(阿川)おはようございます。
阿川佐和子です。
この方の歌を聴くと私は桜吹雪の中で焼酎を飲みたくなります。
(スタッフ)あははっ!今日のゲストは歌手の坂本冬美さんです。
はじめまして。
どうも。
よろしくお願いします。
まあ〜いつも着物姿の…ねえ?あれですけれども。
やっぱお洋服のときも多いんですか?
(坂本)そうですね最近多くなりましたお仕事でも。
「また君に恋してる」を歌うようになってからですね。
ああ〜そうか。
あれはやっぱり洋服のイメージ?うん。
あの曲からちょっと洋服…あのジャケットがジーパンだったんですね。
「・君に〜んん〜」と…。
ふふふっ!お上手ですね。
いやいやいやいや…ちょっと「・んん〜」って。
(ナレーション)今日のゲストは・また君に恋してる「また君に恋してる」の大ヒットが記憶に新しい坂本さん。
(坂本)・こんな小春日和の
(坂本)・穏やかな日はあなたの最近ではポップスのカバーにも積極的に取り組んでいます。
そのデビューは19歳のとき。
・たたく太鼓の「あばれ太鼓」で演歌界の若きスターとして着実にキャリアを積み重ねてきました。
そんな坂本さんにも歌うことに疲れ休養生活を送った時代が。
綱渡りな気持ち…。
はい。
今日は坂本さんが歌手としての挫折そして再生の道のりをサワコに語ります。
仲良しの藤あや子さんにもこの番組に出ていただいたことがあるんですけれども。
今日よろしくお伝えくださいって伝言を。
ほんとに?今日もお会いになったんですか?今日は会ってないんですが朝起きたら私のおうちのテーブルにですね朝食がセットされておりまして。
ええ〜!?お盆でこう届けてくれたみたいで。
お近くっていうか…。
(坂本)はい。
もう歩いてちょちょちょっと行った所…。
スープの冷めない距離にお住まいで。
はい。
しかも藤さんってほんとにたくさんのお料理を作る方なんです朝から。
10種類とか…。
ありますね。
だから私いっぺんに食べきれないときはちょっとタッパーに入れといてじゃあ帰って来て夜食べようとか次の朝食べようとかね。
でしばらくあや子さんが旅とか行っていないときは3日分ぐらい置いてってくれたりどれだけ私が何も作らないと思ってるんでしょう。
少しは作るんです一応。
作るんですか?作るんです。
作る力はあるんですか?少しぐらいはあるんですよ。
あやちゃんが逆に忙しいときに「あっごめん!今日はちょっと作っといてくれる?」って言って例えばお好み焼きですとかあるいはハンバーグですとか結構作るんです。
ああ〜十分十分。
十分ですよね?だから年に何回かはお返ししてるんですけど。
でもあちらはご家族もいらっしゃる…。
そうです。
お子さんの学校の行事とか運動会とか…。
(坂本)はい。
今お孫ちゃんが幼稚園で。
で昨日もたまたま七五三でちょっと一緒にお参りをして。
どうして?どうして坂本さんが七五三に。
「この日はスケジュール空けといてね」って来るんです。
あははっ!なんか親戚のおばちゃんみたい…。
そんな感じです。
なんでそんなに仲良くなっちゃったんですか?
(坂本)これが不思議なんですね。
デビュー当時ってほんとにそこまで仲良くなかったんです。
師匠が同じで…要するに同じ門下生。
猪俣公章さん。
はい。
であやちゃんは外弟子さんで私は内弟子。
ああ〜。
じゃあ最初の頃はそんなに仲良くなかったのに何がきっかけでこんなべったりな…。
先生が亡くなってからなんですね。
そうなんですか。
(坂本)亡くなって…私がデビューして7年ぐらいたったときに亡くなられたんですがとってもサバサバした人なんですね。
見た目と違って。
ふふっ。
見た目は…。
ですけど…。
色っぽいけど。
なんかスッと…今まで仲良くなかったことが不思議なぐらいスッと近くなっていったっていう感じですかねはい。
だから一年のうち…。
何日ぐらいご一緒なんですか?いない日を数えた方が多いかも…早いかもしれないですね。
この生活を変えようという気はないですか?ふふっ変えるのは結構楽でしょうね朝食作ってくれるし。
ねえ。
何も困らない。
でもいけないですねこのままではいけないと思ってるんです。
冬美が結婚できないのはあや子のせいなんてね言われちゃうわよね。
ほんとにね。
そういうことにしときましょう。
(ナレーター)美しさとはただ飾り鑑賞するものだけではない。
日用品として使うものにこそ美しさを。
それを「用の美」と名付けたのは誰だったか。
もっと暖かいエアコンを。
もっと使いやすい冷蔵庫を。
もっと軽い掃除機を。
そんな新しい性能を追いかけたら家電は美しく飽きのこないデザインになっていた。
これからの日々に上質な美しさを。
パナソニック「Jコンセプト」今でも心の記憶の中で輝いている曲というのはなんでしょうか?石川さゆりさんの「波止場しぐれ」です。
石川さゆりさんは先輩?もう大先輩ですね。
いつごろ石川さゆりさんが好きになったんですか?小学校の5年生のときですね。
ず〜っと小学生から高校卒業してお勤めをする頃までず〜っと憧れて憧れて。
そうそうだって一度お勤めなさったんですよね?ふふっ梅干し会社に。
梅干し会社に。
はいそうなんです。
そのときに梅干し会社の近くにカラオケの機材と小さなステージがあるおうちがあったんです。
ナカオさんっていうお宅があって。
で「歌いにきていいよ」って言ってくださってでそのナカオさんのお宅に行って練習して。
練習して。
その練習している歌をカセットテープに録音してくださってNHKの「勝ち抜き歌謡天国」という番組に出してくれたんです。
優勝なさった?
(坂本)そう和歌山大会…全国をその番組はまわってましてそのとき歌った歌が「波止場しぐれ」なんです。
でそのころはまだ梅干し工場で働いてたの?はい。
この番組に出るっていうことはご自分ではどういうふうに受け入れたんですか?私は田舎でまあうまいとかなんとかって言われてもどこまで通用するのかなっていうのは自分の中であったんです。
しかもチャレンジでもあったんですがもしでもこれで認めてもらえなかったらもう歌手の道は諦めようって。
歌手になりたい気持ちは…。
気持ちはあって。
でその番組っていうのが作曲家と出場者がペアを組んで勝ち抜いていくっていう番組だったんですね。
ですから作曲の先生が…たまたまペアを組んだ先生が猪俣公章先生。
はあ〜そうかそうか。
はい。
で見事優勝と。
どうなったんですか?もうそのあとすぐに先生からお電話があって上京しなさいと。
うん。
私が面倒を見てやるって。
もうすぐ歌手になれると思って。
すぐ歌手よねこれは。
って思いますよね?でもすぐ上京したんですけどもおうちの掃除とか先生の身の回りのお洗濯とか。
おうちに住むんですか?住むんです。
先生の下着とかも洗うの?そうですもちろん。
なんか落語の内弟子みたいな感じでね。
(坂本)そうですね。
ええ。
最初はちょっとびっくり?びっくりしました。
えっこんな生活がいつまで続くんだろうって。
いつまで続くのかよね。
で歌の練習もしてくださらないですし。
一切?一切です。
「実は私はちょっと譜面も読めないので先生教えていただけますか?」って言いましたら「ばかやろう!演歌歌手に譜面なんかいらないんだよ」って。
そのひと言?はい。
「もうスカウトしたってことは才能が8割。
あと2割はもう俺がなんとかするんだから心配するな」って。
なんか…。
安心していいのやら。
分からないですよね。
ねえ。
そういう日が毎日毎日…どれぐらい続いたんですか?ええ〜っと1年弱です。
でどうなったんですか?1年それ続けて。
(坂本)でも幸せなことにレコード会社がもう夏ぐらいに決まってじゃあもう来年の3月にデビューさせましょうって…。
話がとんとんと。
決まったのでデビューが決まったっていうことでちょっと安心して。
でそうすると先生も曲を作らざるをえないので。
あははっ!なるほど。
そっちの順番ですか。
はいそっちの順番で。
で曲を作ってくださって「よしじゃあピアノの前へ来い」と言われて「ちょっと歌ってみろ」っていう感じでした。
そしたらそれが「あばれ太鼓」だったんだっけ?「あばれ太鼓」ってだって北島三郎さんの歌みたいな歌ですよね?そうなんです。
で私は石川さゆりさんに憧れて入りましたでしょ?でまあ候補曲が8曲あったんですがいちばん嫌だなと思ってたのが「あばれ太鼓」だったんです。
あっでも8曲もあったの?あったんです。
石川さゆりさんのような曲もあったんです。
ああこれがいいわと思う曲があったんですけど「よしお前のデビュー曲はあばれ太鼓だ」って言われてあちゃ〜って感じだったんですね。
でこれはちょっと自分の気持ちだけは伝えた方がいいと思って「先生私この曲はやらないと思うんです」って。
(一同)あははっ!大胆発言。
だって一生ついてまわるじゃないですか。
デビュー曲だもんね。
「では歌っていただきましょう坂本冬美さんデビュー曲あばれ太鼓!」って30年たったってデビュー曲「あばれ太鼓」ですから。
あははっ!そりゃそうだ。
ちょっと…と思って言いましたら怒られました。
なんて?「ばかやろう!新人がはやるとか売れるとか100年早い!」って。
もうそのひと言で「すみませんでした」って。
でもまあ今思えばほんとに10キロ近く今より太ってまして。
そんなに太ってらしたんですか?
(坂本)見た目もやっぱりねそんな「あばれ太鼓」って感じだったんですよね。
自分の気持ちの中では石川さゆりさんだけれども。
けなげな女だと思ってたのに。
見た目が…。
ド〜ンと。
ふふふっそうなんです。
じゃあ曲風には合ってた?合ってたんですよ。
はい。
それでそのあとだってとんとん拍子で紅白歌合戦に出たのも…。
2年目です。
2年目でしょ。
どうよ?ふふっ。
いやうれしかったですけどものすごい緊張しました。
でもその出番前に舞台の袖でさゆりさんが「頑張ってらっしゃい」って背中をポンと。
憧れの石川さゆりさんが。
余計緊張しちゃって。
あははっ!余計なこと…。
うわ〜!あっさゆりさんが…って。
(夫)《妻はいつから掃除機を重いと感じるようになったんだろう》
(ナレーター)そんなニッポンの暮らしに耳を傾けたら新しい家電が見えてきました。
(妻)軽いわね〜。
世界で一番軽いボディ心まで軽やかになる掃除機です。
これからの日々にパナソニック「Jコンセプト」
(でんきやさん)どうです?新しい掃除機は。
(奥さん)ほ〜んとに軽くてびっくり!ごめんね手伝わせて。
息子さん家出てだいぶ経つけど今もキレイにしてますね。
あれ?何か出てきましたよ?まぁあの子ったら。
アハハ…。
(ナレーター)あなたの暮らしを家族のようにサポートします。
パナソニックの店。
フェア開催。
(ナレーター)パナソニックの超高精細4Kはテレビという概念を超えていく。
映像で彩られた街は人々との新しい関係を築いていく。
そう自由自在に。
心を揺さぶる臨場感を。
常識という非常識を変えてしまえ。
それがWonders!「夜桜お七」は猪俣先生が亡くなられたあとに…。
(坂本)はいそうです。
違う人が作った。
初めて「夜桜お七」を聴いたとき歌ったときはどう思われたんですか?
(坂本)あの〜まず三木先生があのときギターでしたねギターで…。
・ザッザッザッザザザッ何が始まるんだろうってもう最初のところからワクワクしてで一曲聴き終わったときに私が次の第一歩を踏み出すのはこの曲しかないって。
でもこの曲でいきますとレコーディングしたらレコード会社のほとんどの方が社長をはじめ大反対したんです。
なんでですか?坂本冬美を潰す気か?と。
これまで猪俣先生の曲でこうやって演歌の…。
路線を構築してきたのに。
ということで大反対だったんですね。
でもそのとき三木たかし先生が自分はこの曲が売れなかったらこんなこと言っていいのか…頭を丸めますと責任を取りますと。
出させてくださいと言ってくださって発売に至ったんですね。
でもレコード会社の人が反対したにもかかわらずヒットしたわけでしょ?これがピークだと思いました私の。
ピークって何?あの〜自分の中ではヒット曲っていうか代表曲ができたわけですよね。
そのあとはもうどんどんこうなっていくんだろうなって。
落ちていくのみと思ってた?思ってました。
だからその「夜桜お七」を歌って満開になってそのあとでしょなんかちょっとこう元気なくなっちゃった時期は。
そうです。
いつごろからだったんですか?
(坂本)あの〜10周年の年っていうのは劇場公演もありコンサートもありで暮れ近くになって私盲腸になってしまって。
あら忙しすぎて?忙しすぎて。
入院して1週間ぐらいしてすぐにまたコンサートがあったりなんかしてものすごい無理をして無理をして急性膵炎になってしまったんです。
こじらせちゃったの?ピークですよね疲れの。
でもうそれでちょっとほんとに痩せてしまって次にこう大事なNHKの仕事だったんですけれども美空ひばりさんの「柔」を歌わなければいけなくてこれは生放送ではなかったんですが…。
力強い歌です。
レコード大賞も受賞なさったあの曲を歌う。
もうひょろひょろした歌しか歌えなくてものすごい自信をなくしてしまって怖くなってしまったんですねステージで歌うってことが。
それからだんだんだんだんその…気持ちも体もなんかこうボロボロになっていってでそんなとき父が亡くなったりしまして突然の事故で亡くなったりっていうことでもう…。
それもショック…。
そうですね。
これがいちばんもう最終的にはうん…歌っていくうえであの〜…。
んん…。
お父様応援してらしたんですか?もちろん応援してくれていましたけど突然の事故だったので父が亡くなったのは。
もうまったく予期せぬことでしたので。
なのでまあ例えば人生の応援歌とかを歌うわけですよね演歌の場合。
そうさ人生やるっきゃないさって言いながらも自分の今の気持ちをその歌にのせてしまうととてもつらくて歌えない。
で自分の気持ちを抑えてだましてステージで歌ってるって。
もう表面だけで歌ってるっていうことがなんか…。
中身と全然違うんですね。
はい。
なんかもうこれではいけないと思って事務所の社長にお願いをして「お願いですからちょっと休みを下さい」と。
って言ったのはもう15周年を終えたあとになってしまって。
やっと…。
じゃあ5年間苦しみ抜いてらしたんですか?そうですね。
それは歌自体に対する愛はあったわけでしょ?それから自分はだって上手だし。
(坂本)いや…。
どっかで自分の中で自信のなさが…例えばさかのぼると基礎的なこともやらないまんまに我流でずっと歌ってきてでも仕事にかまけてそんなお勉強もしないまんまにずっとやってきて。
ああ〜そっか。
本番…つまりもうすぐ本番で…本番でいろいろこう積み重ねていく…。
積み重ねてきた15年なんですね。
猪俣先生がレッスンをしてくれなかったのがいけない。
勝手にやれって言われちゃいますけど。
そういうものが根本にきっとあったんだと思うんです。
やってないっていう空虚感?どっかにやっぱ常にあったんだと思うんです。
ほんとは自信がいつもなかったんだと思うんですね。
綱渡りな気持ちですよね。
でも常に仕事が…。
これは幸せなことなんですけどレールを敷いてくれたところを大きなステージを与えていただいてってこれはものすごいぜいたくな悩みなんですがそうやって10年が過ぎ気がついたら15年っていう。
で休業宣言を出してご自身としてはもう歌手辞めようとかいう気持ちもあったんですか?辞めるつもりでしたもう。
休養と言いつつ?言いつつ。
ただほら私もうこれで引退しますとか大ごとになるじゃないですか。
でも私ぐらいの歌手だったらもうほんとにこのままフェードアウトしていけばきっと忘れられるだろうと思って。
「最近見ないね」っていう感じになりたいと思ってたの?そうなんです。
もうそれでいいやって。
なので休業と言いつつ事務所の社長にも次戻ってくるのはいつですよとかも言ってませんでしたし連絡もまったく取らなかったですしレコード会社の方も。
ふ〜ん…。
じゃあ和歌山にお帰りになったの?
(坂本)和歌山に帰ったんですがなぜか私死亡説っていうのが出ちゃったんですよ。
死亡説!?はい。
でそれも私旅先で駅で新聞を買って…スポーツ紙を買ったんです。
そしたら「坂本冬美死亡」って書いてあったからええ〜!ここにいるしって。
あははっ!そしたら母親が「今帰って来ちゃ駄目よ。
なんかカメラ持った人がいっぱいいるよ」って言って帰れなくなっちゃったの。
でまあちょっとほとぼりが冷めて家に帰ってそのときにたまたま母がテレビをつけていたらあの〜その当時65周年…かれこれ12年ぐらい前ですよ65周年の二葉百合子先生と出会うんですけども。
それなんですよね。
はい。
コンサートのもようが流れていたんですね。
で「岸壁の母」は何度も傍でも聴かせていただいたこともありますし何度も聴いてる「岸壁の母」だったんですがそのときはやっぱり少し心が病んでいましたのでその「岸壁の母」が突き刺さってきて私がすがれるのはこの方しかいないって思ってお手紙を…。
テレビの画面を見て。
強い喉をつくりたい強い精神をつくりたい精神力を持ちたいっていうことを書いてお手紙を出したらお電話頂いて「すぐいらっしゃい」って。
言ってくださったんですよね。
で二葉さんにいらっしゃいって言われて何をなさったんですか?まず先生のとこへ行って「お休みをしてました」と。
で「もしかしたらこのまま引退ってことも考えたんですけど」っていうようなお話をしたら先生が「あなたも歌の壁にぶつかったのね」っておっしゃったの。
へえ〜。
で「あなたも」…「先生も?」って言ったら「ああ〜私なんてこの何十年の間に何回もぶつかってそれを乗り越えてきてるのよ。
いいのよ歌の壁に気がつくってことは成長なのよ」って。
すご〜い。
って言ってくださったことでスゥ〜っと。
(坂本)スゥ〜っとなんか…こんなすごい先生もそうやって乗り越えて今があるんだって。
それこそ戦前戦中戦後マイクのない時代から生で公会堂とか体育館とかそういうとこで生で歌ってらっしゃった方ですから。
拡声機が出来たときにはうれしかったって。
あははっ!ほう〜。
(坂本)そんなお話をもうほんとにいろんなお話を伺って。
歌のレッスンもあったんですか?その…歌は「私は浪曲のお稽古しかできませんよ」と。
なるほど。
「・何がなんして何してなんとやら〜」みたいなものを大きな声でですよ今の鼻歌ですけど。
大きな声でおなかから声出して。
でもそのこぶしを教えてもらいたいその強い声を教えてもらいたいと思って毎日通いました。
毎日通ったんですか?はい。
でも8か月私歌ってなかったんでまったく。
ひどい声でした。
へえ〜。
カスカス。
声帯ってそんなに8か月で弱っちゃうものなんですか?
(坂本)先生おっしゃってましたが何日も空けるともう駄目っておっしゃってますね。
でその引退を…引退することをやめたんですよね?やめました。
二葉先生に出会ったことで。
先生のとこにお稽古に行って声を出して出るようになってきて帰りの車の中で自分で「夜桜お七」のCDに合わせて「・さくら」っていうところをちょっと歌ってみたんですね初めて。
休業してから。
でなんとなく届いたような気がしたんで…。
なんか感動的ですね。
一人で帰りの道で運転しながら。
うん。
へえ〜。
でそのことをまあ自分の中で社長に言わなきゃと思って電話をして「会ってください」「うん分かった。
前向きな話か?」って言うから「はいそうです」って言って…。
はっきりした人ですね。
もう翌年に会ったときには全部レコード会社に連絡してました。
で「ほんとにやるのか?」って言うから「はい頑張ります。
お願いします」って言ったら「よし分かった!あとは任せろ」って言ってくださってもう4月には復帰し…。
ですからほんとにたった1年で。
へえ〜。
すみませんちょっと…。
ありがとうございます。
ふふっ。
ではもう一曲。
ええ〜今坂本さんを元気にしてくれる一曲はなんですか?やっぱりこう青春時代に演歌しか知らなかった私にサザンオールスターズを教えてくれた初恋の人を思い出すんですけど。
ちょっと待ってちょっと待ってそれはいつのことですか?
(坂本)中学ですね。
中学のとき?何君?ヤマモト君。
ヤマモト君?ヤマモト君が教えてくれたんですか。
教えてくれたのがサザンオールスターズでその中でも「栞のテーマ」。
「栞のテーマ」?青春の一曲ですね。
それはヤマモト君とどういう思い出があるんですか?初デートしたときの思い出とか。
あっデートっていっても川ですよ。
(一同)あははっ!ありがとうございました。
いろいろ思い出してるんじゃないですか?ほんとですね。
ふふっ…はい。
今はどうですか?あの…休養宣言をした前と比べると歌に対する思いは。
もっと歌が好きになりましたしもっと歌いたいですしお休みしたあとから10数年たちますけれども…。
もう10数年たったんですってね。
ほんとに戻ってこれてよかったなと思いますし歌に対して今は貪欲になってる自分がいると思います。
歌いたい歌がいっぱいあります。
えっ何を歌いたいんですか?例えばちあきなおみさんの世界も歌ってみたい。
中島みゆきさんの世界も歌ってみたい。
テレサ・テンさんの世界も歌ってみたい。
ザ・ピーナッツさんの世界も歌ってみたい。
あっいいっすね私も一緒に…。
違うか。
ほんとですか?うそ冗談です。
間違えました。
(松重)「はあ?」って言われて「ゾンビを1日やってたんですけど」「あっゾンビを…」って言われて。
2014/12/06(土) 07:30〜08:00
MBS毎日放送
サワコの朝[字]【坂本冬美▽無期限休養の真相】
ゲスト・坂本冬美/歌手▽ステージで歌うことか怖くなってしまった…壁乗り越え、あふれる歌への想いとは。阿川佐和子がゲストの意外な側面や表情を引き出します。
詳細情報
番組内容
今回のゲストは歌手の坂本冬美さん。19歳のとき「あばれ太鼓」でデビュー。演歌界を代表する女性歌手として活躍する一方、ジャンルを越えた歌にも挑戦。「また君に恋してる」は世代を超えたヒット曲となりました。番組ではデビューのきっかけや、30代で歌への自信を失い、休養期間に入った当時の心境を伺うほか、壁を乗り越えた今の想いをたっぷりとお聞きします。お楽しみに。
出演者
【司会】
阿川佐和子
【ゲスト】
坂本冬美
1967年生まれ。NHK『勝ち抜き歌謡天国』和歌山県大会で優勝。出演していた猪俣公章にスカウトされ上京。19歳でシングル「あばれ太鼓」でデビュー。日本レコード大賞新人賞を受賞。翌年にはNHK『紅白歌合戦』に初出場する。だが2002年、4月無期限の休養に…一年後の4月に復帰する。
現在、最新アルバム「Love Songs V 〜心もよう〜」が発売中。
制作
【製作】MBS TBS
【制作協力】TBSビジョン
ジャンル :
バラエティ – トークバラエティ
音楽 – 歌謡曲・演歌
福祉 – 文字(字幕)
映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
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