山梨県南部町。
今から77年前この駅で撮影された一枚の写真が残されています。
戦死した軍人の遺骨の到着を村人総出で出迎えた時のものです。
その死は新聞でも大きく取り上げられました。
村人たちに囲まれ喪服姿で中央に立つのが戦死した軍人の妻。
その母の脇で背負われた赤ん坊はその後日本を代表する俳優になります。
助さん格さんもうよかろう。
里見浩太朗さん。
デビューして57年映画テレビ舞台と幅広く活躍を続けています。
父が戦死した当時里見さんは生後10か月。
これまで父の話をほとんど聞いた事がありませんでした。
番組では里見さんに代わり父と母それぞれの人生を追いました。
取材は小笠原そして中国にまで及びました。
浮かび上がってきたのは父と母の運命的な出会い。
そして二・二六事件と里見浩太朗さん誕生の不思議な巡り合わせ。
父が向かった中国大陸。
そこは過酷な戦場でした。
戦いのさなか父が漏らした悲痛な思いが明らかになります。
そして女手一つで子供たちを育て上げた母。
亡き夫への誓いとは…。
里見さんは家族の真実を目の当たりにする事になります。
山梨県南部町井出。
里見浩太朗さんの本名佐野邦俊。
実家の佐野家はこの集落にありました。
祖父勝三郎の代までここで暮らしています。
この集落のほとんどが佐野姓です。
佐野家の歴史は戦国時代16世紀にまで遡るといいます。
初代は佐野光次。
武田信玄の父信虎に仕えた武将です。
郷土史を研究する…明治の終わりころ祖父勝三郎は農業林業に加え商店も営んでいました。
当時国の専売事業だった塩の販売を許されています。
その暮らしぶりをうかがわせる一つの資料が残されていました。
ハワイに出稼ぎに行く親戚の保証人になった時のものです。
そこには勝三郎の資産が書かれていました。
千円。
この当時は。
男の子が生まれます。
里見さんの父亀一です。
夫婦にとって12番目の子供でした。
亀一の尋常小学校時代の記録が残されています。
「精勤證書」。
遅刻や欠席がほとんどなく成績優秀な生徒に与えられました。
12人きょうだいの中で最も優秀と言われ地域でも評判の少年でした。
これはその後亀一が通った実業補習学校の教科書です。
難しい漢字は欄外で書き方を練習しています。
うめのさんは亀一に勉強を見てもらった事を覚えています。
大正12年19歳になった亀一は陸軍に志願します。
亀一の長男要さん。
里見浩太朗さんの兄です。
大正12年1月亀一に付与された軍隊手帳が見つかりました。
体の特徴や部隊名褒章など軍人時代の活動全てが記録されています。
亀一が最初に配属されたのは東京の近衛歩兵第二連隊。
「近衛兵」とは天皇皇族の身辺を警護する兵士です。
防衛省防衛研究所。
軍事史を研究する原剛さんによると近衛兵は特別な存在だったといいます。
この年の9月関東大震災が起きます。
首都東京には戒厳令が敷かれました。
亀一は皇居周辺の警備に当たったと記されています。
翌年8月亀一は新たな辞令を受けます。
「東京憲兵隊への転属を命じる」。
「憲兵」とは軍隊の不正を取り締まるいわば軍の警察です。
捜査権や逮捕権など多くの特権が与えられていました。
時には自分より階級が高い相手の取り調べを行う事もありました。
憲兵になって6年目のある日の事です。
亀一は休日を利用し秋葉原の路地裏にあったパン屋を訪ねました。
そこで亀一は美しい店員の姿に息をのみます。
当時19歳。
静岡県松野村出身の女性でした。
地元に残れという親の反対を押し切って2年前に上京していました。
一目ぼれした亀一。
足しげくパン屋に通うようになります。
すぐに2人は引かれあいます。
しかしエツの両親は交際を認めませんでした。
勝手に上京した娘を許さなかったのです。
2人は神田明神で質素な結婚式を挙げます。
2人で愛を誓いあった新たな門出でした。
そうですか。
まあ何となく…一目ぼれするのは…亀一とエツが結婚した昭和6年満州事変が勃発。
この時亀一は麹町憲兵隊に所属していました。
命じられたのは参謀本部の警備。
当時の同僚が手記を残していました。
「事変の勃発により私は佐野伍長と共に参謀本部の警備に就いた」。
「金谷参謀総長南陸軍大臣などがあわただしく出入りする」。
「その身辺護衛にあたるのである」。
そんな日々の中で長男要が生まれます。
里見浩太朗さんの兄です。
亀一にとって生まれたばかりの子供と妻と過ごす時間だけが心休まるひとときでした。
要が生まれた翌年。
亀一に新たな辞令がおります。
本州から1,000キロ小笠原諸島父島分駐所勤務でした。
当時父島までは1週間の船旅。
妻エツと長男要を伴っての赴任でした。
到着した父島には陸海軍の軍事施設がありあちこちに砲台が設置されていました。
サイパンやパラオなど南洋群島への進出を果たした日本軍にとって重要な中継地でした。
軍人の他に4,000人が暮らし果物や野菜を本土に送り生計を立てていました。
父島で迎えた正月。
官舎前で撮られた記念写真です。
島での勤務には余裕があり家族で過ごす時間が増えました。
当時3歳の要さん。
忘れられない思い出があります。
亀一が休みを利用して夢中になっていた事がありました。
クワの木を削り何かを作り始めたのです。
そんな亀一の姿をエツはいつも眺めていました。
ひとつきがかりで完成したのは花瓶。
エツは南洋の花々を生けました。
「家族で過ごすこの穏やかな日々がずっと続いてほしい」。
それがエツの願いでした。
2年3か月の父島勤務を終え亀一は再び東京麹町憲兵隊勤務を命じられます。
当時軍部に不穏な空気が流れていました。
青年将校の一部が政権を打倒し新しい政府をつくるべきだと主張していたのです。
亀一たち憲兵隊は昼夜を徹して情報収集に当たっていました。
亀一は1か月ぶりに帰宅します。
久しぶりに妻エツ4歳の要に会う事ができました。
ところが翌日の未明青年将校たちが決起します。
二・二六事件が起きたのです。
亀一は緊急召集され任務に当たりました。
その後2か月もの間帰宅できなかったといいます。
その年の11月エツが2人目の男の子を出産します。
後の里見浩太朗さんの誕生でした。
実は里見さんは二・二六事件と自分の出生にまつわる話をエツから聞かされています。
しかし邦俊が生まれて8か月後の…亀一に新たな命令が下ります。
「支那駐屯憲兵隊ニ臨時増加配属ヲ命ズ」。
その10日前北京郊外の盧溝橋で日本軍と中国軍との衝突が起きていました。
いわゆる…日中戦争の始まりでした。
現地の治安を守る憲兵として派遣される事になったのです。
「半年もしたら落ち着くだろう」。
亀一は大陸での戦況をそう捉えていました。
佐野うめのさんはこのころ亀一の官舎を訪ねています。
出発の朝亀一はエツに告げました。
当時5歳だった要さん見送りに行き汽車に乗り込んだ父の姿を今も覚えています。
亀一は中国天津に到着します。
ところがいきなり戦闘に巻き込まれます。
司令部付の憲兵だった亀一も緊急出動しました。
戦いが小康状態になったのは4日後の8月1日の事でした。
亀一は早速エツに手紙を書いています。
その時の手紙が残されていました。
エツが生涯大切に保管していたものです。
「戦地の夫より」。
「我が軍の飛行機十数台が上空を飛び上陸第一日より弾丸の下で勤務する事になりました」。
「子供らの養育に注意しなさい。
こちらは少しも心配する事はないから」。
8月中旬亀一たちの部隊は天津から北へ進軍を始めます。
万里の長城を越えていく険しい山岳地帯での行軍でした。
移動の途中亀一は再びエツに手紙を書いています。
「その後も元気で働いております。
そちらも手紙を出したと思うがまだ一つも到着いたしておりません」。
もちろんエツも手紙を送っていました。
邦俊がつかまり立ちを始めた事要が元気に幼稚園に通っている事…。
しかし手紙は届いていませんでした。
佐野うめのさんは手紙が届かない歯がゆさをエツから聞いた事があります。
2通目の手紙を送った1か月後の9月25日。
亀一たちは山西省東部平型関の近くを進んでいました。
しかしこの時圧倒的な兵力の中国軍が崖の上で待ち構えていたのです。
なんて言うんでしょう。
今…自宅にいたエツに電報が届きます。
夫亀一の戦死を知らせるものでした。
新聞でも大々的に報じられます。
「憲兵精神の発露!」。
「日本刀を逆手に悲壮の割腹」。
敵を前に自ら命を絶つ壮絶な最期だったといいます。
エツの言葉も記されています。
「ただこの上は子供を立派に育てあげる事が私の主人に対する第一の勤めだと思っています」。
亀一のふるさと…ある記録が見つかりました。
「昭和12年12月28日佐野亀一様の遺骨いよいよ帰りました」。
遺骨が戻った時の写真を父から受け継いでいます。
井出駅には大勢の村人が集まっていました。
そこに列車が到着します。
夫亀一の遺骨と共に降りてきたエツ。
長男要次男邦俊も一緒でした。
この日亀一の生まれ故郷で葬儀が行われる事になっていました。
駅から葬儀が行われる小学校まで歩いて向かいました。
亀一が通った栄小学校。
多くの村人の他に在郷軍人が参列しました。
エツは葬儀でも決して涙を見せる事はありませんでした。
一緒にいた佐野うめのさんは気丈に振る舞うエツの姿が忘れられません。
ところがしばらくたったある日の事です。
亀一の死に関して新聞とは異なる内容の報告書が届けられたのです。
長年エツが大切に保管していました。
中国で亀一と同じ部隊に所属していた憲兵から東京憲兵隊長に宛てた報告書です。
亀一が亡くなった2週間後の10月10日に書かれています。
亀一たちは中国山西省の要衝平型関に続くこの山道を進んでいました。
雨が降り続きぬかるんだ道。
歩き始めて30分ほど過ぎた時です。
突然崖の上から中国軍の猛攻撃が始まります。
亀一は部下を指揮しながら拳銃で交戦しました。
しかし弾丸が亀一に命中。
倒れ込みます。
「もう駄目だ」。
周囲の皆がそう思った時です。
亀一は立ち上がり軍刀を抜き敵に向かっていったのです。
その亀一目がけて今度は手りゅう弾が投げ込まれました。
壮絶な最期でした。
「夫は生きる事を最後まで諦めなかった」。
エツはそう思ったといいます。
その後この報告書の内容は「日本憲兵昭和史」に取り上げられています。
日中戦争での佐野亀一曹長の最期。
「決して諦めず戦った姿は憲兵の模範である」と記されています。
夫の死後エツは自分の実家がある静岡に戻ります。
知人の家に間借りしながらの親子3人での暮らし。
家計は夫の恩給を頼りにやりくりしました。
戦死した夫への誓いを果たそうと必死でした。
「子供たちを立派に育て上げる」。
時代は…苦しい生活の中でもエツが願ったのは子供たちを進学させる事。
進学率およそ1割の時代でした。
昭和20年8月終戦。
生活は一変します。
物資は不足し物価も上昇します。
そのうえ夫の軍人恩給も廃止されたのです。
働きたくても子供を抱えながらできる仕事は限られていました。
エツは古着を仕入れ慣れない行商を始めます。
家から家へと売り歩き僅かな収入を得ていました。
当時のエツを覚えています。
昭和27年次男邦俊も地元の高校に進学する事ができました。
歌がうまかった邦俊は歌手に憧れていました。
高校卒業後邦俊は上京を決意します。
築地の魚河岸で働きながら歌手を目指し歌のレッスンを始めます。
エツは僅かな収入の中から仕送りし邦俊を応援しました。
1年後邦俊に転機が訪れます。
要さんによるとエツは喜ぶ前にある心配をしていたといいます。
翌年邦俊は俳優里見浩太朗としてデビュー。
2年後には映画主演を果たします。
仕事は順調に増えていきました。
23歳の若さで撮影所のあった京都に一軒家を購入。
そこに母エツを呼び寄せます。
「苦労してきた母に楽をさせてやりたい」。
息子の成功を喜ぶエツ。
亡き夫との誓いを果たしたのです。
時代劇映画の若手スターとして脚光を浴び始めた里見さん。
収入は驚くほど増えていきました。
つきあいも広がり生活は派手になっていきます。
母エツさんはそんな里見さんを叱りつけます。
「あなたはお金のありがたみが分かっていない」。
間もなく時代劇は下火になり冬の時代を迎えます。
あっという間に仕事が激減。
それまでの派手な生活を改めなくてはなりませんでした。
里見さんは母の言葉が初めて身にしみたといいます。
その後里見さんはテレビの時代劇に進出します。
迷わず地獄に落ちるがよい!再び脚光を浴びるようになった息子の姿をエツさんは喜びました。
平成8年。
85歳になったエツさんは体調を崩し施設で暮らす事になります。
七夕の祭りが開かれました。
それぞれの願いを短冊にしたためました。
当時エツさんの担当だった…エツさんの短冊の内容が忘れられないといいます。
エツさんは93年の生涯を閉じます。
亡くなる直前まで大切にしていたものがあります。
昭和12年中国大陸で戦死した父亀一さん。
実はエツさんが大切に保管していた報告書には戦死した場所が記されています。
中国山西省小寨村。
りんご畑の近くで両側に崖が始まる地点です。
小寨村に向かいました。
孫江さんはその場所が今も当時のまま残されているといいます。
そこは今ほとんど人が通る事のない場所でした。
20m以上の切り立った崖が始まるこの場所。
ここで父亀一さんは壮絶な最期を遂げたのです。
そんな亀一さんとエツさんは今山梨県南部町で一緒に眠っています。
俳優里見浩太朗さんの「ファミリーヒストリー」。
そこには過酷な時代を生き抜いた家族の歳月が刻まれていました。
こんなおやじとこんなおふくろのために頑張りたいなという改めてそんな気持ちが湧いてきますね。
生字幕放送でお伝えします2014/12/05(金) 16:05〜16:55
NHK総合1・神戸
ファミリーヒストリー「里見浩太朗〜父の死の真実 母が誓った覚悟〜」[字][再]
日中戦争で亡くなった父。当時、里見さんは生後10か月、父の記憶はない。これまで謎だった父の戦場での足取りが判明し、226事件との不思議な関係が浮かびあがる。
詳細情報
番組内容
日中戦争で亡くなった父。当時、里見さんは生後10か月、父の記憶は全くない。戦後、女手ひとつで子育てに負われた母は、昔話をする余裕もなかった。両親の若かりし頃のことを里見さんは知りたいと願っていた。今回の取材で、これまで謎だった父の戦場での足取りが判明、226事件との不思議な関係が浮かび上がる。また、両親の運命の出会いが、関係者の証言で明らかになる。里見さんは初めて知る事実に目頭を押さえた。
出演者
【ゲスト】里見浩太朗,【語り】余貴美子,大江戸よし々
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
サンプリングレート : 48kHz
OriginalNetworkID:32080(0x7D50)
TransportStreamID:32080(0x7D50)
ServiceID:43008(0xA800)
EventID:20485(0x5005)