保険医の先生が言った。先生の長い黒髪がさらり、と肩に落ち、軽く羽織っただけの白衣に黒い曲線を描いた。白衣の下には紫のセーターが覗いている。
「不思議な言葉だよ。自分で自分のノベルのことを『ライト(軽々しい)』と呼ぶんだぞ?」
ストーブに乗ったヤカンがシューシューと音を立てている。冬の陽が落ちるのは早い。保健室の窓から覗く外は、もう暗かった。
「世の中にはライト・ノベルを好き好んで買い集めるものもいるし、逆に、ライト・ノベルを嫌うものもいる。特に彼らの嫌い方はね、尋常じゃない。まるで親のカタキだよ。」
先生は続けた。先生の声は女性にしては、少し低い。だけどそれは、先生の口調とよく合っているように思えた。
「面白いと思わないか?ライト・ノベルを嫌う彼らは『自分はライト・ノベルが嫌いだ』と宣言して回るんだ。本当に興味が無いのだったら、ただ無視すればいい。私にとっては駅前の『富士そば』が視界に入らないのと同じだよ。だが彼らはそうじゃない。ライト・ノベルは低俗だ、ゴミクズだ、と声高に叫んで回るんだ。いや、『叫ばずにはいられない』んだ」先生の丸眼鏡から覗く瞳が、ぎらり、と光った。目の錯覚か、片方の瞳が赤色に輝いたように感じられた。
ザアッ、と強い風が吹き、窓から見える木が大きく揺れた。黄色味を帯びた年代物の蛍光灯がチチチ、と点滅し、そして消えた。保健室は真っ暗になった。
「やれやれ、これだから田舎は」蛍光灯の紐をガチャ、ガチャ、と引っ張る音が聞こえた。
たっぷり5秒の間を置いて、蛍光灯が、ききき、きーん、と小さな音を立てた。蛍光灯が部屋を照らした。
『何か』だった。
人のような形をしたそれは、細い、黒いハリガネのようなものの塊だった。うねうねと蠢くハリガネに目を凝らすと、各々が形を持っているのがわかった。「保険医」「黒髪」「白衣」---- ハリガネの一つ一つが、文字を形作っている。文字記号の塊が集まって、人の形をして動いているのだった。馬鹿げたことに、文字記号はどれも明朝体のフォントで書かれていた。
「ハスキーボイス」「男口調」「紫の縦縞セーター」…塊から覗く、どこかで見たことのある記号たち。記号が集まり人形となって、人のフリをして動いていることが急におぞましく感じられ、額に冷や汗がにじんだ。
「おい、どうかしたのか?」塊が言った。動くたびに、がちゃ、がちゃ、と音が鳴った。塊はぐるり、とこちらを向いた。頭らしき場所にある「丸眼鏡」と「灼眼」の二つの文字がぶつかり、ギギギィ、と嫌な音を立てた。
「顔が青いぞ。大丈夫か?」塊の右腕らしきものがこちらに伸びてくる。腕には「実は主人公の事が好き」の文字が見えた。限界だった。もうやめてくれ、と叫ばずにはいられなかった。腕を振り払い、塊を突き飛ばした。塊は尻餅をついた。その拍子にぶつかったヤカンから、熱湯が飛び散った。
「やれやれ」塊が言った。「君は『大丈夫』だと思ったんだが」さほど驚いた様子もなく、塊は続けた。
「『視えて』しまうんだろう。私の姿が。残念なことだ」塊は立ち上がり、ぱん、ぱん、と水を払う。