ファミリーヒストリー「武田鉄矢〜武田家の栄光と没落 見つかった母の肉声〜」 2014.11.21


(スタッフ)はいお願いします!男は65歳となった今もステージに立ち続けていた。
・「暮れなずむ」フォークグループ「海援隊」のリーダー。
更に役者として鉄矢の名を一躍有名にした出世作がある。
人は人を支える事によって初めて「人」になるんです。
体当たりで挑んだ中学校教師。
近年では歴史上の人物を重厚な演技で熱演。
出演した映画やドラマの数は120本以上。
鉄矢は日本を代表する演技派俳優として確固たる地位を築いている。
このままでは日本は危ない!海援隊のコンサートでは会場を盛り上げる強力な武器がある。
鉄矢のトークタイム。
そこで必ず話題にする掛けがえのない人がいる。
(笑い)持ち前の強さと明るさで貧乏を吹き飛ばし鉄矢を育てた母イク。
そんなイクには家族にも多くを語らなかった波乱の幼少期があったという。
裕福な暮らしから一転した幼少期。
イクの実家では何が起こっていたのか?鉄矢はその真相を最後まで母に尋ねる事ができなかった。
番組では鉄矢に代わって家族の歴史を取材した。
浮かび上がったのは農業と林業を手がけばく大な富を持つ曽祖父武田喜十郎。
金返せ!その武田家に不幸が次々と襲いかかる。
(泣き声)豊〜!僅か8歳だった鉄矢の母イク。
そしてフォークシンガーを夢みた息子鉄矢。
イクがとった大胆な行動それは…取材の結果を伝える日。
鉄矢さんは初めて自らのルーツと向き合う。
福岡空港に程近い…取材はこの地でたばこ屋を営む鉄矢の実家から始まりました。
ごめんください!はい。
あっはじめまして。
どうも。
鉄矢の2人の姉…実は今回の取材で母イクさんの新たな形見が見つかりました。
実家の納戸の奥深くイクさんがしまい込んでいた講演テープの数々です。
(取材者)すごい数ですね。
イクさんは晩年近隣のPTAなどに招かれる機会がありました。
子育てに悩む母親たちへ向けて自らの人生経験を語っていました。
しかしイクさんは自分の子供たちには面と向かって自らの生い立ちを語る事はありませんでした。
テープでは自らのふるさとについて語られています。
武田家母方のルーツは熊本県阿蘇郡に遡ります。
阿蘇の外輪山標高600m付近にたたずむ集落…鉄矢の母イクのふるさとです。
樋ノ口の家々に掲げられた家紋は武田信玄を輩出した一族と同じいわゆる「武田菱」。
住人の多くは鎌倉時代に阿蘇へ渡った武田家の末えいと考えられています。
代々樋ノ口に暮らす…古くから住人のよりどころである阿弥陀堂。
大正時代ここを改修した際の責任者の欄に鉄矢の曽祖父の名前が刻まれていました。
母方の曽祖父…先祖代々樋ノ口で農業と林業を手がける大地主でした。
更に喜十郎は明治40年以降村会議員や区長を歴任。
進んで自分の土地を提供して村の道路を整備するなど村民から絶大な信頼を得ていました。
やり手の豪農として熊本中にその名をとどろかす存在となった喜十郎。
しかし一つだけ大きな頭痛の種がありました。
あた〜っ…。
喜十郎の長男武田計早蔵です。
熊本や福岡の繁華街へ出かけてははやりのおしゃれを身にまとう事が大好きでした。
しかも…。
いやいい話があるのよ。
計早蔵が熱中していたものは先物相場。
金やあずきなどもうかりそうな話を都会で聞きつけては父に金の無心をしていました。
妻と3人の子供たちもそんな計早蔵に振り回されていました。
長女の名前はイク。
後の鉄矢の母です。
そして2つ違いの次女キワと長男の豊。
鉄矢の叔母にあたる…父親の強烈なキャラクターを今も鮮明に覚えています。
(取材者)あっおしゃれでメガネかけてたんですか?
(取材者)そうなんですか。
子供たちにもぜいたくをさせるのが大好きだった計早蔵。
しかし家族は家業に全く興味を示さない姿に不安を抱いていたといいます。
毎回計早蔵が実家から持ち出す金額は現在の価値で200万円をくだらなかったといいます。
長女のイク。
この時の状況は晩年の肉声テープでも語られています。
大正15年先物相場の波に乗る計早蔵は更に飲食店経営などにも次々手を出していきます。
しかし…。
昭和2年9月武田家当主喜十郎が62歳で死去。
最大の後ろ盾を失った計早蔵。
同時に順調だったはずの計早蔵の商売も時代の荒波にのみ込まれようとしていました。
全国的な不況に加え関東大震災後の震災手形が不良債権化。
東京で起こった銀行取り付け騒ぎは地方も直撃し九州だけでおよそ60の銀行が破たんに追い込まれました。
先物相場でも大損失を出し商売の運転資金に行き詰まる計早蔵。
(借金取りたち)金返せ!出てこい!樋ノ口の実家に押し寄せたのは借金取り。
計早蔵は資金繰りを急ぐあまり複数の高利貸しに手を出していたのです。
そして…翌年の昭和3年8月ヒロは実家の言いつけに従い離婚を決意。
しかも慰謝料は受け取らない代わりに「3人の子供たちは引き取らない」。
ヒロの実家は武田家をはるかにしのぐ阿蘇の名家でした。
計早蔵の体たらくぶりにこれ以上娘が巻き込まれる事が我慢できなかったのです。
ヒロ!ヒロ!計早蔵に3人の子供たちを育てる事はもはや不可能でした。
口減らしのため里子に出される事になったのは長女のイク。
イク僅か8歳。
自分の気持ちを押し殺し他のきょうだいたちのために博多の親戚宅へもらわれていったのです。
更に悲劇が続きます。
豊〜!昭和4年2月長男豊が僅か4歳で急死。
死因は食中毒。
前日に食べた古いもち米が原因だったと考えられています。
昭和4年当時の記録が載った不動産の登記簿謄本の一部です。
祖先の畑や山林を受け継いだ計早蔵。
膨らんだ借金返済のためその所有権を次々に他人へ移転させています。
家族が暮らしている屋敷も担保のために仮差し押さえの処分が下りました。
かつて家族や大勢の村人たちが出入りした武田家の屋敷。
当主の計早蔵も家を空けがちになっていました。
昭和4年春庭先で一人遊ぶキワのもとに計早蔵が久しぶりに姿を現します。
武田計早蔵30歳。
この時を最後に家族の前から姿を消しました。
キワは親戚宅へ屋敷も人手に渡りました。
武田家は離散したのです。
計早蔵の消息は今も一切分かっていません。
ハハハハハ…。
(取材者)いかがですか?VTRご覧になって。
うん。
それは…博多の親戚のもとへ里子に出されていた長女イク。
昭和7年12歳の時に突如言われました。
「うちも家計が苦しい。
あとは自分で生きてほしい」。
イクは住み込みで働ける先を探さざるをえませんでした。
尋常小学校を卒業したイクが3年間の住み込みで奉公に出た町です。
今回番組ではその奉公先を探しました。
当時はまだ洋服を扱う店は珍しく建っていた場所が分かりました。
昔ここが洋裁店だったと…?池田さん?池田屋さん?うんそうそう。
前は平屋だったんですか?あ〜そうですか〜。
現在は家主が代わり寝具店となっているこの場所。
昭和7年当時は確かに洋服店でした。
店の写真も入手する事ができました。
(取材者)「池田屋支店」って書いてますね。
昭和51年まで一の宮で奉公人を受け入れていたこの店。
店の奥に作業場がありました。
イクの肉声テープによれば当時は紳士物のスーツを作る職人たちが作業を分担していました。
生地の裁断から縫製そしてアイロンがけに至るまで流れるような手さばきだったといいます。
イクは店で働く一番下の弟子として狭い作業場の中を反物を抱えて何往復もする毎日でした。
イク!しっかりせんか。
職人たちが帰ったあとも道具の後片づけと掃除はイクの役目。
作業は深夜に及ぶ事もしばしばでした。
更にそこから家主たちの着物を洗濯。
睡眠は1日4時間。
それでもイクはへこたれませんでした。
「あしたはきっといい事が起こる」。
そう信じて毎日懸命に働きました。
そんな時運命的な「あるもの」と出会いました。
うわ〜すごか〜!それが「ミシン」でした。
生産力を強化するため店はアメリカ製の業務用ミシンをいち早く導入。
正確な縫い幅で手縫いでは考えられないスピードで進むミシンの力。
「一人で生きていくためにミシンを覚えたい」。
その熱い思いは周囲の職人たちを動かしました。
毎日少しずつ仕事の空き時間を見つけてはイクはさまざまなミシンの縫い方を教わったといいます。
昭和10年奉公を終えたイク。
阿蘇山に別れを告げ一の宮を離れました。
その後イクは博多にいる里親のもとへ挨拶に出向きます。
そこで懐かしい顔と再会しました。
熊本南小国村の幼なじみ…イクと同じ小学校に通っていた嘉元は卒業後博多の鉄工所で働いていました。
イクが抱いていた嘉元の印象は…?急速に距離を縮め結婚を意識する2人。
イクは嘉元に秘めた決意を話します。
「私には父も男兄弟もいません」。
武田家離散の顛末を知る嘉元は実家の村上家を説得。
次男だった事もありイクの願いを黙って受け入れました。
嘉元の深い優しさに包まれるイク。
2人は博多の地で結婚。
式は挙げられませんでした。
その代わり日本髪を結ったこの記念写真を一枚だけ撮りました。
昭和11年長女ミヤが誕生。
翌年には長男も生まれました。
父の嘉元は戦争で2度召集。
重砲兵として中国やフィリピンで戦いましたが大きなけがをする事はありませんでした。
その後も子宝に恵まれ次女アサ子三女スミヨが誕生。
戦後は鉄工所に勤める嘉元も仕事に気合いが入ります。
ところが…。
(取材者)ごちそうしちゃうんですか?
(取材者)給料日の度に?家庭は大事。
でも仕事仲間とのつきあいも大事。
嘉元はその典型でした。
そして昭和24年4月武田家に久しぶりの男の子が誕生。
名前は鉄矢。
嘉元が考えました。
この時期博多の武田家からは夫婦げんかの声が聞こえ食卓からの笑い声が聞こえとにかくにぎやかだったといいます。
貧乏でしたがイクは御機嫌でした。
幼少期から憧れた形がここにありました。
うわ〜…。
ハハハハ…。
泣いてばかりいる。
ギャーギャーギャーギャー。
だから…あの〜何かやっぱり…イクが他界して今年で16年。
子供たちが今も大切にするものが実家に残されていました。
どないしたらええのかな?イクが内職に使っていた足踏みミシン。
糸もそのままついていました。
ちょっと難しいね。
家計を助けるためイクが3年月賦で買ったアメリカ製のミシンです。
鉄工所に勤める父嘉元の給料だけで5人の子供たちを育てる余裕はありませんでした。
イクは子育てのかたわら裁縫の内職を始めました。
10代のころ苦労を重ねて磨いたミシンの腕。
それが役に立ったのです。
更にイクは心配する子供たちをよそに裁縫以外にも仕事を広げていきました。
自宅でたばこを売り豆腐の行商クリーニングの取り次ぎ更に進駐軍のアメリカ人将校宅の家政婦まで引き受けました。
寝る間も惜しんで働くイク。
ある事件が発端でイクの秘めた思いが明らかになります。
昭和34年イクが40歳にさしかかった時の事。
この日実の母のヒロが博多の家を突然訪ねてきました。
イクが8歳の時に離婚し家を出たヒロ。
その後北九州で暮らしていたのです。
当初は穏やかな雰囲気だったイクとヒロ。
ところが東京の私立大学へ通うイクの長男の話に及んだ時…。
イクは猛然と反論しました。
この場に同席していたのは次女のアサ子でした。
なんかね…それががむしゃらに働き続けるイクの決意だったのです。
昭和44年次男の鉄矢は教師を志して福岡教育大学へ入学。
成績は優秀でしたがそれ以上にのめり込んだ世界がありました。
それがフォークソングでした。
最初は友人に誘われ面白半分でした。
次第に心の機微を歌詞にのせ人前で表現する事に魅せられていきました。
「東京で勝負してみたい」と鉄矢はイクへじか談判。
たばこを売りミシンの内職で学費を工面してきたイクは猛反対でした。
この時の胸のうちを肉声テープに残しています。
イクが出した条件は「1年かぎり」。
昭和47年鉄矢はメンバーとともに上京。
大学は休学しました。
覚悟はしていたもののヒット曲は全く生まれませんでした。
母と交わした約束の1年が過ぎようとしていたやさき鉄矢はこれまでと全く違う曲を書き上げました。
「母に捧げるバラード」。
博多で暮らしたイクとの思い出を語り口調で表現したのです。
上京したままの鉄矢を心配していた姉たちも一風変わったこの歌に驚いたといいます。
歌は100万枚に迫る大ヒット。
昭和49年の「紅白歌合戦」にも初出場し人気に火がつきました。
・「やさしいおふくろ」更にこの時期鉄矢は結婚。
東京に根を下ろし人生の全てが順調にまわりだしたかに見えました。
ところが…。
次のヒット曲は出ず事務所も倒産。
上京から3年半鉄矢は実家に足を向けました。
出迎えたのは母イク。
鉄矢は今後の身の振り方を相談するつもりでした。
イクはそれに答えず黙って鉄矢の目の前に差し出したもの…。
それがコップ酒でした。
更にイクは続けました。
転機は翌年訪れました。
昭和52年鉄矢は映画「幸福の黄色いハンカチ」に大抜てき。
アイタ!アイタ…。
演技経験のない鉄矢はスタッフに叱咤激励されながらがむしゃらに映画に取り組みました。
おいよかったな!よかったな!俳優業に新たな活路を見いだし熱血教師役で挑んだ連続ドラマが大ヒット。
活躍の場は時代劇にも広がり演技派俳優と呼ばれるようになっていきました。
更に書きためていた歌が次第に花開きます。
レコードも売れ出し歌手としても再スタートをきりました。
・「贈る言葉」その後イクはうれしそうに鉄矢へ言ったといいます。
やっぱり…う〜ん…。
いややっぱり…他人と言っていいかどうか分かんない。
デビューから間もなく人気が急落した鉄矢さんをなぜ映画に抜てきしたのか?監督の山田洋次さんは鉄矢さんのまとっていた雰囲気がとても気に入ったといいます。
父の嘉元さん。
イクの人生を受け止め多くを語らず愚直に家族を支えました。
昭和58年末期のがんである事が分かりました。
鉄矢さんは多忙な仕事の合間を縫って福岡へ駆けつけました。
苦しむ嘉元さんは予想外の言葉を口にします。
「鉄矢重度の障害児病棟へ行ってこい」。
その時の様子をとらえた写真が今も病院に残っていました。
鉄矢さんは思うように言葉を発せない子供たちを一人一人抱き締めたといいます。
(取材者)ほんとにそうですよね。
その様子を聞いた嘉元さんは満足そうにうなずきました。
九州男児の武骨な優しさを教えてくれた父。
この年の暮れに亡くなりました。
平成10年10月イクさんは79歳でこの世を去りました。
鉄矢さんが通っていた福岡教育大学。
実は当時イクさんが鉄矢さんに内緒にしていた事がありました。
鉄矢さんが入学したのは昭和44年。
退学の記録は昭和52年1月27日。
映画の出演が決まったあとでした。
イクさんは鉄矢さんの休学中も学費を払い続けていたのです。
いつでも大学をやり直せるようにという配慮でした。
夢を諦め博多に戻ろうとした息子。
威勢よく突き放した母。
しかし誰よりも鉄矢さんの行く末を案じていたのも母イクさんでした。
ああ泣いてばっかりだな俺な。
駄目なのよ母ちゃんの声聞くと。
2014/11/21(金) 22:00〜22:50
NHK総合1・神戸
ファミリーヒストリー「武田鉄矢〜武田家の栄光と没落 見つかった母の肉声〜」[字]

亡き母の肉声が収められたテープが見つかった。そこには、謎だった母の生い立ちを知る手がかりがあった。母の実家・武田家の栄光と没落。貫かれた母の愛の真実が明らかに。

詳細情報
番組内容
今回、鉄矢さんの実家から数本のカセットテープが見つかった。亡き母の肉声が収められていた。母が生前、子供たちに言わなかった自らの生い立ち、豪農だった武田家の栄光と没落が語られていた。そして、明かされる武田鉄矢デビュー秘話。売れなかった息子に対し、母がとった驚きの行動とは。さらに、もう一つの見どころは、武田家の人々の話のうまさ。母、姉たちの見事な語りに驚かされる。家族の真実に鉄矢さんは涙が止まらない。
出演者
【ゲスト】武田鉄矢,【語り】余貴美子,大江戸よし々

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化

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音声 : 2/0モード(ステレオ)
サンプリングレート : 48kHz

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