ファミリーヒストリー「モト冬樹〜長州から江戸へ 激動を生き抜いた歳月〜」 2014.12.05


ミュージシャンから役者まで幅広く活躍する…僕がバンドで出てきたという事を知ってる方は40代50代…。
30代20代ははげた役者。
モトさんは4年前独身貴族に終止符を打ち家庭を持ちました。
(取材者)家系図かいてみて下さい。
え?マジ?家系図?「家系図をかけいず」みたいな…。
これ2人兄弟ですね男の。
武東家の次男坊です。
こうだね。
家系図かいた事ないから。
でうちのおやじが晴一。
でうちのひいおじいちゃんも同じ晴一という名前なんですよね。
最悪だね。
何にも知らないね俺。
こういう感じですね限界として。
(取材者)分かりました。
穴だらけの家系図で曽祖父まで遡りました。
ひいおじいちゃんは築地署の署長というのを聞いて…。
あとなんかすごい刑事をやってたと…。
ばか息子2人。
若いころたった一度父と旅した場所が武東家のルーツ山口県。
東京で生まれたモトさんの本籍は今もそこにあります。
一生のうちでおやじと兄貴と3人で行った旅行これだけですもん。
めったにそんな事言わないから…おやじがね。
うん。
なんかきっと行った方がいいんだろうなと思ったんでしょうね。
ただほんと本籍とか山口県の事何も覚えてないんだよね。
これどこだか分からないもんこれ。
番組ではモトさんの知らない家族の歴史を取材しました。
ここにあったんです。
祖父と父が二代にわたって…その旅には父の深い思いがありました。
幕末の宿場町から海を渡って伊予の国へ。
書いてある。
「伊予山越城主」。
謎に包まれた先祖の城。
誰を配置させたのか誰が城主であったのか。
鬼刑事と呼ばれた曽祖父はなぜ故郷を出たのか。
そして誰よりも臆病な父が戦争を生き延びた理由とは。
浮かび上がってきたのは激動の時代と格闘した男たちの生きざまでした。
取材の結果を伝える日モト冬樹さんは自らのルーツと向き合う事になります。
ドキドキするな…。
ハァ…。
複雑ですよねなんかね。
でも楽しみです。
まずはモト冬樹さんの本籍があるという山口県の高森を訪ねました。
江戸時代長州藩の宿場町として栄えた街道沿いには今も本陣跡が残されています。
江戸にこし入れする篤姫や吉田松陰も高森に投宿しました。
武東家では曽祖父とその婿養子だった祖父が高森で生まれています。
いらっしゃいませ。
モトさんとは祖父同士が兄弟という岩根さんを訪ねました。
一番古いアルバムがあるんですよ。
祖父知亮が生まれ育った家。
今は空き地ですがモト冬樹さんの本籍のある場所です。
祖父の家は膨大な農地を持つ地主として知られていました。
残った家宝は江戸幕府と戦った一族の刀です。
曽祖父の生きた幕末故郷高森は歴史の大きなうねりにのみ込まれていきました。
曽祖父晴一が14歳の時反乱軍とされた長州を征伐するため幕府が兵を送ります。
長州では…と呼ばれた民兵軍が組織されます。
東の国境に近い高森はその拠点となり練兵場もつくられました。
高森の寺に残る遊撃軍の図。
若者たちが勇ましく進軍する様子が描かれています。
武東家の一人息子14歳の晴一もそんな一人でした。
長州は幕府に勝利。
間もなく薩長を中心とする明治政府が誕生する事になります。
二十歳になると晴一は御親兵と呼ばれた政府直属の軍隊に選ばれ故郷高森を出て上京します。
御親兵は近衛と名前を改めやがて日本陸軍を形づくっていきました。
一方治安維持のため旧薩長を中心に東京警視庁が創設されます。
こちらが明治7年1月15日に東京警視庁としてできた時の最初の庁舎。
現在の東京駅辺りですね。
当時は東京警視庁ですね。
現在は警視庁という名前になっておりますね。
この年晴一は軍隊を辞めできたばかりの東京警視庁に入庁。
24歳に巡査で始まりその後明治の難事件を次々と解決する名刑事になっていきます。
新聞に武東刑事の名前があがった事件だけでも12件。
「警察新聞」には担当事件を語った連載が載りました。
執念深い捜査でにらんだ容疑者を逃さない。
「鬼武東」と呼ばれていました。
新聞の取材には「自宅の仁王像を相手に毎日にらみの稽古をしている」と冗談まじりに応えています。
では鬼武東の事件簿をひもといてみましょう。
明治23年麻布の東洋英和女学校で教師をしていたカナダ人夫妻が襲われました。
2人組の強盗が日本刀を持って学校に押し入り夫を斬りつけ殺害。
妻に重傷を負わせて逃走。
現場には犯人のものと見られる舶来風のたばこ入れが落ちていました。
犯行の手口から常習犯の容疑者を挙げるも自白がとれず事件は迷宮入り。
しかし鬼武東だけは遺留品のたばこ入れを追い続けました。
やがて容疑者の内縁の妻が夫のものと認めたばこ入れを売った商人も突き止めます。
それは10年後。
時効が成立していましたが諦めない鬼武東執念の仕事でした。
明治43年深川小名木川に首無し死体があがりました。
若い女性と見られる遺体は首が切断され派手な生地をつないだひもで腰巻き一つを身につけただけ。
被害者の身元が割れれば加害者につながる。
警察は遺体の特徴を公開します。
上流に紡績工場がある事から新聞は女工の一人だと騒ぎました。
しかし鬼武東の見立ては違いました。
遺留品の腰ひもは派手な古生地のはぎ合わせ。
縫い目は粗く裁縫に慣れない者に違いない。
被害者は恐らく花街の女。
「時代後れの捜査で岡っ引きのようだ」と新聞はたたきますが鬼武東はこのひもをしぶとく追います。
遺体発見からひとつき鬼武東の読みが当たります。
失踪した遊女の部屋で腰ひもと同じ布を発見。
内縁の夫を逮捕しました。
明治44年築地署の初代署長に就任。
翌年鬼武東は突然亡くなります。
新聞はその功績をたたえ60歳の早すぎる死を惜しみました。
なるほど。
ドラマを見てるようだね。
ねえ。
当時ほらDNA検査も何もないから勘だけでいくんだからね。
ちょっと真剣に見てたんですよびっくりして。
ドラマを見てるようだなと思って。
なんか鬼刑事武東自体ドラマっぽいじゃないですか。
ほんとにそういうのがあったんだという事自体すごいですよね。
しかもひいおじいちゃんがそうだという事で。
ちょっと感激してるんですよでもほんとに。
モト冬樹さんはとげぬき地蔵で知られる巣鴨の生まれです。
父はここで産婦人科の医院を開いていました。
兄はミュージシャンのエド山口さん。
山口から江戸に来た武東家のルーツが芸名の由来です。
(取材者)いつもお参りするんですか?しないです。
初めてだって。
びっくりしちゃった私。
俺だって生まれてずっと育ってるじゃないですか。
した記憶ないですね。
お兄ちゃんです。
頭が弟のお兄ちゃんです。
訳の分からない事…。
エド…何でしたっけ?エドねはるみ。
違う。
商店街から少し入った所が武東医院でした。
ここが病院です。
蚊がいそうなんでデング熱怖くないですか。
ちょっとくもの巣が怖い。
よし行っちゃおう。
わっすごい!さすが古くなったな。
もうここだっておやじが67で心筋梗塞やってから開けてないんで…。
病院の隣に兄弟が育った家。
今は誰も住んでいません。
おふくろの位牌があります。
字が分かんなくてもお経になるんですよ。
(読経のまね)
(鈴の音)まだ先は三度あげるんだよね。
(読経のまね)お母さんごめんなさい。
すみません本当に失礼な事を。
ここのね下に引き出しがあるの。
えっ?ここの仏壇の下に引き出しがあるの?裕男ちゃんも知らないと思うし。
知らないな。
開けた事…聞いた事もないし。
ほんとだ。
多分先代からの…。
あららららら…。
長男のエドさんも知らない仏壇の引き出しは家の世話をしている妻望さんが見つけました。
色がすごいでしょう。
うわ!こっちは何?ちっちゃいのは。
発見したのは先祖の位牌の写しです。
実は武東家には古いルーツにまつわる謎があります。
これ書いてある。
武東家の最も古い先祖は安土桃山時代の伊予山越の城主。
名前は武東ではなく村。
武東の姓は江戸時代中期になって登場します。
おやじが一回愛媛県の松山市の市役所とかに連絡を取って伊予の山越ってとこがあるのかというのを一生懸命調べたんですけど今市内だと思うんですがそれがはっきりした事はよく分かんない。
位牌のあれですよそれを写したものなんですこれ多分。
(取材者)という事はオリジナルはどこにあるんですか?燃えたんじゃないですか。
たどりつかないルーツ。
原因は東京を襲ったあの大地震にありました。
裕男の父晴一がまだ7歳だった時の事です。
大正12年関東大震災が起こりました。
当時築地にあった武東家は倒壊を免れましたがやがてあちこちから火の手が上がり家族はちりぢりに逃れました。
家は全焼。
古い先祖までつながる記録も家系図も燃えてしまいました。
おやじは地震恐怖症です。
この家でおかしかったのはおふくろが「あら地震かしら?」「ああ地震だ」と言った瞬間おやじがカメラさんの後ろのちょうど角なんですけどここでそれを再現すると…こうやるんですよね。
その時うちにいとこの女の子が女子大生で田舎の福島の子が下宿してたんだけどその子も嫌いでこうやっておやじがつかまったらおやじの腰に「先生」とつかまって。
おふくろと俺は動かないでこうやって見ながら「何やってんのかな?」。
その臆病な父晴一さんは98歳の今も健在です。
おつかれさま。
無事着きました。
よかったよかった。
あの〜…自分たちの代で失った長い先祖の歴史。
父親が作り直した写しをもとに晴一さんもルーツを追いました。
伊予山越の城主とは誰か?城は実在したのか?自分とはつながるのか?歴史書を読み山口や愛媛に手紙を出しましたが手応えはありませんでした。
2人の息子が成人して晴一さんは本籍のある山口県に旅をする事にしました。
(晴一)やっぱりねルーツを一回見せといた方がいいと思ってさそれもあったから連れていったんですよね。
でも石ころしかなかった。
武東家の菩提寺で出会ったのは碑銘の読めない先祖の墓でした。
40年前晴一さんが息子たちと旅をした山口県の高森。
江戸時代は山陽道の宿場町として栄えていました。
街道からのびた参道の先に旅の写真に写っていた古い山門がありました。
全然覚えてねえな…。
500年の歴史を持つという浄泉寺を訪ねました。
(取材者)おじゃまします。
はいどうぞ。
迎えてくれたのは先代の住職夫妻です。
ああうちだ。
そうそうそうそう。
2人は40年前に訪ねてきた親子を覚えていました。
息子さんは当時は田舎の方では長髪はあまりなかったですから珍しいなという感じはしましたね。
何しろお墓を教えてくれという事ですよね。
ご本人は昔の事ですから「これうちの墓だ」というのは確証がなかったんでしょうかね。
300年前火事で焼けた浄泉寺にはそれ以前の記録がありません。
武東家の墓とされるものは6基。
石積みだけの墓や碑銘が消えた墓ばかり。
誰のものか分かりません。
もしかしたらもしかしたらここの村さんじゃないかな…。
武東家の仏壇で見つけた写しをもとに消えかけた戒名を読み取ってもらいました。
この2つよ。
この2つ。
間違いない。
これが。
「譽」あるじゃんここに。
ここに「譽」があるじゃんここの所に。
「春」じゃない?これ。
「春」。
これ。
2つの墓の戒名が江戸時代中期の記録と重なりました。
享保ですから18世紀の初期から中期ですね。
こちらが18世紀後半ですね。
という事はもしかしたらこの男性のこれが両親かもしれませんね。
俗名はちょっと分かりませんが。
やっぱり自分が一体どこから来てやっぱりお父さんとお母さんがおって自分がおる。
そしてお父さんとお母さんにはまたお父さんとお母さんがおられるという事で先祖はず〜っとつながっておってここに一人でもおられなかったら自分はおらんという事ですから。
先代の住職は武東家の記録に気になるものがあるといいます。
院殿号…。
これ。
院殿号というのはちょっと珍しいと申しましょうか…。
各お寺でもそうたくさんある戒名ではないですよね。
注目したのは伊予山越の城主の隣「院殿」と「大居士」の入った戒名。
江戸時代は将軍や大名など権力者に用いられました。
この方が…院殿号ですよね。
うちではこの方だけで。
このお寺を建立なさった岩国藩の家老か何かと聞いてるんですけどね。
武東家の祖先が城主だったという伊予山越。
山口県から瀬戸内海を渡り伊予の国愛媛県に山越という場所を探しました。
あちらになります。
山越交差点です。
山越は松山市内にありました。
松山で山越という場所がこの一帯になります。
この城北一帯が旧山越村だったわけですが松山平野松山の中心部のちょうど北の玄関口になるわけですね。
父と祖父が二代で探して見つからなかった伊予山越の城。
中世の伊予の歴史が専門の学芸員土居さんの案内で山越村に一つだけあったという山城の跡に向かいました。
こちらが御幸寺山頂御幸寺山城の平たん部分が城だと言われているだけで堀切ですとか土塁ですとかいわゆるそういう軍事的な遺構というものが十分残ってないんですね。
この鳥居の向こうに見える少し茂った森のような所。
あちらが…非常に近い場所ですので…当然家臣を配置させた事も考えられるわけですが誰を配置させたのか誰が城主であったのかという記録が残念ながら戦国時代についてはないのが現状です。
伊予を治めた河野氏は秀吉の四国平定の過程で滅びました。
松山平野を一望するこの山城が武東家の先祖の城でしょうか。
この山越にあるとすればここなので武東家の家系図……という事は間違いないと思うんですね。
従来から毛利氏と河野氏は同盟関係連携しておりましたのでこの毛利氏のつてを頼って河野氏の旧家臣団が小早川そして毛利に仕えていく。
その中で中国地方に移っていくという事例は非常にままある話だと思います。
天正3年に死んだ武東家の祖先村蔵人。
河野氏の家臣にその人物の記録はありません。
しかし天正年間の毛利氏の家臣録にその名字がありました。
吉村仁兵衛が治めたのは200石余り。
周防の国玖珂は高森の隣町です。
伊予から落ち延びた城主の末えいが高森に流れたのか。
いつ武東に変わったのか。
いずれも定かではありません。
すごいですね。
いや〜よく調べたな。
おやじがインタビューで言った言葉というのは初めて聞いた言葉がほんと多くて…。
何で俺たちを連れていったのかという。
ルーツを見せておきたいというの。
そういう事言わないおやじですからおやじはおやじなりの思いがあって行ったんだなというのが残念ながら今分かったっていう。
その時は何も分からないで行ってるから何も覚えてないんですよ。
あのお寺さんも覚えてない行ったの。
であのお寺に字が残ってたじゃないですか。
あれもきっとおやじびっくりするんじゃないかな。
確かにあそこにあったわけであって…。
いやぁすごいな〜…。
やっぱり自分の先祖の事だから興奮しましたね見ててやっぱり。
何で…城があった事は確かだし何でというのはちょっとそれは大昔の事だから…。
でもあそこまで分かればほんとに…。
おやじが生きてる間にこれを見せてあげられるというのはプチ親孝行ですよね俺としては。
皆さんの努力なんだけど。
ほんとありがたいです。
モト冬樹さんの父は巣鴨で産婦人科の医院を開いていました。
ここが待合室ですね。
これが玄関ですね。
向こうからお客さん患者さん来てここで待ってるという。
今見ると狭いな。
こんなに狭かったんだ。
ここが薬局なんで患者さんに薬渡すとこですね。
ここが診察室です。
あ〜…。
おやじの机ここにあったんですよね。
そうそうそうそう。
お産の時はここでとりあげてすぐ赤ん坊を母屋の風呂に連れてって洗ったりしたんです。
おやじ注射が駄目なんですよ。
お産する時も結構気が弱くて…。
注射大嫌いなの。
気の弱い父晴一さんは両親から「坊や」と呼ばれていました。
何で坊やって言うんだろうなと思ってさ。
不思議だな俺は何で坊やと言われるんだろうと考えてみればさ…。
海軍の経理を担当する主計官だった祖父知亮。
鬼武東の死後知亮は長男に名刑事だった父の名前を付けました。
怒られた記憶は全くないですねおやじからは。
ゴキブリを殺そうとするのを見てたんですよ俺。
新聞を丸めて。
見てたら殺した途端に自分が後ろに下がって後ろにぶつかったガーンって何かにね。
それを見た時にうちのおやじよく戦争に行ったなと思って。
軍医で中国行って「中国にいい女がいてさ」とかそういう事言う人じゃないからそういう事もしてないだろうし。
注射もゴキブリも怖い臆病な坊や晴一はなぜ医者になったのでしょうか。
戦争が全てだった晴一の青春時代。
それは生まれて初めて訪ねた父や祖父の故郷から始まりました。
昭和15年24歳の晴一は本籍地高森で徴兵検査を受けます。
山口広島などの出身者が構成する第5師団は精鋭部隊としてその名をとどろかせていました。
海軍にいた父知亮は息子の行く末を案じます。
戸籍を東京に移した方がいいかもしれない。
しかし実現されないまま晴一は軍医として出征。
長江流域で最初に配属されたのもつわもので知られる部隊長の下でした。
晴一は運のいい男でした。
ボートで敵陣を行く時持ってきた薬品を確認しようと座っていた場所から腰を上げます。
途端に敵の砲弾を受けました。
「大本営陸海軍部発表帝国陸海軍は米英軍と戦闘状態に入れり」。
アメリカとの開戦を晴一は戦地で知りました。
もし高森から東京に籍を移していたら出征は遅くても米軍と戦う事になったはずだ。
中国戦線でも厳しいのに過酷な南方ではとても生きられなかっただろう。
それは父や祖父の故郷にもらった運でした。
晴一のアルバムにある奇妙な記念写真。
戦友と2人中国服を着ています。
作戦のない時は中国人に化けて立ち入り禁止区域に潜り込みました。
敵国の娘とのひそかな交流。
兵舎で奏でる胡弓。
戦地での精いっぱいの青春でした。
昭和18年長江の港町九江の陸軍病院に転属。
看護婦から与えた薬をこっそり捨てる患者がいると告げられました。
結局…昭和20年終戦。
長江流域にいた日本兵は捕虜として陽湖に浮かぶ島で暮らす事になりました。
しかし島民は寄りつきません。
ある日晴一のもとに高熱と痛みに苦しむ島の娘が運ばれました。
乳腺炎と診断し手術で膿を取り除きます。
ズラーッと…1年後復員が決まって島を去る時島民たちは泣きました。
運のいい医者も一緒に泣きました。
復員後間もなく晴一は結婚。
福島から上京した秀は下宿先を探す中で心優しい医者に出会いました。
2人は巣鴨に小さな産院を開きます。
そして2人の男の子が生まれました。
おふくろは「武東家の跡取りとしてね」と言うわけですよ「医者になりなさい」。
おやじは高校生の時俺のところに来て「お前な日本じゃ医者はもうかんない。
『柿の熟れるころ医者は青くなる』と言ってな退職金もないんだ開業しちゃうと。
大学病院行ったら派閥がある。
なっ?だから医者と教師はアメリカでやった方がいい」なんて言うんです。
おふくろとえらい違いだなと思ったの。
「うちは代々医者じゃない。
ひいじいさんは警察官じいさんは海軍軍人俺は医者。
ずっと代々医者やってるわけじゃないから別に医者になんなくたっていいよお前」。
母の願いもむなしく2人は音楽の道に進みました。
(取材者)ほんとはお医者さんにしたかったんですか?戦争に明け暮れた晴一の青春。
息子たちにだけは好きな事をさせたかったのかもしれません。
なるほど…。
いや…もちろんおやじから聞いた話もあるけどほとんど聞いてない話が多かったですね。
やっぱおやじは中国で戦争の時が青春だったんだね。
楽器を弾いている姿が一番衝撃的でしたね。
「ええ!?」って。
そりゃ息子に言わないよねそんな…。
「いい女がいたぞ」とかさ絶対言うわけない。
まあ戦争という悲惨なものがある事はあるんですけどその中でも青春時代をちゃんと送ってきたんだなという。
今は全くほんと違った面が見えたですねうちのおやじの。
強さがあるから優しくできたりとか根っこのとこがね。
結局その…息子が嫌だったら別にというきっと何か強さはあるんですよねうちのおやじ。
だから優しいんですね人に。
ちょっと…なんかでもうれしいですね。
自分のおやじもひいおじいちゃんもおじいさんもなんか胸張ってある意味とても誇れる部分があってすごいうれしいです。
モト冬樹さんの父晴一さんが産婦人科の医院を開いていた巣鴨。
商店街には昔ながらのお店が軒を連ねています。
和菓子屋さんの3代目は武東医院で生まれました。
お煎餅屋さんでは初めての女の子が武東医院で生まれました。
安心してお世話になりました。
ご近所で評判よかったから。
これが武東先生にお願いした子供です。
残念よね人気の先生だったからね継がないし2人もいて。
ハハハハ…!長男長女を武東医院で産んだ傘屋さん。
「坊ちゃんですよ」と言われた時は「あ〜よかった」ってそれだけが。
男の子だったってもうとてもうれしかったです。
いい先生で評判がいいんでね。
これはね病院ですよ。
これ病院だと思います。
赤ちゃんは傘屋の3代目を継ぎました。
武東医院で3人産んだ帽子屋さん。
あの子も武東先生で生まれて今度お産するんですよ。
武東先生じゃないんですけどもうすぐ2人目。
私です。
はい。
この子は違います。
妹が欲しいのね。
一応妹ね。
これが最初の息子ですね。
髪の毛がすごかったんですよ男の子で。
「すごいねこの子は」って。
それが第一声かな先生の。
髪がふさふさのこの子は帽子屋の3代目になりました。
その時にお話ししててミュージシャンって聞いたんです。
「先生跡継がないんですか?」と言ったら「継がないなうちは」なんて。
まさかモト冬樹さんと山口さんとは思わなかったんですけど。
もっと続けていてほしかったです私は。
だから武東先生以外はどこも行ってません。
武東医院は一代でその役目を終えました。
しかし晴一さんがとりあげたたくさんの子供たちがどこかで家を継ぎ親になっています。
いいっすねなんか。
おやじが好きになりましたねこれ見てもっと。
2014/12/05(金) 22:00〜22:50
NHK総合1・神戸
ファミリーヒストリー「モト冬樹〜長州から江戸へ 激動を生き抜いた歳月〜」[字]

モト冬樹さんの父は医者、祖父は海軍、曽祖父は刑事という家系。幕末、長州から江戸にやってきた。そのルーツには多くの謎が。激動の時代を生き抜いた家族の歳月。

詳細情報
番組内容
モト冬樹さんは、父が医者、祖父は海軍、曽祖父は警察官で初代・築地署長という家系。幕末、曽祖父が、長州から江戸にやって来た。その詳細については分からないという。取材で明らかになるのは、名刑事でもあった曽祖父が解決した難事件。そして、98歳で健在の父。息子たちに話してこなかった半生を告白。軍医として、戦後は巣鴨の産婦人科医として生き、地域の人から愛されてきた。激動の時代を生き抜いた家族の歳月。
出演者
【ゲスト】モト冬樹,エド山口,【語り】余貴美子,大江戸よし々

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化

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