日本そして世界の人々に…。
(一同)あなたのやさしさを〜!どうもありがとうございました。
皆さんのやさしさをお願いします。
では秋葉原からこのへんでお別れいたします。
さよなら〜。
(中村)日本の名城の一つに数えられる姫路城です。
関ヶ原の戦いのあとに領主となった池田氏が完成させました。
中央にそびえているのは平成の保存修理で装いが新たになった姫路城の大天守です。
この地にはもともと黒田家のお城がありました。
その城の城主だったのが大河ドラマでおなじみの黒田官兵衛です。
兵庫県にはここ姫路を中心に官兵衛ゆかりの地がたくさんあります。
神戸放送局では「ひょうご官兵衛を訪ねて」と題してこれまでに数々の地域番組を放送してきました。
今日はその映像を基に官兵衛に関わる土地に残された歴史の跡をご紹介します。
まずは姫路城の北側にある黒田家にゆかりの深い広峯神社からです。
姫路市の市街地を見守るように小高い山々が連なっています。
その中の一つに信仰の山として知られる広峰山があります。
ここは黒田官兵衛の祖父の代に初めて播磨へ移り住んだ土地です。
山の頂に広峯神社があります。
石段を上った所に拝殿その奥に本殿が建っていて共に重要文化財に指定されています。
室町時代中期に建てられた本殿を官兵衛の祖父も仰ぎ見たに違いありません。
かつて神社には「御師」という諸国を回って神社の神符を配る神官たちがいました。
官兵衛の祖父黒田重隆も神符を配りながら村々を歩いたといいます。
御師屋敷は神社へ参拝に訪れた信者たちの宿坊も兼ねていました。
座敷の奥には神殿が祭られています。
神符や暦を入れた行李です。
昔はね「手代」といいましてお供を2人連れていきよったわけです。
代々御師だった魚住さんの家に当時の神符が残されています。
御師たちは神符を配り歩いて訪れた集落の様子を詳しく知りました。
戦略を得意とした官兵衛は祖父がこうして諸国の事情に通じていた事を学んだに違いありません。
昭和初期の広峰山を描いた復元絵図です。
魚住家の隣には黒田家があった事が示されています。
官兵衛の祖父はまずこの広峰山で力を蓄え黒田家発展の礎を築いたのでした。
兵庫県姫路市の東JR神戸線御着駅の北に黒田官兵衛が若き日を過ごした御着城の跡があります。
御着城は戦国時代に西播磨に勢力を持っていた小寺氏が築いた城でした。
官兵衛の祖父そして父も小寺氏の重臣を務めました。
10代だった官兵衛は主君のそばに仕える近習でした。
御着城の本丸跡です。
今は姫路市東出張所が建っています。
城をイメージしたユニークなデザインで訪れる人々を驚かせます。
東出張所の前にある御着城公園の広場に黒田官兵衛を顕彰する石碑が建っています。
公園の近くに黒田家廟所があります。
左は官兵衛の祖父の供養塔です。
祖父は早くから小寺家に仕え黒田家の地位を確かなものにしました。
右の塔は官兵衛の母を祭っています。
御着城の西から南を流れる天川は天然の要害として外堀の役割を果たしていました。
江戸時代に造られた石橋が本丸跡に復元されています。
橋の下の一段低くなっている所が堀の跡と言われます。
本丸跡は今では国道で二分されています。
南側には小寺大明神があり城主小寺氏とその家臣たちが祭られています。
小寺氏は後に織田方から毛利方へ寝返ったため御着城は秀吉軍に攻められて落城します。
木の間隠れに若き日御着城で仕えた官兵衛の姿がよみがえってくるようです。
JR宝殿駅の北に位置する加古川市志方町に黒田官兵衛の妻てるが生まれた志方城の跡があります。
志方小学校があるこの辺りが志方城の二の丸でした。
本丸跡に今は観音寺が建っています。
城主は櫛橋氏でしたが羽柴秀吉の播磨攻めで毛利方についたため秀吉方の官兵衛は心ならずも妻の身内と戦う事になったのでした。
この戦いで志方城は落城します。
本丸から一段低くなった所に巡らされている内堀の跡が僅かに城の名残をとどめています。
本丸跡の片隅に志方城歴代城主を祭る五輪塔が建っています。
これがですね櫛橋家の家系図でございます。
(村上)この家系図は江戸の初期に書かれたものでございます。
(村上)この家系図では伊家伊定妹が「黒田官兵衛孝室」になっております。
「法名照福院」。
寺の位牌堂には歴代城主の位牌と共に官兵衛の妻てるの位牌が安置されています。
官兵衛は志方城落城のあと妻の身内である櫛橋家を助けて一族を家臣団に迎え入れたと伝えられています。
播磨地方の歴史や風土を研究しておられる播磨学研究所所長の中元孝迪さんにお話を伺います。
ここまで若き日の官兵衛と黒田家にゆかりの地を訪ねてきましたが官兵衛は兵庫ここ播磨に特に関わりが深い事が分かりましたね。
そうですね官兵衛のおじいさんの重隆の時代にこの姫路に黒田一族がやって来るんですね。
そこで…まあ伝説ですけれども家伝の目薬を広峯神社の神符に付けて売ったところ非常によく売れたし神符もよく売れたという事で黒田家は財を成すわけですね。
まあお金をもうけたという事になりますね。
その同時に人をたくさん集める事ができますからそういう人たちを抱え込んで家臣団を作り上げてそういう財力と家臣団をバックにして姫路の隣の御着という所の小寺家にも仕えるわけですね。
小寺家の中でも重隆黒田一族というのは非常に優秀な一族という事ですぐに家老として取り立てられて。
そしてこの御着のお城の出城として姫路城がありましてその姫路城を任されるとそこから黒田家が姫路の城主として大きく羽ばたいていくという事になるわけですね。
そして城主となった官兵衛がここ姫路の地で初めて戦の指揮を執る事になるんですね。
そうですね。
官兵衛は22歳で家督…若いですけれどもね家督を受け継いでその翌々年にその戦い「青山の合戦」というんですけれども黒田家が大きく発展をしていくきっかけになった非常に官兵衛にとっては重要な戦いだったと思いますね。
なるほど。
それでは軍師として片りんを見せる若き日の官兵衛の活躍を見る事にしましょう。
姫路市の西を流れる夢前川。
黒田官兵衛が若き日に初めて戦の指揮を執ったのはこの川に近い青山の地でした。
父に代わって姫路城代となった官兵衛は軍を率いて川の東にある土器山に陣を張ります。
そして姫路城を狙って押し寄せる龍野城主赤松氏の軍を迎え撃ったのでした。
見通しの利く山頂から敵の動きを察知した官兵衛は川を渡って西の青山方面へ兵を進める策に出ました。
夢前川の西道が交差した所に古い道しるべが建っています。
敵は西の備前方面から近づいてきます。
官兵衛軍は迎え撃つために西国街道を通って西の青山へ進んだと言われます。
官兵衛軍と赤松軍が戦いを交えた青山古戦場の中心は今はゴルフ場になっています。
官兵衛軍は僅かな手勢で夜襲をかけ3,000もの若松軍を打ち破ったといいます。
父黒田職隆に代わって初めて軍を指揮して初陣を飾ったのでした。
当時からあったという千石池。
戦いで亡くなった兵士たちの首が沈んでいるので「戦国池」とも記されたと伝えられます。
官兵衛はこの戦いで敵を撃退し武将としての名を上げました。
そして後に羽柴秀吉の軍師となる片りんを見せたのでした。
兵庫県姫路市を流れる夢前川の近くに英賀城の跡があります。
住宅地の中に本丸跡を示す碑が建っています。
この地で黒田官兵衛は2度の戦いを行いました。
山陽電車の通るこの辺りはかつて英賀の港でした。
迎える官兵衛軍は500ほどでしたが近隣の農民を動員して背後に大軍がいるよう見せかけて撃退します。
英賀城跡に英賀神社が建っています。
「播磨国風土記」に登場する英賀彦と英賀姫が祭られています。
境内の奥に土塁が残されています。
天正8年城主三木氏が毛利方についたため英賀城は官兵衛が率いる秀吉軍に攻められました。
社殿近くに司馬太郎自筆の「播磨灘物語」の文学碑が建っています。
この作品で官兵衛の事が一層知られるようになりました。
司馬の先祖は英賀城を守る武将だったとも言われます。
この地は「英賀御坊」と呼ばれる本徳寺の寺内町として発展しました。
門徒たちも武士と共に英賀城に籠城して戦いに挑みます。
その拠点となった本徳寺は失われましたが近くの明蓮寺の境内には「英賀本徳寺跡」の碑が移築されています。
武士と門徒たちの必死の攻防もむなしく英賀城は戦火に包まれて落城しました。
門徒たちが激しく抵抗する姿を見ながら官兵衛はどのような思いで城を攻めたのでしょうか。
兵庫県の西播磨佐用町を佐用川が緩やかに流れています。
川の西に姿を見せている小高い山に織田方と毛利方が奪い合った上月城の跡があります。
ここはかつて北の因幡へ向かう道西の美作や備前へ向かう道が交差する交通の要衝でした。
天正5年毛利方の進出を食い止めるため秀吉軍は美作との国境にある上月城を押さえようとします。
城跡には敵を防ぐための堀切の跡が残っています。
難攻不落と言われた上月城でしたが官兵衛が率いる秀吉軍に攻められて落城しました。
本丸跡には城を築いた赤松氏の供養塔が祭られています。
上月城の北の守りとして福原城がありました。
官兵衛は上月城攻略を前にまず福原城を攻めました。
土塁に囲まれた本丸跡が僅かに面影を伝えています。
本丸跡には城主福原氏を祭る社が建っています。
先陣を務めた官兵衛は城の三方を囲み一方をわざと開けて敵に逃げ道を与えるという「孫子の兵法」を用いたと伝えられます。
翌年今度は毛利軍が反撃に出ました。
この時上月城は尼子勝久と山中鹿介が城を守っていましたしかし信長は上月城を見捨てるよう命じました。
官兵衛はやむなく撤退します。
上月城は半年の間に2度も落城したのでした。
官兵衛上月城が落城したあとには人生で最大とも言える試練に立たされるというわけなんですね。
その時秀吉が中国攻めに入ってきてるわけですけれども姫路に本拠を置いた秀吉のお城が東側ですねここにある三木城。
それから更に摂津の伊丹の有岡城。
ここの城主三木は別所氏。
伊丹の有岡城は荒木村重。
この2人が信長秀吉に対して謀反を起こす。
ちょうど西の方には毛利がいる。
後ろにこの2つの反乱軍がいるという事で秀吉軍は挟まれて前と後ろに敵を抱えて最大のピンチになるんですけれどもそれを打開するために官兵衛は有岡城に乗り込んで説得に当たるわけですけども説得に失敗したっていうかそこで捕らわれの身になってしまうわけですね。
そこで生死の境をさまようという事で秀吉軍も危機に陥るし官兵衛自身も生死の境をさまようという人生最大の危機に陥っていくわけですね。
それでは三木城そして有岡城とその後の官兵衛の活躍をたどってみましょう。
兵庫県三木市の中央を美嚢川が流れています。
川に沿った丘に「干殺し」という悲惨な戦いが行われた三木城の跡があります。
若き城主別所長治は迷った末に織田方と敵対する毛利方につく事を決めます。
三木城を攻め落とすため秀吉の2人の軍師黒田官兵衛と竹中半兵衛は敵を兵糧攻めにするという作戦に出ます。
そのため三木城を取り囲むように…それぞれの付城で敵の動きを監視して兵や物資の補給路を断つという作戦です。
三木城の北東に…山道を5分ほど登ると山上に着きます。
合戦中に秀吉はここで茶会を開いたと言われます。
官兵衛もくつろぎのひとときを過ごしたのでしょうか。
平井山の近くに竹中半兵衛の墓があります。
半兵衛はこの戦いのさなか病に倒れ36年の生涯を閉じたのでした。
このころ官兵衛は織田方に反旗を翻した荒木村重を説得するため向かった伊丹の有岡城で捕らわれの身となっていました。
籠城から2年後城主別所長治は家臣や領民たちを救うために一族と共に自刃して果てました。
本丸跡に23歳で亡くなった別所長治の辞世の歌を刻んだ石碑が建っています。
命を捨てて家臣や領民たちを救った若き城主は今でも地元の人たちに慕われています。
JR福知山線伊丹駅のすぐ近くに黒田官兵衛が幽閉された有岡城の跡があります。
有岡城は鎌倉時代に台頭した伊丹氏の城で「伊丹城」と呼ばれました。
その後織田信長の武将だった荒木村重が城主となり城の名を「有岡城」と改めます。
城郭の中心だった本丸を囲んでいた土塁と復元された石垣が僅かに当時の面影を伝えています。
有岡城は侍屋敷や町家など町全体を守る「惣構え」の城郭でした。
町並みを北へ向かった所に…ここには惣構えの北を守るとりでがありました。
境内を囲むように一段と高くなっているのが…天正6年村重は突如信長に反旗を翻し毛利方につきます。
そこで村重をよく知る官兵衛が説得に向かいますが村重方に捕らえられてしまいます。
土牢に幽閉されて音信が途絶えたので毛利方に寝返ったとさえうわさされました。
それから1年ほどたって有岡城は落城します。
助け出された官兵衛は疲れ果てた心身を有馬温泉の湯で癒やしたと伝えられます。
有岡城跡の南西にある墨染寺に供養塔が建っています。
落城の時村重は逃れ残された一族は女性に至るまで処刑されました。
この女郎塚はその悲劇を後世に伝えるための供養塔と言われます。
有岡城は本丸跡などが僅かに残るだけで官兵衛が幽閉された土牢がどの辺りにあったかは分かっていません。
兵庫県の西播磨地方。
宍粟市の中央を揖保川が流れています。
川の向こうに見える小高い山に黒田官兵衛が初めて城主となった篠ノ丸城の跡があります。
市の中心に近い交差点に古い道しるべが建っています。
日本海の方へ向かう因幡道と西の方へ向かう美作道が交差する所です。
この地は古くから京の都と西国を結ぶ交通の要衝で軍事上も重要視されました。
篠ノ丸城跡は中国自動車道山崎インターチェンジの北にある山の上にあります。
この城を支配していたのは赤松氏一族の宇野氏でしたが官兵衛が率いる羽柴秀吉軍の播磨攻めで落城します。
官兵衛はこの戦いの功績を認められて1万石の知行地を与えられ初めて大名の列に加わりました。
そして後にこの篠ノ丸城の城主となります。
本丸の周辺には土塁や空堀と思われる跡が残されています。
本丸の西の一段高くなっている所が…常に先を見据えていた官兵衛は初めて与えられた城に立ってどのような思いを巡らせたのでしょうか。
官兵衛はこの城に落ち着く事はできませんでした。
秀吉の側近として各地を転戦して回るのです。
姫路城の近くに設けられている…館内には大河ドラマに関わる多くのものが展示されています。
こちらは官兵衛時代の姫路城を再現したものです。
この時代天守などなかったんですね。
官兵衛が幽閉された有岡城の土牢が再現されています。
このように狭い牢屋の中に官兵衛は1年余りも閉じ込められていました。
ここには官兵衛時代の姫路城の物見櫓が再現されています。
城主だった官兵衛は姫路城が毛利氏攻略の拠点になるとし秀吉に献上します。
その後秀吉の命によって淡路へと進撃します。
今度はその様子を見る事にしましょう。
兵庫県播磨地方の中心姫路市。
姫路駅の北に姫路城がそびえています。
「白鷺城」「白鷺城」とも呼ばれます。
その中央に美しい姿を見せるのが…関ヶ原の戦いのあと播磨を領した池田氏が8年の歳月をかけて完成させた名城です。
官兵衛は天文15年にその小さな城で生まれたとされています。
そして後に家督を継いで姫路城の城主となります。
姫路城のあるこの地は播磨平野の中心に位置しています。
秀吉はここに天守を持つ城を築きましたがそれらのほとんどは失われてしまいました。
この石垣は秀吉時代のものです。
官兵衛は城の普請に重要な役割を果たしました。
当時のものと伝えられるこの油壁は砂と粘土を塗り固めたもので鉄砲の弾もはじき返すほどの強さがあったと言われます。
3層4階建てで上に望楼をのせた形でした。
官兵衛が姫路城の城主だった時代の城の名残はありませんが僅かに官兵衛にゆかりがあるとされるものがあります。
屋根の中央に置かれた鬼板瓦には十字紋が彫られています。
魔よけともキリシタンだった官兵衛に関わる瓦だとも言われます。
姫路城は毛利攻めに重要な役割を果たす事になります。
秀吉に城を譲った官兵衛の先を見通す力が改めて見直されます。
兵庫県姫路市を流れる市川の近くに小さな山が見えています。
ここに黒田官兵衛がしばらくの間居城とした国府山城の跡があります。
この城はかつてこの地を治めた豪族の名にちなんで「妻鹿城」とも呼ばれました。
「妻鹿城跡」と刻まれた石碑の近くにかまどの神を祭った祠があります。
祠のそばから続く山道をたどっていくと大きな岩の壁がありました。
自然の要塞の役割を果たしたのでしょうか。
山道を15分ほど登ると山頂に着きます。
秀吉は三木城を居城にしようとしましたが毛利氏攻略を前に官兵衛は自らの城である姫路城を秀吉に譲ります。
そして父が居城としていたこの城に移りました。
この地は西側が敵を寄せつけない絶壁となっているなど地形に恵まれた上戦略的にも優れた場所でした。
国府山城の近くにはこの城で亡くなった官兵衛の父職隆の墓所があります。
中央に五輪塔が祭られています。
屋台が激しくもみ合う…妻鹿地区の屋台を飾る刺しゅうの武者は官兵衛の家臣…妻鹿の地は太兵衛の故郷でもあります。
太兵衛は槍の名手で家臣の中で最も勇猛な武将として知られました。
本宮八幡神社には太兵衛生誕の地の碑が建っています。
国府山城へ移って間もなく官兵衛は秀吉に従って毛利氏攻略に奔走するのでした。
淡路島南部兵庫県南あわじ市に黒田官兵衛が攻略した志知城の跡があります。
天正9年官兵衛は秀吉から志知城へ向かうように命じられました。
四国攻めの拠点を押さえるためでした。
城主野口氏は淡路に軍を進めてきた官兵衛に城を明け渡します。
淡路での攻略が成功した事を知った秀吉は天正9年11月に播磨から淡路に入ったと言われます。
二の丸跡に置かれた平たい石は「太閤石」と呼ばれます。
志知城に出向いた秀吉がこの石に座ったと伝えられています。
ここは瀬戸内海にも通じる淡路水軍の基地で四国攻めの重要な場所でした。
志知城跡の近くに…本堂に志知城の位置を示した古い地図が掲げられています。
城の近くまで湾が入り込んでいた事が分かります。
同じ頃淡路島中部に由良城がありました。
安宅氏が支配するこの城も秀吉軍によって攻略されました。
官兵衛もこの戦いに加わり由良城は落城します。
城山の中腹に石垣が残されています。
この地は海上交通を制するための重要な地でここを秀吉軍が押さえて淡路支配が決定的なものになりました。
淡路を平定した官兵衛は翌年備中高松城攻略へと向かいます。
ここまで兵庫の官兵衛のゆかりの地を訪ねてきましたがそれぞれの土地を通して軍師官兵衛の姿がよみがえってくるようでしたね。
そうですね。
それぞれの戦いそれからいろんな所で行った行動…言動といいますかねこういうのを見てきますと黒田官兵衛という人は播磨という地域を踏み台飛躍台として大きく成長していったと思われるんですね。
播磨の中でいろんな言動を繰り返してるわけですね。
時には軍人であるしそれから政治家でもあるしあるいは時には思想家のような言葉を吐きながら時代を前に進めていこうと。
今から見ますと官兵衛の時代というのは中世という古い時代から近世という新しい時代に変わる変わり目なんですね。
その時代を官兵衛という人は自分の言動力によって切り開いていこうと。
そういう事をしようとした。
その舞台が兵庫・播磨であったというふうにみればいいんじゃないかと思いますね。
今後大河ドラマで官兵衛の活躍ますます楽しみになりますね。
楽しみにしたいと思います。
今日はどうもありがとうございました。
2014/12/07(日) 03:25〜04:10
NHK総合1・神戸
ひょうご 官兵衛を訪ねて「総集編」[字]
平成26年の大河ドラマ「軍師官兵衛」の放送を機に、戦国時代に活躍した軍師、黒田官兵衛の兵庫県内のゆかりの地を訪ね、その足跡を紹介したミニ番組の総集編。
詳細情報
番組内容
平成25年12月から放送してきた兵庫県内の黒田官兵衛ゆかりの地を訪ねるミニ番組「ひょうご 官兵衛を訪ねて」。姫路市の広峯神社、青山古戦場、御着城、国府山城、英賀城、姫路城や、加古川市の志方城、宍粟市の篠ノ丸城、伊丹市の有岡城、三木市の三木城、佐用町の上月城、南あわじ市の志知城といったこれまでの放送分に、播磨学研究所長の中元孝迪氏による官兵衛に関するトークを加えてお送りする。
出演者
【ナレーション】楠井まどか,【解説】播磨学研究所所長…中元孝迪,【聞き手】中村由香
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
趣味/教育 – 旅・釣り・アウトドア
ドラマ – 国内ドラマ
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