次回はいよいよ「聖書」の誕生に迫ります。
加藤先生ありがとうございました。
ありがとうございました。
古代イスラエルの苦難の歴史がつづられた「旧約聖書」。
神に守られたユダヤ民族は自分たちの王国を築き繁栄を謳歌しますが…やがて戦乱の中国を失い捕囚の民となるのです。
「もしも私がエルサレムよあなたを忘れたならわが右手は萎えるがよい。
わが舌は口蓋に張り付くがよい」。
ふるさとを遠く離れた異国の地で神との関係を見つめ直したユダヤの民。
彼らが「聖書」を生み出すまでの物語をひもときます。
(テーマ音楽)「100分de名著」司会の…さあ「旧約聖書」前回は神と民の関係が神様は私たちに何もしてくれないこれはどうしてだと思った時にここを捨てるんじゃなくて民の方は…正当化してこの関係が成り立っているというところが。
普通に考えたら何もしてくれないなんて神様いないんだとか神様を信じてもしょうがないんだとなるはずだけどもこれはどうやら自分たちの信仰が足りない自分たちが悪いんだってなっちゃうと尽くしても尽くしてもまだ足りないと思って頑張っちゃうのと一緒で限りがないですねもうね。
…という状態だという事が分かりました。
さあ本日も指南役は千葉大学教授加藤隆さんです。
どうぞよろしくお願いいたします。
加藤さん前回の復習ですけれども2つに分かれたイスラエルですが北王国の方は滅ぼされてしまって南王国だけ残されているという状況なんですね。
この時神が救ってくれるのであればよかったんですが救ってくれなかったんですね。
滅びてしまった。
神に見放されたようなどん底の状態なんですが…それは「契約」があったからなんですね。
このような状態になったという事なんですね。
神は何もしてくれない沈黙してる。
それから民の方は罪の状態にあるという立場を選びましたから神に対して何も有効な事はできない。
ですから両方この矢印が実質的には働かないと。
これ普通の理屈だと分かりにくいのは契約というのは「僕がこうするからあなたこうして下さい」がどこかで途切れたら終わりのはずなんだけど終わらないって決めたからにはもう無敵ですよね。
ユダヤ教徒をやめないんだってなった以上はもう理屈じゃないというか。
永遠の関係になるんですね。
ではそのあと一体どうなったんでしょうか。
ご覧下さい。
紀元前600年ごろ。
シリア・パレスチナ地方はエジプトと新たに台頭してきた勢力新バビロニアが熾烈な領土争いを繰り広げていました。
こうした中かろうじて残っていた南王国は新バビロニアに制圧されてしまいます。
神殿も破壊され人々はエルサレムから敵の首都バビロンに連れてゆかれました。
「バビロン捕囚」。
ユダヤ民族はこの後半世紀以上にわたって捕らわれの身となってしまったのです。
大都会バビロンで奴隷として生きてゆく事になったユダヤ民族。
彼らは異郷にあってもいつか神が自分たちを助けてくれると信じていました。
そのころ作られた詩が残っています。
異国の地でふるさとの詩をうたう事を強いられその時の心情を詠んだものです。
朗読は松重豊さんでお聴き頂きましたが失ったふるさと故郷を思いながら詠まれたという切ない詩ですね。
「私は信仰を続けます」もしくは「エルサレムを忘れません」みたいな詩じゃない。
むしろエルサレムを忘れたら自分は駄目になっちゃうべきだぐらいのものすごく謙虚といいますか…。
またまた神は助けなかったんですけれども「神のせいだ」という事にならないのですね。
でもいつか神様は自分を助けてくれるんじゃないかって思いはあるわけじゃないですか。
それはそうです。
これはなぜこんな信じていけるんですか?土地を失い神の子である王もいなくなりそれから神の家である神殿も失ってしまって…まだ残っているものがあった。
それは「思い出」なのですね。
昔こういういい事があった。
それの代表的なものが…神が私たちの祖先を奴隷状態にあったエジプトから救い出してくれた。
そして今私たちはバビロニアの支配の下でまた奴隷状態にある。
ですけれどもかつて神は救ってくれたのだからまた救ってくれるのではないか。
つまり…こういうふうに考えたという事になります。
ちょっと分かるのはきつければきついほどむしろ強くなるっていうかいい時の事成功体験もそうですけどそういうのを思い出す。
そこにすがる。
そこに対する思いがすごく強くなるというのは何か分かる気が。
実際にはバビロンではイスラエルの人たちはどういう暮らしをしていたんですか?バビロンの町の中ではなくて郊外に1か所にまとまって住まわされていた。
バビロニア当時の最高の文明国の一つですからそしてその首都の近くにいるわけで…ユダヤの民族全て失ったようになったんですね。
里帰りとかできないですもんね。
できないですよね。
代わりに自分たちで集まってユダヤ民族としての結束を維持しようとするんですね。
彼らの間で…当たり前だったものが無くなって異文化に触れた時初めて「俺ってあれが必要だった」とか「あれこそが俺だ」みたいな事が分かる。
そういう中で広い意味での掟が心のよりどころになったと言う事ができます。
それまで民族に伝統的に伝わっていたさまざまな民族習慣それらを見直して…例えばですね安息日。
1週間に1回休んで仕事をしない日というのが定められているんですがこれが大変重要になります。
掟という事で言うと東京に「江戸」は残ってないんだけどうちのじいちゃんあたりは江戸っ子は風呂をうめんじゃねえ。
その江戸っ子というアイデンティティーを失いたくないんですよやっぱりじいちゃんからすると。
ずっと語り継がれている。
意味なんかない。
適温でお風呂に入ればいいじゃないですか。
よく言う「そばにジャブジャブつゆをつけるな」みたいな事はある意味僕掟だと思うんですよ。
それは自分が「東京人」じゃない「江戸っ子」だっていう。
だって世の中からすれば先進国最先端からしてみたらそんなのやんなくていいじゃんという事もやらないと自分が失われちゃうというのは何か分かります。
ほんとにそれは通じるところがあると思います。
更にこんな事が起こったんですね。
これもバビロン捕囚の時代に生じた重要な変化の一つですね。
ユダヤ民族は征服されて奴隷のような状態にあって屈辱的な状況に置かれました。
そうした中でなぜ自分たちがこういう状況に置かれたのかという事を合理化して考えるという事になりまして。
それまでは「ヤーヴェはユダヤ民族の神である」そういうふうにしか考えていなかったんですが「全人類・全世界の神だ」とそういうふうに考えて。
そして今神の民でないバビロニアが支配してるんですけどそれは私たちにうかがい知れない神の深い意図があって世界をそういうふうに導いている。
私たちは神の計り知れない計画の中で今は屈辱的な奴隷状態に置かれている。
そういうふうに考えるのですね。
今ざっと説明を聞いただけでも重要だなと思うのはまずバビロンがユダヤの神への崇拝を許してるじゃないですか。
言うなればバビロン側から言うと「どうぞご勝手に」というような事だと思うんです。
だけどユダヤの民からしてみたら何のかんのバビロニアはえばってるかもしれないけど実は神様の手の内だよあいつらもね。
それでいて一番神様の事を信仰してるのは俺らだからねっていうようなその内面みたいな。
ここのやり取りというか思惑の行ったり来たりはとても面白い。
そうですね。
そのヤハウェはユダヤ教の神だけではなく全世界を創造した神としてもっと大きなものになって。
そうなっちゃうと「バビロン何も知らねえで威張ってやがる」という話ですもんね彼らからしてみたら。
まあそうですね。
どんどん強くなりますね。
心は強くなるね少なくとも。
さあこうした中でいよいよ「聖書」が誕生していきます。
バビロン捕囚から半世紀後ユダヤ民族の運命が動きます。
新バビロニアがペルシア帝国のキュロス王に滅ぼされたのです。
寛大な政策をとったキュロス王はユダヤ民族が故郷に帰る事を許しました。
その時エルサレムへ向かったユダヤ民族は5万人近くもいたと言われます。
中にはエルサレムを見るのは初めての者も…。
彼らが旅路の果てに目にしたのは荒れ果てた都と神殿の廃虚でした。
その後20年をかけてユダヤ民族は新たな神殿の建設を果たします。
しかし彼らはペルシア帝国に支配される立場にありました。
キュロス王はイスラエルの統治にあたりユダヤ民族に自分たちの「掟」を提出するように命じます。
ペルシアの官僚でもあったエズラが編纂の任に当たりました。
エズラは天地創造から出エジプトまでの民族の歴史物語や細かな掟を律法としてまとめペルシア政府に提出したと考えられます。
この時「聖書」の核が誕生したのです。
ようやく「聖書」の核となるものが出てきました。
しかもペルシア帝国の王様が「お前らいろいろ掟とかあるらしいな」と。
それちゃんと書いてまとめて出しなさいよという事なんですね。
しかしペルシア帝国というのはふるさとに帰っていいよとか異民族に対してもとても寛大な。
そうですね。
まさにさっきの話で言うとまとめて生かしといてもらうだけでもすごいなと僕思ってたらペルシアに関しては本当に自由ですね。
バビロニアはある意味で中途半端な寛容な政策だったのがペルシアはもっとシステマティックにというか。
支配されている人たちは反乱を起こすのはいけないんですが反乱を起こさないかぎりにおいて自由に暮らせる。
自分たちの伝統に従って暮らせると。
「お前たちこの掟で掟に従って暮らせ」と強制してもよいところですがここでもとても寛大で「どうぞあなた方自身で自分たちのやっている掟をしかし書いたものとしてまとめて提出しなさい」と。
でもこれまで聞いてきたような「創世記」とか「出エジプト記」のような歴史物語までもがその掟の中に書かれて提出されたという事ですか?正式な位置づけとしては掟であるはずなんですが内容は歴史物語なんですね。
こうしたものが作られて提出してペルシアによって認められてしまったというのは本当にちょっと不思議なんですがそうなってしまったんですね。
「僕らが提出しろって言ってるのは基本的には安息日の話とかああいうやつだからそれ以外の海が割れたみたいなやつは要らないよ」って言ってもおかしくないですよね。
それをまた受け付けたペルシア側はすごい度量があったのかそれとも見てないのか…。
「どうぞご勝手に」なのか。
ただ受け付けちゃったのか分からないですよね。
「これがあなたたちの掟ならば掟となさい」と。
一旦提出してしまうと変更できないのですね。
まずそれを無効にする事はできないし変更はできない。
それをするためにはペルシアにまた正式な許可を求めて認めてもらわなくては正式なものの変更や取り消しはできない事になりますね。
それができないのです。
なぜかと言うと神との関係ではペルシアは神と関係のない人たちなんです。
駒の一つみたいなものですよね全部は神が創ったんだけど。
はあ〜。
なるほど。
この何かがんじがらめな感じすごいですね。
ペルシア側は一度提出した文章なんだからもし少しでも変えるんだったらこっちの許可要るよって言ってるし。
そういう事できたのかもしれませんね。
でもユダヤ側からは神の言葉の変更の許可を求めるために神と関係のない民族の許しを得るなんていう事はできない。
はあ〜。
こうして大変特殊な…核ですかコアのところが出来上がったと。
さてこのあとペルシアに次いで新たな帝国が興り世界が大きな変貌を遂げます。
紀元前4世紀。
マケドニアのアレクサンドロス大王が登場し東方遠征を行うと古代オリエントの地図が大きく塗り替えられました。
ペルシア帝国は滅ぼされエルサレムも占領されます。
更にエジプトインドに迫るまでの領域がその支配下に置かれました。
それは文化と文化の戦いでもありました。
征服された土地には哲学や芸術などのギリシャ風の文化が入ってきて一帯にヘレニズム文化が誕生します。
この大きなうねりの中でユダヤ民族は社会や人間についてより深く考えるようになりました。
「聖書」は動かないのに世の中はまた動きますね。
新たな文明の影響を受けてユダヤ民族に一体どういう問題が起きたのかちょっとこちらでご覧下さい。
この「知恵の高まり」という事が問題になります。
一般の人たちに知恵がついて自分で考える力がついた。
そうすると自分で考えるようになると…いろいろ考えて何とかして「自分が神の前で正しい」と考える者たちが生じてくる。
その事によって自分は救われてるんだと判断してしまうんですね。
どういう事だ?どういう事だ?罪の状態にあるのにでも自分は救われているんだと思うというのはこれはどういう…?何か基準を探すのです。
多くの場合…それをきちんとやってるとかそういう理由をつけて自分は正しい救われてると思いたがる人が現れこうした立場を…こういうふうに言えるんではないでしょうか。
これでも大きな違いですね。
今までは自分たちの国が滅びたという事は全体が悪いんだ。
とにかく僕ら今罪なんだという事でしたよね。
だけどあいつは罪かもしれないけど俺は大丈夫。
全体的に滅びたのは死んじゃったやつらはまあ罪だったねという事だし俺に関してはえらく今っぽい考え方ですよね。
そうですね。
僕は悪くないっていう。
そうですね。
今までがすごい団体主義だったけど全体主義だったけど今これものすごい個人主義ですよ。
俺は悪くはないっていうのは。
この問題に対して「律法」が大変有効に機能したという事になります。
この場合には救われているかどうかに関しては…しかし律法は既に十分に複雑なのでまず理解する事さえできない理論の。
そうすると「お前全てを完璧に理解できてないじゃないか」。
こういうふうに議論できてユダヤ人で自己正当化という事はできなくなるという事になります。
しゅんとしちゃいますね。
いやだけどそうしないと傲慢な俺は正しい俺は神様の前で正しい俺は救われてる明日にも救われるはずだみたいな人がいっぱい出てきちゃった時にちゃんとした正式なチェックリストがあるから。
そうですね。
これが更なる律法の権威化につながっていくという。
この律法の権威化はもう一つユダヤ人たちがアイデンティティーを維持する点においてとても重要なものになります。
シナゴーグというユダヤ教の集会所が各地につくられるようになって集会が行われるのですがそこで律法を勉強する。
本当に住んでいる生活している地域という点ではもういろんな所にバラバラに暮らす事になってもユダヤ民族としてのまとまりを維持しているのは彼らが律法を尊重してると。
そういう事でユダヤ人としての団結つながりが崩れないという事になります。
じゃあもうみんな謙虚になって神の前で律法の前で謙虚になるほかない。
そのとおりですね。
でもやっぱり支え苦しい時も支えられる律法にかえって支えられるというところもあるという。
こうして知恵のついたユダヤ民族は「知恵文学」という文学を生み出していったんだそうです。
次回は政治学者の姜尚中さんをゲストにお迎えしまして知恵文学の中でも名高い「ヨブ記」に迫っていきたいと思います。
加藤先生ありがとうございました。
「滅びよわたしが生まれた日2014/11/23(日) 00:48〜01:12
NHKEテレ1大阪
100分de名著・選 旧約聖書 第3回「聖書の成立」[解][字]
旧約聖書の記述から古代の歴史や人々の営みを読み解くという視点で語る。そして一神教の概念がどのようにして生まれたかを探る。第3回ではバビロン捕囚時代を中心に読む。
詳細情報
番組内容
戦乱が続く中、残っていた南王国も戦いに敗れて消滅する。ユダヤ人たちは、敵国の首都バビロンへ連行されて、捕囚となってしまった。しかし、人々の多くは、出(しゅつ)エジプトのような神による救いがまたもたらされるのではないかと期待しながら、信仰を守り続けた。そしてこの後、聖書の成立にかかわるある大きな出来事が起きたと、千葉大学の加藤隆教授は推測している。第3回では、聖書成立の背景を考察する。
出演者
【ゲスト】千葉大学教授…加藤隆,【司会】伊集院光,武内陶子,【朗読】松重豊,【語り】湯浅真由美
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
ドキュメンタリー/教養 – 文学・文芸
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日本語
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