ジェイド・ヴァン・クライフドルフにとって、騎士とはただの通過点に過ぎない。
クライフドルフ侯爵家は代々騎士の家系として、帝国軍部の要職を努めてきた名門である。
ジェイドもまた、名門の家の長子として十三歳の年に騎士学校へと入学。一年で准騎士に、二年の終わりには正騎士の資格を手に入れていた。
とはいえ、騎士学校には六年通う必要があるため、正式な身分はいまだ学生である。
今ジェイドは帝都にある、クライフドルフ家の屋敷へと戻っていた。
屋敷の中で一番広い一室。円卓を挟んで座っているのはウェルト・ヴァン・クライフドルフ侯爵。
ジェイドの父である。
将軍の地位を持つウェルトは軍人でありながら色白で、顔も身体もぶくぶくと太っており、その手もまた剣を握らなくなってからどのくらい経つのか、醜く脂肪に包まれていた。
ジェイドは部屋に入ると、父親に向かって一礼した。
「ただいま戻りました、父上」
「よく帰ったな、ジェイド」
座れと対面の椅子を指し示す父親に頷きゆっくりと席に着く。
――こんな男が帝国騎士団の将軍か。
醜く膨れ上がった腹、弛みきった顎の肉。
――この男程度で将軍になれるなら、おれは……
実の父親を腹の中で蔑みながらも、口の端に笑みを浮かべにこやかに話を切り出した。
「それで父上。この度の急なお呼び出しは?」
「勇者のことは知っているか?」
「それはもちろん有名人ですから。メイヴィス公爵令嬢のレティシア・ヴァン・メイヴィス殿でしたか」
「そうだ」
「大層美しいお方だと聞き及んでいます」
ジェイド自身はレティシアとは面識がない。
幼少時は問題児として扱われていたレティシアが、社交界へとお披露目されていないからだ。それに勇者として託宣を受けた後はすぐに旅立ってしまっている。
だが、レティシアの絵姿は新聞などに良く描かれていたし、その容姿に関する記事も多く書かれていたため、彼女が見目麗しいということは知っていた。
「わしは陛下との謁見の際と、夜会とで二度ほど顔を合わせておるが、確かに絶世の美姫というに相応しい。まだ十四の小娘だというのに、わしですらむしゃぶりつきたくなったわ」
下卑た笑みを浮かべるウェルト。
「ほぅ、それはさぞかし周囲の男どもが放っては置かなかったのでは?」
「陛下もアルフレッド皇太子殿下の妃として皇室に迎えたがっている。まあ、勇者に一度断られたがな」
身を震わせてくつくつとウェルトが薄く笑う。
「勇者を皇室に迎えることで、我ら名門貴族を牽制したいのだろう」
「皇太子殿下の!」
ジェイドは驚く。
貴族の娘にとって皇太子妃という地位はとてつもない魅力であるはず。それを袖にするとは――
家格が釣り合わず、たとえ皇族が望んでも娘の方が身を引くというのなら話はわかるが、レティシアは公爵令嬢。家格でいえば、皇族に次ぐ。
しかし皇帝に自分の息子の妃にと望まれながらも、それを断るという不遜ができる。さすがは勇者といったところか。
「メイヴィス公は何もおっしゃられなかったのですか?」
「娘とはいえ、勇者だからな。どうやら強くは出られないようだ。もっとも、わしらとしては助かる」
「父上、それはどういう?」
「ジェイド、勇者を手に入れろ」
ウェルトが笑いをおさめすっと目を細めた。
「お前とは年齢も近い。勇者を手に入れれば、クライフドルフ家は皇室をも凌ぐ力を手に入れることができる」
庶民にとって、いやこの大陸の人々にとって勇者は特別な存在。
その勇者をジェイドの妻として迎えることができれば――
最近の皇室は貴族たちの領地の経営についても、五月蠅いくらい口を挟んでくる。
クライフドルフ侯爵領についても、領民への税金の掛け方や生活水準の向上に関して口を挟んでくるので、ウェルトは辟易していた。
そこに勇者を息子の妻として迎え入れることができれば、いかに皇室といえども口を挟むことが難しくなるだろう。
貴族たちの筆頭となって皇室を黙らせることも可能となり、更なる利権を手にすることもたやすくなるだろう。
勇者を妻に迎えたジェイドと共に、帝国内で更なる権勢を握っていく展望を語る父を、ジェイドは笑みを浮かべつつ相槌を打ちながらも、冷めた目で眺めていた。
勇者を手に入れたとして、この程度の展望しか描けないのか。
自分の力によらず、ただ名門の生まれというだけで将軍という地位に就いた男。
恐らくは何もしなくとも、自分もこの男のように将軍の地位に就くことはできるだろう。
だが、ジェイドの中ではさらなる欲望が渦巻いている。
この男程度が帝国の将軍を勤めることができるのだ。
ならば、その先には何があるのか――。
もしも、自分が勇者レティシアを妻に迎えることができたなら、それは至尊の地位へと続く道を切り開くことができるのではないだろうか。
ジェイドは不意に血が熱くなるのを感じた。
今の皇室は平民に甘い。
選ばれた高貴な血筋の者だけがなれるはずだった騎士に、今では平民たちも多数登用され、さらには最高学府たる騎士学校にすら、平民が大手を振って歩いている。
ジェイドにはそれが我慢ならない。
勇者レティシアは公爵家という高貴な血を引いている。
ジェイドにとって己の妻になる女の美醜はどうでも良い。
だが、血は重要だった。
自らの野望のためにいずれは皇室もろとも、メイヴィス公爵家にも消えてもらうが、少なくとも公爵家の高貴なその血には申し分ない。
彼女を手に入れることによって、多くの者が味方につくだろう。
本当の血の貴さを知る貴族たちだけでなく、愚かな平民たちも自分を支持するに違いない。
そしてこの国を生まれ変わらせるのだ。
高貴な血を引く貴族たちが平民たちを支配するという、至極当然な国に――
「それで、父上」
考えを巡らせている間にも、自身のこれから先の展望を滔々と語るウェルトの言葉を遮り、ジェイドが口を挟む。
「なんだ?」
「レティシア嬢は今どちらにおられるのです?」
自らの野望を描くにしても、まずは勇者を手に入れる必要がある。
勇者とはいえど十四歳の小娘。手に入れる方法は幾らでもある。
だがまずは、本人に会わねばならない。
話の腰を折られて、少し苦い表情を浮かべたウェルトは椅子から立ち上がると、腹を揺らしながら窓まで歩く。
「今は宮殿に滞在している。どうも師匠とやらのところへと帰りたがっているが、陛下がどうしても帰したくないようでな。晩餐会やら夜会やらに連夜、連れ出しておる」
「となりますと、私も夜会にでも出席すればよろしいので?」
「そうだ。近く我がクライフドルフ家でも夜会を主催する。その際にでも機会を作ろう。何か贈り物でも考えておけ」
「そうですね」
自分たち以外の貴族たちも、勇者レティシアの取り込みに動くはず。
恐らくは諸外国にとってもだ。
その中でいかに彼らを出し抜くか。
ジェイドは無意識のうちに口の端に笑みを浮かべたのだった。
青く澄み渡る空はどこまでも高く、穏やかな日差しは春の訪れを感じさせてくれた。
騎士学校の入学式の準備のため、早朝から大聖堂へと赴いていたウィンは、少し汗ばんだ額を首からかけたタオルで拭うと、眩しげに目を細めて空を見上げた。
春の訪れを告げる渡り鳥たちが、青一色の空を白い線となって飛んでいく。
「おーい、ウィン!」
背後から声をかけられて振り返ると、学生寮で同室のロック・マリーンが手を振りながら走ってきた。
「おはよう、ロック」
「何だ、入学式に参加するだけじゃなくて、式場の手伝いもするのか?」
ロックの視線はウィンの両手に注がれていた。
ウィンの両手には、大聖堂にある分だけでは足りず、急遽運んで欲しいと頼まれた椅子が抱えられている。
「自主訓練していたら、教官に捕まった。どうせ式まで予定はないんだろうって」
「四回目だものな」
片方の椅子をロックがウィンから受け取り歩き出す。
「それよりも、ロックは今日から准騎士じゃないか。おめでとう」
「ああ、まあな」
空いている左手でがりがりと頭を掻いて、ロックが生返事を返す。
「正直、お前を差し置いて俺なんかがと思ってしまうんだけど」
「俺が試験に落ちたのは実力が足りなかったからだ」
三度目の試験。
訓練用の騎士剣に
何故か魔力を通すことができなかった。
魔力の通っていない鋼の剣では、きちんと魔力を通した剣の前では木の棒にも等しい。
しかも、相手はその年の学年主席。
二年前と同様、魔法で牽制された挙句、相手の剣を受けた際にあっさりと叩き折られてしまいウィンの試験は終わってしまった。
「それにしたって、対戦相手といい試験内容といい、お前にとって不利なことばかりだ」
「戦場では相手を選べないんだ。誰が相手であろうと勝てなかったなら、俺にはまだ騎士の資格はなかったということだ」
まったく、頑固な奴め。
ロックは話しながらも、椅子を運び終えた後も手を休めずに黙々と働いている友人を見つめた。
入学して一緒の寮で生活すること丸三年。
ロックにとってウィンはこれまで周囲にいないタイプの人物だった。
入学したその翌日から、ロックが朝起きだした時にはすでに寝床にはウィンの姿はなく、捜してみれば中庭で一人古びた木剣を振っていた。
毎日の帰りも遅く、座学や厳しい訓練を終えたあと、そそくさと教室を出て行ってしまう。
貴族や金持ちの子息たちが集まる学校である。
授業が終わったあとに街へと遊びに出かける者は多かったが、毎日遊びに出かけるという者は少ない。
どこで遊び呆けているのか気になったロックは、自分も街を散策がてらにウィンの後をつけてみた。
ウィンは小さな酒場の厨房の裏で芋を洗っていた。
洗い終わると、店のホールで注文を取ったり、料理を運んだりしている。
慣れた動きだった。
夜遅くに帰ってくるのは、働いていたから。
働いているウィンに声をかけることもできず、その日ロックは街で遊ぶ気分にもなれずに真っ直ぐに寮へと帰宅した。
友人はその日も何事もなかったように帰ってきた。しかも、また木剣でも振ってきたのか汗だくになって――
それ以来、入学してからの剣技や体術といった授業において、ウィンが群を抜いた成績を修めたことに周囲は驚いていたが、ロックは当然の結果として受け止めることができた。
あれだけの努力を見せつけられれば。
幼少の頃、冒険者から少し手ほどきを受けただけというウィンの剣術は、我流ながらも洗練された剣捌きで、有名どころの師に習ってきたはずの貴族の子女を寄せ付けず、教官をすら圧倒した。
しかしそんなウィンでも、座学には苦労していた。
家庭教師を雇って勉強してきた他の生徒に比べると、どうしても彼の学力は劣っていた。
また、その少ない魔力。
一年目の試験、攻撃魔法の得意な生徒と当たってしまい、ウィンは為す術なく敗北してしまった。
二年目はその対策を練って挑んだが、試験において使用できる武器は訓練用騎士剣のみという規定が加えられ、結局その対策も使うことができずに一年前と同様の敗北。
三年目は訓練用騎士剣に魔力が通らないという不具合。
その剣を見せろとロックが友人のために教官に迫ったが、教官の「生徒が試験に口を挟むな」の一言と、ウィンの無言の制止で諦めた。
そして、ロックの方はといえば准騎士の資格を手に入れている。
元々、ロックは商家の次男坊。
家は長男が継ぐだろうし、かといって父親の言われるままにどこかの商家に奉公に行くか、婿入りをするよりかは自由に生きようと思い、金を出してもらって騎士学校へと入学した。
その程度の覚悟の自分が必死に努力をしているウィンを差し置いて、准騎士の資格を取ってしまった。
ロックはウィンに後ろめたさを感じていた。
「あの、すみません」
大聖堂で係官へ頼まれた小荷物を渡し、別の仕事へ取り掛かろうと来た道を戻る途中――
「先輩の方でしょうか?」
振り返ると、一人の少女が佇んでいた。
「おお、美人」
ロックが思わずつぶやく。朴念仁であると自認するウィンですら、思わず見とれてしまう。
春の日差しを反射して柔らかな金色の輝きを放つ髪に、透き通った緑の瞳。
どこか透明感のある美しさを持つ少女だった。
「あ、ああ、先輩といえば先輩になるのかな。君は新入生?」
「はい」
柔らかな微笑を浮かべ、にっこりと頷いた。
「受付を済ませたら、大聖堂ではなくて貴賓用の更衣室で制服に着替えてくれと言われたのですが、場所がわからなくて」
「ああ、それならこっちじゃない」
少女が向かおうとしていた方向は大聖堂内の普通の更衣室だ。
「すみません、時間が早すぎたのかまだほとんど人もいなくて、お尋ねしようにも皆さん忙しそうですし」
申し訳なさそうに言う少女。
「そこに暇そうな先輩二人がぶらぶらしていたってわけだ」
「ええ、まあ」
「だったらウィン、お前が案内してやれよ。どうせ、お前も入学式には参加するんだ。一緒について行ってやれ」
「いや、まだ手伝いがあるし」
「どうせ、雑用だろう? 後は俺がやっておくさ。準備に手を取られて間に合わなかったら本末転倒だろうが」
手を振って背を向けると、ロックはさっさと歩き出す。
「じゃあウィン、また後でな」
「ありがとう、ロック」
その背に声をかけ、ウィンは少女へと向き直る。
「それじゃあ行こうか」
「はい」
少女はウィンより、数歩後ろについて歩き出す。
それに何かが引っ掛かるものを感じる。
「先輩と思ったのですが、私と同じ新入生の方なのですか?」
「先輩は先輩だけど、今度四回目の入学式となる新入生だよ」
「なら、私と同級生になるんですね」
「そうなるね。ところで失礼なこと聞くようだけど、貴賓用の更衣室だなんて他国からの留学生?」
通常であればどの貴族の子女であっても、大聖堂の更衣室で着替えを行うようにされている。
例外は皇室の者か、他国から留学してきた高位貴族にのみ貴賓として別室を宛てがわれるのが習わしだ。
「私はこの国の出身ですよ。ちょっと特別な事情がありまして」
「そうなのか。口調改めたほうが良かったかな?」
「いえ、私は気にしませんしそのままで」
少女がクスリと笑う。
「四年も通おうなんて、どうしてそこまで騎士になろうと思ったのですか?」
「自分に誓ったからね。必ず騎士になるって」
例えその道が果てしなく遠い道であったとしても、諦めなければきっと辿り着く。
ウィンはそう信じて毎日剣を振っている。
「それに昔、親しい友人がいてね。今も遠い地でたった一人頑張っているはずなんだ。きっともう二度と会えないと思うけど、いつかまた会えたなら、例え騎士になれていなくても胸を張って会いたい」
言うと、ウィンは照れくさくなって少女から顔を背けて笑った
だから――。
「変わってないなぁ……」
少女の小さな呟きと、一瞬泣き出しそうなその笑顔に気がつくことはなく――。
「初めて会った人に何を言っているのだか、俺は。君はどうしてこの学校に?」
ウィンが問いかけた時には、すでに澄んだ微笑へと表情を戻した少女。
「私は――そうですね。ある人に出会い共に歩み、そして私に光を差し込んでくれた人がいました。私は今でもその人の背中を追っているのですよ」
その時に浮かべた少女の笑みは華やかで、ウィンは思わず見とれてしまった。
しかし、その笑顔もどこかで見たことがあるような気がして――
「あ、もう着いたようですね」
立ち止まったウィンを抜いて少女が目の前にある個室の扉をノックして開ける。
「レティシア様!」
中から初老の巨漢が姿を見せた。
白髪交じりの頭髪をしているが、その表情は若々しく、そして肉体は鋼のように鍛え上げられている。
この騎士学校の校長を務めている、ザウナス師である。
「あまりにも遅いので道に迷われたのかと思いましたぞ」
「ごめんなさい。実は少し道に迷っていました」
老人に頭を軽く下げて謝るレティシア。
だが、ウィンはそれどころではなく、こちらを振り向いて悪戯っぽく笑うレティシアを呆けた表情で凝視していた。
「君は確か、四度目の入学になるウィン・バード君だったな。案内ご苦労だった。下がりなさ――」
「レティ……なのか……?」」
校長の言葉を遮り、一歩二歩と少女に近づくウィン。
その表情は驚きと不安が入り混じった表情をしている。
「いつ気がつくのかなって、思っていたのだけど……」
両手を腰に当て、溜息を吐くレティシア。
「お久しぶり、お兄ちゃん。ただいま」
レティシアは呆然と固まったままのウィンへ、この日一番の笑顔を向けたのだった。