引っ越しの朝。
ここは宮城県岩沼市の仮設住宅です。
おはようございます。
どうもよろしくお願い致します。
震災の日から3年半。
待ちに待った日がやって来ました。
よしみさん。
は〜い。
移っていく先は海から3km内陸に造成された新しい町です。
苦しい避難生活を強いられてきた人たちがたどりついた再スタートの場。
被災地のトップを切って336世帯1,000人の町が誕生します。
この町を生み出したのは国が進める防災集団移転促進事業。
しかし多くの地域で意見がまとまらず思うように進んでいません。
その中でここは異例の早さで集団移転を成功させました。
いわば復興のトップランナーです。
住民たちがこだわったのは徹底的な話し合い。
会合は3年で120回に上りました。
衝突は何度もありました。
あ〜あ疲れる。
しかしどれだけ壁にぶつかっても住民たちは町作りを諦めませんでした。
全てを失った人々が自分たち自身で作り上げる自分たちの町。
今も続く町作りの3年半の記録です。
宮城県岩沼市に来ています。
私の周りに広がるこの住宅地は津波の被害を受け元の場所に住めなくなった人たちが集団で移転してきて生まれた新しい町です。
自らローンを組んで家を建てる人や公営の賃貸住宅に入る人など336世帯がここで暮らし始めます。
一方被災地全体で見ると震災から3年半たった今も17万6,000人余りが仮設住宅などで不自由な暮らしを余儀なくされています。
国は岩沼のような元の場所から集団で移転するという事業を各地で進めております。
被災地全体で合わせて300か所以上。
このうち100戸以上の大規模な事業が32か所で計画されています。
しかし用地の確保が難しい事や行政と住民の話し合いが進まない事などから事業は思うように進んでいません。
そんな中大規模事業のうち岩沼だけが既に土地の引き渡しも終了しました。
被災地のトップランナーといわれています。
なぜ岩沼ではいち早く集団移転に成功したのか。
そこに被災地の復興に向けたヒントがあるのではないかと私たちは考えました。
まずは岩沼市の震災から3年半の道のりをご覧頂きます。
宮城県岩沼市の中心部にある仮設住宅。
400戸近くが暮らすこの仮設の住民たちが今回の集団移転の主人公です。
今年4月恒例の花見の会が開かれていました。
かつては海岸近くで開いていた集落の花見。
仮設に移ってからは集会所に桜の枝を飾っています。
乾杯!
(一同)乾杯!ここに暮らしているのは岩沼の沿岸部の集落に住んでいた人たちです。
およそ1,700人のうち118人が津波で命を落としました。
仙台空港の南に広がる岩沼市玉浦地区。
震災前海岸沿いには緑の防潮林に包まれるように6つの集落が点在していました。
多くは兼業農家。
周りの水田で米作りをしていました。
3年前の津波は玉浦地区の集落と田畑全てをのみ込みました。
岩沼市の面積の半分が浸水しました。
集落の区長の一人小林喜美雄さん。
あの日避難を呼びかけて回っているうち津波に流されました。
バシャ〜ンと来てあっという間にバッとさらわれたんだ。
見てみますからどこにあるか。
命を救ったのは偶然泳ぎ着いた建物にあった座布団でした。
ほらあった。
座布団を裂いて服の代わりに着込み救助されるまでいてつく寒さをしのぎました。
今涙出てくる。
これのおかげで助かったんだもの。
津波で家を失った住民たちの多くは避難所に身を寄せその後仮設住宅に移りました。
集団移転の話を行政から打診されたのは津波から3か月後の2011年6月の事でした。
国の集団移転事業の仕組みです。
対象は元の住まいが危険な地域にあると認定された人たち。
5戸以上が一緒に移転する事が条件です。
自治体が元の住居の土地を買い上げそれが住民の自宅再建の資金となります。
行き先は住民の合意を得て自治体が決定。
国の補助金を受け土地の造成を行い住民に売却あるいは借地として貸し出します。
そこに集団で移転。
家を建てます。
持ち家を望まない人に対しては自治体が災害公営住宅を建設します。
岩沼では海から3kmほど内陸に入った農地が移転先として示されました。
津波で40cm浸水した地域ですが2mかさ上げして宅地にするという案でした。
集団移転を希望した人の半分が災害公営住宅への入居を選び3割が土地を借り1割が分譲された土地を購入して家を建てると決めました。
津波で家も財産も失った人たち。
厳しい生活の中でローンなどを抱えての再出発です。
2011年秋。
公民館に仮設住宅に住む人たちなど50人が集まりました。
移転先にどんな町を作るのか住民たちが話し合い自治体とも合意しなければ計画は前に進みません。
市はまず住民同士で話し合う場を設けました。
町作りの専門家が参加していました。
岩沼市出身で東京大学大学院教授の石川幹子さんです。
石川さんの発案で移り住む地域がどんな所なのかまず移転先の周辺を歩いて回る事から始めました。
参加者の注意を引くものがありました。
この地方でイグネと呼ばれる防風林です。
ふるさとの景観を作り上げてきたイグネ。
津波による塩害のため至る所で枯れ始めていました。
歩き終えると住民たちは公民館に集まりました。
いよいよ町作りの話し合いです。
石川さんは机の上に何も描かれていない白地図を用意していました。
そしてどんな町を作りたいのか自由に意見を出し合おうと呼びかけました。
ユニークな意見が飛び出します。
実はこの話し合い石川さんから事前にルールが示されていました。
誰もが本音で話せるようにするためです。
(石川)もうみんな好きな事を言う。
自由に言う。
支離滅裂なりに何でもいいんですよ。
まず出す。
出さない限り見えない。
このやり方ほかの集団移転とは大きく異なるものでした。
多くの地域では自治体が町作りの青写真を作り住民に意見を求めます。
一方岩沼では白紙からスタート。
しかも自治体は初め話し合いに加わらず住民同士の議論に委ねたのです。
しかしこの日の意見はてんでばらばら。
とても一つにまとまるとは思えないものでした。
町作りの議論はスタートしたものの仮設の中の雰囲気はあまり盛り上がっていませんでした。
参加する住民はごく一部。
町作りの理想を語っても所詮夢物語。
そんな声も聞かれました。
一方で町作りの動きに小さな希望を見いだしている人もいました。
座布団スーツで九死に一生を得た小林喜美雄さんです。
このころ新たな仕事を始めました。
ダンプカーの運転手。
自宅を再建する資金をためるためです。
息子の組むローンも合わせて孫たちと一緒に暮らす家を建てようと決断しました。
うちのかあちゃんの弁当。
卵焼き定番なんだ。
必ず卵焼きつくんだ。
震災の時会社を定年退職したばかりだった小林さんはこれから農業に打ち込むという夢を持っていました。
それを断たれずっとふさぎ込んでいた小林さん。
そこにもう一度家を建てるという目標が生まれたのです。
東京大学の石川さんがサポートする町作りの話し合いはその後も回を重ねました。
自由に意見を出し合ったあとグループごとにキーワードにまとめて発表します。
どのグループにも共通してた事は…。
キーワードに共通するものがないか石川さんが議論を深めていきます。
すると何を大事にして町を作るかテーマが絞られてきました。
イグネなどふるさとの自然をよみがえらせたいという意見。
新しい町でも地域のコミュニティを大切にしたいという意見。
浮かび上がってきたキーワードはどれもかつての集落のよさを残したいというものでした。
(拍手)年が明けた2012年1月。
この日は出てきたキーワードを基に具体的な町のデザインを考えていきます。
これまでになく多くの参加者が集まりました。
話し合いの評判が次第に広まり興味を持つ人が増えてきたのです。
まず白地図の上に移転用地をピンクの線で囲みました。
チップはそれぞれの家。
6つの集落ごとに色分けされています。
これまでの議論に沿って家や道路の配置から考えていきます。
市の幹部も議論の行方を見守っていました。
口火を切ったのは座布団スーツで九死に一生を得た小林さんでした。
子どもやお年寄りが集える広場が欲しいという意見が次々出ました。
都市計画の専門家石川さんが住民の提案を具体的な形にしていきます。
この日の意見をまとめた全体像です。
町は防風林イグネに囲まれています。
中心には集会所。
コミュニティを保つため円い道路を囲んで集落ごとに集まって暮らします。
ところどころには多くの人が希望した芝生に覆われた公園や広場が描かれました。
かつてのふるさとを思わせる新しい町のイメージ図です。
やっぱり我々が要望出して理想的な事を言っても行政側と仲良くしていかない事には事が進まないと思うんです。
副市長さんよろしくお願いします。
新しい町を作るんだから今まで以上にという事は今言われた中でのヒントの一つになってございますんで話し合いをしながらいい町を作っていきたいと思いますんで皆さんどうぞよろしくお願いします。
今日はありがとうございました。
(拍手)集団移転が打診されてから7か月。
異例の早さでここまでたどりついた岩沼市。
それにはある理由がありました。
震災直後の行政の対応です。
突然起きた地震と津波。
人々は市内29か所の避難所にバラバラに逃れました。
それを市は震災から4日後…主導したのは当時の市長井口経明さん。
阪神・淡路大震災の時支援に関わった経験がありました。
市の指示で同じ避難所に集まった人たちはその後仮設住宅にも一緒に入居する事になりました。
こうしてコミュニティの団結力が保たれた事が移転場所の決定や町作りに当たっても住民合意の大きな力になったのです。
岩沼市の集団移転事業は新たな段階に入りました。
市がまちづくり検討委員会を設置。
各集落から3人ずつ代表が集まり住民と市が初めて同じテーブルに着き話し合います。
石川さんなど専門家も加わりました。
ここから1年半をかけ毎回テーマを決めて計画を詰めていきます。
ずっと話し合いを続けてきた住民たちは町作りに対して既に自分の意見を持っていました。
例えば道路。
市は直線の道路を想定していました。
しかし住民たちは違和感を訴えました。
そこで市はかつての集落のような曲線の道路を受け入れました。
更に敷地内に造る災害公営住宅の配置についても市の案に異論が出ました。
災害公営住宅は自宅再建が難しい高齢者などが入ります。
道路に囲まれて1か所に固まると孤立してしまうというのです。
市の担当者は住民の意見を受け再検討を始めました。
再検討の結果災害公営住宅を2つに分け周りの住民たちと接しやすいように配置を変更しました。
次の検討委員会では市が議論の成果を一つの模型にしていました。
町の4か所に住民たちが希望した芝生の公園が配置されました。
それをつなぐように緩やかにカーブした緑道が走っています。
町を取り囲むように防風林のイグネ。
かつて住んでいたふるさとの記憶をとどめる新しい町が出来上がりました。
集団移転事業の中で最も早くこの時岩沼市はトップランナーとなりました。
岩沼市の集団移転に向けた経緯をご覧頂きました。
いくつかポイントがあると思います。
まず指摘したいのは市が震災直後に避難所を再編し集落ごとのコミュニティを保った事です。
その事で移転先をどこにするかなど難しい課題について住民の意見を集約する事がスムーズに進みました。
更に専門家のサポートを受けながら徹底的に議論を重ねた事が挙げられます。
ほかの自治体でも町作りについて住民の意見は求めてきました。
しかし多くは行政側が計画の青写真を示して意見を聞いたため行政の案を巡って住民の議論がまとまらず合意が難しくなっています。
これに対し岩沼市ではまず住民同士の話し合いを白紙から始めその後正式に市の担当者も交えて何十回も議論を重ねてきました。
一見遠回りにも見えるこのやり方が結果的に住民の合意を早めたのです。
こうして人々が描く新しい町のプランが出来上がりましたが実はこのあと住民たちはさまざまな壁にぶつかる事になります。
去年8月24回目となるまちづくり検討委員会が開かれました。
この日のテーマは住民たちが最も大切に考えていた町の緑です。
ところが市の計画案は意外なものでした。
全面芝生のはずだった公園の大半が土に変わっていました。
町を取り囲むはずだったイグネは防風林としては機能しない街路樹になっていました。
市の見解は住民の思いは理解するが市内に芝生の公園はほとんどなく税金で整備する以上ここだけ特別扱いはできないというものでした。
住民から反対の意見が出ます。
強く異論を述べたのは…中川さんには芝生にこだわる理由がありました。
震災後ふるさとの玉浦地区は若い人が仙台などに出ていき一段と高齢化が進みました。
こんにちは〜。
お帰り。
新しい町を作ってもこのままでは町が廃れてしまう。
若い世代を呼び込むために子どもが安心して遊べる公園を作ろうと心に決めていました。
さようなら〜。
1か月後市から新しい提案が示されました。
最も大きな公園などについては住民の要望を受け入れ芝生を復活させました。
しかし市にできるのはここまで。
維持管理に費用がかかるなどの理由で芝を植えるのは4つの公園のうち2つまでという回答でした。
市は住民たちがこれ以上を望むなら芝生やイグネを自分たち自身で植え管理してほしいと伝えました。
しかしそれには大きな経費がかかります。
苦しい生活の中でそこまでできるか。
重い課題が突きつけられました。
芝生やイグネはどうするか。
仮設住宅では座布団スーツの小林さんを囲んで議論が起こりました。
自分とこで?自分たちで。
市がやらないなら自分たちでやろうという声が上がりました。
住民たちはこのあと負担を覚悟で自分たちで芝を植える事を決めました。
この日かつての集落の一角に住民たちが集まっていました。
年に数回共同で行う墓掃除です。
おはようございます。
大変ご苦労さまでございます。
ご覧のとおりだいぶ荒れてますんでけがのないようにひとつ協力お願いしたいと思います。
ここでは昔からさまざまな共同作業がありました。
作業が終わったあとは集落の広場にみんなで集まりお年寄りや子どもたちも一緒になって過ごしました。
新しい町にもみんなで作業をし集まる場所が必要だ。
それが芝生の公園なのです。
住民たちは動き始めました。
中川さんと小林さんはこの日ある場所に向かいました。
岩沼から車で1時間の七ヶ浜町にある幼稚園です。
ここでは地域の人たちが共同作業で芝を植え芝刈りなどの管理をしていました。
経験がなくても品種を選べば芝生は育てられると教えられました。
更に管理にかかる費用についても専門家を招いて勉強会を開きました。
1つの公園で年間4〜5万。
全体では10万円近くかかる事が分かりました。
それはありがとうございます。
(拍手)まずは手始めに公園の一部に芝を植え徐々に増やしていこうと決めました。
大きな節目の日がやって来ました。
座布団スーツの小林さん夫婦が向かったのは造成地。
この日土地が引き渡されるのです。
おはようございます。
ご苦労さんです。
土地の広さは元の1/3以下ですがこの秋には4世代8人で暮らす家が完成します。
(取材者)日当たりよさそうじゃないですか。
ここが俺たちの部屋。
ここ。
丸3年仮設に入って本当に長いように思います。
だから初めてこの土地を踏んでやっぱりああここが我が家になるんだなっていう安ど感があります。
そして8月。
新しい町の公園予定地に住民たちが集まりました。
この日芝生を自分たちの手で植えます。
150人が集まりました。
皆様おはようございます。
もうこんなにたくさんの大勢の方が見えられるとは本当に思ってもおりませんでした。
このラインから進んでこっち側に植えて下さい。
作業開始!最初は一部の住民から始まった町作り。
いつしかここに住む人誰もが関わる自分たちの町作りになっていました。
はいはいはいいいよはい。
よいしょよいしょよいしょ…。
(2人)いっせ〜ので!やります。
風の強い町の西側では住民たちがイグネを植えていました。
これはシラカシの木。
この地域の鎮守の森にあるふるさとの木を選びました。
これからは公園の芝生やイグネの管理は住民たちが共同作業で担います。
いい町にしないとさやっぱり悔しいっちゃ。
全部…家屋敷全部流されてさみんながほんで苦しい思いしてさ仮設暮らししてきて…。
やっと3年4か月5か月来てやっとうち建てる事できてさここまで苦労してきてやっぱりあ〜今まで待ってよかったな待ったかいあったなという事でだんだんいい町にしないと…やっぱりここさ来た意味がなくなるしね。
津波で全てを失ってから3年半。
被災地にゼロから積み上げてきた自分たちの町が生まれようとしています。
いきます!12の3。
(笑い声)ありがとうございました!いいですか?皆さん。
岩沼の取り組みご覧頂きましたが印象に残るのはふるさとを作り直したいという強い思いとそれを実現するために住民の人たちが徹底的に話し合った事です。
議論に参加する事で自分たちの町という意識が更に深まっていったように思います。
私も先月住民の人たちがこの芝生を植える作業を取材しました。
中には肉親を失った人や多額のローンを抱える人もいましたが将来への希望を確かに感じる事ができました。
被災地全体を見ると多くの被災者がいまだに仮設住宅での暮らしを余儀なくされています。
さまざまな理由から集団移転も遅れています。
しかし岩沼の試みからくみ取れるヒントもあるのではないでしょうか。
住民が主体となって話し合う場を行政が提供する事。
そして負担は増えるかもしれませんが住民もそこで意見を交わす事。
今からでもできる事はあるのではないか。
その事をここ岩沼の取材を通して強く感じます。
2014/11/22(土) 02:35〜03:25
NHK総合1・神戸
NHKスペシャル 東日本大震災▽私たちの町が生まれた〜集団移転・3年半の記録[字][再]
集団移転のトップを切り、宮城県岩沼市で仮設住宅からの引っ越しが始まった。新しい町について3年間で120回の徹底的な話し合いを行った住民たちと自治体の奮闘を描く。
詳細情報
番組内容
被災地での大規模集団移転事業のトップを切って引っ越しが始まった宮城県岩沼市。津波で壊滅した沿岸部から3キロ内陸に入った農地を造成し、人口千人の新しい町が誕生する。この背景には、震災前からのコミュニティを大切にした行政の方針と、新しい町について3年間で120回以上に渡って徹底的に話し合った住民たちの努力があった。「自分たちの町は、自分たちで作る」と、住民が様々な困難を乗り越えた3年に渡る奮闘を追う。
出演者
【キャスター】鎌田靖,【語り】礒野佑子
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
ニュース/報道 – 報道特番
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