っていなければ、私達の本性を変装することはできません。
少年少女は幼い頃から、約束が神聖なものであることを学ばなければなりません。あまり簡単に約束をすべきではないのです。約束が果たされた時それが「正しい行為」になるかどうかを、先ず見極めなければなりません。また、約束をする前にそれが守れるかどうか、自問しなくてはなりません。約束を破る人はそのうちに尊敬されなくなるのです。
私達はみな、友人・知人から尊敬を得られるように、自分のすべての行為を整えなくてはいけません。けれどもこれではまだ半分です。後の半分は、自尊心を持つことの大切さです。間違ったことをした場合、他人を騙して自分のしたことを隠しておくことはできるかもしれませんが、自分を騙すことはできません。どんな行為も行う前に、それが喜びをもたらすのか、それとも悲しみをもたらすのか、よく考えてみなければいけません。賢明によく考えて行為すれば、自分のしたことを恥じる必要はなくなります。賢明な行為を伴った賢明な考えは、他人からの尊敬を受け、また自尊心を失うことも決してないでしょう。
仏陀の教えを信じていると言う人は大勢います。でも彼等の行動を見た時、本当にそうなのだろうかと思ってしまいます。彼等の行動が言葉と一致しないのです。いつも心にとめておくべきなのは、仏陀の宗教は語るものではなく、実行するものだということです。
正しい思考と正しい行為がいかに密接に関わっているかを理解することなしに、聖なる八つの正道のこの部分を充分に理解することはできません。なぜなら、生計を立てるには思考と行為両方が必要だからです。少年少女達はみな成長する時に、どうやって生計を立てていくかについて真面目に考えなければなりません。考える時に重要な点はたくさんあります。
先ず最初に、できれば他人を助けたり幸せにしたりできるような職業を選ばなくてはいけません。たとえば、医者になろうとして勉強している若者は、多くの人の恩恵になるようなライフワークを計画しているのです。彼の仕事は人々の苦しみを軽減します。こういった種類の仕事が、仏教では価値あることと見なされているのです。食物を育てたり、家や道路、橋を建築したり、郵便局やその他、人類にとって本当にためになる職業に従事している人達は、正しい生業を行っているのです。
真面目な仏教徒で、どんなかたちであれ困窮とか苦しみの原因となる職業に就いている人はいません。動物を殺したり、その肉を売ったり、酒類や麻薬の製造・販売、武器の売買、ギャンブルや卑しい快楽を助長することなど、これらすべては真の仏教徒には禁じられています。生計を立てるための商売や職業はたくさんあります。もし自分の選んだ職業が特に他人の助けにならないものだとしたら、少なくともそれが誰にも害を及ぼさないようによく気をつけなければなりません。
仏陀のこの五番目の点の主な意味に、少しつけ加えておくことがあります。たとえば少年少女は、成人もそうですが、趣味を持っています。それが何であれ、自分のすることが他人に害を及ぼさないということを、よく確かめなければいけません。もし他人に幸福をもたらすような趣味であれば、それはとても素晴らしい趣味です。花を育てることはそれを育てる人に幸せをもたらしますが、その美しい花を見る人達にも幸せをもたらします。庭の持ち主がその花を病人や老人や心が傷ついている人達に分け与えるとしたら、彼はとても価値ある趣味を持っているということになります。
さて、今度は別の種類の職業や趣味を見てみましょう。野生動物を撃つことに喜びを感じる男を考えてみます。彼はその肉を売って生計を立てているのかもしれません。あるいは、こういった残酷な趣味に喜びを感じるというだけの理由で殺しているのかもしれません。このような職業や趣味は、真正な仏教徒であればできないことです。痛みや不幸を他人に、動物にでさえ与える人達の生活は、遅かれ早かれ多くの不幸に見舞われることになるでしょう。そうであればなぜ、生き、かつ生かさないのでしょうか。
正道のどんな点も、もし努力と連結していないとしたら、何の意味もありません。最良の自動車でさえ、タンクにガソリンが入っていなければ使いものになりません。ガソリンが車を走らせるエネルギーなのです。正しい努力の別名は、正しいエネルギーです。もしこの六番目の点が抜けていたら、道のその他の点は生気を失います。人生に正しい努力が欠けているという状態を表現するには、不愉快な言葉を使います。その言葉とは怠惰です。怠惰を克服しなければ、幸福へ向かう道において本当の進歩はあり得ません。私達はみな、善良で道徳的な役に立つ人生を送るために、真の努力をしなくてはなりません。普通、仏陀の教えに則った人生を送りたいなら、四つの主要な努力をしなくてはならない、と言われます。その四つの大きな努力とは次のことです。
私達の多くがいいアイデアや善意を持っているのですが、それを現実に行うための努力をしようとはしません。これは片方しか翼がない鳥のようなものです。少年少女達を含めて、多くの人が犯すもう一つの過ちは、今日しなければならないことを明日、来週、来月と延期する、という悪癖です。確実に存在するのは今日だけなのです。昨日はすでに去り、明日はまだ来ていないのです。正しい努力をし始めるのに最善の時は、今日この日なのです。八つの正道のすべてを実践するのが早ければ早いほど、本当の幸福に巡り合うのも早いのです。人生の幼い頃からこの道に従い始めた少年少女達は間もなく、それが真実の永遠に続く幸福への唯一の道であるのに気がつくでしょう。しかし、始めないことにはどうしようもないのです。海岸に座って海を見ながら、泳ぎ方を知っていればなあと思っている少年は、泳ぐ努力をしないうちは、泳ぐことはできないのです。正しい努力の別の言い方は、正しい試みです。本当の試みなくして、人生の幸福を、または何であれ、得ることはできません。精一杯努力して幸せになり、仏陀の教えを実際に日常生活で使いましょう。
正しい気づきは日常生活のための七番目の規則で、誰でも使えるとてもためになるものです。成功したビジネスマンの多くは、ビジネスの中でこれを使っています。これは、自分のしていることに注意を払う、ということです。どんな仕事でも正しい気づきをもってすれば、もっと良くすることができます。自分のしていることに注意を集中することができなかった場合、多分仕事の出来上がりは満足できるものではないでしょう。少年が混雑した通りを自転車に乗って行くところを想像してみましょう。彼は自分のしていることに注意を払わず、上の空で赤信号へ飛び出します。他の車が自転車に衝突して、少年は重傷を負ってしまいます。このすべては、正道の重要な七番目を使わなかったことの結果なのです。
以前、医者が注射を間違えたために死にそうになった人がいました。医者が自分のしていることに注意を払っていなかったために、あやうく人が死んでしまうような過ちを犯したのです。この七番目の規則は私達すべてにとって、そして私達の人生の毎日にとって、とても重要なことなのです。
最も成績の良い学達とは、学んでいる教科に完璧に集中できるように自分自身を鍛えた学生達です。数学の教科中にもし注意力が数学から離れ、歴史の試験に合格できるだろうかと心配し始めたとしたら、それは七番目の点の良い使い方ではありません。もし注意を分散しないでそれぞれの教科に順番に集中するならば、試験全部に合格するチャンスはもっと増えるでしょう。三つか四つのことを同時にしようとすると、たいがいは部分的にしか終わらなかったり、終わったとしても完全ではなかったりする、ということに気づいたことはないでしょうか。それは注意が散漫だったからです。分散された注意は正しい注意ではありません。
正しい気づきは一種の集中であり、集中とは注意を一点に固定することです。実際、正しい気づきは一点集中と呼ばれることもあります。もし毎日、何であろうと自分のしていることに注意を集中することができないなら、人生で成功して本当の幸福を見つけるのはほとんど不可能でしょう。これができないということは、正しい気づきがないということなのです。
八番目の規則はパーリ語でサンマ・サマーディと呼ばれています。これは七番目の規則に見出されるような、通常の集中ではありません。この八番目の規則は霊的な集中のことであり、一般に瞑想と呼ばれています。この八番目の規則は実に八つの規則から成る道の最高ものであり、もし正しく用いられれば、定期的に瞑想をする人に多大の平穏と知恵をもたらします。これは私達すべての仏教徒にとってたいへん重要なことなので、この点についてはとても明確に、また、八番目の点を実際に定期的に正しく使った場合人生に何が起こるかについて、できる限り明瞭に描写してみたいと思います。
現代社会ではほとんどの人が、通常何らかのストレスを抱えています。家庭を持つ人にとっては家族のために食料や住居や衣料、その他の必需品をまかなうことすらたいへんな問題です。そして健康の心配、感情のトラブル、あれやこれやのトラブル、心配、不安があります。これらすべての結果が神経症であり、精神と心の平安の欠如なのです。通常、たいへん神経が昂ぶったり心配が過ぎたりすると、人は神経組織を鎮静するために薬を買います。人によってはもっと悪いもの、酒やもっと酷い時には麻薬を使うこともあります。
仏陀は、すべての病気に最良の薬は瞑想であると言いました。どのように瞑想に取り組んだらいいのでしょう。女性も男性同様瞑想ができるのでしょうか。ジャングルやどこか人里離れたところへ行く必要があるのでしょうか。何を目指して瞑想したらいいのでしょうか。
その通り、瞑想は僧同様、俗人にもできます。男性同様女性にも、ジャングルや人里離れたところ同様に街でもできます。瞑想は実は全く込み入ったものではないのです。大きな問題は、全く動かないでほんの二・三分でさえ座ろうという人がほとんどいない、ということです。座って間もなく、水が飲みたくなったり、自動車のクラクションが聞こえたり、ハエが耳元で唸ったり、ベルトがきつかったり、膝が痛んだり、領収書の支払いをどうしようかと心配し始めたりするのです。全く動かずに沈黙して座ることさえ、初心者にとってはたいへんなことで、忍耐が必要になってきます。しかし忍耐強く真面目に定期的に試みるなら、瞑想の仕方が解ってきて、この実践をすることで大いに報われることでしょう。人生全体がまるっきり変わってしまい、精神と心の平安がこの八番目の規則を使うことによって訪れるのです。
ここで、できるだけ短く瞑想の心得を書きましょう。早朝、夜の休息の後に瞑想するほうがいいでしょう。顔と手を洗い、肺の中の汚れた空気を吐き出します。ゆったりした服を着ましょう。身体を意識する必要のない姿勢で座ります。いつも椅子に座っていて、床に足を組んで座るのが居心地悪い場合は、床で瞑想することはできません。その時は、椅子の上にまっすぐに座って床に両足をしっかり着けます。鼻と顎は臍のラインの上にくるようにします。肩は肺が新鮮な空気を取り入れられるように下ろします。目は半分閉じます。右手を左手の上に両手の親指が触れるように置きます。
そうしたら、呼吸のエクササイズをします。静かに自分に言いましょう。「一つ、吸って」(そこでしばらく息を止めます)次に「一つ、吐いて」・・・この息を吸ったり吐いたりは、ゆっくり規則的にやりましょう。これを十数えるまで続けます。そうしたら、何か一つの対象に心を集中させて、他の思考が入ってこないようにします。他の思考が意識の中に入ってきたら、それにつかみかかってはいけません。ただそれが止まらずに心の中を通り過ぎていくにまかせます。他の思考にしがみついてはいけません。集中のための対象として平安を選んだのなら、平安のことだけを考えましょう。だいたい十五分位そうしています。
多くの人が、瞑想を初めてする時に一時間しようとしますが、それは間違っています。いい方法ではありません。最初の十二・三回くらいは十五分間やってみて、次の二・三週間は二十分、それから三十分試し、瞑想を六・七か月続けた後に一時間するようにしましょう。瞑想を教えてくれる良い先生がいるなら、教えてもらいましょう。もしいなければ、規則の一、二、六番目の点、つまり、注意深く考える、正しく理解する、正しく努力する、を参考にしてください。
最近はヨーロッパの医師の多くが、高血圧、喘息、腫瘍、過度の緊張、恐怖、不安、心配、神経のトラブルなどで悩む患者達に、瞑想を勧めています。病気が完全に治る確率がたいへん高いのです。ロンドンのグラハム・ライ医師は何年もこの方法を使っていて、ある病気の治療においてイギリスで最も成功している医師の一人です。この治療の真偽を自分で確かめたいなら、瞑想をしてみて、人生がどんなに穏やかになるか、自分の血圧が平常値の戻るかをみてみるといいでしょう。
良い仏教徒になるには、時々お寺へ行って線香を捧げ五戒を守ればいいのだ、と思っている人がたくさんいるそうです。仏陀の教えは鉱山の深くにある宝石のようなものです。その宝石に届くためには掘ることが必要です。仏教の真理を学ぼうと真剣に試みた人達は、他の人が得られないような幸福と満足を見つけています。単に「私は仏教徒です」と言うことには何の意味もないことを覚えておいてください。自分の人生をどうするか、に意味があるのです。仏教において人生とは、すること、毎日、生涯し続けることなのです。仏陀の道に従うことは、この世における幸福と、死後の世界における幸福へと、確実に向かっているということなのです。
平安と幸福があなた方すべてにありますように
カルマとはサンスクリット語で行為という意味です。仏教徒がこの用語を使う時は、それを作用と反作用、行為と結果と表現したほうが意味が明確になるでしょう。カルマの別の表現は、原因と結果です。
私達はパディを植えた時、胡椒ができるとは期待しません。涼しくしたい時に火を焚いたりはしません。人生においてあらゆることは、もし原因を知っていれば結果を確実に予想することができます。たとえば、マッチの取り扱いに不注意であれば、火事がその結果であり家を燃やしてしまうこともある、ということを私達は知っています。けれども、氷を使って家を焼き壊すことはできないのも知っています。焼き、破壊するというのが火の性質です。氷は異なる性質を持ち、全く異なる結果を生み出します。何か別のものを作ることを考えてみましょう。誰かの誕生日にケーキを焼きたいのだとしましょう。それには粉、塩、牛乳、香味料などが必要で、これらの材料すべてを注意深く混ぜ合わせなくてはいけません。次に捏ねたものを皿に入れ、オーブンを一定の温度に保たなくてはいけません。皿をオーブンの中に一定時間入れたら、ケーキを取り出して冷まします。そしてケーキができるのです。ケーキが効果または結果であり、適当な材料を混ぜ合わせること、適当な温度のオーブンに適当な時間入れること、が原因です。
仏陀は、幸福と不幸は効果または結果であること、それは火が原因となって結果である熱を生み出すのと同じであること、を教えました。自分勝手で無知で邪悪な人生を送れば、自分勝手、無知、邪悪に見合うような結果しか期待できません。悪い行いは悪い結果を生み、良い行いは良い結果を生むのです。
多分少年少女のみなさんの多くは家に貯金箱を持っていて、毎週そこにコインを入れているでしょう。私達の思考や行為は、人生という銀行にお金を入れるようなものです。悪い思考や行為は贋金のようなものです。時に贋金を使おうとして逮捕される人がいます。鉛で造ってあったり、印刷された紙幣の模造品だったりします。このようなお金を使おうとする人に不幸がやって来るのは必定です。悪い思考や悪い行為を「カルマの銀行」へ入れる人にも、必ず不幸がやって来ます。良い思考と良い行為によってのみ真実の幸福を貯蓄できるのです。誰も私達から良いカルマを奪うことは絶対にできません。悪い結果はいつも悪い原因から生まれます。良い結果はいつも良い原因から生まれます。もし幸せになりたいのなら、幸せの原因を貯めなければなりません。それは調度、パディの収穫を得るためにパディを植えるのと同じことです。
カルマの法則を実際に理解することの大切さを心にとめておくことは、すべての若者にとって極めて重要なことです。このことを理解していれば、原因をコントロールすることで結果をコントロールすることができます。善行が幸福をもたらし、悪行が不幸をもたらすことが分かるでしょう。このカルマの法則は深遠な主題なのですが、その中心となる考えは幼い子供でさえ理解でき、幸せが結果となるような生き方を学ぶことができます。
生まれ変わり
先ずカルマの法則がどのように働くか分かっていなければ、生まれ変わりに関わる教えを理解することはできません。生まれ変わりはカルマに依存しています。今生で良いことを思い良い行いだけをするならば、今ここで良い結果を得るだけでなく、この世の生を終えた時により良い生まれ変わりを得るでしょう。
人のカルマは、それが良いカルマであろうと悪いものであろうと、実はその人自身であり、カルマこそが別の生に生まれ変わるのであり、天国や地獄、あるいは再びこの世に生まれ変わるのです。時には、もしその人が極端に悪いカルマを持っていた場合、動物として生まれ変わるかもしれません。とても残酷で血に飢えていて、考えも行動もすべて虎のような人を想像してみましょう。このような人が虎として生まれ変わる可能性は充分あります。また別の場合を想像してみましょう。癖が豚にとてもよく似ている人の場合です。このような人が神々しい存在として、あるいは普通の良識的で立派な人としてでさえ、生まれ変わることを期待できるでしょうか。
私達はみな昔の格言を知っています。「麦わらで風の向きが分かる」。私達の人生も同じです。癖によって本当はどんな人であるのかが分かるのです。今生での癖が豚にとてもよく似ている人達は、多分動物界に生まれ変わるでしょう。豚としてです。生まれ変わりに関わることはみな、カルマに依存しているのです。
生まれ変わりは一種類だけではありません。この、今の生における生まれ変わりもそのうちの一つです。悪人が変化して良い人になる場合、それは一種の生まれ変わりです。良い人が変化して邪悪になる場合も同様です。けれども一般に私達が生まれ変わりと言う時、死ぬ時に何が起こるのかを考えています。もし、死んでこの世を離れる時にどんな生が待っているか知りたいのなら、今の生を見てみるだけでいいのです。もし怠け者で仏陀の教えを学ばず、五つの戒律や八つの正道に従わないなら、この世よりも良いところに、善良で幸せな生を受けることは期待できません。反対に、法を学び、法を生き、親切で利他的であるような人は、天国での生、または他の良いところでの生を期待することができます。
人生はたいへん速やかに移ろっていきます。今は少年少女であり、まだ学校に通っています。けれども私達はみなその後何が起こるか知っています。気がついたら大人になっていて、そしてすぐに老人になるのです。百歳まで生きる人はそんなにいません。でももしそれまで生きたとしても、この生を離れなくてはならない時は来るのです。ですから、自分の思考や行為に注意を払うことは、私達すべてにとってとても大切なことなのです。私達の思考と行為が、それが良かろうと悪かろうと、カルマであり、そのカルマが生まれ変わるのです。
子供時代から良き仏教徒としての生活を送り、一生涯良き仏教徒であり続ける少年少女達は、生まれ変わりについて思い悩む必要は決してありません。しかし、本当に大切なことは、早く始めるということです。もし今生で良いカルマだけを作るなら、その恩恵を受けるのに死ぬまで待つ必要はありません。私達が来生だけでなく、今生で幸福を得ることは確実なのです。
孝行
孝行という言葉はすべての文明人にとって大切な言葉ですが、仏教徒にとっては二重の意味で大切です。その事実上の意味は子の親に対する義務ということですが、信仰の篤い仏教徒にとってはもっと深い意味があります。若者達は、両親を敬い愛するという神聖な義務を負っているだけでなく、すべての年長者を思いやり、彼等の人生に幸せをもたらすような役に立たなければなりません。世界には孝行という観念がほとんど忘れ去られてしまった国もあります。そのような国は明らかに不幸へと向かって退化しているのが分かります。
私達仏教徒は、家族をあらゆるグループの中で最も重要なものと考えます。もちろん仏教協会、法学校、青年会、その他のクラブ、社会や団体などは、みなとても重要で価値があるものなのですが、その中で家族というものが最重要なのです。私達が最初に愛情の意味を学ぶのも、最初に善と悪の違いについての知識を得るのも、家族の中においてです。それだけでなく、他人と調和して生きるというとても大切な技術を学ぶのも、家族の中においてなのです。
そこで私達は、利他的であることと他人への思いやりが誰にとっても生きるのを容易にする、というレッスンを学びます。
コインに裏と表があるように、孝行にも二つの面があります。一つは年長者に対しての若者の義務であり、もう一つは年長者の若者に対しての義務です。両親や年長者には、子供達に対して良いお手本を示し、絶えず親切で手助けをしてあげる義務があるのです。もしこの良いお手本が示されれば、若者にとって両親や年長者を敬い愛するのは容易であり、また自然なことになります。孝行を一方的なものと考える過ちを決して犯してはなりません。それは片面だけしかないコインのように奇妙なものです。両親の義務と子供の義務は常に一緒に行われなければならないのです。
新聞には毎日「非行に走る子供達」の記事が載っています。しかし、こうした「腕白な子供達」のための特殊学級に送られた少年少女達と話してみると、通常彼等は標準的な普通の少年少女達であることを発見します。彼等が非行に走ったのは、年長者から無視されていて、良いことと悪いことの区別を教えられなかったからなのです。
確かにこのような両親は仏教徒ではありません。もし年長者が適切なお手本を示すことなく、すべての子供達が正しく健全で幸せな人生のための準備として必要としている、愛情に満ちた指導を与えなかったとしたら、若者達に孝行と良い行いを期待するのはむしろ理不尽でしょう。非行少年少女達よりも、本当に腕白な非行の両親のほうが数が多い、と多くの裁判官達は言います。法は素晴らしい観念ですが、正しい生き方の本当の指導は家庭で始められなければいけないのです。この本のレッスンは子供達にデザインされていますが、この主題は両親達にもふさわしいものです。実を言えばこれは、仏教徒の両親達に注意深く読み、考えてもらいたい主題なのです。
仏教についての無料配布の小冊子はよく見かけます。そのうちの多くはそれが無料だからという理由で、決して読まれることがありません。しかしこれらの小さなパンフレットや小冊子は人生のマスター・プランを含んでいて、もしそこで概説された教えを注意深く読みそれに従えば、読者は莫大な恩恵を得ることでしょう。私達の生きるこの時代には、しばしば人々がこう言うのを耳にします、「これから何が得られるのか」と。通常彼等は金銭、地位、健康などの物質的な利益のことを言っています。仏陀の教えに従うことで何が得られるのか知りたい人達への答えはこうです。「分別のある生き方の結果として、心も身体もより健康になります。より良い思考力のためにビジネスでさえもっと成功するでしょう。精神の静けさ、心の落ち着き ――― 正気の人であればこれ以上何を望むでしょうか」。
ダンマパダ 183
私はこれらの戒律が素晴らしいものであり、自他共に内的・外的危険から保護してくれるものであることを理解します。私は精一杯の努力をもってこの戒律を守ります。
評判や信仰を超えなくてはなりません。受け入れて実践され完成された時に、より以上の怒り、貪欲さ、迷いを生じるようなものは、拒否して然るべきです。自分が怒っていたり貪欲だったり迷っているのを知ることは、信仰や評判に依存しません。怒り、貪り、迷いは普遍的に非難されていることです。それらは恩恵をもたらさないために、避けるべきことなのです。
反対に、受け入れ実践された時に、無条件の愛、充足、知恵を生じるものは、受け入れて然るべきです。これらは幸せと平穏な心を育てる、時間と空間を与えてくれます。それで賢者は無条件の愛、充足、知恵を賞賛するのです。
これが、何が真実で何がそうではないか、何がスピリチュアルな実践であり何がそうでないか、を見極める時の判断基準になるべきです。
人生で成長していく時に: