情報ライブ ミヤネ屋 2014.11.18


こんにちは。
11月18日火曜日、情報ライブミヤネ屋です。
先ほど、大きな衝撃が走りました。
訃報が入ってきました。
網走番外地シリーズ、幸福の黄色いハンカチ、鉄道員などなど、日本映画史に残る数々の名作に出演され、まさに日本を代表する名優の一人、高倉健さんが、今月10日に亡くなっていたことが分かりました。
83歳でした。
きょう、高倉健さんの所属事務所から、マスコミ各社にファックスが入ってまいりました。
映画俳優、高倉健は次回作準備中、体調不良により入院、治療を続けておりましたが、容体急変にて、11月10日午前3時49分、都内の病院にて旅立ちました。
生ききった安らかな笑顔でございました。
病名、悪性リンパ腫。
往く道は精進にして、忍びて終わり悔いなし。
83歳の命を全ういたしました。
治療に携わってくださいました病院スタッフの皆様から、温かい涙とともにお見送りをいただき、故人の遺志に従い、すでに近親者にて密葬を執り行いました。
これまでお励ましいただきました皆様、心より深く感謝申し上げます。
ありがとうございました。
今はお一人お一人の心の中に宿る故人の笑顔に、静かに祈りをささげていただけますことを願っております。
なお、勝手ではございますが、供花、供物などご遠慮させていただきますこと、あわせてご了承くださいますようお願い申し上げます。
合掌とつづられています。
高木さん、昼前に突然入ってきた、訃報なんですけども、ちょっと現実として受け止められないですよね。
そうですよね、だって入院なさってたってことも、そんなに悪いご病気だったということも全然皆さん、知らなかったし、この前、本当に2年前ですか、もう、映画のときなんかも、別にお元気でしたからね、ですから、えーっていう感じですよね。
本当に。
だから。
それから、今もCMにも出演をされてますから、スポニチの阿部さんです、よろしくお願いいたします。
阿部さんも高倉健さん、体調崩してらっしゃったっていうのは、知らなかった?
実は先週、その話がいくつかマスコミに流れたんです。
流れたんですけれども、恐らく本名だったのか、名前違ったのか分かりませんけども、都内のある病院なんですけれども、そこで実際、裏付けとしては取れなかったというような形ですね。
ということは、高倉健さん、ちょっと体調崩してらっしゃるよというような、…。
入院されてるという話が。
入院されてるというお話は流れていた。
患者さんの人で、見た人もいて、なんか、お一人でなんか、いられたというような話だったんですけれども、実際問題、それがそこの病院では確認できなかったというような感じだったんですけどね。
そしてこれは、号外ですね。
朝日新聞からこのように、つい先ほど、号外が発表されました。
高倉健さん死去。
83歳、悪性リンパ腫でということで、これはね、文化勲章の親授式後の、高倉健さんですが。
このときも大変、凛として、お元気でしたよね。
さて、それではまずその高倉健さん、人生の歩み、振り返りたいと思います。
衝撃の訃報が飛び込んできました。
映画俳優の高倉健さんが、今月10日、都内の病院で亡くなっていたことが分かりました。
83歳でした。
突然の訃報を受けて、事務所前には多くの報道陣が集まっています。
日本を代表する映画スターが、この世を去りました。
高倉健さん83歳。
それは突然の訃報でした。
映画俳優、高倉健は、次回作準備中、体調不良により入院、治療を続けておりましたが、容体急変にて、11月10日午前3時49分、都内の病院にて旅立ちました。
生ききった安らかな笑顔でございました。
体調を崩し、入院していた健さんは今月10日、容体が急変。
そのまま帰らぬ人となりました。
病名は悪性リンパ腫。
血液のがんでした。
きょう、事務所から届いたファックスには、健さんの座右の銘に触れ、こう記されていました。
往く道は精進にして忍びて終わり悔いなし。
83歳の命を全ういたしました。
今は、お一人お一人の心の中に宿る故人の笑顔に、静かに祈りをささげていただけますことを、願っております。
突然の悲報に、街の人は。
俳優の高倉健さんがお亡くなりになったんですが。
えっ?そうですか。
いい俳優だったですよね。
どういうところが?
やっぱり男らしいじゃないですか。
好きでしたね、高倉健っていうのは。
残念ですね。
鉄道員とか、古いけど網走番外地とか、あのへんは年代的に見に行った。
どっしり感があって、まあなんかね、大スターでしたよね。
演技もすごい上手じゃないですか。
自然体だし。
かっこいいですよ、とにかくね。
残念ですね、83歳、まだまだ元気で、吉永小百合さんなんかとね、共演できるかと思ってたのにね。
印象が非常に深いんでね。
どういうイメージでした?
やっぱり、大俳優っていうかね。
惜しい方ね、亡くしたと思いますね。
日本の損失ですよね。
高倉健に憧れて、ずっと生きてきたもんですから。
いやー、今、どきっとして。
涙が出ちゃう。
もうことばが出ない。
そう。
びっくりしました。
高倉健さんの地元、福岡でも、街の人からは惜しむ声が。
高倉健さんが亡くなった。
あら?そうですか。
あらー、そうですか?偉大なスターが亡くなったという感じですね。
やっぱかっこよかったですね。
ずっと青春スターというか、そんなのが、年を取られてからも衰えないっていうんですかね、そういうオーラがあったと思います。
本当ですか?わー、嫌。
昭和のスターが、どんどんどんどん亡くなっていきよるのはね、本当、寂しいですね。
これ、事務所からのファックスで、この往く道は精進にして忍びて終わり悔いなしというのは、これは岸さん、座右の銘ということなんですが、いかにも高倉健さんらしいなと思いますね。
本当、高倉健さんって、日本男児の代表みたいなイメージ、ずっとあったんですけど、まさにそのとおりの座右の銘だなと改めて思いますね。
さて、高倉健さんの事務所まえに中山さんです。
中山さん。
こちら、東京・赤坂にあります、高倉健さんの事務所前になります。
訃報を受けまして、30人ほどの報道陣が周辺、集まっております。
事務所のほうからは、各社に向けてファックスが送られたわけですけれども、このあと何かまた対応してもらえるんではないかということで、報道陣、待ってるわけですけれども、こうしてこの場所にいても、本当に亡くなったんですか?と、道行く方に声をかけられる、そんな状況。
本当に信じられないっていう思いを皆さん、抱いていらっしゃいますね。
そしてすぐ近くのお店の方に伺いましたら、3か月ほど前に、事務所に来るところを見かけたというお話でした。
そのときはまあ、端から見た感じでは、普通に見えたというふうにおっしゃってましたね。
とにかくまだ信じられないという思いが、この辺りにも、充満してますね。
昼前にこの一報が入ってきましたので、まだご存じないっていう方も、たくさんいらっしゃるんじゃないですかね。
そうですね、本当にそうで、なんでここにいるのか?というふうに聞かれまして、高倉健さんが亡くなられて、事務所がこちらにという話をすると、えー?そうなの?というふうに驚かれる方もいらっしゃいます。
事務所はこちらの4階にあるんですけれども、まだこのあと、もしかする入院していた経緯、そういった部分のお話が出てくるかもしれないということで、報道陣、その事務所の前で待機しているという状況ですね。
分かりました。
またお願いします。
故人の遺志に従って、すでに近親者にて密葬を執り行ったということで、実は11月10日に亡くなっていらっしゃった。
このあたりもひょっとすると春川さん、健さんのご遺志みたいなものもあったんでしょうね。
まあ、そうでしょうね。
やっぱり年齢を考えれば、自分の人生のしまい方っていうのをふだんから考えてらっしゃったのかもしれませんし、やっぱり周りにあんまり迷惑をかけたくないというか、高倉健さんらしいなという感じですね。
ガッツ石松さんと電話、つながっています。
ガッツさん、よろしくお願いいたします。
お願いします。
ガッツさん?
こんにちは。
ガッツさんといいますと、ブラック・レインで高倉健さんと共演されていらっしゃいますが、訃報を知ったのは、ガッツさんはいつですか?
そうですね、お昼ごろ、テレビのニュースで知りました。
ブラック・レイン以降、高倉健さんとのご交流というのは?
ええ、何度か電話でお話したり、私のおやじさんがですね、今から23年前に亡くなったんですよ。
私が忘れてたんですけれども、健さんから二十三回忌ということで、お供え物が届きましてね。
それでお礼の電話をしたんですけど、そういう人ですね。
もちろん、撮影現場も含めて、ふだんの高倉健さんというのは、どういう方でした?
結構、いろんな冗談言いますね。
結構おしゃべりな方だっていうふうにお聞きしますね。
そうです、はい。
その中で、ガッツさんもブラック・レインなどで共演されたときは、大変緊張されたと思うんですけども、そんな中で、高倉健さんにかけられたことばとかエピソードで一番思い出されることはどういうことですか?
私なんかが撮影してると、カメラの前で、監督がリドリー・スコットなんですけれど、その隣で見てまして、一生懸命手をたたいてくれてですね、自信をつけさせてくれましたね。
聞きますと、健さんっていうのは自分が撮影ではないときでも、常に現場にいらっしゃるっていうふうにお聞きしますよね。
そうですね。
ああですね、こうですねって、冗談言うんですね。
撮影が終わられても、ごはん行かれたりとか、大好きなコーヒーを飲みながら、お話もされたんですか?
そうですね。
コーヒー、飲みますかって。
いつも持ってましたね。
ちょっとミルクをたくさん入れて、ちょっと甘めのホットコーヒーでした。
その中では、じょう舌で大変楽しいお話もたくさんされるって聞きますが。
はい?
大変じょう舌で、おしゃべりで、楽しいお話をいっぱいされる方って聞きますが。
そうですね。
ですから、相手からいろんなものを聞き出すのがうまかったですね。
ですから、われわれがスクリーンで見る健さんとは、ちょっと、ふだんの健さんっていうのはイメージが違うんですね。
あれは役ですからね。
ガッツさんは体調崩してらっしゃったっていうのはご存じだったんですか?
いや、暖かい所へときどき、行ってるということは聞いてたんですけど、そういうことを、おくびにも出さない人ですよね、この人はね。
いわゆるプライベートのところっていうのはね、皆さん、あまりご存じないっていいますよね。
そう、知らないね。
ですから私は、健さんから頂いた写真とですね、事務所と、私のいつもいる居間、居間に飾ってあります。
ガッツさんは、本当にちっちゃいころから高倉健さんに憧れて、ボクシングで有名になって、いつか会いたいって夢がおありになったって聞いてるんですが。
そうです。
それが夢でありました。
そして、チャンピオンになって、そのあと一緒に映画に、神戸国際ギャング団って映画に出させていただいてですね、私の長男が生まれたときに、高倉健さんの健に菅原文太さんの太で、健太とつけました。
ガッツさんに取りましては、高倉健さんっていうのは、どういう方でした?
もう、雲の上の存在ですよね。
まだなんか、お亡くなりになったっていう実感が、われわれも湧かないんですが。
そう、そういうふうに、こうやって写真見てても見えませんよね、いつも若々しくて。
ねえ。
それで、日本人に限らずですね、世界各国の方々から愛された小田剛一さんですよね。
本名は小田剛一さんですから。
でもあれですか、やっぱりスクリーンで見る高倉健さんっていうのは、日本人の憧れの男の姿なんですが。
やっぱり。
かっこいい。
かっこいい。
ふだんもかっこいい?やっぱり。
かっこいいしね、初めてお会いしたときなんかね、ちょうちょが、パピヨンが飛びましたよ。
ちょうちょうが飛んだ、周りにちょうちょうが飛んだように見えた?
すごく、何がなんだか分からなかった。
後光がさして見えましてね、健さんの右側に、あごのところに、唇のとこに傷があるんですよ。
これはね、私なんかと一緒に撮影してるときに、向かって右ですかね、傷があるんですけど、健さん。
これは撮影でけがした。
こっちじゃなく、その反対のほうですね。
ガッツさんが今、健さんにお声をかけるとするならば、なんというお声をかけられますか?
ご苦労さまでした。
ご苦労さまでした?
はい。
ゆっくり休んでくださいということです。
ありがとうございました、お忙しいところ、ガッツ石松さんでした。
さて、それからお悔やみのコメントが届いておりますが。
まずは加藤登紀子さんから届いております。
60年代に青春を生きた私たち世代にとって、高倉健さんの生き様はバイブルでした。
それはたった一人でも大きな力に立ち向かっていける人であること、必死で生きるすべての人に心を寄せる熱い人間であること、そして、自分自身に厳しく、迷いながら生きるさすらいの心を持ち続けること。
亡くなったことを知り、さみしさでいっぱいです。
居酒屋ちょうじで妻の役をやらせていただいた思い出、私が作詞・作曲した時代遅れの酒場をラストテーマとして歌ってくださったこと、何より大切にしています。
心からご冥福をお祈りいたします。
加藤登紀子さんです。
そして、鉄道員などで監督をされました、降旗康男監督からコメントを頂きました。
残念の一語に尽きると、こちらのひと言です。
どうやら阿部さん、本当に周りの方にも体調が悪い、それから、やはり入院されているということは、健さんは公表されなかったみたいですね。
そうですね、東映に対しても、本当に会長だけという感じで、あとはもう、一切明かさなかったというふうに聞いてますし。
やはりずっとほとんど、ご自身のプライベートに関しては、公にしないで、ずっと役柄のイメージを守り抜いた方なので、それを最後まで貫かれたのかなという印象ですね。
ですから、やっぱり高木さん、ある意味、最後の銀幕のスターっていうか、プライベートは本当に分からなかった。
お出しにならなかった。
だからもう、スクリーン上だけの健さんを見てほしいって、もう、プライベートがどうって、そういうことはもう探らないでほしいということなんでしょうね。
あなたへなどは、ドキュメンタリー番組などもありまして、そのときに健さんが長年、通ってらっしゃる散髪屋さんだとか、撮影の合間のちょっとした健さんの地元の子どもたちとのやり取り、そういうのはわれわれ、見せていただいたんですが、本当にプライベートはどういうふうに過ごされているのかっていうのは、分からなかったし、それもやっぱり恐らくマスコミの方も、それはやっぱり、伝えないでおこうというのは、あったんでしょうね。
あとは、うちでずっと番記者だった先輩の記者がいるんですけど、やっぱりその記者なんかも、一度会うと、もうほれ込んで、ずっと、番記者であることが誇りのような、そんなような感じでしたもんね。
やっぱり、高倉健さんの担当の記者でいるということが、一つ、大きな喜びであり、ある意味、プライドであったという。
そういうことですね。
1度会ったら好きになってしまう、もちろんそのスクリーンの中の健さんもそうなんですけれども、プライベートではそういう方だったんでしょうね。
さて、高倉健さんのこれまでの歩み、もちろん皆さんご存じだと思いますが、一緒に振り返っていきたいと思います。
ほろまい、ほろまい。
はい、ご苦労さん。
大変だったね。
戦後の日本映画を彩り、数々の名演技で感動を与え続けた銀幕の大スター、高倉健さん。
また一人、日本の至宝が星に。
後部、よし。
1931年、福岡県に生まれ、大学進学のために上京。
1955年、東映のニューフェイスの第2期生として入社しました。
当時、演技経験など皆無で、無名の新人であった健さんは、絶対に俳優に向かないと言われるほど、落ちこぼれだったといいます。
しかし、入社1年後、映画、電光空手打ちで主演デビュー。
そして、映画スターとして地位を確立したのは、1960年代に入って出演するようになった、任きょう映画でした。
特にシリーズ化された網走番外地、日本任侠伝、昭和残侠伝は大ヒット多くを語らず、いざというときに体を張り、義理や人情を大事にするその姿に、映画ファンは、男っぽさの真髄と熱狂。
健さんと、親しみを込めた愛称で呼ぶようになりました。
これまでテレビ、ドラマなどにはほとんど出演をせず、みずからを映画俳優と呼ぶほど、人生を映画に注いできた健さん。
1989年に公開された、マフィアを題材にしたアクション映画、ブラック・レイン。
故・松田優作さんや、ハリウッドスターのマイケル・ダグラスさんなど、豪華キャストが集結し、話題に。
健さんは、横領した刑事を監視するという実直な警部補を演じ、その絶妙な演技は、世界中から称賛されました。
松本警部補、逃走犯、さとうこうじの逮捕を警視に報告します。
ご苦労。
警部補から詳しく事情聴取をする。
私生活では、俳優デビューから3年後の1959年、3人娘の1人、歌手の江利チエミさんと結婚。
しかし、幸せは長くは続かず、1970年に東京の自宅が全焼、波乱含みの夫婦生活でした。
そして、結婚から12年後の1971年、ついには、江利チエミさんと離婚に至ったのです。
それから11年後の1982年、江利チエミさんは、45歳の若さで亡くなりました。
しかし健さんは、別れてもなお、江利さんの墓参りを欠かすことはなかったといいます。
義理人情が厚かった健さん。
映画の撮影後、信頼を置いた共演者には、戦友と彫った腕時計をプレゼントしていたのです。
これまでに松田優作さん、田中邦衛さん石倉三郎さんなどに贈ったといいます。
さらに、俳優の小林稔侍さんに至っては、新人のころ、引っ越し祝いとして、車いっぱいの家財道具が、健さんから贈られたといいます。
そんな小林さんは長男に、健と名付けるほど、健さんを慕っていました。
そして、おととし公開された高倉健さん6年ぶりの主演映画、あなたへ。
いい音。
でも秋になったら、忘れずに外さなきゃね。
季節外れの風鈴ほど悲しい音はないもの。
そんな先のこと言ってもしょうがないじゃないの。
遺骨を故郷の海へまいてと、遺言を残した妻の希望をかなえるため、健さん演じる主人公は旅に出ます。
放浪と旅の違い、分かりますか?目的があるかないかです。
どうして生きてるうちに言わなかったんだろう。
女房にとって自分はなんだったんだろうって。
そればっかり考えながら、ここまで来ました。
夫婦やけんって、相手のことが全部分かりはしません。
ここまで来たってことで、十分じゃなかですか。
ありがとう。
健さん6年ぶりの主演映画は、第36回モントリオール世界映画祭でも喝采を浴びました。
鳴りやまないスタンディングオベーションに、感極まった健さん。
公式会見では。
自分は五十何年も俳優をやってて、あんまり映画祭に出るのは、好きではありません。
ただ鉄道員でこの映画祭で主演男優賞を頂いたということを、どこかでお礼を言わなければいけないと思ってたのと、本当にしぶしぶ来たというのが本音です。
よろしくお願いします!
よし!
…と本体の間に隙間が出来てしまいます。
見せてごらん。
はい。
ここをもうちょっとうまくやればいいんじゃない。
ありがとうございます。
健さんは、その映画、あなたへの中で、刑務所の刑務官役を演じています。
作品が完成した後、健さんたっての希望で、撮影地となった富山刑務所を表敬訪問。
350人の受刑者に向けて、健さんはことばを贈りました。
自分はたぶん、日本の俳優では一番多く皆さんのようなユニホームを着た役をやった俳優だと思っております。
と、場を和ませたあと、ゆっくりとした口調で、こう語りかけました。
これから見ていただく映画、あなたへは、人を思うということの大切さ、そして、思うということは切なさにもつながるんだと思います。
あなたにとって、大切な人の所へ、帰ってあげてください。
心から祈ってます。
どうぞ、お元気で、一日も早く出所されてください。
ありがとうございました。
そして、役者生活58年を迎えた去年、寡黙で剛直、ユーモアをたたえた個性で、多くの映画に出演したことを評価され、健さんは映画俳優として初めて、文化勲章を受章したのです。
親授式のあとに行われた会見で、健さんはその喜びを語りました。
日本人に生まれて、本当によかったときょう、思いました。
二百何本という膨大な数字の本数をやらしていただきましたけども、ほとんどは前科者をやりました。
そういう役が多かったのに、こんな勲章を頂いて。
一生懸命やってると、ちゃんと見ててもらえるんだなと、素直にそのことを思いましたですね。
そして、映画俳優として初めて、文化勲章を受章したことについては。
たった一人、大勢の映画人の、映画俳優の中から頂いたというので、これからも作品選びとか、そういうことを、章に恥じないものをやらなければいけないと、そういうふうに思ってます。
俳優、高倉健。
あまりにも偉大なその名前。
あまりにも偉大なその存在は、すべての人々の心の中で、永遠に。
ありがとう。
春川さん、改めてこうやって、高倉健さんのVTRを見せていただくと、映画界、芸能界はもちろんなんですが、日本になんか、ぽっかりと大きな大きな穴が開いたような気がいたしますね。
いや、もう本当に日本の宝というか、日本人としてどうあるべきか、男としてどうあるべきかということを本当にその行動で、私たちに教えてくださったっていう方ですよね。
それからやっぱり、岸さん、スクリーンの中でもそうですけども、ああいう授賞式だとか、映画祭なんかを見てても、凛とした姿勢の正しさ、姿勢のよさ。
だからこそ、私勝手に、高倉健さんは武士道をすごく体現された方だなと思ってますけども、まさにその武士道、今の日本人に失われつつある武士道を体現された方が、突然亡くなられるっていうのは、ちょっとショックですね。
さて、三田佳子さんから。
お悔やみコメントが届いています。
あまりにも突然のことに、ただ驚いています。
東映時代に、東京アンタッチャブルでご一緒したのが最初です。
撮影現場で突然、私の名前、三田佳子にかけて、見たよー、しっこと言われた。
もちろん、現場の緊張をほぐすための、健さんならではの気遣いだったのですが、まだ20歳になったばかりの私は恥ずかしさで真っ赤になってしまいました。
それから私が東映を退社するまで、ずいぶん多くの作品で一緒にコンビを組みました。
その後、別々の道を歩み二十数年。
1989年ごろに、日本映画使節団の一員として、中国への旅をご一緒しました。
健さんは本当に旅を楽しんでいらっしゃいました。
施設団が大草原のパオ、遊牧民の移動式テントで1泊した折のこと、健さんのパオでお手前のコーヒーをごちそうになりました。
その後、地平線に沈む太陽の雄大さに、草原で2人、肩を抱き合いながら、思わず涙がこぼれてきました。
ふと見ると、健さんの目にも熱いものがあったように思います。
その後、施設団の打ち上げでも、カラオケでリラックスした面を見せてくれました。
最近、ご一緒する機会のないままのお別れとなってしまったのが残念です。
本当に寂しい。
ごめい福を心よりお祈りいたします。
三田佳子さんから頂きました。
それから、松方弘樹さんですね。
高倉健さんは、尊敬する大先輩です。
若いころは別として、体のことを常に考えておられる方でしたので、健さんは100歳まで生きると思っていましたが、非常に残念です。
心よりごめい福をお祈りいたします。
三田さんの緊張を和らげるために言った、三田佳子という名前にかけてみたよおしっこと言ったり、大変ユーモアな面もあった高倉健さんなんですが、阿部さん、スポニチの高倉健さんの担当の記者の方は、どういうふうにおっしゃってました?高倉健さんのこと。
やはり先ほど、ちょうどお話ありましたけれども、撮影の現場で健さん、ずっと座らないで、ずっと見てらっしゃって、周りを、自分の役じゃないときにも、それで周りの方が、座れなかったりとかいうようなことがあるような、あと、自分からとにかくいろんなジョーク言ったりという形で、話しかけてくれると。
それから記者に対しても少しウィットに富んだお話もされるということでしたね。
改めて数々の映画のシーンを見ても、高木さん、本当にことばは少ないんですが、そのスクリーンの中から醸し出す、健さんの雰囲気といいますかね。
存在感がとにかくすごいですよね。
先ほど、刑務所でお話しされてたけど、なんか、とつとつとしゃべることがかえってものすごい説得力があるような気がして、なんか、やっぱり受刑者の方たちももう、あれを聞いたらね、本当に早く出なくちゃって思うでしょうね。
このあと、健さんのね、主演映画、大変たくさんありまして、一部ご紹介しますが、阿部さん、もともとはいわゆる任きょう映画で、健さんは爆発的なヒットを飛ばして、国民的俳優、人気者になっていって、その映画を見て、映画館を出る人はみんな、健さんのように歩いてたっていう話があって、やっぱり年表を見せていただくと、例えば幸福の黄色いハンカチ以降、このあたりから健さんが、やっぱり、日本の寡黙な、われわれが憧れる男を演じられるというところって、そこの健さんのなんか、映画俳優としての分岐点みたいなところがね。
そうですね。
ちょうど76年にフリーに転向するわけですけども、ちょうどこう、東映もいわゆる任きょう映画から実録映画に変わっていくところで、ちょうど出演映画で両者が対立して、そして思い切ってフリーに飛び出して、そして選んだのが、こういった暗い、過酷なくらい過去ですか、を引きずりながら男として義理人情に厚く、何か背負ってこう、生きていくといった寡黙な男をずっと演じるということですね。
ですから、春川さん、あれですね。
僕らより先輩の年代の男性の方々は、それこそ網走番外地から始まって、任きょうシリーズを見てらっしゃるんで、そういう健さんもご存じだから、まあ、そういうかっこよさと、それから寡黙な男を演じる健さんのかっこよさ、2つとももうリアルタイムで体験されているというね。
本当そうですね。
よく映画とかドラマ見たら入り込んで、その役になりたいって思うことはよくあるじゃないですか。
例えば、警察官なら警察官になりたい、パイロットならパイロットになりたいと思いますけども、私はやっぱり、この高倉健さんの映画、見てて、痛切に思ったのは、高倉健さんになりたいと思うんですよ。
ありえないんですけど。
男になれたらなというね。
そう、高倉健さんのようになりたいと思わせる俳優というのは、これは、私は初めてですけどもね。
なれるわけないですけどね。
でも本当、人格も、その行動も、しゃべり方も、生き方も含めて、この人になりたいなと思わせるような方でしたね。
それからやはり、プライベートでの人への気遣い、そのきめ細やかなところっていうのは、やっぱ憧れるなと思いますね。
今回、高倉健さんがお亡くなりになったのが、悪性リンパ腫。
この悪性リンパ腫というものは、全身に広がっているリンパ組織の細胞が悪性化してしまい、やがて臓器を侵していくという病気で、血液のがんと呼ばれるものです。
後ほど、専門の先生にお聞きするんですが、これ、高木さん、いわゆる人間、いろいろな所にリンパってありますが、そこにいわゆるがんというか、悪性腫瘍が出来てしまうという。
全身にとにかく回ってしまうということですよね。
ですから、いつごろから闘病生活をなさっていたのかとか、抗がん剤とかもやられてたのかとか、でもそれが一切、外に漏れ出なかったというのも、なんか、すごいことだなと思いますよね。
事務所のファックスですと、体調が急変されたということですから。
きょう昼前に入ってきたニュースで、高倉健さんがお亡くなりになりました。
本当に、まだちょっと受け止められないんですが、亡くなられた病名が、悪性リンパ腫。
全身に広がるリンパ組織の細胞が悪性化し、やがて臓器を侵していく病気という、血液のがんというふうに言われてるんですが、医療ジャーナリストの森田豊さんと電話がつながっております。
森田さん、よろしくお願いいたします。
よろしくお願いいたします。
まずこの悪性リンパ腫というものなんですが、リンパにいわゆる悪性腫瘍が出来るというふうに思っていいでしょうか?
そうですね、リンパっていうと、例えば首の付け根、あとは、わきの下、ふとももの付け根、こういったところに、しこりが出来て、それがどんどん大きくなってくるときに、この病気を疑うんですね。
そのしこりというのは、自覚症状っていうのはあるんですか?
やはり、炎症とか、かぜをひいてもリンパ節は腫れるんですけれど、通常、この悪性リンパ腫の場合は、1.5センチ以上になって、それがどんどん大きくなってくるわけですね。
そこの組織を取って顕微鏡で見たら、悪性リンパ腫の特徴的な細胞があったということで、診断されることが多いですね。
例えばわれわれでも、ちょっとのどが痛いとか、かぜをひくと、リンパ腺、腫れたなんて言いますよね。
そういう状態じゃないときに、何か硬いもの、しこりみたいなものがあるということですか?
もちろん、硬さとか、いびつさとかでも区別できるんですけど、やはり、どんどん大きくなってくると、小さくなることがないってことで、見分けがつきますね。
今、先生、首とか脇の下っておっしゃいましたけど、いわゆるリンパ腫が出来る部分っていうのは、全身至る所にあるんでしょうか。
そのとおりなんですね。
われわれ、リンパ節っていうと、首の周りとか、わきの下のことを考えますけど、内臓の周りにもいっぱいリンパ節がありますから。
内臓の?
それこそ、胃の裏っ側とかあとは骨盤の中にもリンパ腫が出来ることがありますね。
そのほか、臓器に直接、悪性リンパ腫が出来ることもあります。
そうなってくると、例えば内臓の中とか、骨盤の中っていわれると、自分で触って、触診してどうのこうのっていうのは分からないですよね。
多くの場合には、体の表面にあるリンパ節が腫れていて、大きくなるなあ、これでおかしいなと思って、医者に行って、CTやMRIを撮って、内臓のリンパ節、あるいは内臓の周りのリンパ節なども異常だっていうことが分かって治療が始まるケースが多いですね。
あるいは、胃カメラを飲んでいて、胃に何か腫瘍があるということで、悪性リンパ腫と診断下ることもあります。
例えばじゃあ、胃の中でもいわゆる胃の中にがんが出来るというだけではなくて、胃の中のリンパ節にがんが出来る、各臓器のリンパにがんが出来るというのをリンパ腫というと?
はい、もとはそこにあると思います。
早期発見をすれば、これは治るがんなんですか?
もちろん、早期発見すれば、治ることが高い、治る可能性が高いがんであることは確かですね。
ただ同時に、いくつかの場所に出来るわけですよ、リンパ節っていうのはいろんな所にありますからね。
あっ、1か所だけじゃないんですか?
ええ、通常、数箇所、あるいはもう、かなり多くの箇所に徐々に出てくるわけです。
だから、そこの部分だけ取り除いても、どうすることもできないので、手術療法ってことはほとんどしないですね。
やはり、抗がん剤を使ったり、放射線を使ったりして、全身を治療するということが、多くの治療法ですね。
いわゆる、悪性リンパ腫になりますと、森田さん、1か所じゃなくて、通常、複数のところにそういう悪性のリンパ腫が出来てる場合が多いと?
そのとおりです。
ということになってくると、いわゆる、そこを切除してもほかの部分もあるんで。
そうですね、ですからイメージとしては、分類としては、白血病みたいなものをイメージされたほうがいいと思いますね。
白血病は、血液の中に流れている、血液のがんですけれど、これも同じような部類ですから、その1か所部分を取り除いても治ることができないわけですね。
ですから、抗がん剤を使う。
ただ、抗がん剤の治療成績も非常によくはなってきているんですけれど、一度かんかいという形で完全にがんがなくなったとしても、また再発することが多いということで、そういう意味で、白血病と同じような取り扱いになってると思いますね。
ということは、恐らく高倉健さんもそういう放射線治療などを恐らく行われたんだろうっていうことでしょうか?
これはあくまで臆測ですけれども、かなりの年数にわたって、そんな治療を繰り返して、闘病されてた可能性はあるんじゃないかなと思いますね。
ということは、じゃあ、突然なられたというわけではなくて、実は数年前から患っていらっしゃった可能性もあるということですか?
その可能性があるんじゃないか、あるいはそちらの可能性のほうが高いんではないかと思いますけれど。
なんか、あなたへの映画を撮ってらっしゃるときに、ひょっとしたら、自分でその病気のことを分かってらっしゃったのかな。
ただね、次回の映画の構想も練ってらっしゃって、急変されたということなんですが、ここはどうなんでしょうか?
実際にどんな治療がなされていたかは分かりませんけれど、通常、抗がん剤などを使って治療していくんですね。
ただ、あるところから、薬が効かなくなって、腫瘍が大きくなってくる、それが肺の周りのリンパ節だったり、心臓の周りのリンパ節だったりということで、命に関わるような状態になるということが起きたんだというふうに推定できますけどね。
じゃあ、例えば悪性リンパ腫を患われた方でも、場所によっては、ちゃんと社会生活が営むことができたりとか治療を続けながら職場で仕事ができたりとか、おうちでの家事ができたりということは、できる場合もあるんですか?
もちろんです。
白血病と同じで、がん細胞が残ってしまっても、そのあと、社会復帰できる方もいらっしゃいますし、中にはがん細胞を完全にゼロにして、完全寛解という形で、この病気と別れることもできるんですね。
ということはじゃあ、いきなりこれ、悪性リンパ腫が出来て、そこから容体が急変して、お亡くなりになったというよりも、可能性としては数年来、実は高倉健さんは闘ってらっしゃってた可能性もあるというふうに、森田さんは。
そっちの可能性が高いんじゃないかと、私は思いますね。
何年ぐらい、こういう、闘いっていうのは続くんですかね?
なんとも言えませんけれど、年単位で治療をしている方が多いですね。
結局、何が決めるか、早期発見ももちろん大事なんですけれども、薬が効くか効かないか、これによるんですね。
悪性リンパ腫でもいろんな種類の、いろんな種類のものがあるんですよ、顕微鏡で見た形が。
それによって使う薬も違ってきますし、効き方も違ってくるということなんですね。
ということはあれですか、劇的に薬が効いて、リンパ腫が全部なくなるという方もいらっしゃる?
もちろんあります。
ただまあ、抗がん剤も非常に強いので、そのあとに骨髄移植などもして、体の血液のバランスを保っている人という方も大勢いらっしゃいます。
例えば、10年以上、この病気とつきあってるというか、闘ってらっしゃるという方もいらっしゃるんですか?
いらっしゃいます。
逆に言うと、発症してから5年で再発がなければ一区切りということですから、ある程度、病気からはこの病気を克服したということにもつながりますけれど。
分かりました。
森田さん、お忙しいところ、
さて、高倉健さんなんですけども、こちらご覧ください。
高倉健さんは1931年2月16日に、福岡県で生まれまして、東映第2期ニューフェイスとして入社されたのが1955年です。
そのよくとしには主役デビューされます。
映画、電光空手打ちです。
これ、ちょっとこちら、出るかな?もうね、ニューフェイスで入社して、次の年に主役デビューなんですが。
実はデビュー当時、こういうふうに健さんは言われてて。
これ、2012年の日刊スポーツのインタビューに答えてらっしゃるんですが、始めたころ、絶対に俳優に俳優に向かないと言われた、俳優座で演技指導を受けたとき、悪いことは言わない、辞めなさいと言われた。
かーっとなりましたね。
この野郎って、熱くなりました。
怒りというのはすごいエネルギーです。
燃えることで続けられた部分はありますとおっしゃっています。
今となっては、誰が言ったんだろうっていうふうにね、高倉健さんは向かないなんて、誰が言ったんだって思いますけど、でもこのときに次の年にやっぱり主役でデビューするっていうのは阿部さん、見ていらっしゃる方はいらっしゃったんですよね、きっと、高倉さんのことをね。
そうですよね。
そのとき見てた方っていうのは、どういった印象を持たれたんでしょうね?
逆にその方にもお話をお伺いしたいなと思いますが。
なんかオーラが違ったような気がしますよね。
ここから爆発的にもうシリーズがヒットするわけですね。
そうですね、日本侠客伝、そして網走番外地、昭和残侠伝。
それから歌手デビューも1958年にされています。
もうとにかく、このころ、阿部さん、東映はじめ、各映画会社っていうのは、次から次へと新作映画でもう、映画館が満員になって、もう1年に5本や6本は平気で皆さん、主演をやってらっしゃったんですよね。
そうですね。
もうその映画全盛期のころに、いわゆる役者の名前で、役者の名前で客を呼べるという、そういう役者さんでしたよね。
まあ、健さんに憧れたというね。
そして歌手としても、もちろんデビューされてますし、プライベートですと、江利チエミさんと結婚、その後、離婚もされるんですけれども、このときからずっと江利さんのお墓参りは欠かさない。
欠かさなかったということで。
ずっと心の中で、ずっと江利さんのことは思い続けてたということですね。
そして1977年、幸福の黄色いハンカチですよね。
これは日本アカデミー賞最優秀主演男優賞も受賞しました。
ブルーリボン賞の主演男優賞も受賞されています。
そして、1998年には紫綬褒章を受章。
99年は鉄道員で、モントリオール世界映画祭最優秀主演男優賞。
そして日本アカデミー賞最優秀主演男優賞、ブルーリボン賞主演男優賞を受賞されています。
2006年には、映画俳優としては初めての文化功労者になりました。
2012年、205本目の主演作、あなたへが公開されました。
よかったですよね、これもね。
2013年、去年には文化勲章を受章されています。
鉄道員のワンシーンの中で、雪降る中、プラットホームに1人立つ健さんなんて、ちょっと春川さん、鳥肌立ちますよね。
よかったですね。
これ、本当好きな映画で、私は、アメリカへ行く飛行機の中でこれ見て泣いて、同じ映画、もう一回すぐに、2回、見ました。
2回見ておんなじシーンで2回泣きましたけど、この映画、なんか本当に私たちが持ってる高倉健さんがそのままスクリーンから出てきたという感じで、本当にいい映画でしたね。
幸福の黄色いハンカチ、いまだに黄色いハンカチをどうするっていうのは、いろんなコントで使われたり、パロディーで使われたりと、いろいろ使われますもんね。
この中で、はやりましたよね。
高倉健さんがお亡くなりになりました。
共演された方々、
ここで最新のニュースです。
下川さん、お願いします。
お伝えします。
栃木県宇都宮市などで、70匹以上の犬の死骸が捨てられているのが見つかった事件で、警察は、元ペットショップ店員の39歳の男を逮捕しました。
この事件は先月31日、栃木県宇都宮市を流れる鬼怒川で、小型犬45匹が死んでいるのが見つかったもので、今月5日には那珂川町の山中で、27匹の犬の死骸や、生きた犬8匹も発見されていました。
警察は、何者かが死骸を捨てたと見て、捜査していましたが、元ペットショップ店員で、栃木県那須塩原市の無職、木村正樹容疑者39歳が先週、宇都宮東警察署に自首してきたことから、廃棄物処理法違反などの疑いで逮捕しました。
木村容疑者は調べに対し、引き取った犬が搬送中に死んでしまい、処分に困って投棄したなどと容疑を認めているということです。
消費税率10%への引き上げの是非について、有識者から意見を聞く最後の会合が、総理官邸で行われました。
これまでの5回の会合で、6割を超える有識者が予定どおり来年10月の増税に賛成しています。
当然ですね、私はこのチャンスを逃すべきではないと、ここで健全な財政を作っていく。
そういうことによって、子ども支援、子育て、やはりいうところをいかにしっかりもっていくかというところです。
デフレを脱却するという意味でも、消費税増税は危険であると。
2017年4月まで、凍結すべきであると。
きょうの会合では、安倍総理の経済政策のブレーン、本田内閣官房参与が、10%への引き上げを、1年半凍結すべきと述べました。
一方、全国中小企業団体中央会の山本副会長は、経済対策の確実な実施を前提に、予定どおり引き上げるべきと述べるなど、賛成の意見も相次ぎました。
日本テレビのまとめによりますと、5回の会合に出席した45人の有識者のうち、来年10月の引き上げに基本的に賛成した人が30人、反対が11人、立場を明らかにしなかった人が4人と、予定どおりの引き上げに賛成の意見が、6割を超えました。
カバンをひったくられたとうその110番通報をしたとして、警視庁はNHKの20代の女性記者を、年内にも書類送検する方針を固めました。
警視庁によりますと、NHKで警視庁の取材を担当する20代の女性記者は今月9日、東京・新宿区の路上で、カバンを自転車に乗った男にひったくられたと、うその110番通報をした疑いが持たれています。
通報を受けて警視庁は、緊急配備を敷き、およそ100人態勢で捜査しましたが、防犯カメラの映像を調べたところ、女性記者はもともと、かばんを持っていなかったということです。
女性記者は、会社の携帯電話を落としたのを隠したかったと話しているということで、警視庁は軽犯罪法違反の疑いで、年内にも書類送検する方針です。
NHKは、事実関係を調べているとコメントしています。
さあ、岸さん、GDPの速報値、マイナス1.6という衝撃的な数字が出て、まあ、解散はこれもう既定路線なんで、点検会合、なんだったのっていうね。
なんだっていうのもありますし、GDPデータ出る前も、会合でも賛成が多かった、賛成が多かったのも事実ですから、こういう6割が有識者賛成というのは分かるんですけども、今この数字となっては、延期するしかありませんし、これは法律上もできますから、淡々とやってほしいですよね、本当に。
逆に言うと、自民党の中では、いや、予定どおり増税しなきゃいけなかった、増税しようと言ってた議員も多かったじゃないですか。
その人たちももうぶっとんじゃいましたね、あの数字で。
あの数字で、みんな変わりましたから、もう、ほぼ野党も含め、一致してますので、淡々とするのが一番です。
ただこれ、春川さん。
野党もなんとか連携しようとは言いながら、みんなの党なんて分裂するんじゃないかと話が出てきてね。
いや、本当にどうなるか、非常に難しい状況になってきましたけども、ただやっぱり、有権者もちゃんと見てるので、なんとか基本的な政策をちゃんと話し合って統一しないままに、数合わせみたいなことでやると、また逆にマイナスなので、そこはやっぱりしっかり政策論争をね、時間があまりありませんけども、やっぱり中身の政策論争をきっちりやってほしいと思いますけどね。
だからこそ、高木さん、政策論争を何にするかですよね。
そうですよね、なんか、増税を先延ばしすることが、それを国民の信を問うって、なんか意味がよく分からないっていうのが、一般の国民の感情じゃないでしょうかね。
きょう、下川さん、安倍さんは会見されるんですね。
夜ね。
今夜会見ということで、解散を宣言する、発表するということですけれどもね、本当に民意はどこに行っちゃったんだろうと思うぐらいですよね。
恐らくきょう、安倍さん、会見されることが、岸さん、テーマだと思えばいいわけですね。
だからこそ、きょうの会見が一番大事で、実際、外国人投資家はかなりすでに注目してますので、どういう争点を言ってくださるか、これが一番注目ですね。
いよいよこれ、年末解散に向けて、一気に動き出すということですね。
続いてのニュース、お願いします。
ニュースを続けます。
人気歌手、ジャスティン・ビーバーさんがカメラマンを暴行するよう指示したとして、アルゼンチンの裁判所から出廷命令を受けていたことが分かりました。
これは去年11月、ブエノスアイレスのナイトクラブ前で撮影された映像です。
車内を撮影していたカメラマンを、ボディーガードが突き飛ばし、追い回す様子が映っています。
NBCテレビなどによりますと、このボディーガードは、ジャスティン・ビーバーさんから暴行するよう指示を受けていたということで、カメラマンは、軽傷を負いました。
これを受け、アルゼンチンの裁判所は、今月12日付で、ビーバーさんに60日以内に出廷するよう命令。
出廷しない場合は、逮捕状を出すとしています。
大阪の国立循環器病研究センターの情報システムに絡み、入札情報を事前に業者に漏らしたとして、大阪地検特捜部は、センターの元部長らを逮捕しました。
官製談合防止法違反などの疑いで逮捕されたのは、国立循環器病研究センターの、元情報統括部長、桑田成規容疑者ら3人です。
国立循環器病研究センターの情報システムの運用業務は、おととし、兵庫県明石市のシステム開発会社、ダンテックが落札し、およそ2億2000万円で契約しました。
大阪地検特捜部によりますと、当時、情報統括部長だった桑田容疑者は、ダンテック社長の高橋徹容疑者らに、入札に関する情報などを漏らすなど、公正な入札を妨害した疑いが持たれています。
桑田容疑者は病院側の調査に対し、便宜を図ったことはなく、見返りはもらっていないと、関与を否定していました。
大阪地検特捜部はけさから関係先の家宅捜索を行い、金品のやり取りがなかったかなど、詳しく調べる方針です。
きょう、都内で、手頃な価格でウエディングドレスが買える専門店が発表されました。
きょう発表されたのは、港区南青山にあさってオープンする、ウエディングドレスの専門店です。
ウエディングドレスは、日本ではレンタルが一般的で、価格は数十万円かかることもありますが、この店の特徴は1着5万4000円からという手ごろな値段で、新品のウエディングドレスを買うことができるというものです。
海外ブランドのドレスなど、およそ300着以上が用意されており、試着の際の予約もいりません。
節約志向のカップルや、屋外でのパーティーを予定しているカップルがターゲットだということです。
以上、最新のニュースをお伝えしました。
買っちゃうんですね、ウエディングドレスを。
そうなんですよね。
レンタルでも結構、何十万円もする場合があるということで。
でもレンタルが大体多いじゃないですか。
ほとんど日本だとレンタルのほうが多いそうなんですけれども、それよりも、お手ごろな価格で買ってしまったほうが割安ということで、そういう着眼点で、新たにオープンするということなんですね。
ただ、次、まあまあまあまあ、結婚式、何回もされる方は別ですけど。
大体…。
まあでも、思いっきり飲んだりとかして、汚しても大丈夫と。
ええ!
思いっきり飲まないでしょう。
あれちゃう?夫婦げんかなんかしたときに着て、あのときの気持ちを思い出そうよみたいな感じで奥さん…。
怖い!それ。
ただ、そのときに、そのサイズで着れてるかどうかというね。
それでね、しっかり体形維持できてるかどうか試すというね。
まあでも、本当に買ってしまったものの、結構、邪魔っけなんですよね。
いや、なことないって。
ニュースで紹介してんねんやから、買ったら買ったで、いい思い出になるしね。
買ってよかったと思います。
一番いいのはあれですよ。
今度は娘さんが生まれて、お母さんが着たウエディングドレスを大切に保存して、着るっちゅうのもいいですよ。
何代にもわたって。
大切に保存しております。
下川さんも?下川さんは保存してないやろ?
いや、保管しておりますよ。
買ったん?
はい。
おお、おお。
買ったの?
買っちゃったんです。
買っちゃったんだ。
今、あれしてるやんか、セパレートになってるやんか。
それ、早急に戻したほうがええで。
実家で親が大切に保管して。
もう一回あるんやと、なるほど。
分かりました。
まだまだありますよ。
まだ全然ありますよ。
ありがとうございました。
ありがとうございました。
いろんな…。
自分、1回セパレートしてるから、ちょっとなんか、このニュース読むの、心苦しかったんかな。
いつもより、ことば少なめだった。
せやね。
ことば数、少なかったですよね。
なんか乗りがね。
でも岸さん、あれですよね、本当は景気がダーンと上がって、皆さんに派手婚してもらったほうがいいんですけどね、景気は。
そういう意味ではこういうドレスみたいな派手なものがどんどん安くなるっていうのは、気分を明るくするのには絶対いいですから、どんどん買ってほしいですね。
なんかあれですってね。
春川さん、今、媒酌人を立てないっていう結婚式、多いじゃないですか。
多いですね。
全然、会社関係とかでも、上司を呼んだりとかっていうこと、ほとんどなくなりましたもんね。
そうですね、上司のことばとかない結婚式多いですよね。
ホテルの方に聞くと、媒酌人、お2人じゃないですか、ご夫婦で。
お2人だけかと思いますけど、じゃあ、この結婚式が、年間200組やったら、400人の宴会が1つ、できるわけですよ。
だから本当に、それ意外と大きいらしいですよ。
そうですね。
まあ、ここからね、選挙で、アベノミクスで景気がよくなってくれないと、お給料が上がって、ね。
なかなかうまく回らないし、大事なのは、アベノミクスが成功する以外に、やっぱり気分が明るくなることですから、そのためには、ドレスとかは絶対いいなと思うんですけどね。
あとやっぱり、重要法案ですから通すんでしょうけど、地方にやっぱり景気が上向いたっていうのを行き渡らせなきゃいけないですよね。
だから地方創生法案は絶対に通さなきゃいけなくて、逆にこれ通らなかったら、臨時国会通った法案は公務員の給料を上げる法案だけですから、それはだめです。
さあ、ということで。
ここで高倉健さんへのお悔やみコメント、届いておりますので、ご紹介します。
志村けんさんからです。
ブログにアップされています。
どんなことばでももの足りない。
温かい大きな手で握手して、よろしくお願いします。
生涯、一番緊張して初めてお会いしたとき、楽屋に、なんなりとお申し付けください、おとまつよりと。
これ、おとまつというのが鉄道員で高倉健さんが演じた役名だということです。
きれいな華がありました。
なんと優しい心遣い。
ありがとうございました。
心からご冥福をお祈り申し上げます。
高倉健さん、お疲れさまでした。
でも残念です。
寂しいです。
そして、その次に宝物というタイトルで、写真がブログに掲載をされているんですけれども、そこには高倉健さん直筆の文字で、…、志村さん、高倉健というふうに書かれていたようです。
志村さんほどの方でもといいますか、恐らく芸能界の方が初めて会って緊張しない方はいらっしゃらないっていうのが、恐らく高倉健さんなんでしょうね。
こちらがその、ブログに載っていた写真ですね。
これ、恵存っていうのはどういう意味なんですかね、保存していただけたらありがたいという意味なんですかね?これ、高倉健さんの直筆ですね。
そして、続いて親交のあった方々から、コメントが届いております。
若かりしころ、映画で共演した、樹木希林さんは。
高倉健さんがお亡くなりになったというニュースが入ってきまして。
ええ?ガセじゃなくて?
いや。
えー。
知らなかったよ。
15日に小百合さんと会ったんですよ、私は。
樹木さんが。
だけど、小百合さんもご存じなかったですね。
えー。
なんか、元気そうじゃないですか。
樹木さんは、突然の訃報に驚きを隠せない様子でした。
そして公私共に親交が深かったという板東英二さんは
お母さんが亡くなったときも、板東君が忙しいから、ちゃんと撮ってあげないと、俺、休んでたらいかんつったりね、一番心配りをする、そして優しくて、そしてなんていうのか、本当にね、知り合っただけでも宝物になるという人は、そうはいらっしゃないと思いますけどね。
僕にとっては、もう、僕もできることなら逝きたいです。
一緒についてね。
勝手な人です。
こんな、あほうを残してね。
高倉健さんの訃報を私知ったときに、まず板東英二さんに、ちょっとお電話したんですけれども、板東さんも大変ショック、受けていらっしゃって。
実は今月の頭に板東さん、自分の近況を、これしゃべっていいのかな、報告の手紙を事務所に持っていかれたんですって。
ただ、事務所の方があっ、うちの高倉も大変よろこぶと思いますって言って、板東さん、お帰りになったらしいんですよ。
そのときももちろん板東さんもご存じなかったらしいんで、大変ショックを受けてらっしゃいましたけども、高倉健さんって、野球が大好きな方で、野球の映画もね、出てらっしゃいますよね。
監督役で。
ですから、板東さんも一緒に共演したとき、毎晩、野球の話、コーヒーを飲みながら野球の話をされてたということなんですが、僕、朝の番組を、ここでも言ったことあるんですけど、20年ほどやらせていただいて、それを板東さんが高倉健さんにおっしゃいまして、ミヤネ屋やってる宮根っていうのが実は20年、朝の番組、大阪のローカルでやって、このたびその番組、卒業するんだって言ったら、高倉健さんから私、お手紙を頂きまして。
宮根さんが朝の番組20年やってらっしゃるのは知らなかったと。
だけど、お疲れさまでしたっていって、高倉健さんの写真に、先ほど、志村さんの色紙にありました、まさにあの字で、高倉健さんのサインが入っていて、ケン・タカクラって書いてあるキーホルダーがあるんですよ。
それも送っていただいて。
僕一度ももちろんお会いしたことないんですけれども、お礼も、お礼の手紙だけ、事務所に書かせていただいたことはありまして、今でももちろん、それは宝物なんですけども。
そういうこともされる方なんだ、僕みたいな者にって思ったのも、大変覚えておりますが。
それから映画、あなたへで初めて共演ということになった、高倉健さんの、そうですね、後輩役でお出になってらっしゃいました、長塚京三さんと、これ、お電話つながってるんですか?長塚さん、よろしくお願いいたします。
ありがとうございます。
長塚さんは、高倉さんの訃報は、どこでお知りになったんでしょうか?
テレビのニュースで。
やっぱりそうですか。
これ、意外なんですが、長塚さんは、あなたへが、高倉健さんと初共演ということなんですか?
そうです。
それ以前に例えば、プライベートでお会いになったとかってことは?
そういうことはありませんでしたね。
あなたへでは、役どころでは高倉健さんの後輩役を演じられたということで、初めて生で会う高倉健さんというのは、長塚さんにとっては、どんな感じに映りましたですか?
そうですね、最初、出演の依頼を受けたときに、プロデューサーさんのほうから、これは高倉さんのたっての希望でというふうにお聞きしたので、それはたぶんよくあるリップサービスだろうと思ったんですね。
当然でもお受けして、ご一緒したときに、バスの中でたまたま、僕は長塚さんと仕事をしてみたくてねえと。
本当だったんだって。
じゃあ、どこかでご覧になってたんですね?と言ったら、うん、テレビで見てて、あっ、一緒にやってみたいなと、かねてから思ってたんですよって、それはだから本当に不思議な方でね、どこまでが本気なのか、どこまでがお話なのか、よく分からないところもあるんですけれども、それでご一緒して、そしたらもう本当に、なんていうんですかね、僕は観客としてずっとこう、高倉さんの映画を長いこと拝見してきて、たぶん俳優としては、道がちょっと違うんじゃないかなというふうに、思ってたんです。
だから恐らく、僕もいい年になってきて、これは恐らく、高倉さんとご一緒するようなことは、まずないだろうなというふうに、思ってたやさきですからね。
ああ、こういうこともあるんだって。
何よりもあれだったのは、高倉さんっていうのは本当に、ちゃんと見ててくださったんだなあと、なんていうか、本当にどういうそれは触覚なんだろうかというね。
本当に映画のために生きてるような、映画のために生まれてきて、映画のために生きてるような人で、お話も、僕と話が弾むのは、映画の話だけですからね。
きょう何食べたとか、どうしたとかっていう話は一切なくて。
僕もあんまりしないほうなので、あの映画、おもしろしかったですね、高倉さんお出になったロバート・…のアメリカの戦争映画、あれはおもしろかったですねとか。
あれはこうだったんだよってね。
あの監督はおもしろいんだよっていう、そういうね、本当に一映画ファンみたいなね、無邪気さで、ぽろぽろとお話になる。
それで、助監督さんから、お2人、よろしいですか?ぼつぼつ参りますけどって怒られたりなんかしてね。
それで、ぽりぽりって頭をかいたりして、怒られちゃいましたね。
とってもね、構えるところのない、イメージとしては、全然ご自分のプレッシャーみたいなものを、とっても気になさってて、こういうのは全然ないんだよってことをね、本当に痛々しいほど、現場で、僕だけにじゃなくて、比較的初めてご一緒する方々とかね、スタッフ、キャスト限らず、自分はそんな、プレッシャーなんか全然与えるあれはないんで、もう本当にっていって、部屋に入るのにも、どうぞお先にみたいな、本当にそういう方で、この人は本当に映画をお好きなんだなって、映画のことだけ考えてらっしゃるんだなあと思って。
やっぱり、あれですよね。
高倉健さんと共演するってことになると、それは共演者の方もそうですし、スタッフの皆さんも大変緊張しますし、プレッシャーもありますし、そこの部分を、もう高倉さんは取り除いて、取り除いてっていうふうに、現場でされる方なんですね。
そうみたいですね、本当に。
痛々しいほど、それはね。
でも、例えば長塚さんも、初めてやっぱりお会いになったときは、緊張されましたですか?
それは緊張しますよ。
それとやっぱり、大変お若いのでびっくりしましたね。
今、亡くなられた方にそれもへんですが。
その当時で80歳ですか?とってもお若くてね、ああ、この方はまだまだ。
ちっちゃなロードムービーみたいなものやりたいんだよねって言ってたのが、まあそれが、どこまで懐の深い方だから、どこまで本当のお話なのか、どこまで本気なのか分からないけど、いや、この方なら本当にそうかもしれないなと思って、ああ、じゃあちょっと僕も、なんか高倉さんとご一緒とは限らず、うん、ロードムービーっておもしろいかもしれないな、老人のって。
そういうのも、人にね、そういうね、映画への気持ちをかき立てるようなね、不思議なね、本当に映画のなんていうんですか、フェアリーみたいな方ですね。
どっかで何かやられてたら、本当にそれだけで、どっかでお元気で何かやられてるな、映画に関することをっていう、そう思うだけで、幸せになれるというか、生きる元気が出てくるような、そういう、本当に僕の人生においては何人もいない、ただいてくださるだけでいいっていう方が、また1人、亡くなったなと。
長塚さんにとっては、高倉さんはきっと今、次回の映画の構想を練ってらっしゃるんだろうな、次の映画のことを考えてらっしゃるんだろうなと思うだけで楽しくなるというか。
そうです、ええ。
その姿勢のまま、ずっともう永遠ですね、あの方は。
じゃあ、あなたへで、私、見せて、もちろんいただいたんですけれども、非常に奥様を亡くした悲しみを背負った1人の男を演じていらっしゃるんですけれども、撮影の合間は、長塚さんと昔の映画の話をしたりとか、そういうふうに楽しい会話をどんどんどんどんされてたんですね。
そうですね。
決して後ろ向きな形ではなかったですね。
実際に現場で、長塚さんも大変なキャリアの方ですけれども、高倉さんの演技をご覧になって、どういうふうにお感じになってたんですか?
なんと言うか、本当に何もなさらないというか、必要最小限のことしかなさらないというか、そういう一つのスタイルの極みでしょうね。
台本どおりに、台本どおりのこと。
恐らく僕らには分からない世界だと思いますけど、長塚さんだからお分かりになる世界だと思いますけれども、ある意味、削って削って、よけいな芝居はしないで、究極の自然体まで削り落として、スクリーンの前、カメラの前に出られていたということですね?
本当に、本当にそうですね。
だから、そこらへんはご自分のなんか、一つ、一つ一つのシーン、一つ一つのせりふとしぐさに、ある意味では、こういういい方は、恐らくこれからもされるでしょうけれども、武道者のようにね、一つ一つに懸けてらしたというか。
だからあんまりさりげなく、あんまりなんでもなくっていうと、本当に頼りなくなっちゃうすれすれまでね、そういうふうに自分の気配を落としていくという、そいでいくという、そういう。
それはもう、ちょっとね、すごいな。
これは高倉さんだからおできになるということで。
長塚さんとしてはまだまだ、本当は映画の話、高倉さんとしたかったなというのはおありになりますよね。
いやぁ、まだまだ本当に映画の話、したかったですね。
ありがとうございました。
お忙しいところ。
ありがとうございました。
失礼します。
しかし岸さんが武士道とおっしゃいましたけど、長塚さんは武道って。
武芸を極めてる。
改めてすごいなと思いましたね。
それから春川さん、やっぱりびっくりしたのは、もう、高倉さんに緊張する共演者、スタッフの方々に、もうぎりぎりまで、よれよれになるぐらいまで垣根取り払って、楽にさせてあげる高倉健さんというのは、すごいですね。
本当に、高倉さんがおっしゃったように、ご自分がデビューされたときにちゃんとやってれば、見てる人は見てくれてるんだという思いをずっと持ってらっしゃって、本当に地道に一生懸命やってる人を、今度は逆に高倉さんが、ずっと見てらっしゃったんですね。
だから阿部さん、現場でもちろん自分も演じなきゃいけない、その中で、スタッフへの気配りって、今、話を聞いたらすごいですね。
なんか、それまでの作品の中でも、特にあなたへのときには、そういった撮影の現場でのエピソードが多いので、やはりなんか、どうしてももう一本、やりたかったって言っている映画だったので、だからそこに何か思いが凝縮されてるような気がしますね。
ひょっとしたら、そのときに病気と闘ってらっしゃったかもしれないですね。
それからこれは幸福の黄色いハンカチの監督ですよね。
山田洋次さんから、コメントが入ってきております。
俳優、高倉健と最初にお会いになったときの思いというのは、今もお心に残ってらっしゃると思いますが。
それは非常に鮮烈でしたね。
最初にお会いしたのは、幸福の黄色いハンカチの主人公を健さんにお願いしたいということで、一度、健さんと会わせてくださいということで、健さんが赤坂の僕の仕事をしている宿に来てくれたんですね。
で、僕は旅館の部屋で、こんな物語ですと、口でお話してね。
それが初対面でしたけどね。
その役を健さん、やってくれますか?と言ったら、私はいつから空ければいいんですか?って。
で、たぶん何月から何月って言ったら、分かりました。
それでね、ジーンズの上下を着てましたね、健さんは。
そのころ、わりと珍しかったんだけども。
階段をとんとんとんと降りていって、玄関まで僕を見送ったら、僕はとってもきょうはうれしい日ですよって言ってすーっと出ていったその足早にね、ああ、よかったと思った日のことを僕は忘れることはできませんね。
すっと出ていった後ろ姿。
そして、あの映画の中でも刑務所から出てきて、最初にラーメンとカツ丼を食べるシーンがとても印象的ですけど、監督にとって、あのシーンは。
そうですね、あのシーンのために、健さんはなんか、1日か2日、絶食してたって話はあとで聞いて、そうなんだ、そういう形で仕事をする人なんだなと、あとで感心したことはありましたけど。
阿部さんね、あの山田洋次監督が健さんとお話して、ああ、よかったって、安どの気持ちを述べられるなんていうのは、ちょっとびっくりしますよね。
これだけの巨匠の方がそういうことばが出るとはね、すごい方だったと、改めて思いますね。
そうですね。
改めて高倉健さんの作品とともに、振り返りたいと思います。
ほろまい、ほろまい。
はい、ご苦労さん、大変だったべ。
戦後の日本映画を彩り、数々の名演技で感動を与え続けた銀幕の大スター、高倉健さん。
また一人、日本の至宝が、星に。
後部、よし。
1931年、福岡県に生まれ、大学進学のために上京。
1955年、東映ニューフェイスの第2期生として入社しました。
当時、演技経験など皆無で、無名の新人であった健さんは、絶対に俳優に向かないと言われるほど、落ちこぼれだったといいます。
しかし、入社1年後、映画、電光空手打ちで主演デビュー。
そして映画スターとして地位を確立したのは、1960年代に入って出演するようになった任きょう映画でした。
特にシリーズ化された網走番外地、日本侠客伝、昭和残侠伝は大ヒット。
多くを語らず、いざというときに体を張り、義理や人情を大事にするその姿に、映画ファンは、男っぽさの真髄と熱狂。
健さんと、親しみを込めた愛称で呼ぶようになりました。
これまでテレビ、ドラマなどにはほとんど出演せず、みずからを映画俳優と呼ぶほど、人生を映画に注いできた健さん。
1989年に公開された、マフィアを題材にしたアクション映画、ブラック・レイン。
故・松田優作さんや、ハリウッドスターのマイケル・ダグラスさんなど、豪華キャストが集結し、話題に。
健さんは、横領した刑事を監視するという実直な警部補を演じ、その絶妙な演技は、世界中から称賛されました。
松本警部補、逃走犯、さとうこうじの逮捕を、警視に報告します。
ご苦労。
警部補から詳しく事情聴取をする。
私生活では、俳優デビューから3年後の1959年、3人娘の1人、歌手の江利チエミさんと結婚。
しかし、幸せは長くは続かず1970年に東京の自宅が全焼。
波乱含みの夫婦生活でした。
そして結婚から12年後の1971年、ついには江利チエミさんと離婚に至ったのです。
それから11年後の1982年、江利チエミさんは、45歳の若さで亡くなりました。
しかし健さんは、別れてもなお、江利さんの墓参りを欠かすことはなかったといいます。
義理人情に厚かった健さん。
映画の撮影後、信頼を置いた共演者には、戦友と彫った腕時計をプレゼントしていたのです。
これまでに松田優作さん、田中邦衛さん、石倉三郎さんなどに贈ったといいます。
そして、おととし公開された高倉健さん6年ぶりの主演映画、あなたへ。
健さん6年ぶりの主演映画は、第36回モントリオール世界映画祭でも、喝采を浴びました。
鳴りやまないスタンディングオベーションに感極まった健さん。
公式会見では。
僕は台所は、焼き飯も作ったことがありません。
なんと、現地記者の突然の質問に対して英語で返答。
そして、健さんは今回、映画祭に出席した、ある特別な理由を明かしました。
自分は五十何年も俳優をやってて、あんまり映画祭に出るのは好きではありません。
ただ、鉄道員で、この映画祭で主演男優賞を頂いたということ、どこかでお礼を言わなければいけないと思ってたのと、本当にしぶしぶ来たというのが本音です。
映画、あなたへの中で、刑務所の刑務官役を演じている健さん。
作品が完成した後、健さんたっての希望で、撮影地となった富山刑務所を表敬訪問しました。
350人の受刑者に向けて、健さんはことばを贈ったのです。
自分は、たぶん日本の俳優では、一番多く、皆さんのようなユニホームを着た役をやった俳優だと思っております。
と、場を和ませたあと、ゆっくりとした口調で、こう語りかけました。
これから見ていただく映画、あなたへは、人を思うということの大切さ、そして、思うということは切なさにもつながるんだと思います。
あなたにとって、大切な人のところへ、帰ってあげてください。
心から祈ってます。
どうぞ、お元気で一日も早く出所されてください。
ありがとうございました。
そして役者生活58年を迎えた去年、寡黙で剛直、ユーモアもたたえた個性で、多くの映画に出演したことを評価され、健さんは映画俳優として初めて、文化勲章を受章したのです。
親授式のあとに行われた会見で、その喜びを語りました。
日本人に生まれて、本当によかったときょう、思いました。
二百何本という膨大な数字の本数をやらしていただきましたけども、ほとんどは前科者をやりました。
そういう役が多かったのに、こんな勲章を頂いて。
一生懸命やってると、ちゃんと見ててもらえるんだなと、素直にそのことを思いましたですね。
そして、映画俳優として初めて、文化勲章を受章したことについては
たった一人、大勢の映画人の、映画俳優の中から頂いたというので、これからも作品選びとか、そういうことを章に恥じないものをやらなければいけないと、そういうふうに思ってます。
実は、亡くなる3か月前のことし8月、健さんは、ある撮影に臨んでいました。
農薬は使わない。
その分、汗を流せばいい。
この一年、どれだけ頑張ったかは、取れたニンニクが教えてくれる。
伝統にんにく卵黄健康家族。
健康家族の社長が、直筆の手紙で、熱烈にオファー。
それに胸を打たれた健さんが快諾し、CMの実現に至ったといいます。
真夏の8月、10時間に及ぶ撮影でも疲れを見せることはなく、うわさどおり、休憩中に一度も座ることはなかったそうです。
中継です。
高倉健さんのご自宅前には、中山さんです。
中山さん。
東京都世田谷区にあります、大きな邸宅が立ち並ぶ一角にあります、こちらが、高倉健さんのご自宅になります。
れんが造りのような壁の向こうに、そのご自宅があるわけですけれども、表札は本名の小田というふうになっております。
自宅前にも、多くの報道陣が待機しておりますけれども、これまでのところ、弔問に訪れる、そういった姿は見受けられないということですね。
自宅の大きなガレージの前にも、玄関の前にもずーっと落ち葉がたまっているんですね。
ここ何日か、人の出入りがなかったのかなという感じがいたします。
ご近所の方にお話を伺いましたけれども、見かけることはあっても、やはりこういった高級住宅街ということもありまして、ご近所づきあいというのはなかったようなんですね。
そういったプライベートに干渉されないという状況が生活しやすい、そういったこともあったのかもしれません。
大竹しのぶさんからお悔やみのコメントが入っております。
鉄道員での、たった一度だけの共演でしたが、10本も20本も映画を撮ったような、すばらしいことをたくさん教えていただきました。
映画人、高倉健の魅力は、そのまま人間、高倉健さんの魅力です。
美しく気高く、そして何よりも優しい健さんを一生忘れません。
神様みたいな人が、本当の神様になってしまったようです。
寂しいです。
大竹しのぶと、つづられています。
阿部さん、高倉健さんが演じた数々の役と、本当の高倉健さんって、なんかダブるところがきっとあったんでしょうね。
これは、どうなんでしょうね。
ご自身の中で、やはり役のイメージ、守るために、そうされてたのか、どちらがあれだったのか、正直分からないところはありますけども。
映画人、最後まで銀幕のスターといいますけども、これ、日本は大きな大きな宝を失ってしまったというところでしょうね。
そうですね。
やはり、役者の名前で客を呼べるというのが、本当に数少なくなってきた中でいうと、本当に、日本映画界は大きな柱を失ったのかなという感じがします。
なんかこう、日本人として、日本の男として、
あした、寒いですね。
名古屋の最低気温5度。
朝晩が特に木曜日ごろまでが冷え込みそうですね。
金曜日、土曜日になると、最高気温が東京や名古屋では18度から19度と。
気温がまた、ぐーっと上がっちゃうわけですね。
太平洋側では気温が上がりますね。
3連休、まずまずかな。
そうですね、西日本、
西日本は寒いですね、あした、最低気温は。
大阪も最低気温、木曜日までは7度となってますね。
金曜日、土曜日は19度、20度ということで。
2014/11/18(火) 13:55〜15:50
読売テレビ1
情報ライブ ミヤネ屋[字]

▽スポニチ阿部部長が秘話語る?▽安倍総理がついに…▽すんごい日本人スペシャル第4弾ほか

詳細情報
出演者
宮根誠司
川田裕美
高木美也子
岸博幸
春川正明ほか
番組内容
▽スポニチ阿部部長が秘話語る?
▽安倍総理がついに…
▽すんごい日本人スペシャル第4弾ほか
番組ホームページ
http://www.ytv.co.jp/miyaneya/

ジャンル :
情報/ワイドショー – その他

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音声 : 2/0モード(ステレオ)
日本語ステレオ
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