だんだん寒さが募ってまいりました。
本日は知恵の温泉に浸ってくつろいで下さいませ。
いや〜商店街の活性化任せて下さいなんて言わなきゃよかったね酒樽君。
どんなイベントが考えられるかなぁ。
カラオケ?福引き?
(眞鍋)どうも〜こんばんは。
どうもどうも眞鍋さん。
またいらっしゃって頂いて。
お湯上がりに来ちゃいました。
いいお湯でしたね。
(星野)楽しかったですね。
星野さんじゃないですか?どうもこんにちは。
2人で何か風呂桶持って…。
よかったですよ。
いいお湯でね。
ちょっとどうしたんですか?最近独り言多くないですか?ちょっとまた悩み事ありましてね。
商店街の活性化委員っていうのを引き受けちゃったんですよ。
なかなかね…元気のない商店街をどう他の商店街と差別化して盛り上げていくのかって。
これなかなか難しいですね。
でも何かすごい味があっていい商店街ですけどね。
あそこの銭湯とかもさ何か渋くていいんですよね。
そこからお客さんが流れてこないっていうねこの悩みもあるんですけれども。
どうやってね活性化するのか?星野さん活性化といえばね星野さんプロですよね。
こういうのはねやっぱりね人に聞いちゃ駄目なんですよ。
自分で考える。
これが一番大事ですね。
自分で考える…。
まあそう突き放さずにですよ今日はねいろいろお話をお伺いさせて頂きたいなと思ってますけれども。
お風呂で思い出したんですけれども今日は取って置きのまちおこしのネタを仕入れたんですよ。
そちらをね味わって頂きたいと思います。
愛媛県松山市。
市の中心部からおよそ3km離れた所に全国でも屈指の人気を誇る観光地があります。
120年前に建てられた道後温泉本館は今も現役。
貴重な木造建築として重要文化財に指定されています。
道後のお湯は日本三大古湯のひとつ。
その効能は神様も癒やしたという言い伝えがあるほどです。
海外のガイドブックでは絶対に訪れるべき場所と三ツ星認定を受けています。
そして本館の周りには商店が建ち並び国内外から年間70万人以上がやって来ます。
四国随一の温泉街が形づくられているのです。
ところが明治のはじめの道後はぱっとしない田舎の温泉地でした。
建物は老朽化し悪臭が漂う始末です。
この道後を観光地として一変させたのが初代町長の伊佐庭如矢です。
如矢は温泉を生かした大々的な「まちおこし」を計画したのです。
しかし巨額の資金や町民の反対など如矢の前に大きな壁が立ちはだかりました。
如矢はその難題をどのように克服していったのでしょうか。
「観光によるまちおこし」。
その近代日本初の成功モデルと言われる伊佐庭如矢の知恵に迫ります。
それを読み解くのは…経営難に陥った北海道のリゾートを再建。
また経営を引き継いだ各地の老舗旅館も黒字化させてきました。
その手法は…山梨の施設で掲げたコンセプトは…子供だけで遊べるイベントを用意しその間親たちは自由に時間を使えるようにしました。
来年にはインドネシア・バリ島でのリゾート運営にも挑戦。
日本の観光産業のトップランナーとして活躍する星野さん。
伊佐庭如矢のまちおこし術をどう読み解くのか?伊佐庭如矢ですけれども眞鍋さん愛媛県出身なんですよね。
ご存じでした?いやちょっと恥ずかしながら…。
そんな方がいらっしゃったんですね。
そうなんですよ。
知らなかったです。
道後温泉も1回だけしか本館には入った事ないですね。
ほんとですか?はい。
という事で今日はテーマをこちらとさせて頂きました。
「わが街の宝を掘り起こせ!」という事で足元にある宝をね眠っている宝を掘り起こしてそれをヒットにつなげようと。
まちおこしだけではなくて会社でヒットを生み出すためのヒントにもなるかもしれないですね。
宝っていっても最初はほんとに悪臭がすごくて荒廃してたんですよね。
だから宝っていう感じでもなかったわけですよね。
でもそれがいまだに120年続く温泉場として人気だという事で。
星野さんのご実家もかなり老舗ですよね。
私のとこは長野県なんですけどちょうど私の企業は100年今年で100年目なんですね。
一つ観光で言えるのはやはり長く続ける事は大事だという事ですね。
1つのコンセプトというか1つの売りでそれを長くうたっていくというんですかね?そうするとだんだんだんだんお客さんが増えてくるんですね。
逆にねブームになるのは危険です。
そうですか。
この店も一気にブームにならない方がいいですかね。
まさにそうです。
大ヒットのあとはもうこう急落がきますから。
そうですか。
少しずつお客様を増やしていく。
ここが大事だと思います。
増えていっていないような気もするんですけどもね。
いらっしゃいました!
(胡)こんばんは。
伊佐庭如矢の資料などを分析し如矢の行政手腕や人物像を検証しています。
今回伊佐庭如矢という人をテーマにしたんですけれどもどんな人物だって言えますか?「観光でまちおこし」というのを考えたっていう非常に…如矢は役場の仕事を毎日欠かさずに日記をつけてます。
今日ちょっとそれをお持ちしました。
実物ですか?そうなんです。
こんな感じでですね…。
どんな事が?こちらには「伊佐庭如矢」っていう自分の名前が書いてますので全て直筆なんですが一日も欠かさずにですねこんな感じで書いておりまして。
字がうまい。
最後は12月の記述になりますけれども31日まで仕事をして31日にやっと役場を閉めたという事がこちらには書いてあります。
さあ伊佐庭如矢ですけれどもどうやって道後温泉を一大観光地に導いていったのか?その知恵をまず味わって頂きたいと思います。
これはね〜よいしょ!愛媛もお酒おいしいですからね。
コンセプトがはっきりした味わいが魅力です。
明治の中頃まで道後は松山藩や県の管理の下に置かれ人々は農業と温泉客相手の商売で暮らしていました。
そうした中明治22年町村制が施行。
一帯は道後湯之町となり自立する事になります。
目立った産業もなく狭い農地では自分たちが食べる分を栽培するのがやっと。
江戸時代からある温泉場はすこぶる朽廃。
悪臭が漂うありさま。
更に牛馬が使う温泉が隣にあり衛生的にもよくありませんでした。
やって来る客は遍路やお金をあまり持っていない湯治客ばかり。
裕福な客は再度訪れるのが稀というほどの状況でした。
町の有力者たちはどうすれば道後湯之町がやっていけるのか頭を抱えてしまいます。
悩んだ末町の将来を託すにふさわしい人物と見込んだのが伊佐庭如矢です。
人々は如矢の経歴に可能性を見いだしたのです。
如矢はかつて愛媛県の役人として大きな功績を残していました。
明治の初期松山城は建築資材として取り壊される危機にさらされていました。
そこで如矢は城郭ごと公園として保存するという案を提案します。
松山城は人々が心を寄せるシンボルであり憩いの場であるとして如矢は国を説得したのです。
この機転の利いた提案と行動力が松山城を取り壊しの危機から救いました。
町の有力者たちから頼み込まれた道後出身の如矢は地元のためにと町長就任を承諾します。
この時既に63歳。
如矢は町長に就任するとこの町を自立させるための方法について思案します。
そして目をつけたのが老朽化しリピーターのなかった温泉場でした。
これを町の資源の一つとして有効に活用しようと考えたのです。
しかし広く周りを見渡すと…。
道後よりもはるかに湯量が豊富で温泉街に活気がある場所はたくさんありました。
一体どうすれば道後の温泉場に人を呼び込む事ができるのか。
如矢は道後にしかない売りは何か考えます。
そこで思い出したのが…道後を訪れた神様が重病を患った時湯につかるとたちまち元気になって踊りだしたというものです。
その湯は濁りがなく澄んでいて清潔感があります。
この神話をもとに売り込めば他の温泉と差別化ができる。
如矢はこの道後を神の湯として売り出す事に決めました。
早速如矢は持ち前の行動力を発揮し視察の旅に出ます。
神の湯にふさわしい日本中どこにもない建物を造ろうと考えたのです。
関東などを巡る中目に飛び込んできたのは西洋の影響を受けた建物でした。
新しい時代が到来する中でコンセプトである「神の湯」をどう表現すればよいのか。
愛媛に戻った如矢が建設の責任者に指名したのは城大工の坂本又八郎でした。
松山藩お抱えだった城大工の10代目です。
如矢は又八郎に洋風の要素を取り入れて今までにない温泉場の建物を造ってほしいと依頼します。
又八郎が描き上げた図面が残されてます。
1階から3階まで同じ幅で建てられ洋風を思わせる姿。
屋根の上には外を眺める事のできる塔屋を設けました。
塔屋にはギヤマンと呼ばれる舶来品のガラス板をはめ込む設計です。
一方玄関の軒先には城や神社などによく見られる唐破風の様式を取り入れています。
如矢は和風と洋風とを掛け合わせ神の湯にふさわしい建物で勝負を懸けたのです。
いや〜戦略的につくり上げられたものだったんですね。
神の湯っていうのはすごく地元でも有名ですけどほんとに昔からず〜っと続いているものなのかと思ったら。
実はそこが始まりだったという事なんですね。
うまいですね。
うまいですよね。
神様が喜んで踊った石というのも今も残ってるんですね。
それを「玉の石」というんですけど玄関の所に据えてまさに神の湯というシンボル。
建物と一緒に温泉をもう一遍よみがえらせようとした。
そんな気がします。
こういうストーリーがあるんだったら使わない手はないって思ったのかもしれないですね。
観光においてやはり…そこを残そうと思って…それが道後温泉の場合は神の湯でありどこにもないあの建物?建物はねどこにもないっていうよりも神の湯であるというねその姿をね示しているからよかったと思うんですね。
どこにでもないからよかったというよりも…ちょっとねコンセプトっていうのは一体何かという事なんですけどそのコンセプトっていうのは極端な言い方すると何でもいいと思ってるんですね。
何でもいい?何でもいいんです。
地域の自慢できるものであれば何でもかまわないとさえ思ってるんです。
みんながですね…食にしてもお土産にしてもそれから看板にしても景観にしても建物にしても。
決める事が大事だ。
それが差別化につながるんですか?コンセプトを決めるという事はターゲットを明確にするという事だし…それが周辺に波及するという事を私は感じてるしそれはすごく大事だと思いますね。
でもですねコンセプトをどう生み出すのか。
誰にでもできる事なんですか?この居酒屋も悩んでいたりとか商店街でねイベントを考えなきゃいけないって。
ただねこの居酒屋にもお客さん少ないとはいえね来てる人はいるわけでしょうちょっとは。
いますよ。
でねちょっと来てる人はねなぜ来てるんだろうという事を研究するのは僕大事だと思うんですよね。
大体ね観光地も経営者もお客さん減ると減った人は誰なんだって考えるんですね。
減った人をもう一度来てもらおうという努力を一生懸命し始めるんですけど。
私の経験はねもうね去った人を追いかけてもあんまりいい事ないです。
きっとこの居酒屋にもね何かいい事あるんですね。
井上さん気付いていないいい事があるんですよ。
気付いていないかもしれないいいところを探して…。
自分の強みですね。
眞鍋さんもこの居酒屋3回目ぐらいですけれども…聞いちゃいますか?はい聞きますよ。
それはやっぱり…顧客調査だったんですけれどもね。
なかなか明確なコンセプトが得られずに。
次のテーマにまいりましょうか。
如矢の温泉場の改築案は大きな難題に直面します。
大きく手の込んだ建物を建てるために10万円以上もの予算が必要でした。
人口1,300ほどの町の財政が傾きかねないと町民の不満は高まります。
ついに事態は町を揺るがす反対運動に発展します。
「道後湯之町人民激昂事件」。
如矢の計画に反対する町民たちが結集。
集会に集まったのは200人に及びました。
中には腕力に訴えようとする者さえいました。
反対派は如矢や町会議員の家に押し寄せ改築は不当だと訴えます。
如矢に町長を辞職するよう迫るなど反対運動は激しさを増していきました。
しかし如矢は計画を諦めず手を打っていきます。
如矢はまず自ら覚悟を示す事を心掛けていきました。
如矢の直筆の日誌です。
まちおこしに取り組む当時の様子が記されています。
町長に就任した1年後の…。
如矢は湯の湧き出し口に使う湯釜の製作の打ち合わせに自ら出張した事が分かります。
更に温泉場に適した木材や資材を求め各地を回りました。
給与を返上し無給にしたとも言われています。
如矢は自らが率先して改築への意気込みを示していったのです。
また如矢は町民が計画に参加しやすいよう情報をオープンにする事を心掛けました。
「改築の際にまず図面を以て会議に先駆け世論に問う」。
建築案を開示して町民の意見に耳を傾け計画を進めました。
如矢は来る日も来る日も休まず働き続けました。
無理がたたり体を壊す事もありました。
そんな時によぎった複雑な思いを漢詩に残しています。
「人生六十を過ぎていつまでも心身強くある事は難しい時に晩鶯の鳴く声を聴くどうして年を重ねるのだろう」。
しかし如矢は町民の前ではそんなそぶりを見せる事もなく振る舞い続けました。
反対派の町民との対話を続けていった如矢。
その結果人々は少しずつ話に耳を傾け始めるようになりました。
明治26年の日誌には改築を推進していく委員会のメンバーとしてある人物の名前が載っています。
蜂須賀兵蔵です。
実は反対派のリーダー格だった人物です。
如矢の覚悟ある意志や粘り強い説得に蜂須賀は賛同の意を示したのです。
改築の構想を打ち出してから2年余り。
町民の中からは改築のための資金を提供すると申し出る人が次々と出てきました。
中には借金をしてまで町に資金を提供する者も現れました。
こうして町民の協力によって町の財政だけでは賄う事のできなかった資金のめどが立ちました。
ついに如矢は着工までこぎ着けたのです。
明治27年4月10日およそ1年半をかけて建設した道後温泉本館は完成します。
高さ12m垂直にそびえ立つ3階建ての堂々とした建物が町の中に現れました。
建物全体には湯が湧き立つ様子や神様から賜った湯を表したとされる湯玉が彫られています。
浴室は1階に3つ。
女性用の湯中等客用の湯そして上等客用の湯が設けられました。
如矢によって新しく作られた湯の注ぎ口湯釜です。
神話に登場した神様の像を彫り神の湯である事を強調しました。
長年本館の保存に携わってきた…本館の魅力が一層引き立つのは日が暮れてからだと言います。
光が渦巻きの間から見えてまた障子からも光が見えてとってもきれいですよね。
これ幻想的で感動的な風景だと思うんですけれどもそういう内面から出る美しさがあふれ出してるような気がして私は好きですね。
本館が放つ美しさは120年前に道後の人々が一つになった事の象徴でもあるのです。
一番すごいなと思ったのがその図面を議会より先に住民に見せる。
そういうのってなかなかできないじゃないですか。
議会だけで物事が進んでいって住民の目に届かないというのがやっぱり今もね結構当たり前になっちゃってますけど。
まずはほんとに暮らしてる人たちを巻き込んでその人たちの理解を得るんだという姿勢ですよね。
やっぱりいかに対話をしていくかという事が大事なのと意外にね計画そのものよりもどういう人がこれをやろうとしてるのか。
この計画を推進してる人たちのほんとの意図をね信頼してもらえたという事の方が私は大きかったんじゃないかなというふうに自分の経験から思いますけどね。
どんな経験が?私竹富島っていう所で今リゾートを経営してますけどもここもね造る時にはねいろんな意見がありました。
賛成反対ね。
まあ2年ぐらいかかりましたけども地元の人たちには理解して頂けた。
本音を話し続けて本気でこの人本音で話してるんだという事を理解してもらうとやはり人間としての信頼関係が育っていくと感じてます。
それがねこういう…如矢の人柄を表す品があるんですけどそれは書なんですね。
はいこちら。
先生これは何と読みますでしょうか。
「清浄基と為す」。
「基本となす」という事ですね。
自分の身の置き方あるいは町長としての身の処し方を表してると思います。
「清浄基と為す」という事ですね。
現代風に言うと…自分の親戚に宛てたものなのでそういうふうになりなさいという教えが含まれてるんだと思います。
例えば無給だとかねそれから清廉潔白だとかという事をしてまで町のために尽くせる。
それはね郷土愛だと思うんですよね。
地元の町長さんや村長さんとおつきあいする事があるんですけど皆さん共通してらっしゃるのは郷土愛なんですね。
地域が好きでありこの場所のたくさんの要素をすごく大事にしている。
それがやはりいろんな行動を起こす勇気にもつながるしそしてそれをやり遂げるためには自分は周りに信頼されなくてはいけないというねこういう自覚を持っている町長さんすごく多い。
そういう気持ちだったんじゃないかなというふうに思いますね。
やはり自分のためでもないし人々のためそれから町のためっていうのが一番大きいと思うんですが日清戦争に旅立っていく町の兵士たち全て見送りしてます。
また元気に帰ってくるあるいは亡くなって帰ってくる方を全て迎えてるんですね。
そういう…本館を造り上げたといってもそれはあくまでも1つの点。
如矢は次に人の流れを生み出す事を考えます。
当時愛媛の玄関口三津浜などの港は汽船で関西や九州と結ばれ全国から人がやって来ました。
松山市内には港から多くの人々が集まりにぎわいを見せます。
港から松山の中心部までは7kmほどの距離。
道後は更に3kmほど奥に位置しています。
しかも道後までの交通の便はよくありませんでした。
道は幅が狭く曲がりくねっており暗くなれば事故もありました。
人々は気軽に足を運べなかったのです。
人を呼び込むために如矢は港から松山中心部を結んでいた鉄道に注目します。
その鉄道を道後まで拡張しようと考えました。
なんと如矢は自ら発起人となって鉄道会社を設立国に掛け合います。
国との交渉に2年工事に1年合わせて3年がかりで総距離およそ12kmの路線を造り上げたのです。
明治28年鉄道は開通。
これによって人々はいつでも道後に行けるようになりました。
更にさまざまな目的を持った人々を呼び込むため温泉以外の仕掛けを造ろうとします。
そこで如矢が目をつけたのが道後温泉本館の南側にある荒れ地でした。
お竹藪と呼ばれ放置されたままになっていた場所です。
如矢はここを公園として大々的に整備しようと考えます。
愛媛県から許可が下りると花々を植え広場には遊歩道や庭園を造りました。
高台には道後や松山を見渡せる展望台を設けました。
遊歩道沿いには連なるように休憩所も造られます。
温泉客だけでなく行楽客を呼び込む仕掛けです。
更に如矢は知識人向けに公園の中に能舞台などの文化施設を設置しました。
宴会場も設け松山にやって来た実業家や政治家などが足を向けられるようにしました。
本館を造るだけでなく鉄道や公園整備によって人の流れを生み出すというねらいは功を奏します。
観光の案内本が出版され道後温泉の評判は全国にまで知られるようになります。
明治35年如矢が町長を勇退する頃には県内外から多くの観光客が訪れ温泉場から得られる収入は10倍近く増えました。
如矢は地味な湯治場だった道後を思い切った発想と実行力で町に活気をもたらし全国にも名高い観光地へと変えていったのです。
温泉という点だけではなくて面で広がって楽しめるように整備した。
どうでしょうこの面という知恵星野さんはどういうふうにご覧になりましたか。
この時代に一つの温泉を体を洗う場所からリラックスできる温泉場に変えた。
そして市内全体を面として考えて観光整備した。
すごく大きな当時としては考えられない発想だと思うんです。
今日本は観光立国を目指してるわけです。
この如矢がやった時代を今に当てはめてみると私たちの面っていうのは市内とか県内じゃなくて地域全体なんですね。
例えば四国全体をどう観光しようかまた瀬戸内海全体をどう観光しようか東北全体を観光しようかという時に東北の中の一つ一つの県の境ってあんまり関係ない。
だけどね今私たちがやってる観光っていうのはね県ごとの単位になっていたりね市町村ごとのプロモーションになってたりねバラバラに活動してたりするわけですよ。
外国からいらっしゃる方々にこういう地域ごとのまあ広域の観光ですよね。
広域が集まってで協力し合って提案する。
そういう事がこれからのほんとの意味での面だと私は思ってます。
香川にうどん食べに来た人がそのまま道後までねず〜っと来てくれるといいですよね。
で高知徳島があって…。
それでね今日実は胡先生からお土産を頂戴してるんですよ。
はいこちらでございます。
あっ坊っちゃん団子。
おっさすがですねえ。
これですよ。
本館の休憩のとこで私食べました。
懐かしいでしょうねえ。
懐かしいですね〜。
う〜ん。
変わってますか?何かおいしくなってる気がする。
(笑い声)胡先生によりますとこのお土産も実は進化が見えるっておっしゃいますよね。
そうなんですね。
江戸時代の温泉に来た方のお土産っていうのはお灸のもぐさだったんですね。
みんなもぐさを買って帰る。
やはりその時代の温泉っていうのは観光っていうよりも体を癒やしに来る。
でそこでお灸を据えてもらう。
そのお灸が非常に効くので家に帰ってもそのお灸と同じものを味わえるようにもぐさを買って帰って家でもお灸を据えると。
より実用的なものだったわけですよね。
ところがそうやって如矢が本館を造った事でお客さんがたくさん来るようになる。
そうすると町が発展します。
お土産の種類もどんどん…増えていきます。
やっぱりねこういう観光地は長い期間をかけてファンを作っていくんですね。
子供の頃の思い出っていうのも観光資源の一つなんですよ。
思い出をもう一度体験しに来る。
昔の懐かしさを感じてもらえる。
だから変えなきゃいけない事もたくさんありますが変えてはいけないものもたくさんある。
その選別が観光っていうのは非常に難しいと思ってますね。
如矢さんはその辺のさじ加減ってものすごく抜群にうまいですよね。
やはり進化すべきところと守るべきところを種別していくっていう事がすごく難しいしそれが観光の戦略においては大事だというふうに思ってます。
さあ今日は伊佐庭如矢見てまいりましたけれども眞鍋さんはどんな事が一番印象に残ってらっしゃいますか?やっぱり一番に思うのは…ちょっと考えられないですね。
最後に星野さん流の自分の宝物を最大限に生かし輝かすこの知恵を伺ってもよろしいでしょうか。
やっぱり強みだと思うんですよね。
自分の強み。
この自分のいる組織の強み。
そして会社の強みって何なんだろうかって事をもう一度理解するっていうのは私はすごく大事だと思いますね。
よくやりたい事をやりたいと言う若い人たちも多いしどうしても私たちキャリアの中で自分がやりたい事を目指していくんですけども自分の役割って何なのか自分に対して他の人が期待してる事は何なのか。
話はまだまだ尽きませんが道後から便りが届いています。
締めの一品です。
10月24日道後温泉本館で6代目桂文枝さんの創作落語のお披露目がありました。
(拍手)私もいろんな所で落語会をやらせて頂きますがこんな目の前に柱がある所は…。
(笑い)文枝さんはこれまでも地方の魅力を題材に多くの創作落語を発表しその土地を応援してきました。
「伊佐庭如矢っていう町長さんが。
立派な町長さんだねえ」。
「誰ですって?」。
「伊佐庭如矢という」。
「うどんみたいな名前ですね」。
「それは稲庭」。
「伊佐庭如矢っていう町長さんが『道後温泉は神代からの名湯じゃけん』と言うたらしいね」。
「ほ〜名湯じゃけん」。
「名湯じゃけん。
もうちょっとのもんではよそにすぐまねされてそれ以上のものが出来る。
100年後にもどこにもまねできんようなものを造らんといけんぞなもし」。
文枝さんは如矢のリーダーシップに強く惹かれたと言います。
(文枝)やってやろうという責任感の強さね。
それがやっぱりトップリーダーとしての条件だと思いますね。
丸く丸く治めてるようではこの町はここまで発展しなかったと思いますし三層楼のあの本館は出来てなかったと思いますね。
道後温泉へいらっしゃ〜い。
2014/11/18(火) 23:00〜23:45
NHKEテレ1大阪
先人たちの底力 知恵泉(ちえいず)▽観光立国ニッポンまちおこし術 伊佐庭如矢[解][字]
今や全国的に有名な愛媛の道後温泉も、明治初期まではあまりぱっとしない湯治場だった。先進的な施策によって一大観光地を作り上げた傑物町長、伊佐庭如矢の知恵を探る。
詳細情報
番組内容
今や西日本を代表する観光地として名高い愛媛の道後温泉。しかし、明治初期まではあまりぱっとしない、ひなびた湯治場だった。町が経済的な自立を迫られたとき、この温泉を最大限に活用しようと考えたのが、町長の伊佐庭如矢だ。一大観光地を作るべく、当時としては先進的な施策を次々と打ち出していった如矢だが、住民からの猛反対にあう。そのとき如矢のとった策とは? 現代に通じるまちおこしの知恵を120年前の町長に学ぶ。
出演者
【出演】星野リゾート社長エコツアー研究家…星野佳路,眞鍋かをり,香川県教育委員会学芸員…胡光,【司会】井上二郎
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
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