徹子の部屋 2014追悼特集 2014.12.17


最も高いのは戸建て住宅を注文できる2700万円の福袋で15袋用意されました。
さらに、外国人観光客向けに人気の高い水筒や弁当箱が入った福袋などもあります初売りは新年2日からで、
(黒柳)皆様こんにちは。
『徹子の部屋』でございます。
今年も多くの本当に素晴らしい方々がお亡くなりになりました。
本日は今年の7月以降にお亡くなりになった方々の素晴らしい映像を集めました。
『徹子の部屋』ではもう一度生前の皆様の生き生きとしたお話しなさってるところを皆様にご覧いただいてお別れをしたいと思います。
皆様の想い出をもう一度。
それではどうぞご覧ください。
桂小金治さんは「怒りの小金治」「泣きの小金治」と呼ばれお茶の間の人気を博しました。
とても素晴らしかったお父様のお話をしてくださいました
その包丁の切れ味…。
はい。
人生それと同じだっていうふうに?そうです。
私のおやじはね僕に板前の仕事を教えてくれる時にねおやじに「これどうするの?」って聞くとね「簡単に聞くなよ」「聞いて教わったものはすぐ忘れるんだ」「自分で覚えたものは忘れないんだ」ってこういうふうに言われましたよね。
それからね「人に言いつけられて仕事をする奴は半人前」「自分の目で仕事を見つけて動ける奴が一人前」ってこういうふうに教わりました。
なるほど。
それはそうですね。
今の若い子たちは家の手伝いをしません。
だから自分の頭で判断して自分の体を動かすっていうことができないんですね。
これは親がそういうふうにしつけないからですよ。
そのためにね世の中へ出てから本当に苦労するようになるんです。
そうですね。
体の動く人間は頭が動くんです。
頭の動かない人間は体が動かないんです。
そういうことをね僕に教えてくれて。
だから僕はね女房にも時々ねあきられるほどにねまめなんですよ。
おやりになる?ええ。
もう動いてなきゃなんない。
女房のお手伝いできることはっていったら包丁をね黙って研いでおいといてやる。
ああいい。
それでも随分助かりますよね。
ええ。
もう女房ねパンパンってお料理始めて「あら。
また包丁研いでおいてくれたの?ありがとう」チュッ。
なんていうことになりますよ。
何よりでございます。
こういうのは夫婦円満の秘けつですからね。
本当にもうチュでも何でもなすっていただいていいんですが。
そんな絶望的な言い方しないでくださいよ。
さてそういうお父様でいらっしゃるので何かにつけてそういうふうに何とかって仰るお父様でとても面白いんですがハーモニカ事件?ハーモニカが欲しいと小金治さんが仰った?はい。
そしたらおやじはねおもちゃ買ってくれない人なんですよ。
「欲しいものがあったら自分で作れ」「作れないものは諦めろ」って。
フフッ。
すごいな。
作れって言ったってハーモニカ作れないでしょ?ところがおやじはね「なんでハーモニカ欲しいんだ?」って。
「いい音するんだよ」って言ったらおやじが神棚のお榊を1枚むしって目の前でね草笛吹いたんです。
お榊って緑色のこういうね葉っぱ。
それで俺が吹けるんだからお前もやってみろって。
それで一生懸命吹いたの。
鳴らない。
3日でやめちゃったの。
「そういうのを三日坊主っていうんだよ」「一念発起は誰でもする。
とりあえずの実行もする」「努力までならみんなするんだよ」「そこでやめたらどんぐりの背比べで終わりなんだ」「一歩抜きんでるためには努力の上の辛抱という棒を立てろ」「この棒に花が咲くんだよ」って。
昔の親はいいこと言うでしょ?すごいですね。
ほとんど落語家の方のようですね。
ないしは講談というか。
寄席が好きな人ですからね。
あっそう。
なるほどね。
それから僕はね一生懸命吹いてるうちに鳴りました。
吹けるようになった。
家へ飛んで帰って「父ちゃん草笛吹けるようになったよ!」って言ったら「偉そうな顔するなよ。
何か一つのことができるようになった時自分一人の手柄と思うな」「世間の皆様のお力添えと感謝をしなさい」「“片手で錐はもめぬ”というんだ」って。
必ず錐はこうやって。
ねえ。
これおやじに教わったの。
そんなこと仰って。
で僕おやじにね「だけど父ちゃんそう言うけど努力の上の辛抱してさ一生懸命もんだら片手で錐もめるじゃねえか」っておやじに言ったらおやじがニヤッと笑って「明日から上顎だけでご飯かんでみろ」って。
本当だ。
こりゃできない。
思いましたね。
で僕草笛吹けるようになったんです。
でもお父様それにしてもすぐそういうふうによくこう言えばああ言うって次のものが出ますね。
あのね板前の修業をするんであっちの家こっちのお店へ行ってね随分苦労して親方に叱られ仲間に蹴飛ばされてねその時に色んな雑学を身につけた。
その雑学を僕の中にたたき込んでくれたんです。
なるほどね。
そのおかげでね草笛吹けるようになったんです。
草笛吹きましょうか?あっお願いできますか?持ってきました。
いいな。
子供の時からのが今でも?はい。
今でもこれをね吹いて。
それお榊なんですか?今でも。
いいえ。
これはねアカカシという垣根になってる葉っぱなんです。
今でも講演の時にね必ずこれ吹くんです。
ちょっと聴いてくれる?もちろんです。
『上を向いて歩こう』『上を向いて歩こう』すっごい!すごいすごい!
(拍手)ハハハ…。
どうもありがとう。
どうもありがとう。
大相撲力士タレント俳優と様々な分野で活躍なさった龍虎さん
現役時代の苦労とタレント転身後のとまどいを明かしてくださいました
まああの…龍虎さんはねお相撲さん小結までいらした方なんだけれど非常にお顔に苦労がにじみ出ていないというか非常に明るい顔をしていらっしゃるのでねもうとても…。
まあ横綱にはおなりにならなかったかもしれないけどそういうふうにずっといらしたのかと思ったら随分お相撲の時代には本当に大変な…。
そうですね。
下積みが10年ぐらいありましたからね。
要するにふんどし担ぎっていうのは。
結局ね初めの3年ぐらいはねやっぱり一番つらい時なんですよね。
それから今度幕下へ上がりますとね意外と楽なことは楽なの。
っていうことは洗濯なんか下の者にさせるしね布団なんかも敷かせたり上げさせたり。
楽は楽なんですよ。
ところがそうしてる間にあとから入った者はどんどん上へ行くし。
別に稽古しないわけじゃないんですけどね。
ところがもうね10年近くになりますとね同級生やなんかがね一流大学卒業して一流の会社に勤めたり…色々入ってくるでしょ?耳に。
俺はいつまでもこんなことやってても俺…。
年数で上がっていく世界じゃないですからね。
このままいて年取って辞めてどうしようもなくなったんじゃ困るなって。
だったら早いとこ辞めて手に職でもつけたほうがいいんじゃないかななんて…。
その辺が一番今度は精神的に苦しむ時代ですね。
そんなことくよくよしてたんじゃ稽古に身が入らないですからね。
私もちょうど来年が10年目だからよし10年。
一応もう1年頑張ってみてそれで駄目ならそれでいいじゃないかと。
このまま辞めたんじゃ今までの9年間っていうのが無駄になっちゃうような気がしてね。
何とか一生懸命やって。
その次の年に十両に上がりまして優勝して。
だから結局自分のあれが無駄になんなくてああよかったなと自分では思いました。
やっぱり一番うれしかったですね。
それじゃああれですね。
本当にそういうことでは悔いはない?そうですね。
相撲に関して横綱大関にはなれなかったですけどねやっぱり自分は自分だけの相撲は取ってきたと思って。
だから自分の相撲の人生には全然悔いはないです。
そんなふうに随分テレビにねお出になるんでテレビのなんか出演料の何倍もご自分で表で色んなもの召し上がったって伺ってるけどもそういうこともあんまり仰らないっていうか。
まあ…ただ相撲の時とやっぱり違いますんでね。
相撲の時っていうのはやっぱり負けりゃ自分が駄目なだけのことであって。
こういうタレント業っていうのはたとえ自分がどんなに気分の嫌な時でもやっぱり出てギャラもらう以上はお客様にいい雰囲気でという…。
初めはねとても抵抗があったんですよね。
ただこうやっていて喋ってとか演技してみたりしてギャラをもらうっていうことが。
私たちほら汗かいて泥だらけになって体使ってね要するにご飯を食べるという生活だったでしょ?そんなもんだからただこう座っていて…。
奇麗な格好してね。
それでお金もらうっていうのはこんなことでいいのか?つかまえどころがないみたいな?ええ。
それと結局男がこびを売ってというような雰囲気がとてもあったんですね。
だけどこれはこびじゃないんだと。
結局お客様に対していい雰囲気でもって出ることがやっぱりプロなんじゃないかと思ってからだいぶ気が楽になりましたけどね。
それで色々伺うようですけどお相撲をしてらした時はもういつも皆さん裸でしょ?だから裸平気なんだけどお相撲をお辞めになったら裸で出るのとてもちょっとこうあれなんですって?結局相撲の時っていうのは鍛えた体ですから自信があったわけですよね。
人に裸を見せるということに関して。
ところが今はそうじゃないですからね。
昔のイメージもあるでしょうから裸になるっていうことが嫌ですね。
じゃああの海水着っていうんですか?水着の写真撮らしてくださいなんていうのあるでしょ?きっと。
そういう時はもう駄目なんですか?いや…そうでもないですけどね。
ただその昔のように裸を誇れなくなっちゃったっていうことでしょうね。
山口淑子さんは戦時中女優李香蘭として中国全土で大スターとなりました
日本人でありながら中国人女優と偽っていた苦しみを涙ながらに語ってくださいました
私は山口さんが大好きでした
中国の新聞…北京の新聞記者たちが私とインタビュー…っていうか会見をしたいから50人ぐらい集まってインタビューしたいからどうだ?って言われたんでうーん…。
私もその時李香蘭をやめようと決心してたんですね。
もうその時もう李香蘭はやめようと思ってらしたんですか?ええ。
とても苦しかったし。
できたら最後の1本をもう一度中国で撮ってそして中国の人にわびて。
その李先生っていう方理事長がね記者会見…。
で私がその代わり条件がありますって言ったんですね。
じゃあその記者会見の前にリー・シャンラン…李香蘭は山口淑子という中国で生まれて中国を愛してる日本の女性だということを紹介してください。
そしてインタビューをお受けしますって言ったんですね。
そしたら李先生が「とんでもない」「何を言うんですか?」って仰るんですね。
で李さんは私の父の友人なんです。
だから私が山口文雄の娘だっていうことを知ってるわけですよね。
あっそうですよね。
ええ。
知ってらっしゃるの。
だからどうぞ山口文雄の娘だって仰ってくださいって言ったんですね。
私もう苦しくって李香蘭でいることはできないから。
ここでどうぞ皆さんに謝るから。
私が今まで愚かに…。
それこそ色んな映画に出てきたことを謝りますから。
また『支那の夜』をあえて言いますけど『支那の夜』のような悪い…中国を侮蔑するような映画に出たことを謝りますから。
どうぞ山口淑子っていう日本の少女だっていうことを娘だっていうことを言ってインタビューに入らしてくださいって言ったんですね。
そしたら駄目だと。
あなたは今その…中国の人たちは今みんなとっても苦しい時にいるんだと。
とっても中国人自身が悩んでいる。
そこに北京から大スターが生まれたんだと。
それをみんな喜んでねであなたがその「中国人よ立て」と「中国人よ戦おう」という鼓舞する歌をね映画で歌ってくれてみんなあなたを中国人だと思って喜んでるのに私は日本人ですよって今どうして言えますかって言うの。
それだけは言わないでくれって。
知ってる人もいるかもしれないけれども言わないでくれと言われましてね。
わかりましたっていうことでそのインタビューに入ったんですね。
そして…北京飯店でした。
50人ぐらいの中国の記者と一緒にね。
中国語で…北京語でこう話して。
で大体「撮影所でどんなだったです?」「どういう撮影をしましたか?」「上海の撮影のやり方はどうですか?」とかそういうことを色々聞かれて。
でもうこれで終わりにしましょうって言った時に1人の中国のなんか若い新聞記者が立ち上がりましてね。
「最後にもうひと言聞きたいことがあります」って非常にピシッとした声で聞こえてきたんであっ!ってなんかこうハッと思ったんですね。
そうしましたら「李香蘭さんあなた中国人でしょ?」「中国人のくせになぜ中国を侮辱するような日本の映画に出たんですか?」って。
「あなたは中国人としての誇りをどこに持ってるんですか?」「聞かしてください」って言われた。
ごめんなさい。
いや私ねきっとそう…。
だから日本人だって言いたかったけどね言えなかったんですけど。
そこでも私は「いえ違うんです」「私は日本人なんです。
ごめんなさい」って日本人だっていうことを言えませんでした。
なぜ言えなかったのか自分でもわからないんですけどね。
しばらく静かな時間が過ぎて。
私はその時もね下関にあがった時と同じように頭の中はもう真っ白になってしまってね。
するとまた心の中から声がひとりでほとばしってくるんですね。
その時に不起…すいませんでした。
私が若くて愚かでした。
今まで私のしてきたことは本当にバカなことで皆様に心からおわびしますって。
もう二度といたしませんから許してくださいっていうことを北京語でたどたどしく…言ったんですね。
そうしましたら中国の記者の方たちから拍手がきたんです。
その拍手がどういう意味だったのか。
私を日本人と知ってて拍手なすったのか私その言葉をどう聞いてくだすったかいまだに私はわかりませんけど。
その時にああ日本の人には「日本人のくせに何だ」って言われて中国の方からは「中国人だろ?中国人のくせに何だ」って。
「その誇りをどこに持ってる」って言われてね。
私もう身の置き場がなくなってしまったんですね。
それでもうはっきり私は李香蘭をやめましょうっていうことで上海に行って最後の映画を1本撮ろうと思って。
『香妃』。
『シャンフェイ』っていう映画を撮ろうと思いまして準備してたんです。
そして終戦になりましたから私は中国の方たちにはっきり李香蘭は日本人です。
愚かなバカな日本の少女で大変中国にご迷惑をかけて…。
中国の方たちをだましてはいなかったけど結果的にそうなってしまったということに対して私は謝らなきゃいけなかったんですけど謝るチャンスがなかったんです。
それで終戦になってしまいました。
独特な存在感で映画やテレビ舞台と幅広く活躍なさった米倉斉加年さん
劇団に入った時の思いがけない体験を語ってくださいました
私ねなんだかもう学校福岡で行ってたんですけど面白くないもんで。
演劇雑誌で見て五十人劇場っていうの…。
西南学院大学っていうんですか?はい。
で芝居してたんですがそしたら五十人劇場っていうのがあった。
それが松村さんの高円寺にある高円寺劇場。
50人しか…。
そこへ手紙書いたら来いって言うんですよ。
客席が50人?はい。
来いって言うから行ったら明日から舞台監督やってくれって。
逃げていなくなってた。
松村さんが?なんで?借金取りで?舞台監督がいなくなってた。
あっ舞台監督がいなくなったんですか?ええ。
それでね『その妹』ですよ。
武者小路実篤さん。
『その妹』っていう芝居。
ええ。
5杯…4杯セットか。
それを1人で造ったんですよ。
もう寝ないで。
誰もいなかった。
それで採用されたんですね。
初日開けるとなると誰も知らないんですよ。
どこへどういうセット…。
松下朗さんのいいセットで。
そのデザインはいいデザイン?はい。
でね僕はもう寝ちゃうと袖からこう突つかれて起きてそうしてやってたんですけど。
本当言うと初日までね乾かなかったんです塗ったものが。
で七輪でバタバタこうやって冬ですけど乾かしましてね。
でも乾ききれない。
まだぬれてるんです。
お客さんが来るからやめようって言って。
お客さんが1人みえてじーっと女の人がこう座って。
1人の女の人なんですってね。
初日に。
これ悪いからと思ってその乾かす七輪を下に持っていって。
どうぞお当たりくださいって言って…。
お茶淹れてどうぞって。
でね30分待ちましたけど1人以上お客は増えない。
でとうとう1人で幕開けた。
俳優さんはもうみんなやる気になってるんですか?はいそうです。
松村さんもお出になることになって。
もちろん主役ですから。
フフフ…。
でやりましたけどやっぱり1人以上増えないんですね。
とうとう3幕目に私帰りますって言って。
面白くないからではありません。
私一人のために大勢の方が芝居なさるのはとても心苦しくて…フフフ…。
フフフ…。
お茶を出した時に「お願いですから帰らないでください」って?せっかく造ったセットなんですからっていう感じで。
そうなんです。
その方お帰りになったんですか?結局。
2幕目が終わったとこで。
ええ。
でもね続けようって言って客のいないところで最後までやりました。
そうですか。
ですから客が少ないっていうことは僕は少々のことではびくつきませんね。
1人とあとは誰もいないとこでやった経験が演劇の東京でのスタートでした。
オペラ歌手の中島啓江さん
1979年にオペラ歌手としてデビュー
その明るいキャラクターを生かしてテレビの音楽番組やバラエティー番組にも数多く出演なさいました
「さえずる雲雀」「ああ我も」「強く立ちて」「わが家の」「栄誉を守らん」お家から出て東京へいらっしゃる時にびっくりしたんですけども1週間で何キロ?10キロから15キロぐらい太って。
でもねそれはねたぶん学生の時にその…下宿してるんですけどもね。
毎週ですね10キロのお米をですねうちの実家から送ってもらってたんですよ。
それがね4日と持たないんですよ。
あっという間になくなってんですよね。
朝まず3杯は食べましてお味噌汁作ってね。
もうそれで残ったのをおにぎりにして。
それも3杯分ぐらいあるかな?で学校に行って食べますよね。
1分ぐらいで行けるんですよ。
それで「早く食べちゃったわ」って言ってまた帰って。
1分ぐらいでお家に行かれるの?だからそれも全部食べちゃってから家に行ってまた食べたりして?そうですね時間があると。
なんか…なんか食べることが幸せっていうみたいな。
この他にも多くの方々が貴重なお話をしてくださいました。
笑福亭小松の芸名で活躍なさいましたががんで胃とひ臓を摘出。
その後各地でがん克服落語会を開催し話題を呼びました
私も何か日めくりのカレンダーではある今日やけどもこの時間を大切にしようと。
19歳の時に銀座でクラブ「姫」を開店
クラブ経営の傍ら作詞を始め五木ひろしさんの『よこはま・たそがれ』など数々のヒット曲を生み出しました
お作りになった数もすごいんですって?大体今1000曲以上はあると思うんですね。
ひどい時はやっぱり月に30曲とか40曲とかね書かなきゃならない…。
画家の中川一政さん演出家の千田是也さんを祖父に持つ芸術家一家に生まれ演出家の栗山民也様の奥様でした
1988年の日中合作映画『敦煌』で鮮烈なデビューをお飾りになりました
演劇のことについてもおじい様にはなかなか質問なさったりとかそういうことはなさらない?できないんですよなんか照れくさくて。
だからそうですね。
今もその話題はもう避けるようにしてます。
日本のファッションジャーナリストの先駆けとしてテレビなどで初めて海外のモード情報を広めるなどファッション界に貢献なさいました
それぞれの人が自分の好きな自分が着てて着心地がよくて一番安心してて好きだっていうものをお召しになるのがそれが21世紀だと私は唱え続けてるんですよ。
同じ産経新聞の記者だった作家の司馬太郎さんと結婚
取材旅行に同行するなど司馬さんの執筆活動を支えた方でした
一緒に笑える人。
そして平気でからかえ合える人というのがあっいいなと思って。
そうですね。
まあそういう点はよく合ったと思います。
映画監督の羽仁進さんと女優の左幸子さんの間に生まれました
香港を拠点にドキュメンタリー作品を発表するなど活躍を続けていらっしゃいました
いえ私性格がすごく男の子っぽい上に映画を撮ってますと男の子が多いでしょ。
どんどんひどくなって。
こういうとこだとちゃんと「私」って言いますけど友達と一緒だと「俺さ」とか言っちゃったりするからせめて髪ぐらい長くないともうこれはどうしようもなくなってしまうという。
(桂小金治さん)人に言いつけられて仕事をする奴は半人前。
自分の目で仕事を見つけて動ける奴が一人前。
(龍虎さん)自分の相撲の人生には全然悔いはないです。
(米倉斉加年さん)演劇の東京でのスタートでした。
(中島啓江さん)もう歌っててひっくり返ってもいいやって思う気持ちでいつも歌ってますし。
このあとも引き続き『ワイド!スクランブル』皆様どうぞご覧ください。
2014/12/17(水) 12:00〜12:30
ABCテレビ1
徹子の部屋 2014追悼特集[字]

〜追悼…想い出をもう一度〜今年亡くなられた方々の懐かしの映像をご紹介。『徹子の部屋』に残った貴重なVTRで想い出を振り返ります。

詳細情報
◇番組内容
映画やテレビ、ワイドショーの司会などで活躍した桂小金治さんは、最愛の父親の話を…桂さんを育て上げた父の言葉とは。
力士として活躍後、タレントへと転身した龍虎さんは、力士とタレントのスタイルの違いを語った。
波瀾の人生を送った「李香蘭」こと山口淑子さんは、日本人・山口淑子、中国人女優・李香蘭として二つの顔を持ったことでの悩み、苦しみを…
◇番組内容2
独特の存在感で映画にテレビ、舞台と幅広く活躍した米倉斉加年さんは、若き日の米倉さんが東京での演劇をスタートさせた時に起きた思いがけない事態を明かす。
オペラやミュージカルの他、明るいキャラクターでテレビ番組でも親しまれた中島啓江さんが、圧巻の歌声を披露した時の映像を。
『徹子の部屋』に残る貴重なVTRの数々。生き生きとお話ししてくださる様子が皆さまの心にいつまでも残るように祈ってお送りいたします。
◇おしらせ
☆『徹子の部屋』番組HP
 http://www.tv-asahi.co.jp/tetsuko/

ジャンル :
バラエティ – トークバラエティ
ドキュメンタリー/教養 – インタビュー・討論
福祉 – 文字(字幕)

映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
映像
音声 : 2/0モード(ステレオ)
日本語
サンプリングレート : 48kHz

OriginalNetworkID:32723(0x7FD3)
TransportStreamID:32723(0x7FD3)
ServiceID:2072(0x0818)
EventID:17418(0x440A)

カテゴリー: 未分類 | 投稿日: | 投稿者: