さあさあ皆様新年度も居酒屋「知恵泉」はおいしい歴史の知恵をたっぷりお届けしますよ。
(伊達)あれ?隈さんやってますねこれ。
大将!いらっしゃいませ。
あらあら!やめずに続けてましたか。
そりゃそうですよ。
隈さん開いてますよお店。
すごいですね。
いい感じですね。
1周年頑張りましたね随分。
ありがとうございます。
1周年で更にですね営業時間も拡大して頑張っていこうかなと…。
すばらしいじゃないですか。
お掛け下さいよ。
どうぞどうぞ。
よろしくお願いします。
隈さんは今お忙しくされてどんな事をされているんですか?「ただ世界を飛び回ってる」。
なかなか言えないですよこれ。
言いたいですねいつかね。
世界を飛び回ってるだけだと。
でも今日はね伊達さんがいらっしゃるというんでね特別にこんなもの作ってみましたよ。
お〜!伊達巻き。
何だこれ!すごいじゃないですか。
ほんとは正月にお出しするものなんですが。
これすごいですよほら。
きれいですね。
あんまりおいしそうじゃないって…。
これ何で「伊達巻き」と言うかご存じだったりしますか?確かにこれは伊達巻きって言いますけど何でしょうね。
何ですかね。
考えた事なかったな。
「伊達男」って言うじゃないですか。
よく派手だったりとかかっこよかったりとかする。
奇抜な人だったりする。
諸説はあるんですけれどもこの色とかこの豪華さそこから「伊達」という名前が付いたのではないかと言われてるんですよね。
そうなんですか。
という事でもうお分かりですよね。
今日取り上げる人はこちらでございます。
独眼竜政宗伊達政宗です。
今宵は戦国という厳しい競争社会を生き抜き確固たる地位を築いた伊達政宗の登場です。
この政宗を象徴する言葉があります。
それは…。
政宗は18歳の若さで家督を相続。
野心をたぎらせ奥州で領土拡大の戦を重ねていきます。
しかし政宗の前には豊臣秀吉や徳川家康といった強大な権力者たちが次々と立ちはだかります。
戦国のサバイバルレースにいわばルーキーとして飛び込んだ政宗はつわものたちと渡り合うさまざまな知恵を身につけやがて大大名へと上り詰めていきます。
政宗が身につけた…政宗の知恵を読み解くのは…去年4月に完成した五代目歌舞伎座や素材の魅力を生かした特徴的な建築などその作品は世界の注目を集め続けています。
しかしそんな隈さんも若い頃に苦い挫折の経験がありました。
意欲を燃やした建築が理解されず東京では10年もの間仕事の依頼が途絶えました。
そこからどのように立ち上がったのか?群雄割拠する建築の世界を生き抜く隈研吾と戦国のルーキー伊達政宗。
今宵2人はどう響き合っていくのか?というわけで今日は伊達政宗に学びます。
こちら。
「新参者の成功法」というテーマで見ていきたいと思うんですね。
隈さんどうでしょう?自分の身に置き換えてみて若い頃秀吉とか家康とかそういうような存在というのは?いましたね。
ちょうど僕が卒業して世の中に出る頃っていうのは磯崎新とかね黒川紀章とかね戦後日本を代表するような建築家がもうバリバリでね。
偉そうと言っちゃ何なんだけど輝いてた時代なわけですよ。
威嚇してませんよ。
若い頃は…。
そりゃ大御所と言われる方が今も現役ですからね。
そういう人たちにどうやって伍していくのかと。
なんとか名前覚えてもらおうとかそういうレベルですよね。
爪痕残すぞとか番組出たらとかそういう気持ちですね。
やっぱりこう無我夢中な。
無我夢中です。
そこでね今日は最初のつきだし。
こちらなんです。
これはね春のお味ですよ。
今日のテーマにぴったりなお料理だと…。
いかがでしょう?大人の味ですね。
でも御飯にも合いますねきっと。
これ御飯も食べたくなるな。
こういうちょっとほろ苦い青春時代を政宗は送ったんです。
山形県米沢市。
18歳の政宗はこの地で父から家督を譲り受けます。
当時の政宗は野心家そのもの。
周囲の大名に次々と戦争を仕掛けその武力を誇示していきます。
「この度の戦では五百人余りを討ち捕らえ」。
「女子供まで全てなで切にした」。
ある時政宗のもとに敵対する大名が投降を申し入れてきました。
現れたのは隣国の大名畠山義継。
自分の命と引き換えに家臣の領地だけは保障してほしいと懇願します。
しかし政宗はそれを拒絶。
追い詰められた畠山はついに暴走します。
降伏すると見せかけて…家督を継いでまだ1年。
19歳の政宗にとって父は大きな支えでした。
しかしこのままでは輝宗は敵の手に落ちてしまう。
追いすがる政宗に向かって輝宗は悲痛な叫びを上げます。
決断を迫る父の言葉に政宗のとった行動は…。
放て!自らの強引な行いによって父という大きな存在を失ったのです。
野心だけではやがて身を滅ぼす。
ここから政宗は戦国の世を生き抜く駆け引きを学んでいくのです。
取り返しのつかないような若気の至りというんですかね。
ほんとに大きな決断ですよね。
撃てって言うのは。
(佐藤)こんばんは。
いらっしゃいませ!どうもどうもいいところに。
こんにちは。
こちら政宗研究の第一人者佐藤憲一さん。
政宗の手紙など史料を詳細に調べ新たな政宗像を構築してきました。
今ね政宗のつらい時代のお話をしていたんですけれどもこの経験というのは政宗にとってどういったものになったんでしょうか?やっぱり一生忘れられない経験と言っていいと思いますよね。
このあと弔い合戦みたいな形で有名な人取橋の合戦という合戦をやるんですけれどもその時身につけた鎧があの兜なんですね有名な。
それを政宗は生涯大事にしていたと。
隈さんいかがでしょう?若かりし頃の自分の若さゆえの失敗というのはやっぱりあったんですか?ありますねいろいろ。
何かねやっぱり仕事が僕が事務所始めた時ってバブルの真っ最中で30そこそこで大きな仕事が来たんですよ。
大先輩に負けないようなのを造ろうと言ってガーンとこう…割と派手なデザインでやったらばそれがM2ビルっていうこのビルなんですよね。
すごいですね。
またこれは今までにないような。
これよく見るといろんな要素が入っててギリシャの神殿みたいなすごく古典的なものも入ってるしそれから左側のシルバーのやつは高速道路の遮音板なんですよ。
高速道路の脇にず〜っと遮音パネルがついてるでしょう。
普通建築には使わないようなパネルをそのまま持ってきてね。
そういう歴史も現代もごちゃまぜになった今の東京みたいのをここの中で見せたかったんですよね。
この混沌とした感じが今であると。
そしたら先輩たちから「これはバブルの象徴」みたいな言い方をされてね。
結構ケチョンケチョンにいろいろ言われたりしてね。
その裏には隈さんのやっぱり気負いというか野心というかそういったものもあったりは…。
あったと思いますね。
先輩たちじゃない俺を出そうという気持ちがないようなクリエーターはいないと思いますよ。
このあと権力者たちの圧力にさらされながらどうやって立ち回っていったんでしょうか?その政宗の知恵こちらで味わって頂きたいと思います。
政宗は23歳で奥州の半分およそ120万石という広大な版図を手中に収めます。
ところがそこに立ちはだかったのが…政宗を警戒する秀吉は強大な軍事力を背景に政宗が戦で奪った…しかしその領地は父輝宗や多くの重臣たちの命と引き換えにようやく得たもの。
やすやすと応じるわけにはいきません。
当時の政宗の言葉です。
天正18年6月政宗は大きな決断を下します。
小田原北条氏と交戦中の秀吉のもとに死に装束で参上。
そして隣国の大名から奪った領地の返上や国替えを甘んじて受け入れます。
合計60万石の貴重な領地をあえて一旦捨てて次なる勝機をうかがっていったのです。
10年後政宗は再び動き始めます。
秀吉の死後徳川家康と石田三成の覇権争いが激化。
衝突は避けられない事態となります。
すかさず政宗は実力者家康への協力を表明。
そのかわりにある約束を取り付けます。
それはこの7つの領地の加増でした。
領地は合計50万石。
実現すれば政宗は再び百万石を超える大大名に返り咲きます。
慶長5年9月ついに家康と三成は関ヶ原で激突します。
政宗は三成に協力する会津の上杉氏を攻撃し東北にくぎづけにします。
ところが家康が政宗に与えたのはたったの4万石。
なぜ家康は約束を実行しないのか?家康の胸の内を物語るものが残されています。
ここに家康が江戸城内に安置したと言われる仏像が今に伝えられています。
高さ40cmほどの木像。
これは戦いの神…実はこの像が置かれた向きに特別な意味がありました。
北方をつかさどる毘沙門天は多くの場合北を背にして祭られます。
ところがこの毘沙門天は反対に北に向けて安置されました。
家康に目をつけられたままでは伊達家の発展はない。
政宗はまたしても一旦捨てる事で勝機をうかがいます。
捨てたのは城の天守閣。
政宗の仙台城には同時代の威容を誇るような天守閣がありません。
家康に警戒されぬよう政治的な野心を示すものをあえて造らなかったといいます。
更に徳川と豊臣が衝突した大坂冬の陣政宗は家康に味方し今度は自分のプライドをも一旦捨てます。
「私の息子ですがまぬけでぼんやりしておりまして」。
「いまだに領地を頂いておりません」。
「つきましては江戸での勤めができるよう知行をお頼み申し上げます」。
あえて自分の名は捨てあくまで息子に対して領地を与えてほしいと切り出したのです。
ついに家康が折れます。
慶長19年政宗の息子秀宗に伊予宇和島10万石の一国が与えられます。
政宗の勢力拡大を阻み続けてきた家康から新たな領地をもぎ取ったのです。
「捨てるが勝ち」の政宗の半生。
後年こんな言葉を残しています。
よっぽど大人になってますよね若い頃と比べると。
いろいろ世間を知っての考えですよね。
隈さん実際の捨てるという事に関してはどうでしょう?一旦身を引く。
ものすごい共感しちゃいますね。
というのは?M2のあとに地方を回って地方で小さなプロジェクトがいろいろあってね。
小さなプロジェクトなんだけど逆に言えばすごい力を持ちえる存在感のある建築って造れるんだと。
それはデザインでいうと捨てる技術で何かできる建築なんですよ。
例えばうんと軒の高さをわざと低くするとか周りに使ってる…民家と同じような材料で造るとか一見目立つとは逆な事をやるわけ。
でもそれが実はすごい建築に力を与えてくれるという事に気付くんですね。
何かもろいものなんです。
だからそんなつまらない自己主張じゃなくて…面白いですね。
「捨てる」というところは結構思い切った考えじゃないかなと思うんですよね。
勇気が要る事だと思うんですが。
ちょうどねバブルがはじけてM2が出来て前後に自分でね大けがしたんですよガラスのテーブルを割っちゃって。
それで神経と筋が全部切れちゃって。
実はしばらく全然右手が動かなくて。
それで右手…それまでね結構自分でよくスケッチしてたの。
スケッチやったら俺うまいぞみたいな感じで。
それで「右手動かなくなっちゃった」と言って。
字も書けないしねスケッチも何も描けないしばらく。
でもこれって俺にとってよかったかもなってその時思ったんですよね。
なかなか思わないですね。
その事故の時はショックですよ。
それはショックだけど…これ隈先生にもお聞きしたいんですけれども政宗も恐らく夢みたいなもの確固たるものどこかに持ってるからそういう一度ガターンと奈落に落とされたようなとこからもはい上がれる。
いつかともかく世界一の建築家になると…。
そんな大それた事は考えてなかったんですけど何しろ…それがどういう建築が自分が造れるか分からないけど何しろ彼らのまねだけは絶対したくない。
自分だけのものを造りたいってそういう気持ちは強くありました。
秀吉とか家康とのやり取りを見てきたわけですけれども戦国時代というのは身内にも寝首をかかれるというんですかそういう…気を付けなくてはいけないという事なんですよね。
政宗はどういうふうに人間関係を構築していったのか?今回の政宗の知恵はですねこちらなんですけれども伊達さんに…みずからですよ。
私がですよ。
そんなに言います?そんなに言われながらつがれるとあんまり気分良くないですね。
是非味わって下さい。
ちょっと時代は遡り政宗が奥州で戦を繰り広げていた天正16年。
政宗は宿敵蘆名氏らと激突します。
両者の勢力はきっ抗。
半年にわたり激しい攻防を繰り返していました。
もしもこの状況で最前線で戦う味方の郡山氏が敵に寝返れば形勢は一気に逆転してしまいます。
それを危惧した政宗はある策を打ちます。
当時戦国大名の多くは手紙を「右筆」と呼ばれる家臣に代筆させていました。
ところが政宗は右筆に頼らず自ら多くの手紙を書き記しています。
知られているだけでもその数なんと…政宗が郡山に宛てた手紙です。
「そなたの処遇について」。
そしてこう強調します。
「この手紙はそれがしの自筆である」。
自筆の書状で信頼性をアピールする政宗。
郡山は寝返る事なくその後も忠実な家臣として戦を共にしていったのです。
ある時政宗は仙台城下に流れる広瀬川を改修し川の流れを変える計画を立てます。
季節は秋。
水は冷たく岩をも押し流すほど速い川の流れに工事にあたった人々は疲労困ぱいでした。
その時突如藩主政宗が自ら河原に現れ叫びます。
政宗は工事にあたる人々のために大釜に酒を沸かし弁当を振る舞います。
更に政宗自らも土砂を担ぎ工事に加わりました。
がぜん士気は高まり皆叫び声を上げながら我先にと川へ向かいました。
そしてたちまち土手が完成したのです。
徳川家の歴史書「徳川実紀」には政宗についてこんな記述があります。
徳川家康から警戒されていたはずの政宗を絶賛?その秘密は…。
政宗はなんと自ら考えた献立で家康から三代家光までの将軍を盛大にもてなしていました。
鯛やあわび当時権力者しか食べられなかった白鳥など最高の食材を全国から取り寄せました。
更に気遣いもこまやかです。
はいお待たせいたしました。
今日は政宗の知恵にちなんだお料理をご用意しましたので味わって頂きたいと思います。
こちらなんですけれども…。
あらおいしそう。
店主自らお取りいたしました。
自らですよ。
強調し過ぎですか?何とも思いませんこっちは。
政宗が自ら考えた将軍のおもてなし料理。
まずは…切り身を酒につけ込み更に酒を煮詰めた調味料で味付けした高級料理。
お次は…なまこやあわびまた大根やごぼうなどの根菜がたっぷり入った味よし健康にもよしの一品です。
一般の方は食べる事ができない…。
そういう事になります。
超高級料理。
それはうれしかったでしょうね。
それを政宗が自ら手ずから出したわけですからね。
あら!うまいですね。
おいしいですね。
これはおいしい。
隈さんいかがでしょうか?ほんとおいしい。
これうまいですよ。
まだまだあるんですよ。
はいこちらが…。
何だこれ?「巻きスルメ」というものです。
その名のとおりスルメを巻いて煮たものなんですけれども。
初めて見ましたね。
いただきます。
かたいでしょう。
ハハハハ!これはしばらく時間かかりますね。
ほんとに。
政宗の将軍への気遣いはまだまだ続きます。
こちらは…そして…政宗は家中で作って出来の良かった食べ物もさりげなく将軍に贈り反応をうかがっていました。
「教えて下さい」なんてそんな事も。
まめですね。
まさに気配り。
気配り上手。
おもてなし。
隈さんは建築のプロジェクトもちろんリーダーという形になるわけですけれども自ら出ていくそういった事が大切だという事は思われますか?建築っていうのは建て主…お金出す方もすごく不安になるんですよ。
ほんとに大丈夫かなこれちゃんとした建物出来るかなとかね。
工事現場なんてグチャグチャなとこでねもうすごい不安になるわけ。
こんな自分何十億も何百億も出してほんと大丈夫かなって。
その時に僕が現場に行って一緒に説明してこんなふうになってものすごくいい感じになるんですよって僕が言うとやっと安心する。
安心しますよね。
それすごい大事なんですよ。
で食べる事の大事さもすごくよく分かる。
特に中国とかあとフランスイタリアスペインとかね…へ〜そういう場なんですね。
そういう場なんですよ。
例えば外国からいろんなそういう人が来る時も豪華なものは別に連れていく必要全然ないの。
でもこの人センスいいなとかこの人は信頼できるなって思わせるに足るような何かおいしいものを食べさせるっていうのがとっても大事なんですよね。
その心…。
そこに心が籠もってるかどうかそこが大事なんじゃないかなと。
先生政宗は人間関係というものをどういうふうに捉えていたんですか?政宗は交友関係見ていくと実は非常に幅が広いなって感じがするんです。
そういう事が可能だったのは恐らく政宗のあの教養とそれから趣味ですね。
実は漢詩なんかもたくさん作っていて戦国大名で漢詩をこれだけ作るというのは非常に珍しいと思います。
僕も中国の人にね…お前こんな字書けるのかとかこんな漢詩知ってるのとか「論語」のこんな言葉知ってるのとか言われるとねそれだけで全然違う関係になる。
グッと近づくっていう感じなんですね。
まだまだお話尽きないんですが実は私自ら仙台に行ってとっておきの話を仕入れてきたんですよ。
そちらを味わって下さい。
主人公ゆかりの土地を訪ねとっておきのネタをお届けする…。
本日は政宗が築いた仙台城本丸跡からスタートです。
やっぱり仙台に来たらこの騎馬像ですよね。
政宗さんかっこいい〜。
寒い中来たかいがありましたね。
何やらわしの事を調べているようじゃな。
わし?政宗さんですよ。
そのとおりじゃ。
我らは奥州仙台おもてなし集団伊達武将隊。
伊達武将隊の皆さんは仙台を訪れる人々にその魅力や地元ならではの情報を伝えています。
実はの…
(伊達武将隊)おう!おう!あれ?遅いぞ。
ん?わしの前を通るとは無礼じゃなお主。
まあそう言わずに。
井上殿こちらがその…。
おぉ〜!先ほどいた仙台城本丸から三の丸に移動するとこちらの政宗の胸像を見る事ができます。
しかしこの上半身だけは見事に残っておったのじゃ。
お顔だけは残ってるというのはやっぱりちょっと畏れ多いというところもあったんでしょうかね。
自分で言いますか。
そうじゃろ?お主ら。
そうじゃな。
政宗さんに見送られ続いてやって来たのは江戸時代創業のお菓子屋さん。
こちらの店のいちおしはその名も…仙台駄菓子とはもち米やあんこなど素朴な材料で作られた庶民のお菓子。
種類はおよそ30にも上ります。
ここにもやはり政宗が関係しているんです。
最後に訪れたのは…。
井上と申します。
ようこそいらっしゃいました。
宗さんはここで伊達家に伝わる礼法の教室を開いています。
私も教えてもらう事にしました。
まずはあいさつ。
将軍や他藩の大名などと会う時には決まったあいさつの形式がありました。
ごきげんよう。
ごきげんさまでございます。
次はふすまの開け方。
部屋の中の人を驚かさないようノック代わりに3段階で開けていきます。
政宗も部屋に入る時は必ずせきばらいをしてからふすまを開けたそうですよ。
そして酒の席にも伊達流の作法があるんです。
手刀を作るような形。
このような形で。
この時に3回に分けて注ぎます。
えっ何ですか?ソビソビバビ。
細く細く太くといきます。
ネズミの尻尾のように細く細く2回馬の尻尾のように太く1回。
今度は私も挑戦。
意外と難しいんですよ。
ほそ〜く2回。
この量の調整がまた難しいんですけどね。
しかし今日は政宗のいろんな知恵を見てまいりましたが伊達さんは今日は政宗の知恵どう味わって頂けましたか?やっぱり見習うところがすごく多いなと思いましたね。
この現代社会においても同じような事は…。
そこはしていかないといけないなと。
仙台では政宗はですね「筆武将」と言われてるんですよね。
そして今日隈さんはどんな事を知恵としてお感じになったでしょうか?秀吉家康がいたっていう要するにすごい厳しい環境に荒波にさらされて今のこれからの日本人というのもそういう国際化とかねグローバリゼーションとか荒波の中で個人で闘っていかなきゃいけないわけです。
もう組織に頼れないという。
一人で何ができるか。
食べ物の話も教養の話も心遣いの話も全部これからの日本人が持たないと国際化の中に打っていけないという知恵ですね。
そして隈さんならではの新規参入の極意というんですか知恵というのはどういうふうにお感じになってますか?いろんなノウハウがあるけどでもその奥にあるのはやっぱりねやっぱり勇気じゃないかと思うんだ。
勇気?そういう知らない人の中でなんとか俺やっていけるかもしれないっていう勇気と楽観的な明るさ。
結局はそれじゃないかな。
伊達政宗はそうやってお酒が好きでねやっぱ明るい人だったんじゃないですかね。
だと思いますね。
勇気と楽観性。
これどうやったら持てますかね?じゃお酒を飲んで勇気と楽観性持ちましょうか。
皆さん右手ですよ。
敵意なしは右手。
僕は大将に右手を常に空けておかないと。
はい。
じゃ乾杯。
ハハハハ!皆さんとは右手。
2014/12/23(火) 05:30〜06:15
NHKEテレ1大阪
先人たちの底力 知恵泉(ちえいず) 新参者の成功法「伊達政宗」(前編)[解][字][再]
奥州の覇者、伊達政宗は「遅れてきた英雄」と呼ばれる。すでに権力を確立していた秀吉や家康を相手に、政宗はどう立ち回ったのか?新参者が成功するための知恵を学ぶ。
詳細情報
番組内容
奥州の覇者、伊達政宗は「遅れてきた英雄」と呼ばれる。政宗が18歳で家督を継いだとき、すでに豊臣秀吉が天下を手中に収めようとしていた。後から戦国の世にデビューした政宗は、秀吉や徳川家康といった権力者の絶え間ない圧力にさらされながらも、したたかに生き抜き、62万石の仙台藩を築き上げていった。権力者からの不興を買わず、上手に自分の野心をアピールする方法とは? 新参者が成功するための知恵を政宗に学ぶ。
出演者
【出演】伊達みきお,建築家、東京大学教授…隈研吾,仙台市博物館元館長…佐藤憲一,【司会】井上二郎
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ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
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