紛争や迫害のため自国にいられなくなった人びとを国際社会で受けとめようと、難民条約が発効して今年で60年になる。

 この間、状況はむしろ悪化した。国連の難民高等弁務官事務所によると、国内外で避難を強いられている人は昨年、第2次大戦後初めて5千万を超えた。

 家も国も追われた人びとを、安定した豊かな国ぐにが受け入れるのは当然の責務である。

 実際、年に数千、数万単位の難民を受け入れてきた先進国は珍しくない。一昨年の統計で、条約に基づく難民認定だけで、米国、カナダは1万人以上、ドイツは約8千人を保護した。

 ところが、同じ先進国で世界有数の経済大国でありながら、日本は難民にきわめて冷たい国として批判されてきた。

 81年に条約に加入しながら、昨年までに認定したのは合計で622人。昨年1年間では、16年ぶりに1けたの6人。難民とは認めないが人道的理由から在留を特別に認めた人を足しても、157人にとどまる。

 はたして加盟国の義務を果たしているか、疑問が出て当然だろう。

 法務省の専門部会がきのう、まとめた報告は、現状の見直しを強く促すものだ。

 まず指摘された問題点は、難民と認めるかどうかの判断基準のあいまいさだ。迫害のおそれなどについて国連の文書など海外の例も参考にして、できるだけ明確にするよう求めた。

 特に急がれるのは、新しい類型の迫害のおそれの認定に、積極的に向き合うことだ。例えばアフリカの一部で女性器切除を行う国の女性、同性愛者を処罰する国の当事者については、難民と認めている国もある。

 手続きの長期化も深刻だ。1回の申請の結果が確定するまで3年がかりとなっている。

 報告は、難民にあたらない人が何度も申請し、手続きを滞らせていると指摘した。法務省は今後、再度の申請は、新たな事情が加わった場合に限るなど制約をつける検討に入るが、ここは慎重に考えてほしい。

 本人が迫害を受けるおそれの証拠を集める負担は軽いものではない。救済ではなく、ふるい落とすことが前提であるかのように制度をつくっては、難民の保護などそもそも成り立たないだろう。

 すでに地域、職場に根をはっていながら在留を認められず、難民申請に望みをつなごうとする人も少なくない。

 同じ人間として、どう共生の道を開くか。その視点を出発点に考えていきたい。