アルファーナ大陸の西部に位置する大国、レムルシル帝国。
その帝都シムルグの大通りに面した場所に、行商人や冒険者といった荒くれ者を主に客とした、小さな宿屋『渡り鳥の宿り木亭』がある。
一階が酒場を兼ねた、どこにでもあるような宿屋。
そこに五歳になる男の子、ウィン・バードは大通りに面した窓から外へと目を向けて輝かせていた。
「うわ~、かっこいいな~」
白銀に輝く鎧。腰に帯びた鋼の長剣。そして背中には同じく鋼鉄の盾。
胸には帝国騎士団の紋章である双頭の獅子のエンブレムが刻み込まれている。
まだ幼いウィンにはわからなかったが、騎士たちは国境付近にある森から溢れ出た魔物の群れを討伐して帰還したばかりであった。
凱旋門より帝都へと帰還する彼らの勇姿を一目みようと、大通りの両側には多くの市民たちが並んでいた。
もちろん『渡り鳥の宿り木亭』の前も例外ではなく、窓の外にも多くの人が並んでおり、ウィンは人の隙間からしか騎士たちの姿を見ることができなかったが――
「ウィン! さぼってんじゃないよ!」
怒鳴ったのはこの宿の女将であるハンナ。
振り向くと、帳簿を付ける手を止めてウィンを睨みつけている。
「ご、ごめんなさい」
よじ登っていた頑丈なだけが取り柄のテーブルから降りると、広げているフォークやスプーンといった食器を磨く作業に戻る。
使い込まれて曇っているそれらを、布で丁寧に磨いていく。
「それが終わったら、今度は水汲みだよ! 今日も忙しいんだ、さぼってんじゃないよ。 この無駄飯くらいが!」
ウィンに両親はいない。
行商をしていた両親は、親友であるこの宿の主人にウィンを預けての旅の道中、野盗に襲われてしまい命を落としてしまった。
今の時代では珍しくもない。
孤児になるところであったが、幸い結構な額を両親が旅立つ前に支払っていたことと、まだ五歳にしかならない親友の子供を放り出すこともできず、ウィンは働かせてもらっていた。
とはいえ、けして甘やかされてはいない。
宿の亭主の妻であるハンナは、客であった頃から手のひらを変えて、ウィンをこき使っていた。
守銭奴のハンナからすれば、まだ禄な労働力にもならない五歳児など、食費などの諸々の金がかかるだけの、ただの無駄飯くらいだ。
それでも放り出されなかっただけでも、まだマシなのかもしれない。
孤児となり、死んでいく子供たちの数は多い。また、奴隷商に売られてしまう子供もいる。
とはいえ、今の状況は、傍目には奴隷にも等しいのかもしれないが、すくなくともこの宿の亭主は、ウィンに給料を払ってくれていた。雀の涙程度でしかないが……。
「ねぇ、ハンナおばさん」
スプーンを磨きながら、ウィンは恐る恐るハンナに声をかけた。
「きしになるのって、どうすればいいの?」
「あん? 騎士になる?」
ウィンは人ごみの合間から見た騎士の勇姿を忘れられず、ハンナに怯えながらも、騎士への興味を抑え切られなかった。
「騎士になるならこの帝国の学校に入学して、知識や教養、そして武芸に魔法を覚えればいいんじゃないかい?」
「どうすれば、がっこうにはいれるの?」
「勉強して入学金を納めればいいんだよ」
「ふーん……がっこうかぁ」
帳簿を付ける手を止めて見ると、ウィンが目をきらきらと輝かせていた。
普段はただ、言われるまま黙々と仕事をしている、無愛想な子供というウィンが、年相応な笑顔を浮かべているのは珍しい。
だが、ハンナにはどうでもよかった。
「ほら、手を止めてんじゃないよ。まだ水汲みがあるんだからね」
「あ、う、、」
「それに、入学金は高いんだ。あんたをうちに置いてやってはいるけど、学校に通わせてやるだけの金なんざ、一銭もないからね!」
スプーンを磨き終え、ウインは桶を抱えると共同井戸へとき出す。
五歳の子供には水汲みは重労働だ。
宿の裏にある水瓶いっぱいにするには、何往復もしなければならない。
「サボってたから時間がないじゃないか。夕方の営業までに水汲みが終わらなかったら、飯抜きだよ!」
ウィンは黙って宿の裏口から外へと出て行った。
――『渡り鳥の宿り木』亭は宿泊客以外にも酒や食事を取るため、夕方には一階の酒場は満席になる。
厨房の洗い場で皿を洗いながら、ウィンはまだ騎士のことを考えていた。
(がっこうかぁ、どれだけおかねをためたらはいれるのかなぁ……)
ガチャン!
「あ……」
手が滑り、皿を割ってしまった――五歳の子供が皿を洗いながら別ごとを考えていれば、こうなる。
「なにやってんだい! その皿代はあんたの給料から引いておくからね!」
ハンナの怒声にビクッと身体を小さくしながら、しゃがんで破片を集める。
「どうした、ウィン。怪我はなかったか?」
この宿の亭主のランデルは、さっきからウィンがぼーっとしているのに気がついていた。
親友の忘れ形見であるこの男の子は、年齢から考えればわがままも言わない聡明な子供であると思えていた。
ハンナはそれが無愛想で可愛げがないように見えているようだが、ランデルからすれば両親を亡くしてまだ三ヶ月程度の子供が、まだ甘え盛り、遊びたい盛りにも関わらず、辛い仕事の日々をこなしているのだ。
本当は親友の忘れ形見を働かせるのは心苦しかったが、『渡り鳥の宿り木亭』は繁盛しているとはいえ、けして余裕のある経営状況とはいえない。
また、ハンナはランデルが勝手に子供を預かることに決めたことを不満に思っており、ウィンに仕事をさせることにしたのだ。
だから、ランデルはウィンの様子を普段から気にしており、子供ながらに集中して仕事をしているウィンが、今日はいつになくぼーっとしているのに気がついたのだ。
「何かあったのかい?」
「うん、おひるにきしたちをみたんだ。それで、ハンナおばさんにきいたら、きしになるにはおかねがひつようって……ぼくはきしになりたい」
「騎士かぁ……」
男の子であれば、騎士には一度は憧れる時期があるものだ。
ランデルも他聞に漏れず、そういう時期があった。
「おかねってどれくらいひつようなのかな……?」
「えーっと……金貨四枚だったかな?」
幼いウィンにはまだ数の計算などできなかったが、それでも大金だということだけは、何となく理解できた。
(今のウィンの月の給金は銀貨で一枚。金貨は銀貨がおよそ百枚で一枚の換算となる)
「そうかぁ、おれも騎士に憧れていた頃があったな」
「ランデルおじさんも?」
「ああ、かっこいいものな。剣を持ってよく、騎士ごっことかしたなぁ」
ランデルも騎士に憧れていたと知って、笑顔を浮かべるウィン。
両親を亡くしてからはあまり見せないその表情に、ランデルも思わず笑みがこぼれる。
「こら! またサボってる。 飯抜きにするよ!」
厨房を覗き込んだハンナが叫ぶ。
「あんたも! 追加注文が溜まってるよ! お客様を待たせんじゃないよ!!」
「おう」
二人はバツが悪そうな顔して再び仕事に戻った。
宿の裏にある、小さな物置小屋。
あまり使われていなかったそこを改装して作られた寝床が、三ヶ月前からのウィンの新しい住まいだ。
夜も更けて日が変わる頃、店の片付けと掃除を終えて、ウィンの長い一日がようやく終わる。
五歳の子供が闇に閉ざされた小屋に一人でいるのは恐怖を覚えるものだが、毎日の仕事でくたくたに疲れているウィンは粗末な毛布と敷布に潜り込むと、いつもすぐに眠りについてしまう。
ところが、今日はまだ昼に騎士を見た興奮からか、まだ寝付けずにいた。
(ちしきときょうようってなんだろう? からだをきたえればいいって、ランデルおじさんがいってたなぁ)
難しい言葉はわからなかったが、身体を鍛えればいいとは思ったウィン。
(ぼくはきしになるぞ。まずはからだをきたえよう)
この宿には冒険者たちも泊まっていた。
早朝に走ったり筋トレをしたり、剣を振って鍛錬している姿を見かけることがある。
(ぼくもあすのあさからがんばろう……)
興奮していても、身体の疲れは誤魔化せない。
訪れた睡魔にウィンは眠りについていく。
その翌日から、ウィンは宿で飼っている鶏ですらまだ時を告げない闇に包まれた早朝に目を覚まし、毎日近所を走り回った。
水汲みも筋トレだと思うことにして、桶が空の時も走り水桶もいままでよりも一回り大きなものを使い往復する。
そうこうしているうちに起きだしてきたランデルやハンナは、すでに水瓶が一杯になっているのを見て驚いたが、特に不都合があるわけでもなく、ウィンに更に別の仕事をさせることができるので喜んだ。
芋や人参などの皮むきなど、包丁やナイフの使い方も教わる。
より仕事量が増えたが、給金の金額は変わらない。
それでもウィンは文句もいうこともなく、仕事の中に鍛錬する余地を見つけてそれをこなしていく。
そして月日は流れていく。
――八歳になった。
日々の仕事はさらに増えた。
しかし給金は変わらない。
だが、ウィンの運動能力は同年代の子供たちと比べたら、明らかに勝り始めていた。
比較できる対象がいないので、彼は気がついていなかったが――。
ランデルとハンナの間には、十一歳と九歳になる二人の男の子がいるが、ウィンとは違いハンナによって甘やかされて育てられており、基本仕事で遊ぶ時間を取れない――というか、暇があれば鍛錬している――ウィンとはあまり会う機会もない。
今日も早朝に起き出すと、走り込みを終えてから水汲みをする。五歳の時と違い、水桶を二つ抱えて走る。
これだけでも、すでに普通の八歳児の常識を超えていた。
今までの二倍の速度で水汲みが終わるので、ランデルやハンナが起きだしてくるまでの時間は、木剣を振っている。
この木剣は、七歳の時にひと月ほど滞在していた冒険者からもらったものだ。
鍛錬しようと起きだしてきた彼は、まだ薄闇の中を走り回っている子供の姿を見て驚いたが、騎士を目指しているというウィンの夢を聞いて、この木剣をくれただけでなく、剣の握り方と振り方も教えてくれたのだ。
再び旅立つまでの一月の間に彼から剣を教わることができたのは、願ってもいない僥倖だった。
日が昇り、朝の掃除と仕込みを終えると最近ぽっかりと時間が空く日が増えた。
仕事の効率が上がったことと、ウィンの基礎体力が年齢以上のものになっていることの副産物である。
その日も、空いた時間にひたすら木剣を振っていたウィン。
ふと、視線を感じて振り返った。
宿の隣の建物の陰に隠れるようにして、小さな女の子がウィンを見ていた。
みすぼらしい格好のウィンと違い、白い上等な布を使用した可愛らしい服を身に付けている女の子。
その目は自分より少し年上の男の子が何をしているんだろう? おもしろいのかな? といった好奇心の光が宿っていた。
木剣を振る手を止めて女の子を見返すと、女の子がてててと陰から歩み寄ってきた。
「なにしてるの?」
「たんれんしているんだよ」
「それ、おもしろい?」
「おもしろいかどうかわかんないけど、気持ちいいよ」
「レティもやっていい?」
レティというのが名前なのだろう。
彼女は近くに落ちていた棒切れを拾ってくると、ウィンの横に並んで振り出す。
別に邪魔にもならないし、まあいいやと思ってウィンも木剣を振るう。
その日から、ウィンの横にレティが並んで棒を振るようになった。
ウィンが起きだす時間を聞き出すと、その時間に合わせて来るようにもなった。
レティの服装はいつも違う。
しかし、そのどれもが子供の目にも上等な布がしようされていることから、裕福な家の子供なんだろうなとウィンは思った。
来るときにいつも膝小僧のところが汚れているので、おそらく抜け出してきているのだろう。
家族が心配したりしないのだろうか?
そうは思ったが、鍛錬なんて楽しいものじゃない。ウィンには目的があり、鍛錬のあとの心地よい疲れは嫌いではなかったので毎日続けることができたが、普通の子供であればすぐに飽きてしまう。
現にこの宿の二人の男の子も、下働きをしている自分より年下の子供の行動を真似して、ウィンから木剣を奪い、鍛錬しようとしたが三日も持たずに飽きてしまい、木剣を放り出して遊びに行ってしまっていた。
レティと名乗ったこの女の子もそのうち来なくなって、また一人の鍛錬になるに違いない。
水を一杯に湛えた水桶を二つぶら下げて歩きながら、同じく水桶を一つ持ってよたよたとついてくるレティを振り返る。
「おにいちゃん……おもい……」
「重ければ、置いてきてもいいぞ? 後で僕が取りに戻るから」
「がんばる……」
白い顔を真っ赤にしながらふぅふぅ言って歩くレティ――
ウィンよりも二つ年下だったが、自分と似た年齢の子供達と遊んだ経験がほとんどない彼にとって、レティと二人での時間は楽しくて――でもいつか、きっとレティも飽きてこなくなってしまうだろう。
そう考えると、少し寂しさを覚えた。
驚いたことに、レティはあれから半年間ずっとウィンのところに通い続けていた。
いつの間にか自分の身体にあった寸法の木剣も持ってくるようになっていた。
ウィンが起きて走りだそうと柔軟している頃にレティも顔を出す。
二人で準備運動を終えると、街の中を走り回った。
五歳の頃は宿の周囲を走っていただけであったが、八歳の今では走る速度も上がったため街中を縦横無尽に走り回っている。
レティがそれに加わるようになってからは、彼女の速度に合わせるため、また宿の周囲を走るだけにしていたが、わずか数ヶ月で彼女はウィンについてこられるようになった。
正直に言って普通ではない。
ウィンの体力も走力もすでに同年代どころか、一般的な大人の男性をも上回る勢いで凌駕しつつある。
そのウィンに追いつくところまでわずか数ヶ月で到達しているのだ。
レティは天才とよばれる存在だった。
しかし、ウィンはそんなことには気がついていなかった。
何しろ、比較できる対象がいない。
二つも年下なのに、もう自分についてくることができるレティを凄いなと思ってはいたが、それが普通なのだと思っていた。
走り終わり水汲みを終えると、二人とも木剣を取り出し打ち合う。
冒険者たちの試合の見様見真似だ。
最初はウィンがほとんど受け手役だったが、いまでは互いに攻撃と防御が切り替えられるようになっていた。
ガガガガガガガガっ――と、高速で互いに打ち込む。
もはや、その剣速は子供の領域を凌駕していた。
「まったく朝っぱらか騒がしいねぇ……」
起きだしてきたハンナがぶつくさと文句を言いながら外を見る。
女の子が来るようになって、最初はサボって遊んでいるのかと思い怒鳴りつけてやろうと思った。
しかし、仕事はきっちりと終えてあるし、また女の子の身なりが非常にいいものであることは見てわかった。
間違いなくどこかの貴族のお姫様か、または金持ちの商人の娘と思われた。
となれば、迂闊に怒鳴りつけるわけにもいかない。
日々、エスカレートしていく剣の打ち合いであったが、ハンナには剣のことはさっぱりわからない。
宿に泊まっている冒険者たちは、明らかに異常な速度で打ち合う二人の子供たちに気が付いていたが、自分たちを上回るかもしれないその剣速に自尊心が邪魔をして、あえて触れないようにしていたため、ランデルもハンナも放置したままだ。
金髪に緑の瞳の愛らしい顔立ちをした女の子。
将来は見目麗しい美女に育つに違いなく、ハンナは自分の二人の息子とくっつけばいいのにと、自分勝手に考えていた。
二人の息子、長男のマークと次男のアベルもあの女の子を気にしていることは知っている。
たまに話しかけているみたいだが――。
基本レティはウィンにくっついてなぜか仕事を手伝っているので、遊んでばかりの二人はなかなか仲良くなれずにいる。
「なあなあ、そんな奴放っておいておれたちと遊ぼうぜ?」
「きょうはおにいちゃんと、ごほんをよむの」
ウィンの後ろをちょこまかとついて歩くレティに、マークが近所の子供達と一緒に声をかけるが、レティは背中に本を隠して小走りにウィンの後をついていく。
最近、レティは昼前に一度帰ったあと夕方前に再びやってくるようになっていた。
この時間に昼営業の仕事が終わり、ウィンの手が空いていることを知ったからだ。
いつも本を抱えてきて、ウィンと一緒に小難しい顔をして読んでいる。
本を後ろに隠したのは、以前同じように断って、本を取られてしまった経験があるからだ。
もっともレティの脚力は年上の少年たちをすでに上回っており、泣きながらすぐに追いかけて取り返したが――。
レティは仕事を終えて一休みするウィンの横の椅子に腰掛けて本を広げる。
最初は邪魔そうに見ていたハンナも、今は何も言わない。
だから堂々とレティはこの空間に居座っていた。
六歳の彼女は、家で雇われた家庭教師から文字を習い始めたばかりだった。
一方ウィンは学校に通わせてはもらえなかったが、帳簿付けの仕事を覚えるために、ハンナから文字と数字の計算だけは教わっていた。
だから、ウィンが本を読んでくれるのに合わせてレティも声を揃えて読む。
家庭教師が教えてくれる、ちんぷんかんぷんな内容が、ウィンと一緒だと素直に頭の中に入ってきた。
「――わたしたちがくらしているこのせかいはアルファーナたいりくとよばれており……」
レティが持ってくる本は歴史書や神話、時には貴重な魔法書などであり、ウィンは彼女の昼過ぎからの来訪を心から歓迎した。
友達というもののいないウィンにとって、彼女はもう親友といってもよいと思っていた。
「――たいりくのほくぶは、にんげんがふみいれることのできないとちがひろがっており、まおうによってすべられたまぞくとまものたちであふれている――おにいちゃ、まおうってなに?」
「魔物のなかで、いっちばん強いやつだ」
「おにいちゃんよりも?」
「強いんじゃないかな?」
「きしのひとたちよりも?」
「うーん……それなら騎士のほうが強いに決まってる!」
騎士に憧れるウィンにとって、彼らの強さは絶対のものだった。
レティが持ってくる教養系以外の娯楽本でもそうなっていたから。
「でも、きしのひとたちのほうがつよかったら、まおうなんてやっつけちゃってるんじゃないかなぁ?」
「そういえば……あれ?」
「あれぇ?」
魔王どころか、高位の魔族が一体でも出現すれば、騎士団なんてあっさりと滅ぼされてしまうのだが――。
読んでいる本は難しい内容のものも含まれていたが、幼い二人は年相応にはお間抜けだった。
「我、火の理を識りて火を灯す――」
「おにいちゃん、やった!」
ウィンの指先にはロウソク程度の小さな火が灯っていた。
レティが持ってきた魔法書に記載されていた魔法を実践してみたのだ。
「わたしもやるぅ」
「しっかりと指先に集中するんだ」
「しゅうちゅう、しゅうちゅう」
じっと指先を見つめるレティ――
「われ、ひのことわりをしりてひをともす――」
シュボッ!
「うわっち!」
レティの指先から勢いよく噴射した炎が、覗き込んでいたウィンの顔を巻き込みそうな勢いで火柱を上げる。
「わわ、おにいちゃ、だいじょうぶ!?」
慌てて手を振って火を消し、仰け反って尻餅をついたウィンの顔を覗き込む。
「ああ、びっくりしたぁ」
前髪が焦げてチリチリになっていたが、火傷はおっていない。
「レティは僕よりも魔力がずっと強いみたいだ。きっと凄い魔法使いになれるよ」
自分より遥かに高い才能を見せられたにもかかわらず、嫉妬ではなく賞賛の眼差しを向けるウィンにレティは照れる。
「でも、まほうつかいになるには、いっぱいおべんきょうがいるんでしょう? わたし、おべんきょうきらい……」
「レティは凄く頭もいいと思う。もうだいぶ難しい文字だって読めるようになってきたじゃない」
「でも、かていきょうしってひととおべんきょうしてると、いつもおこられるもの……」
うなだれるレティの頭を撫でてやる。
「おにいちゃといっしょにごほんをよんだほうが、とってもわかる」
「そっか、じゃあまた一緒に読もうな」
「うん!」
元気良く頷くレティ。
こうして二人は鍛錬と自主勉強の日々――ウィンはともかく、レティは遊んでいると認識していたが――過ごしていった。
そしてさらに月は流れ――ウィン十二歳、レティ十歳。
その日もいつものように起きて、レティが来るのを待っていると。
「うう、お兄ちゃん……」
泣きべそをかきながらレティが走ってきた勢いそのままに、ウィンに抱きついた。
「ど、どうしたんだ? レティ」
十二歳になり、妹のように思っているとは言え年の近い異性に抱きつかれ、思わず動揺するウィン。
そんなウィンの様子に一切構わず、レティはなおも強く抱きつく。
「私、遠くへ行かないと行けなくなっちゃったの?」
思っていたよりも柔らかく、また甘い匂いのするレティの体臭にちょっと呆然としていたウィンはびっくりして、レティを引き剥がしてその顔を覗き込む。
「遠くって、クレナド?」
帝都の隣の都市クレナド。ウィンにとっての遠くとはそこまでになる。
「ううん。もっと遠くなの」
「そうなんだ。どれくらいで戻ってこれるんだ?」
「わかんないの」
そう言ってまた抱きついて泣くレティ。
ウィンは彼女が泣き止むまで、頭を優しく撫でてやった。
「ごめんね。一緒に鍛錬できなくなっちゃうね」
「いいよ。騎士になるために通う学校の入学資金ももうすぐ貯まるし、どのみち学校に通うようになれば、一緒に鍛錬できなくなったんだ」
「うん」
レティはもしかしたら、外国にでも嫁いでいくのかもしれない。
幼いが彼女が時に醸し出す気品は、自分たち庶民の持つ気配ではなかった。
この年にもなれば、おそらく彼女が高位の家の姫君であろうことくらい、何となく察しがつく。
まあ、姫君が家を抜け出してきているのを、なぜ見て見ぬ振りをしているのか理解できなかったが。
高位の貴族の姫君であれば、幼い年であっても嫁ぐことはある。
まあ、十歳というのは早すぎるのは間違いないが。
「できるだけ、早く帰ってこれるように頑張るからね!」
「おいおい、早く帰ってきちゃダメだろ」
ウィンは嫁ぐものと決め付けていた。
早く帰ってしまうということは、相手から離縁されてしまうことだ。
それはきっと、彼女の家にとってもまずいに違いない。
「ダメなの?」
再び泣き出しそうになるレティ。
「それは、おれは嬉しいけど……」
「じゃあ、早く帰ってくる!」
気合を入れるように拳を握り締めるレティ。
「今日は準備運動したら、すぐに試合してもいい?」
「ああ、いいよ」
何やらいつも以上の気合を入れているレティを見て、ウィンは頷く。
いつもの鍛錬メニューとは違うが、彼女がせっかく気合を入れているのだ。
それに行きたくもないところに行くというストレスもあるのだろう。
気を紛らわしたいのかなと思って、付き合うことにする。
――その日のレティの剣速は今まで見たこともないほどだった。
ウィンは防御しつつもカウンターの一撃を狙うが、レティは結局最後まで隙を見せることなく、最後にはレティの仕掛けたフェイントに引っかかってしまい、二人で鍛錬をするようになってから、初めてレティがウィンに勝った。
そしてその翌日、レティが顔を出さなくなった。その翌日も――翌日も――
あの日が旅立ちの前の最後の日だったのだ。
何年ぶりかのたった一人での鍛錬。
正直、寂しかった。が、泣いている暇はない。
彼女は自分の道を歩み始めたのだ。
自分も夢である騎士になるために、今以上の力をつける必要がある。
目標である入学金もあと少しで貯まる。
ウィンはレティのいない寂しさを紛らわすかのように、さらに自分の身体をいじめ鍛え抜いていく――