小浜 逸郎(評論家)
昭和22(1947)年、横浜市に生まれる。横浜国立大学工学部卒業。思想、教育論など幅広く批評活動を展開。国士舘大学客員教授。著書に『弱者とは誰か』(PHP新書)、『日本の七大思想家』(幻冬舎新書)など多数。
弱者の味方という権威主義
朝日新聞という新聞がいかに性根の腐った偽善的な新聞であるかということは、一部では古くからよく知られていました。これは、単に反権力・反日左翼メディアであるからけしからんという意味だけではありません。そういう筋を通しているならまだご愛嬌があります。そうではなくて、この新聞は、およそ一貫したポリシーや思想性というものを持たず、ある時代状況の中で、このあたりを狙っておけば情緒に弱い読者はついてくるだろうという下司な当て込みだけで運営されています。民衆の中にひそむルサンチマンや根拠なき恐怖感情にたえず媚び、そのことによってまさに民衆を堕落させる新聞なのです。
たとえば大東亜戦争中は率先して好戦気分を煽りつづけ、1945年8月14日には、ポツダム宣言受諾の決定を知りつつ「一億玉砕」を叫んでいました。その舌の根も乾かぬわずか2カ月後には、ちゃっかりアメリカ渡来の「民主主義」を標榜します。これは誤りを反省したなどという代物ではさらさらなく、要するに支配権を握った占領者GHQのご機嫌をうかがっただけの卑屈な奴隷根性のなせる技なのです。そこさえ狙っておけば当分安泰と、変わり身の早さを見せたのでしょうね。それなのに、一流紙だの、クォリティーペーパーだのと自任してきたその傲りこそが問題なのです。
その後この新聞は、反日左翼、反権力リベラルに代表される戦後レジームが有効と感じられる間は、空想的平和主義、親北朝鮮、媚中、媚韓、国際派気取り、知識人好みのコスモポリタニズム、反原発、エコロジー、お子様中心主義、障害者礼賛主義といった万年野党的・体制批判的・弱者代表者的お題目に安易に自己同一性を見出し、それらにひたすら寄りかかりつづけてきました。文化大革命礼賛、サンゴ礁に傷をつけて環境問題を訴えた自作自演、教科書の「侵略→進出」書き換え誤報(捏造)など、私たちの記憶に刻まれている悪例は、枚挙にいとまがありません。
こういう新聞が、いつの時代にも一定の購読者を獲得できるのは、残念ながら、ある意味では必定です。それというのも、「私はいつも弱者の味方です」という良心的ポーズをとることで逆説的に権威主義に居直ることができるからです。「弱者」という抽象的な記号を特権化してそれをご本尊に据えておきさえすれば、戦後の言論空間のなかでは、自分がジャーナリズム界で優先権を勝ち取れることが直感できます。朝日が別に本当の意味で弱者の味方でも何でもなく、じつは権威主義という名の奴隷根性を丸出しにしていることは、この間の経済問題に関する記事を見てもわかります。
この新聞は、反権力の幟を掲げながら、一方では財政健全化路線という財務省発のペテンをそのまま受け売りして消費増税の必要を説き、公共事業悪玉論を説いて財務官僚のポチを平然と演じています。消費増税がいかに国民経済にとってマイナスの効果しか生まず、特に低所得者層を苦しめるものでしかないかについて、この新聞が自ら進んで真剣に論じたことがあるのを、どなたか見たことがあるでしょうか。
またTPP交渉なるものが、自国の国益だけを考えたアメリカのゴリ押しでしかなく、これをそのまま呑めば、あらゆる意味で日本社会のよき制度慣習を破壊するものである事実について、この新聞は一度でも報じたことがあるでしょうか。TPPが環太平洋の多国間条約という形をとっているために、この新聞は、アメリカの推奨する「自由」という「普遍的価値」にわが国も追随して、国際社会に向かってもっと己れを開くべきだという抽象的な理念に金縛りになっているようです。TPP参加が日米修好通商条約と同じような不平等条約に屈することを意味するという自覚を持たない分だけ、「アメリカ」や「外務省」という権威に喜んで尻尾を振っているわけです。
つまり、ことほど左様にこの新聞は、定見など何も持たずに、幻想された弱者に媚び、現実社会を知らない空想的な知識人に媚び、時々の権威に媚び、欧米社会のスタンダードなるものに媚び、ジャーナリズムとしての体面を保つために反政権の幟だけは掲げてカッコウをつけておくといった、矛盾だらけの態度を平気で取り続けてきたのです。
幻想の弱者を後ろ盾に
権威主義といえば、私はある市井の人がこの新聞の体質に対する根本的な不信感を漏らしたのを聞いたことがあります。何年も前のことになりますが、軽い交通事故に遭いました。相手の人は自分の非を全面的に認め、拙宅にお見舞いに訪れてたいへん誠実で紳士的な態度で接してくれたので、私たちはいっとき、和気藹々で世間話に興じることになりました。聞けば彼は銀行員で、渉外係を担当したことがあったそうです。
ある時、勤務する支店に強盗が入り被害が出たので、新聞記者たちが詰めかけ、彼が対応しなくてはなりませんでした。強盗事件のいきさつについて注意深く、かつ詳しく話すことが任務で、それ以上のことは記者たちも求めていません。これは当然ですね。ところが彼は「朝日新聞はひどいですね」と言い出しました。何と朝日の記者は彼に向かって、「あなたがた金融機関は、資本主義の悪を代表していてけしからん」と横柄な態度で説教したというのです。まるで悪いのは銀行で、だから強盗に遭うのも当然だとでも言わんばかりの口ぶりです。私もその非常識にあきれました。この記者には、一支店が強盗の被害に遭っているのを取材する「任務」と、金融資本体制が一般的に社会矛盾をはらむという「認識」とを区別する感覚がまったくないらしい。いずれにせよ、この一事をもってしても、この新聞が「幻想の弱者」を後ろ盾にして、言いたい放題をやってきたことは明瞭です。
朝日の記者は春を買わぬか
さて今回、度重なる不祥事とその恥の上塗りによって、この新聞のひどさが白日の下にさらされました。これについてはすでに何度も報じられているので詳しく論じますまい。まことに慶賀の至りとだけ申し上げておきましょう。もっとも朝日の一連の愚挙がすでに日本の国際的信用を著しく毀損した事態に対しては、朝日にきちんと責任を取ってもらわねばならず(ほとんど期待できませんが)、同時に、これからこの不名誉を雪ぐため、政府その他の関係機関に頑張ってもらわなくてはならないので、ただ喜んでばかりもいられません。とりあえずここでは、今回具体的にどういう点がひどいと明らかになったのか、いわゆる従軍慰安婦問題と福島事故における吉田調書問題の二つにつき、新聞見出しふうに整理して、寸評を加えておきましょう。冒頭にすべて「朝日新聞、」とつけるべきですが、それは省略します。
・吉田清治の証言や慰安婦報道記事を誤報と認める――誤報じゃなくて明らかな捏造でしょ。しかも30年遅れのぶざまさ。ちなみに吉田の問題著書『私の戦争犯罪』は1983年刊。
・女子挺身隊と慰安婦とを混同――研究不足だとさ。ちょっとでも戦中史に関心のある人なら両者の違いをだれでも知っているのに、そんな言い訳通るわけないでしょ。
・「広義の強制性が問題」とすり替え――「広義」の定義は? この問題はもともと自分が軍の強制連行があったと主張したところから始まったはず。見え透いたすり替えをせずに失敗をきちんと認めなさい。
・河野談話とは無関係と弁解――河野談話を導いた張本人はだれですか。盗人猛々しいとはこのことです。
・批判誌の広告を墨塗りで掲載――言論の自由を一番主張してきた本人が言論の自由を圧殺。私が経営者だったら堂々と許容して懐の深さを見せるんだけどなあ。
・福島第一原発所長・吉田昌郎氏の調書の内容公開。所員が所長の命令に背いて撤退と発表――捏造の決定版。事実は、退避勧告にもかかわらず、所員の多くが職業的使命を果たすために戻ってきたのです。日本語がまともに読めない人が朝日の記者になるんですな。
・池上彰氏の批判記事掲載を拒否。のち池上氏に謝罪――もう、どうしていいかわからず、へっぴり腰で刃先が震えちゃってるのね。
・「慰安婦問題の本質とは、戦時下の女性の尊厳や人権」とすり替え――今度はすり替えの決定版。戦時下の慰安所の存在が人権蹂躙か否かを問題にするなら、朝日さんは他国のそれを問題にしたことがあるのか。それに、人類史上なくなった験しがなく現在も行われている膨大な売買春行為一般を、人間の尊厳にかかわる重要な思想課題として一度でも取り上げたことがあるのか(ちなみに不肖・私はやっております。『なぜ人を殺してはいけないのか』PHP文庫参照)。韓国のキーセンはいいの? 江戸文化が花開いた吉原は? 朝日新聞の社内規則にはフーゾク通い禁止項目でもあるんですか?
ほかにも、批判記事を書いた人を訴えると恫喝しているなど、まだまだいろいろあるようですが、これくらいにしておきましょう。いやはや、ひどさのオンパレードですね。
その「知性」の正体
ところで、これらの批判材料は、概ね、ジャーナリストとしての朝日の姿勢に対する倫理的な批判に終始するものですね。しかし、もっと違った角度から批判することも必要です。一つは、この新聞はオピニオンリーダーぶっているけれど、じつは時代の空気が読めないKY新聞だということ。そういえば例のサンゴ礁事件で自ら刻んだ文字は「K.Y.」でした。傑作というべきです。
もう一つは、この新聞は知性を気取っているけれど、じつは日本の重要問題に対してきわめて狭い視野しか持っていず、ほとんど何も考えていないバカ新聞だということ。
例を挙げないと公正ではありませんね。まず前者について二つ。
・去る5月15日付の社説で、3年前、反原発デモに6万人が集まった(この数字、怪しいですけどね)のに、集団的自衛権容認反対のデモでは400人しか集まっていないことをわざわざ記して、なんと次のように締めくくっています。
たんぽぽのように、日常に深く根を張り、種をつけた綿毛が風に乗って飛んでいく。それがどこかで、新たに根を張る。
きょう、集団的自衛権の行使容認に向け、安倍政権が一歩を踏み出す。また多くの綿毛が、空に舞いゆくことだろう。
社会は変わっている。
深く、静かに、緩やかに。
たんぽぽの綿毛云々は、金子みすゞの詩「星とたんぽぽ」の一節を援用したもの。ここだけ読むと、まるで安倍政権の行使容認が多くの綿毛を飛ばして、社会をよい方に変えていくと言ってるみたいですね。でももちろんそんなはずはない。たった400人のデモが行使容認反対の勢力を「深く、静かに、緩やかに」広げていくにちがいないという超希望的観測を語ろうとしているのです。これを書いた論説委員の頭の中はたんぽぽの綿毛がいっぱい詰まっていて、そのため、重度のKY症候群にかかっているようです。
・去る9月20日、「やるっきゃない」のおたかさんが大往生を遂げられました。その9日後の「天声人語」に、次のようにあります。
93年の、ひいては2009年に起きた政権交代の遠い橋を、かつての土井社会党に見出してもいい。日本の政治も変わりうるのだということを土井さんは身をもって示したのだから。その奮闘が後の世代に手渡したものはとても大きい。(中略)理屈以前のその気持ち(反戦と厭戦――引用者注)が土台にしっかりあるかどうかが決め手では――。評論家の佐高信さんとの共著(中略)でそう語っていた。(中略)よりどころにしたのは政治のプロにはない素人の感覚だった
これ、やっぱりぜんぜん時代が読めてませんね。2009年の政権交代って民主党政権のことでしょ。民主党がその後いかにぶざまな政権運営を行ったか、国民がこの政党にいかに愛想をつかしたか、人語氏はまったく理解していないようです。たしかにそのまた後の政権交代を見ると、「日本の政治も変わりうるのだということを土井さんは身をもって示した」ことになりますな。死者をなみする気は毛頭ありませんが、「理屈以前のその気持ちが決め手」とは、とんでもないことを言うものです。理屈以前の素人の感覚をよりどころにすればいいなら、右翼やテロリストの「理屈以前の感覚」も許されるわけです。人語さん、それでよろしいですね。
しかも朝日新聞は――これは知人から聞いた話で私は実物を見ていませんが――おたかさんが亡くなった時になんと号外を出したそうです。「えっ、土井たか子って誰?」と思った若い人もいるのでは。要するにこれは「ガラパゴス島で絶滅種の化石発見!」の号外でしょう。こうして朝日はじつは世の動きに何周も遅れた新聞なんですね。
主張のために視野を閉ざす
後者について。私はこれまで何回もこの新聞の社説のおバカぶり、視野狭窄ぶりを論じてきたのですが、ごく最近のものにもそれが如実にあらわれています。以下は10月13日付。これは「原発なき夏冬――節電実績を変革の糧に」と題して、この夏原発ゼロだったにもかかわらず電力供給が賄えたのは、皆が節電に協力したからで、この実績を励みとして冬も乗り切り、さらに脱原発依存の方向性をしっかり固めようという趣旨の文章です。今年は3%の余裕しかないと言われていましたが、ピーク時でも6・6%の余裕があったから節電によって冬も大丈夫だと言いたいようです。しかし電力需要は供給の9割未満が望ましいというのは、この業界の常識です。余裕はもっともっとなくてはなりません。しかも節電努力によって需要を抑えることは、ただちに産業界の萎縮を意味します。消費増税によってただでさえGDPが縮小しているのに、これではデフレ不況を長引かせるだけです。このようにこの新聞は、反原発という単純な主張を通すために、多角的な視野を自ら遮断してしまうのですね。同じ社説から――
福島第一原発事故後の安全策強化で、原発の売り文句だった「安くて安定的な電源」は過去のものとなった。16年以降の電力自由化によって、経費を料金で回収できる総括原価方式が撤廃されれば、経営上の重荷になる可能性も強まっている。
生き残るためにも、電力会社は代替電源を確保し、原発頼みを改めていくしかあるまい。
ここにきて、電力各社が他地域への供給に乗り出す動きが目立ち始めた。一方、送電線の容量が足りなくなったとして、再生可能エネルギーの買い取りを多くの社が中断した。事故から3年を経ているのに、何ともちぐはぐな対応に見える。
ここに書かれていることはでたらめであり、支離滅裂です。安全策強化が進んだのなら原発はそれだけ再稼働の可能性が高まったはずで、しかもその費用は電気料金には反映されませんから、「安くて安定的」という原発のメリットはそのまま生かされます。また論者は電力自由化を無条件に肯定してものを言っていますが、そもそも自由化の方針は競争によるサービスの劣化や寡占化による公共性の喪失、停電の頻発の危険など、問題点山積みです。さらに代替電源と簡単に言いますが、再生可能エネルギーは現在でも2%に過ぎず、供給の不安定や送電線の確保の困難その他、すでにその限界がいくつも指摘されています。
また電力各社の他地域への供給は相互扶助の精神を生かしたよい試みです。買い取りを多くの社が中断したのは、再生可能エネルギーがビジネスになるとにらんだ事業者が殺到して仮想の供給量が過大になったからで、これら事業者にはハゲタカ的な意図が見え透いています。電力各社が安定供給という公共性を確保する立場から、供給量を確定できない怪しげな申請を拒否するのは当然で、これと他地域への供給とは少しも矛盾せず、何もちぐはぐなところなどありません。すでに経産省は固定価格買取制度の難点に気づき、本格的な見直しに入っているのです。さらにこの社説では、火力に過度に依存することが日本のエネルギー安全保障全体にとっていかに危険かという視点がまったく見られません。
とかく朝日の社説はいつもこんな調子で、子どもっぽい理念や主張を貫こうとするために、ものごとを総合的に見ることがけっしてできないのです。幼稚の極みです。
朝日新聞は今後どうなるのでしょう。右翼新聞になればよいという冗談も聞かれますが、人の噂も七十五日、おそらく第三者委員会などでお茶を濁し、体質をそのまま温存して延命し続けるのでしょうね。この新聞が潰れることを私は切に望みますが、日本社会の習性を見る限り、見通しは悲観的です。とにかく今後も監視を怠らないようにしましょう。