明日へ−支えあおう−証言記録 東日本大震災36「福島県新地町」 2014.12.14


あの日未曽有の災害に襲われた人々と町の証言記録。
第36回は福島県新地町。
宮城県との境長い砂浜が連なる人口8,000人ほどの町です。
「海岸沿いの建物は僅かな建物だけを残して多くが津波によって流されています」。
襲いかかった津波の高さはおよそ10m。
沿岸の集落は壊滅しました。
町全体で101人が犠牲になり1,600人もの人が家を失いました。
しかし震災前町の人々の津波の認識は他の土地の人とは大きく異なるものでした。
人々の頭にあったのは1960年のチリ地震津波の経験でした。
津波は恐ろしいものとしてではなくむしろ珍しい体験として記憶されてきました。
3月11日の大津波。
チリ地震津波の経験はあの日の人々の行動にどのように影響したのでしょうか。
私たちはある小さな集落に着目し人々の行動をつぶさに見つめる事にしました。
チリ地震津波を経験したために津波を警戒しなかった新地町の人々の証言です。
現在の新地町です。
沿岸部は今後防災緑地に整備され人が住む事はできません。
震災前町の北の端にある小高い丘の周囲には磯山という集落がありました。
磯山集落には11軒の家があり42人が暮らしていました。
あの日集落の高台では1軒の美容室が営業中でした。
どうもおはようございます。
美容室を経営していた谷隆さんです。
家の外に出た谷さんは近所の住民たちと地震の被害状況を見て回っていました。
地震発生から3分後の午後2時49分町の防災無線が大津波警報を知らせました。
谷さん夫妻は近所の住人2人と共に6mと予測された津波を見ようとすぐ隣にある高台へ向かいました。
高さおよそ15m。
海も町も見渡せるその高台で世間話をしながら海の様子を眺めていました。
安心しきっていたのには理由があります。
同じ磯山集落に暮らしていた三宅信一さんです。
地震発生時隣町の相馬市に出かけていた三宅さんは自宅に残してきた妻と孫を心配して急いで戻ってきました。
そのころ防災無線からは大津波警報の知らせが続いていました。
しかし信一さんは全く別の事を心配していました。
「停電になると料理ができなくなる」。
磯山集落の人々が口々に語るチリ地震津波とは1960年昭和35年に東北沿岸を襲った津波の事です。
南米チリで発生した津波が太平洋を越えて日本に到達しました。
北海道から四国までの太平洋沿岸に被害が出ましたが中でも東北の被害は甚大でした。
特に大きな被害のあった岩手県と宮城県では合わせて100人を超える犠牲者を出し人々の暮らしと漁業に打撃を与えました。
三陸の人々に津波への恐怖感を抱かせた出来事です。
チリ地震津波は新地町の沿岸にも到達しました。
しかし三陸とは全く別の思い出として人々の心に残っています。
当時磯山集落の人が撮影した写真を保管している人がいます。
震災当時地区長だった三宅信幸さんです。
津波で大きく潮が引き浜から200m先の海底の岩が現れました。
珍しい光景を見ようと人々は砂浜へ出かけ魚を拾ったというのです。
同じ光景は町の南にある大戸浜地区でも見られました。
当時の砂浜の様子を高台から眺めていた吉田博さんです。
その時小学校3年生でした。
チリ地震津波の日の魚取りの思い出は今も強く人々の心に刻まれています。
チリ地震津波は三陸のような恐怖の体験ではありませんでした。
明治昭和の三陸津波でも新地町に目立った被害はありませんでした。
遠浅の砂浜が続くこの町に大津波は来ないそう言われるようにもなっていました。
3月11日地震が発生したあと磯山では避難誘導が始まりました。
地区長の三宅信幸さんは住民たちに声を掛け始めます。
その時磯山では19人の住民が家に居ました。
11軒のうち2軒は留守でした。
信幸さんは避難場所に指定されている自宅裏の教会へ逃げるよう声を掛け始めます。
そのころ信一さんは夕食の弁当を買いに出かけていました。
家に居た信一さんの妻や孫4人は教会に避難しました。
次に信幸さんは自宅の隣にある2軒に声を掛けました。
1軒は教会へ避難しましたがもう一軒の住人は地震で散らかった家の片づけをしていて避難しませんでした。
海沿いにあった旅館では経営者の夫婦二人が更にその隣の家でも3人が避難しませんでした。
旅館の隣の家に住んでいた門馬孝男さんです。
磯山集落では当時家に居た19人のうち11人が避難しませんでした。
そのうちの1人信幸さんの母親は家の茶の間に居ました。
地区長だった信幸さんは隣の集落の避難誘導も担当していました。
出がけ母親に一声掛けました。
信幸さんは母親を自宅に残し出かけていきました。
隣の集落には50軒ほどの家が建ち並んでいました。
信幸さんは見ていませんがこの他にも堤防に津波を見に行っていた人や家の2階で寝ていた人などがいました。
同じ頃町の南の住宅密集地大戸浜地区でも避難の呼びかけが行われていました。
吉田博さんは元消防士。
津波は来ると思っていました。
道路に出てきた住民一人一人に高台の避難場所に逃げるよう声を掛けながら走りました。
途中小高い丘のある一角にさしかかります。
海のそばに建つ家から避難してくる人はいましたが大戸浜の丘の中腹にある家からは避難してくる人をあまり見かけませんでした。
このあと吉田さんは消防署に向かいます。
大戸浜と消防署の連絡が取れるよう地区の無線機を消防署に持っていったのです。
大戸浜の人々が避難する事になっていた場所は高台にある緑地広場でした。
地区の住民およそ500人が全て入れる広さの一時避難場所です。
町役場の職員だった伏見春雄さんは地震直後この避難場所の担当者としてやって来ました。
その時まだ人はまばらでした。
大津波警報が発令されても住民の危機感は薄いままでした。
町の防災計画では津波をどのように予測していたのでしょうか。
防災地図で想定された浸水は海辺の住宅地で1m未満でした。
想定浸水域は常磐線の線路まで。
これはチリ地震津波の時と同じです。
磯山集落に流れ込んだチリ地震津波の写真が残っていました。
被害は他にもありました。
海辺の住宅地では床上浸水床下浸水が発生。
しかし人的被害は一切ありませんでした。
震災前想定されていた宮城県沖地震でもチリ地震津波を超える津波被害が出るとは考えられていなかったのです。
町の人々は大津波が来るという実感のないままその時を迎えました。
磯山集落ではまだ11人が避難していませんでした。
避難誘導を終えた三宅信幸さんは母親を残していた自宅の前に戻ってきました。
その時撮影された写真です。
田んぼには足首ほどの高さの津波が静かに押し寄せていました。
信幸さんはこの波が引くものだと思っていました。
300m離れた海から壁のような津波が信幸さんに迫ってきました。
命の危険を感じた信幸さんは目の前の自宅にいた母親のもとに立ち寄る事もできずただ津波から逃げるだけで精いっぱいでした。
磯山集落の高台にいた谷さんたちは変わらず海を眺めていました。
津波はこの15mの高台をも越えて谷さんと妻を巻き込んでいきました。
谷さんと妻そして近隣の住民2人はずぶぬれになりながらも命は助かりました。
津波は大戸浜にも迫っていました。
避難場所の緑地広場には100人以上が集まっていました。
町役場職員の伏見さんは海の様子を見ていました。
津波は防波堤を乗り越え町の中に流れ込んできました。
津波に追いかけられながら走って逃げる2人のお年寄りを助けに向かいました。
また更にこう逃げたんです。
3人はかろうじて津波を逃れました。
(津波の音)大戸浜は避難場所だった緑地広場の高台を残して津波にのまれてしまいました。
その大戸浜を内陸から見ている人がいました。
元消防士の吉田さんです。
大戸浜と連絡が取れるよう無線機を消防署に届けたその時津波に気付きました。
それでも吉田さんは30分間無線機に呼びかけ続けました。
緑地広場に避難した人々は全員無事でした。
しかし大戸浜地区では28人が犠牲になりました。
磯山集落では避難場所の教会で住民の安否確認が行われていました。
三宅信幸さんは自宅に残してきた母親が教会に避難しているのではないかと探しにやって来ました。
教会には高台で津波に巻き込まれた谷さんも避難していました。
10日後母親のミサノさんは遺体となって見つかりました。
磯山集落では高台にあった1軒を除き10軒の家が津波で流されました。
家の片付けをしていた男性は津波にのまれますが家の窓枠にしがみつき助かりました。
門馬さんの家族3人は津波が来る直前に自宅裏の山に駆け上がり無事でした。
隣の旅館経営者夫婦と信幸さんの母親は逃げ遅れ犠牲になりました。
最終的な新地町の津波による犠牲者は101人。
町の面積のが壊滅状態となりました。
あの日から3年9か月の月日が流れました。
高台への集団移転も始まり被災した人々は新しい生活を歩み始めようとしています。
母親を亡くした信幸さん。
チリ地震津波の写真を今も見る事があります。
信幸さんの手元にはあの日撮った写真も残っています。
信幸さんは今でも2日に一度は自宅跡地を訪れています。
津波の経験を正しく伝え残していく事の難しさと大切さを知った福島県新地町の人々。
今回の教訓を胸に刻みこの地で生きていこうとしています。
50年前の津波体験から逆に津波を甘く見てしまったという話は被災した多くの地域で聞きます。
過去の経験に縛られず想定外を想定する事が悲劇を繰り返さないために欠かせないという事を教えてくれてますよね。
さて皆さん先日大阪で開かれました「NHKフィギュア」ご覧になりました?エキシビションでソチオリンピック金メダリストの羽生結弦選手が復興支援ソング「花は咲く」に合わせて華麗な演技を披露し世界に向けて復興への思いを届けました。
・「真っ白な雪道に春風香る」・「わたしはなつかしいあの街を思い出す」・「叶えたい夢もあった」・「変わりたい自分もいた」・「今はただなつかしい」・「あの人を思い出す」なかなか未来に向くという事は人間難しい事だと思いますし実際に過去の事をすごく掘り下げて掘り下げていってしまうかと思うんですけれども少しでも前を向くきっかけになって頂ければうれしいなと思いました。
・「花は花は花は咲く」・「いつか生まれる君に」・「花は花は花は咲く」・「わたしは何を残しただろう」・「花は花は花は咲く」・「いつか生まれる君に」・「花は花は花は咲く」・「わたしは何を残しただろう」・「花は咲く」・「いつか恋する君のために」
(拍手)羽生選手の「花は咲く」。
ミニ番組で随時放送していきます。
では被災した地域で暮らす方々の今の思いです。
原発事故でふるさとを離れ福島県郡山市で暮らす皆さんの今の思いです。
私は双葉町から避難してこの仮設住宅に住んでいます。
双葉町はまだまだ帰れる状況にありません。
この仮設の人々もばらばらになってきました。
今が一番大事な時です。
避難者の皆さんどうかお体を大事にして下さい。
私は浪江町から郡山市に避難をして今不動産業を営んでおります。
現在は浪江町で建設機械のレンタルと思い出の品を取りに行く引っ越しの仕事を始めました。
全国からの温かいご支援ほんとにありがとうございました。
いつか住み暮らせる…。
この仮設住宅で皆さんにちぎり絵教室を開いております。
富岡町にはいつの日帰れるのか不安な毎日を過ごしております。
そんな中で通ってきてくれます生徒さんたちに感謝しながら楽しく続けていきたいと思っております。
(一同)頑張りま〜す!2014/12/14(日) 10:05〜10:53
NHK総合1・神戸
明日へ−支えあおう−証言記録 東日本大震災36「福島県新地町」[字]

大津波警報が出ても津波を警戒する人が少なかった新地町。理由は50年余り前のチリ津波の記憶。過去の一度だけの津波経験が思い込みとなり被害につながった経緯をつづる。

詳細情報
番組内容
大津波警報が出ても、のんきに庭の片づけをしたり海岸に津波見物に行く人たちがいた新地町では100人余りが犠牲になった。津波を怖いと思わなかった理由は、50年余り前に町を襲ったチリ津波の記憶。引き潮の浜で魚や海藻を取った楽しい思い出だけが語り継がれ、被害は忘れられた。ある集落の人々の行動をつぶさにたどりながら、たった一度の津波経験が思い込みになり、大きな被害につながっていった仕組みを描く。

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
情報/ワイドショー – その他

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