NHKアーカイブス「冷戦終結25年 ヘイジュード 自由への歌」 2014.12.14


(「ヘイ・ジュード」)
チェコスロバキアの人気歌手が歌う「ヘイ・ジュード」。
この歌には1968年プラハの春を押しつぶしたソビエトへの抵抗のメッセージが込められていました

歌ったのは…
厳しい言論統制に屈する事なく権力と闘い祖国の人々を励まし続けました
マルタは次々と共産党支持に回る仲間たちを尻目に着々とアルバムの準備を進めます。
タイトルは「ソング&バラッド」。
「ヘイ・ジュード」はそのオープニングを飾る曲です。
1970年1月マルタは音楽協会から永久追放となり全てのレコードは発売禁止。
その後一切の表現活動を禁じられます。
そんなマルタが復活したのは1989年でした。
民主化のうねりが東ヨーロッパに巻き起こり東西冷戦の象徴だったベルリンの壁が崩壊。
チェコでは大規模なデモの力によって一発の銃声もなく無血革命を実現しました
(拍手と掛け声)
自由を勝ち取った市民の前にマルタが姿を見せました
12月には米ソの首脳が会談し冷戦の終結を宣言。
第2次大戦後44年がたってソビエトの影響下に置かれてきた東ヨーロッパはそのくびきから解き放たれました。
冷戦の時代に自由を求めて闘い抜いたマルタ・クビショバ。
「ヘイ・ジュード」に込めた思いを見つめます
今月12月は東西の冷戦終結から25年にあたります。
今日の「NHKアーカイブス」は冷戦時代人々の心を支え続けた歌。
そしてその歌を歌い続けた女性の信念に迫ります。
ゲストご紹介致します。
今日はノンフィクション作家の後藤正治さんにお越し頂きました。
よろしくお願い致します。
よろしくお願い致します。
後藤さんはその女性マルタ・クビショバさんにプラハでお会いになってるんですね?そうですね。
この番組が出来た少し後になるかと思うんですけども私チェコの著名な体操選手のベラ・チャスラフスカの取材をしておりましてベラと同じように体制に屈しないで生き抜いた女性がほかにもいるよっていう事で。
そのうちの一人がマルタさんだという事で連絡を取ったところ快く会って頂きました。
何て言いますかとても率直それから正直純粋そんな言葉が浮かぶんですけど非常に背筋のキリッと伸びた女性だったという印象が残っています。
その時お会いになった時の宝物を今日は…お持ち頂いてるんですね?はい。
彼女に会うんだという事でたまたまプラハの音楽展でこのCD買っていったんですけどすごく喜んでくれましてサインまで頂きました。
何て書いてあるんですか?「後藤さんへラブリー」って書いています。
(笑い声)それにしてもその彼女が歌った歌ですよね。
さまざまな思いを込めて歌った歌が長い間これも禁止されてた訳ですねチェコ国内で。
ところがまあ…ひそかに人々はいわば地下音楽っていうんですかねマルタの歌を忘れないで心に残していてそれが1989年に復活していった。
そういう意味ではマルタは一つのチェコの抵抗とあの時代のシンボルといっていいんじゃないかなと思いますね。
そのマルタさんが歌った「ヘイ・ジュード」。
まあビートルズの名曲ですけれどもその中にはどんな思いが込められていたんでしょうか。
実はそのマルタさんの人生を見つめた番組があるんです。
ここでご覧頂きたいと思います。
ご覧下さい。

(「ヘイ・ジュード」)
(ハリス)Soundappear.こんばんは。
ロバート・ハリスです。
今夜はビートルズの不滅の名曲「ヘイ・ジュード」に託された知られざる人間ドラマをひもといてみたいと思います。
1968年に発売されビートルズ最大のヒットシングルとなったこの曲。
作詞作曲はポール・マッカートニー。
「ヘイ・ジュード」のジュードとは当時まだ幼かったジョン・レノンの息子ジュリアンの事でポールが両親の離婚で傷ついていたジュリアン少年にささげたバラードだという事はビートルズファンであれば誰でも知っている有名なエピソードです。
ジョンがオノ・ヨーコと運命的な出会いをし激しい恋に落ち最初の妻シンシアと息子ジュリアンがジョンのもとを去ったのが1968年。
この「ヘイ・ジュード」とともに全盛期にあったビートルズも2年後の解散へと向かい始める大きなターニングポイントになった年でもあります。
今夜の物語の主人公もこの時ロンドンから遠く離れた東ヨーロッパでラジオから流れる「ヘイ・ジュード」を聴いていました。
彼女の名前はマルタ・クビショバ。
当時のチェコスロバキアで絶大な人気を誇る女性ポップシンガーでした。
彼女はポールが歌う「ジュード」を本来の意味とは全く違うあるものに置き換えチェコ語でカバーしました。
やがてマルタが歌うこのチェコ語の「ヘイ・ジュード」が東ヨーロッパいや世界中を驚かせる社会変革の原動力となっていく事になります。
それはチェコの人々が自由と民族の尊厳を取り戻すための21年にわたる闘いのシンボルソング。
物語は1990年冬のプラハから始まります。

(「ヘイ・ジュード」)長く暗い共産党支配を一滴の血も流さず打倒したチェコの民主化革命から1か月余り。
その興奮がまだ冷めやらぬ1990年1月のプラハでは街じゅうにマルタ・クビショバが歌うチェコ語の「ヘイ・ジュード」が繰り返し流れていました。

(「ヘイ・ジュード」)やっと自由を手に入れた喜びとこれから資本主義社会の荒波に乗り出していく不安。
その両方を抱えていたこの国を包み込むように流れていたこの曲。
それを耳にした外国人たちは皆一様に不思議がりました。
なぜビートルズの「ヘイ・ジュード」なのか。
そこにはチェコ人にしか分からない秘密のメッセージが隠されていたのです。
そのメッセージを読み解く鍵はマルタ・クビショバ自身の人生の中にあります。
自分から自由と歌を奪った国家やイデオロギーという怪物を相手に常に闘いの先頭に立ち続けた不屈の女性シンガー。
彼女の人生はそのままチェコという国の苦難の歴史と重ねる事ができます。
マルタの武器は歌でした。
やがてそれがチェコ民主化革命の大きな原動力となっていくのです。
全ては1968年に始まりました。
第2次大戦後ソビエトによってナチスの占領から解放されたチェコは1948年以降強力な共産党政権の下で大幅に個人の自由が制限されます。
しかし改革派のアレクサンダー・ドプチェクが党第一書記に就任して以来急速に自由化が進む事になります。
この雪解けのような時期をチェコの人々はプラハの春と呼びドプチェクの勇気ある決断をたたえました。
言論の自由表現の自由。
長い間春を待ちわびていたチェコの若いアーティストたちが一斉に花を咲かせたのもこの時期です。
マルタ・クビショバもこの時期にアイドルの一人としてデビュー。
小悪魔的な美貌。
それとは裏腹なハスキーボイスと抜群の歌唱力。
マルタはたちまちチェコのトップシンガーに上り詰めたのです。
しかし悲劇は突然国境を越えてやって来ました。
ソビエト軍のチェコ侵攻です。
ワルシャワ条約機構軍60万は予告もなくチェコに侵攻。
首都プラハは僅か1日で占領されドプチェク第一書記は失脚しました。
マルタはその一部始終を目撃します。
我が物顔に走り回る戦車。
銃口を向けるソビエト兵士。
抵抗する市民。
その全てがマルタをアイドルスターから闘う女へと一夜にして変えてしまいました。
この混乱と恐怖の中マルタはラジオから流れてくる「ヘイ・ジュード」を聴きながらチェコ語によるメッセージソングのカバーを思いつきます。
それは彼女の長い受難の時代の始まりを告げる危険な賭けでもありました。
1942年生まれ。
現在58歳。
今でも彼女がチェコの国民的歌手である事には変わりありませんが11年前の民主化革命以後は第一線を退き静かにマイペースで音楽活動を続けています。
よくチェコの人々はマルタをジャンヌ・ダルクに例えます。
1968年プラハの春の申し子として彗星のごとく現れ祖国の自由を守るために権力と闘いそして魔女のレッテルを貼られて社会から抹殺された受難の人生。
それがジャンヌ・ダルクの生きざまと妙に符合するからでしょう。
しかし25歳で時代のカリスマに祭り上げられる以前のマルタの素顔はチェコでもあまり知られていません。
彼女の中にある反骨の精神はどのようにして作られていったのでしょうか。
それを知る事はチェコ人の自由に対する切実な思いを知る事でもあります。
チェコ東部の地方都市ボデブラディ。
1950年代マルタはここで少女時代を過ごしました。
当時ソビエトではスターリンが独裁体制を築き不平分子に血の粛清を行う殺伐とした時代でした。
その支配下にあるチェコでも盗聴密告強制労働が横行した暗く重苦しい冬の時代。
特に医師であったマルタの父のように自由主義的なインテリ階級の家族は共産党から目の敵にされました。
その反動はマルタの人生も大きく変えていく事になります。
彼女に割り当てられたのは事務や箱詰めの仕事ではなく冬でも室温が40度を超える加工工場でした。
当時のチェコでは共産党幹部の子弟いわゆるノーメンクラトゥーラ以外1年間の義務労働を経験しなければ大学進学への道は開けませんでした。
この男でも音を上げる過酷な労働条件の中でマルタは3年間も黙々と単純労働に耐えたのです。
大学への進学を諦め医者になる夢を断念したマルタはこれといった就職口を見つける事もできないまま不本意ながら地方の小劇場の専属歌手のオーディションを受け幸か不幸か合格してしまいます。
そこは共産党賛美のプロレタリアート演劇をミュージカル仕立てで上演するという彼女にとって何の魅力もない職場でした。
不運続きのマルタに初めてのチャンスが訪れたのは24歳の時でした。
偶然彼女の歌を劇場で聴いたレコード会社のプロデューサーにスカウトされたのです。
「ポップスを歌ってみないか?」。
それはラジオから流れる西側諸国の歌に胸をときめかせていたマルタにとって願ってもない話でした。
1966年マルタはプラハに出てチェコ最大手のスプラフォンレコードと専属契約を結びます。
折しもチェコ政権内部で改革派のドプチェクが台頭してきた時期でした。
3人組のポップスグループゴールデンキッズの一人としてデビューしたマルタは一躍時代のアイドルへと駆け上がります。

(「マルタの祈り」)1968年プラハの春の始まりとともにマルタはソロ活動を始めます。
そして彼女にとって最初の大ヒットシングルとなったこの「マルタの祈り」でアイドル路線から転身。
本格派シンガーの地位を確固たるものにしました。

(「マルタの祈り」)チェコの自由化を精力的に推し進めるドプチェクもマルタのファンでした。
ドプチェクはマルタたちアーティストにとって自由な音楽活動の場を与えてくれた英雄的存在だったのです。
私生活でもマルタは大きな転機を迎える事になります。
1968年彼女は映画監督のヤン・ネメツと結婚します。
彼は学生時代から一環して反体制的な作品を作り続けた社会派の映像作家でした。
2人の結婚式には後に市民運動のリーダーとなるハヴェル現チェコ大統領も顔を見せていました。
それまで政治に無関心だったマルタはこの夫から強い影響を受け次第にメッセージ性を持ったナンバーを歌うようになります。
マルタにとって夢のようだったプラハの春は瞬く間に過ぎ去り悪夢のようなあの夏の日がやって来ました。
8月21日未明何の前触れもなくチェコに乱入した60万のソビエト軍は一気に首都プラハへ侵攻します。
第一報を聞いた市民たちが抗議のデモに出た頃には既に無数の戦車がプラハの街を埋め尽くしていたのです。
マルタもこの日群衆に交じってソビエト軍戦車のキャタピラー音を間近で聞きました。
市民の予想以上の反発に手を焼いたソビエト軍は威嚇射撃を開始。
そしてそのもようを報道し続けるチェコ国営ラジオを標的にします。
放送局は言論の自由を守る最後の砦となりました。

(ラジオ)
(「ヘイ・ジュード」)
(ラジオ)ラジオ局に突入したソ連軍はついに実弾を放ちました。
アナウンサーの声の向こうに聞こえる銃声は歴史が刻んだ不幸な真実の音です。
(ラジオ・銃声)このソビエトの暴挙を撮影しいち早く海外に持ち出したのはマルタの当時の夫ネメツでした。
そのころマルタは初めてのソロアルバムを準備中でした。
彼女は夫ネメツと相談して自由を取り戻すための強いメッセージを持ったバラードを1曲加える事にしました。
美しいメロディーにのせた祖国チェコを励ますバラード。
そんな曲にしたいとマルタは考えました。
そしてラジオから流れてくるビートルズの新しいシングルが彼女の心をつかみます。
1968年9月チェコに新ソビエト派の反動政権が誕生しドプチェクは失脚。
その身柄はモスクワへ送られました。
プラハの春は終わり以前にも増して強力な言論弾圧が始まりました。
ドプチェクを支持していた各界の著名人たちにも当局の手が延びます。
政府は彼らに2つの道を選択させました。
「共産党を支持するコメントを発表するか永遠にこの国を捨てるかどちらかを選べ」と。
マルタはどちらも選びませんでした。
彼女が選んだのは闘うという第3の道です。
マルタは次々と共産党支持に回る仲間たちを尻目に着々とアルバムの準備を進めます。
タイトルは「ソング&バラッド」。
「ヘイ・ジュード」はそのオープニングを飾る曲です。
知人のズデネクと一緒に作ったチェコ語の詞はジュードをチェコの少女に置き換えたものになっています。
高圧的な言論統制を行う新政権に対しマルタは周囲を驚かせるような表現活動で応えました。
「ソング&バラッド」にも収録されているこの「MAMA」という曲のクリップフィルムでは戦場を思わせる廃虚で全身を釘に刺された人形を抱いて歌うという過激なパフォーマンスを見せます。
ソビエトに対する痛烈な批判である事は一目瞭然です。
いつの間にかマルタの周囲には筋金入りの活動家が集まってきます。
若き日の劇作家バーツラフ・ハヴェルもマルタのこのクリップフィルムに兵士のエキストラ役として出演しています。
国民的スターのこの挑戦的な活動は心の中でソビエトに反感を抱く多くの市民や学生に支持されました。
そして満を持して発表した「ヘイ・ジュード」はシングルカットされ60万枚というチェコポップス史上空前の大ヒットとなります。
世論の動向を見守っていた共産党当局はたまらず動き出しました。
1969年10月ついに最後の大物歌手マルタ・クビショバに出頭命令が出ます。
尋問は主に「ヘイ・ジュード」の歌詞に関するものでした。
「これは暗にソ連軍の侵入を批判する歌詞ではないか?」という質問にマルタはこう答えます。
1970年1月マルタは音楽協会から永久追放となり全てのレコードは発売禁止。
その後一切の表現活動を禁じられます。
音楽協会からの永久追放。
傷心のマルタに政府は容赦ない追い打ちをかけます。
それは執ようで陰湿なマルタへの復しゅうでした。
一番大切な歌を失う事は同時に生きていく糧も失う事でした。
夫のネメツもまた監督という職業を失っていたので生活はたちまち窮乏を極めます。
共産党ににらまれた彼らにまともな就職口などありません。
貯金も使い果たしたマルタは生き抜いていくために内職を始めます。
トップスターの座を追われまだ1年余りしかたっていませんでした。
ネメツと離婚し流産で子どもを失ったマルタ。
しかし受難の人生は始まったばかりです。
マルタにそれ以上の妨害工作が及ばなかった事は彼女の2度目の夫と無関係ではありません。
74年に再婚したマルタの相手ヤン・モラヴェッツの父は有力な共産党員だったからです。
モラヴェッツ自身は自由主義に理解のある人物でしたがマルタにとっては後ろめたさのある結婚でした。
追放からの5年間で疲れ果てた彼女はいつの間にか平穏な生活を求めるようになっていたのです。
1979年マルタはモラヴェッツとの間に娘をもうけます。
夫のために料理を作り子どもに愛情を注ぐ穏やかで平凡な生活。
チェコの人々もそして彼女自身もあの歌う自由のカリスマの姿を忘れていきました。
プラハの春から10年チェコの人々が寡黙に口を閉ざしたまま共産主義の10年が過ぎ去りました。
この国からマルタ・クビショバの記憶が薄れていく中彼女の名を忘れないでいる人物がいました。
その後も地下活動を活発に続ける民主主義運動のリーダーバーツラフ・ハヴェルです。
強力な共産党政権と闘うための精神的よりどころを探していたハヴェルは1976年10月にヘルシンキで批准された人権国際条約に着目します。
しかしその加盟国であるチェコには基本的人権を順守する気配など存在していませんでした。
学問芸術言論の自由は奪われ秘密警察による徹底した監視盗聴密告拷問が横行する暗黒の時代でした。
1977年ハヴェルたちはこの人権条約の順守を求める宣言文を作り地下活動を続ける仲間や心ある市民の署名を集める運動を展開します。
宣言文は「憲章77」と呼ばれチェコ民主化運動のバイブルとなっていきました。
秘密警察はこの「憲章77」の賛同者たちを徹底的に弾圧します。
ハヴェルも例外ではありませんでした。
1979年ついに彼も逮捕されます。
息を潜めるように暮らしていたマルタもさすがにこのニュースを見て驚きました。
ハヴェルの逮捕に彼の地下組織は動揺します。
現在チェコ下院議員で当時ハヴェルのアシスタントだったイアン・ルムルたちは獄中のハヴェルの意向をひそかに受け動きました。
彼らはマルタにハヴェルの代役を依頼します。
彼女はこの突然の申し入れに驚きました。
しかし不思議な事にやっと手に入れた穏やかな家庭を壊してしまうかもしれない不安より長年の友人であるハヴェルを助けたいという衝動が勝ったのです。
マルタは訪ねてきたルムルに迷いもなくこう言いました。
あのマルタ・クビショバが「憲章77」のメンバーになった事は間もなく当局の知るところとなりました。
マルタの周囲を所構わず警察がうろつき始めます。
警察の尾行をかわしつつマルタは地道に同志を増やしていきます。
1968年当時カリスマ的スターであった彼女の説得は参加をためらっていた著名人たちをも引き込む力を持っていました。
ハヴェルと並ぶ知名度を持つマルタを秘密警察はあらゆる手段で送検しようとしましたがマルタの巧妙さは彼らよりうわてでした。
数十回に及ぶ逮捕徹夜で続く尋問それらをのらりくらりとかわしつつ活動を続けました。
数々の挫折を知り1児の母となった37歳のマルタは68年の頃の過激に突っ走るだけの彼女とは違いました。
歌という武器はなくしましたが目標に向かって黙々と耐え抜く力を身につけた手ごわい自由の闘士の姿がそこにありました。
彼女はハヴェルの出所を待ち娘のために43歳でスポークスマンを引退します。
革命はいつでも若者たちが主役である事を彼女は知っていたからです。
こうしてマルタは東欧が大改革を迎える前の最も苦しい時期にチェコに自由の種をまいて再び表舞台から身を引きました。
そして…マルタのまいた種は大きく成長し花を咲かせます。
ベルリンの壁崩壊の衝撃はいち早くチェコにも広がりました。
プラハでは民主化を要求する学生たちの呼びかけで大規模なデモが始まり瞬く間に全国規模の運動へと拡大していきます。
群衆の中心にいたのは3度目の服役を終えたばかりのバーツラフ・ハヴェル。
この僅か42日後に新生チェコスロバキア共和国の大統領になる男です。
(演説)
(歓声)20年の沈黙を破りマルタも民衆の前に姿を現します。
ハヴェルに頼まれ100万人を前に久々に「マルタの祈り」を歌ったのです。
マルタは学生たちの求めに応じて大学の集会に顔を出しました。
彼女はてっきり「チェコ国歌」か「マルタの祈り」を歌うものだと思っていたようです。
マルタ自身でさえ忘れていた「ヘイ・ジュード」の歌詞。
それが学生たちの間で自由のシンボルソングになっていた事は彼女の空白の20年を埋めてくれる何よりの癒やしでした。
彼らはマルタのメッセージどおり「ジュード」を「祖国の自由」に置き換えて歌っていました。
プラハの春から32年。
民主化革命から11年。
今マルタは「ジュード」を何に例えて歌うのでしょうか。
・「HeyJude」もうあの強じんな精神力に圧倒されましたけれども後藤さんはあのマルタの人生ですね。
番組どんなふうにご覧になりました?1968年のプラハの春私当時大学生だったんですけどとてもやはり印象に刻まれてましてね。
社会主義国家の中で「人間の顔をした社会主義」という言葉がとても印象的だったんですけども裏返して言えば今の社会主義は「人間の顔をしてない」と。
痛烈な皮肉が籠もってると思うんですけども…。
その後自由化の動きが共感持って受け入れたんだけどソ連軍の戦車によって潰されて…。
その後苦難の歴史を生き抜いたその一人がマルタだったんでしょうね。
マルタと会った時の取材ノート今日持ってきたんですけどもね。
彼女のいろんな発言を思い返しながら見返してたんですけどね…。
「私はバリケードに立って闘う女じゃない。
自分自身は平凡で楽しい事が大好きな生活をしたいと思ってきた。
ただうそが嫌いなんだ。
ただそれだけなんです。
そのためにこのような人生を生きてきました」。
こういうふうな発言をしてますよね。
運動家ではないという事ですよね?活動家とかじゃない。
ただ彼女はそうですね…自分の生き方の信念を持ってた人だったというふうに思いますね。
そういう彼女が「ヘイ・ジュード」に込めた思いその歌詞言葉ですねそれは最後にずっと出ておりましたけどもご自身注目される事はありましたか?あの歌詞の中でね…人生には光もあれば闇もあるしでも自分を信じなさいっていう歌詞がありましたよね。
それは彼女の人生そのものだしまたあの歌に込められたメッセージの柱を成すものだって私思いますけどもね。
「人生はすばらしい人生は残酷。
でもジュード自分の人生を信じなさい」。
それと「あなたには歌がある」という言葉もありましたね。
それもマルタを体現しているように思いましたね。
そういうマルタですけどもどうしてあれだけの強じんな精神力を保ち続ける事ができたんだろうか?それ思うんですけどもね。
一つはチェコという国の歴史かなと思うんですけども小さな国で歴史的には戦争下にはドイツに占領されました。
それからロシアの圧政もあったんですけど。
まあそこで何かしたたかに抵抗するっていうんですか?武力ではかなわないけれども決して屈しない。
そういう何か人々の間の歴史的なDNAみたいなものがあって。
マルタで残っているのは取り調べで撤回させればいい生活が保障されるし外国にも行けるしドルも稼げる。
「どうして撤回できないんですか?」って。
マルタこう答えたっていうんですね。
「撤回はできません。
なぜならば撤回をする事は私の人生を撤回する事になるから」。
人生は撤回できないからだから言葉も撤回できない。
そういう理屈なんですけどとても深い何か言葉として聞きましたね。
実を言いますとマルタさんに伺いました。
そうしましたら今年も12月中のコンサートで「ヘイ・ジュード」歌うとおっしゃってるんですね。
とても人気のある歌で常にお客さんから歌ってほしいという要望があるという事なんですね。
「特に今年はベルリンの壁の崩壊のおかげでチェコも自由を得たので25年記念に歌わないといけない。
ずっと生きてるチェコで深いインパクトのある歌です」とこんなふうに「ヘイ・ジュード」の事おっしゃってるんですけどもね。
マルタの生き方そこから学ぶものがあるとしたら改めて伺うとどういう事になりますかね?何か自分自身に正直であれというようなそういうメッセージかなと思うんですよね。
マルタはマルタの生き方としてああいう生き方を進んで選んだ…。
外から見ると大変立派に見えるんだけど彼女はやっぱりそうするしかなかった。
それが一番自然だったんだというふうに思うんですね。
だから誰も自分の気持ちそこに正直に生きていれさえすればああいう生き方もありうるんではないかなというような感じもしましたけどもね。
まあその時代その時代でいろんな課題があると思うんですよね。
マルタの生きた時代社会主義圧政の時代は終わりましたけれども今現在これからの時代にもいろんな困難に直面するでしょう。
その時にこの部分はやっぱり貫いて生きる生きたい。
何かそういうメッセージをこの番組見て改めて感じましたですね。
どうもありがとうございました。
今日は最後にこの歌を聴きながらお別れします。
「マルタの祈り」です。
25年前ビロード革命でようやく自由を勝ち取ったチェコ市民の前で歌ったマルタさんの映像です。

(歓声)2014/12/14(日) 13:50〜15:00
NHK総合1・神戸
NHKアーカイブス「冷戦終結25年 ヘイジュード 自由への歌」[字]

冷戦下のチェコで市民が歌い継いだ歌があった。自由への思いを歌ったヘイジュードの替え歌だった。冷戦終結から25年、抑圧と闘った人々の心の支えとなった歌を見つめる。

詳細情報
番組内容
【ゲスト】ノンフィクション作家…後藤正治,【キャスター】桜井洋子
出演者
【ゲスト】ノンフィクション作家…後藤正治,【キャスター】桜井洋子

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
ニュース/報道 – 海外・国際
音楽 – その他

映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
サンプリングレート : 48kHz

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