それは、山崎豊子の小説『不毛地帯』に出て来るシーンです。
シベリアで抑留生活を送っていたある日、日本人の青年が、手にした斧で自分の手首を切り、その血で腰のてぬぐいに日の丸を描くと、起重機の上に駆け上がりました。
そして日の丸をそのてっぺんに縛りつけると、
「皆さん、どうか、私がこの世で歌う最後の歌を聞いて下さい」と叫び、不動の姿勢をとって「海行かば」を歌いました。
彼の歌声は、朗々と空を震わせ、そして歌い終わるや彼は身を翻(ひるがえ)して20Mの地上に飛び降りる。
彼は即死でした。
というのが『不毛地帯』に出てくるエピソードです。
私が『不毛地帯』を読んだのは、まだサラリーマン時代のことで、ずいぶん昔のことなのだけれど、通勤電車の中でこのくだりを読み、恥ずかしながら涙があふれて止まらなくなってしまった記憶があります。
山崎豊子といえば、入念な取材をもとに小説を書く作家として有名ですが、この青年のお話も、もちろん元ネタがあります。
それが「ハバロフスク事件」で実際にあった出来事なのです。
大東亜戦争終結後、ソ連は、旧関東軍の将兵をシベリアに抑留させました。
このときのソ連兵の態度は、まったく威圧的で情け容赦なかったそうです。
「我々は、百万の関東軍を一瞬にして壊滅させた。貴様等は、敗者で囚人だ」と、何かにつけて彼らは怒鳴りました。
誰もが心のなかでは「何を言うか!」と思いました。
実際には満州、樺太、千島列島にいた日本軍は、すでに武器の多くを南方戦線に送り出し、ほとんど丸裸状態だったのです。
それでもソ連軍がT型戦車を前面に押し出して120万の大軍を繰り出してきたものに対して、これをあちこちで撃破していました。
戦いは勝っていたのです。
しかし日本は8月15日で戦争を終え、本部の命令に従って武装解除したのです。
それを言うにことかいて、敗者だの囚人だのと、図々しいにもほどがある。
日本人抑留者は、誇り高い旧関東軍の兵士たちです。
ソ連兵の威圧的な言葉に、どれだけ怒りと屈辱感をたぎらせていたことでしょう。
腹は立ちます。
けれど生きてさえいれば、いつの日か、必ず祖国に帰ることができる。
そうすれば生きて愛する家族に会うことができる。
その一点のためだけに、彼らは、互いを励まし合い、屈辱に耐え続けていました。
日本人は、どのような悪環境にあっても、まっとうな人間として行動しようとします。
まじめに働くのです。
これをいいことに、ソ連兵たちは日本人抑留者を徹底的に酷使しました。
黙って言うことを聞くから、もっと酷使するのです。
彼らは人を対等な人間として扱うことを知らない。
人間を上下と支配隷属の関係でしか捉えることができないのです。
シベリアに抑留者された元日本兵たちは、耐えに耐えました。
10年、耐え続けました。
そして暦はすでに、昭和30(1955)年6月になっていました。
ハバロフスクの捕虜収容所に、ミーシン少佐という監督官兼保安将校がいました。
ミーシンは、日本人みんなから猛烈に嫌われていました。
ある日ミーシン少佐は、零下30度の身を切るような寒さの中、日本人がやっと作業現場にたどり着いて、雨にぬれた衣服を乾かそうと焚き火をはじめたのを見咎めました。
ミーシンは焚き火を踏み消すと、作業再開を命令したのです。
濡れた衣服のままでは、体温を奪われ、死んでしまいます。
あたりまえのことです。
日本人の班長が抗議しました。
するとミーシンは、その班長を怒鳴りつけ、銃を突きつけて営倉処分にしたのです。
ひとりの青年が堪忍袋の緒を切りました。
彼は手にした斧で、ミーシンを殴りつけました。
ミーシンは倒れました。
それは10年間おとなしいだけだった日本人が見せた、はじめての怒りでした。
その場に居たソ連人は恐怖に駆られてみんな逃げ出しました。
しかし激情に駆られた青年は、すぐに、「たいへんなことをしてしまった。みんなに迷惑がかかる」と気が付いたのです。
彼はとっさに、近くにあった起重機に登りました。
起重機の先端に立った青年は、腰に巻いた白い布を取りました。
そして自分の指を噛みちぎると、流れる血で、白い腰布に赤く日の丸を描きました。
彼はその日の丸を風になびかせたそうです。
それは、どんよりと曇ったシベリアの空に、十年ぶりにへんぽんと翻った日の丸の姿でした。
彼は、しばしその日の丸を眺めると、直立不動の姿勢をとりました。
そして大きな声で、空に向かって「海ゆかば」を歌いました。
♪海行かば 水漬く屍(かばね)
山行かば 草生(くさむ)す屍
大君の 辺にこそ死なめ
かえりみはせじ
歌い終わると、彼は、起重機の上からみんなを見渡しました。
そしてそこから飛び降りようとしました。
20メートルくらいの高さです。ビルなら7階の屋上の高さかもしれない。
それまで呆然としてただ黙って固まっていた仲間たちは、そのとき、はっと気がつきました。
「やつを、死なちゃならない!」
10年間、悔しい思いをしながらも、ともに日本に、みんな揃って帰国する。そのことだけを夢見て、一緒に励まし合ってきた仲間たちなのです。
死ぬときも一緒、帰るときも一緒。そうだろ?
仲間たちは、起重機に駆けあがりました。
そして、青年の自殺を必死に止めました。
こんこんと説得しました。
青年は、自殺を思いとどまりました。
青年は、ミーシン少佐を、斧の刃でなく峰の部分で打っていました。
峰の部分で撃ったということは「殺意がない」ということです。
にもかかわらず青年は、公務執行中のソ連官憲に対する殺人未遂犯にされてしまいました。
そして既に科されていた戦犯としての25年の刑に加えて、10年の禁固刑を科させられました。
そして別な監獄に送られました。
これが実際にあった出来事です。
山崎豊子の小説以上の現実がそこにあります。
シベリアは極寒の地です。
大東亜戦争の終戦の7日前、突然参戦したソ連は、いきなり満洲・樺太・アリューシャン列島にいた日本人に襲いかかりました。
当時、満洲にいた日本軍は、すでに歩兵銃すら不足する状態でした。
あるのは、民生用のダイナマイトくらいなものです。
ですから彼らは、そのダイナマイトをランドセルくらいの袋に詰め、そこに導火線を垂らして火をつけ、ソ連軍の戦車に飛び込みました。
何のために、そこまでして戦ったのでしょうか。
もちろん軍隊ですから、命令とあれば命を惜しまずに戦います。
けれどたいした武器もない状態で、わずかばかりの日本軍が戦い、120万のソ連の大軍の前進を押し返したどころか、随所でこれを撃破しているのです。
そう考えれば、決して命令だけでは語れない何かがそこにあったということが、誰にでも容易に察することができます。
当時満洲は、まだまだ都市整備のためのインフラ整備が各地で進行中でした。
道路や線路、橋梁、建物を作る民間、あるいは軍隊の技術者や職人もたくさんいました。
発電所施設の建設を行う者、施設の管理や整備を行う者たちも、まるごと満洲に残っていました。
そしてその家族もいました。
自分たちが戦い、一時間でも一日でも攻めて来るソ連軍をそこに釘付けにすれば、その家族が、妻や子達が、その分、少しでも遠くまで逃げることができる。
だから彼らは、その婦女の生命を生かすために戦いました。
けれど軍は国の命令で動くものです。
本国から戦闘修了の命令があれば、どんなに勝っていても、戦闘を止め、敵の武装解除に応じなければなりません。
だから武装解除しました。
ソ連は、そうした民間の技術者集団達を含めて、彼らをまるごとシベリアに連れ去りました。
そしてソ連邦各地の都市インフラの整備を、無報酬で彼らにやらせたのです。
無報酬で使役したということは、それは奴隷として扱ったということです。
それ自体、戦時国際法違反です。
ソ連の言い分は、「君たちは戦争犯罪者として更正のために労働させているのだから、報酬がないのはあたりまえである。しかも食わせてやっているのだから文句を言われる筋合いはない」というものでした。
勝手なものです。栄養が足りようが足りまいが、生かしてもらっているだけでも、ありがたく思え、というわけです。
そして日本人の将兵、民間技術者たちは、ソ連に抑留され、ソ連各地の都市インフラの整備に使役されました。
ついでに満洲にあった各種民生用機材等も、ソ連に運ばれ、彼の地のインフラ整備や、農作業に使われています。
「ソビエト共産主義革命は、人々は労働から解放され、国費をもってすべての人たちに安心と安定と報酬が与えられる理想国家である」
一見、もっともらしい理屈です。
けれど、誰も労働しないのでは、そこに富は生まれないし、人々が住みやすくなるための都市インフラも整備できません。
実はなんのことはない、ソ連人が働かない代わりに、日本人やドイツ人、ポーランド人、その他ソビエト国内の政治犯などの抑留者たち、つまりソ連という国からみた「犯罪者」たちを使役することで、ソ連人達は「働かなくても食える」状態を演出したのです。
そんなものを、理想国家として称えた日本の朝○新聞などは、どれだけの害悪を日本に流したかということです。
ちなみにソ連に限らず、共産圏の国では、「政治」が全てに優先します。
ですから医療も、政治が優先します。
どういうことかというと、「政策」で「入院患者は全体の2%以内」と決められれば、それを越える入院患者は、症状の如何に関わらず、いっさい入院は許されません。
どんなに重病であっても、どんなに重症であっても、2%の枠外の人は健常者と(政治的に)みなされるのです。
当然、仕事を休むことは認められません。
そんなバカな、と思うかもしれないけれど、それが左翼主義者の言う「政治主導」という言葉の意味です。
日本でも最近、支那や朝鮮や旧ソ連万歳と唱える政党が、現実に政権をとりました。
そのとたん政治優先の「事業仕訳」などという暴挙行われたことは、みなさんの記憶に新しいことです。
ソ連の捕虜収容所では、どのような労働を課せられるかは、軍医の体位検査によって決定しました。
体位検査では1級から4級までに「仕分け」されました。
そして4級以外は原則として収容所外の工場、学校等の建築作業に出ました。
戦後10年を経過して、かつては屈強だった若者も、ガリガリに痩せ細っていました。
それでも4級認定者は全体の何%以内と(政治的に)決まっていますから、実質4級(インワリード=不具者という呼名)であっても3級認定となり、屋外の建築作業にかり出されました。
そもそも日本人の体位は、ソ連人とくらべて著しく劣っています。
これでは作業割当に支障をきたすというので、日本人はソ連人より1階級ずつ格上げした体位検査が用いられたそうです。
つまり、ソ連人の2級、3級該当者を、日本人についてだけは、1級、2級に認定したのです。
そしてソ連人の労働者に適用する作業ノルマを、そのまま日本人に遂行させました。
さらに旧日本軍では、重労働に要するカロリーを3800と規定していたのですが、ソ連収容所では、接取カロリーを2800と規程しました。
理由は、「カロリーを奪えば体力が落ちて抵抗力を奪えるから扱いやすくなる」というものです。
しかも実際には、日本人軍医4名の共同調査結果では、冷静に計算してやっと2580カロリーしか与えてもらえませんでした。
このため日本人のシベリア抑留者たちは、裸になって並ぶと、前に立っている男の肛門が上から見えたといいます。
お尻の肉が削げ落ちるまで、みんなガリガリにやせ細り、体調不良でも重労働を強いられる。
それがシベリア抑留だったのです。

それだけ酷い待遇に置かれながら、日本人の働きは昭和30年の第一・四半期にロシヤ共和国内第一位、第11四半期には全ソ連第一に輝いています。
まるで幽鬼のさながらに痩せさらばえていながら、それでも全ソ連第一の建築成果を挙げたのです。
まさに日本人、恐るべしです。
石田三郎著「無抵抗の抵抗」に以下の描写があります。
=======
現場監督側および収容所当局の日本人に対する態度はどうであつたろうか。
彼らの基本的な態度といえば、それは従順な日本人を徹底的に搾つて自分らの功績をあげること、日本人は最も憎むべき重大戦犯であるから死ぬまで酷使するということにあった。
このため現場側と収容所側は申し合せて、将校一、下士官一の監視係を任命し、毎日終日私たちの作業を監視させた。
勿論彼らは建築についてはズブの素人であり、仕事の段取その他について知るはずもなかつた。
その彼らが事毎に私たちの作業に干渉して作業能率を低下させる許りでなく、現場側と結託して私たちの給金査定にまで容喙するし、時には作業未遂行、あるいは国家財産の故意の損耗を理由に懲罰作業をさえ強制する。
また零下20度、30度のトラック上の寒風に吹きさらされて現場にたどり着く私たちに、仕事前の暖を取ることさえ禁じたり、雨にぬれた衣服を乾燥するため焚火している火を踏み消して作業に狩り出す。
当然負傷などの災害が予想される危険な作業にまで追い出し、これを拒絶すれば直ちに営倉に入れる。
そしてあらゆる言葉の二言目には、
「貴様らは囚人だ。いうことを聞かなければ、また監獄に送るぞ」と脅迫するなど目に余るものがあつた。
ところがその反面、彼らは日本人の大工に私物の家財道具を造らせたり、自宅の薪用に板切れや棒切れを現場側に無断で搬出させたりさえもしたのである。
また現場側で、ソ連側最高貴任者が監督を集めて訓示を与えるとき、
「ここの日本人は戦犯だから死ぬまで酷使してもよい」と放言したり、私たちにたいしても、彼らが民間人でありながら営倉に入れるぞと、おどしたりするのはいつものことであった。
何しろ収容所当局、現場当局に対する不満は数限りなくあった。
要するにソ連側は、私たち日本人を奴隷としてしか取り扱つてはくれなかった。
======
昭和30年11月26日のことです。
ソ連兵は、政治部将校の立会いの下で、営内の軽作業に従事していた病弱者26名を、営外作業に適するとして無理に作業に出しました。
シベリアの11月の末といえば、零下20~30度の酷寒です。
病弱者たちの病状は悪化し、収容所にたどり着くや倒れる者が何人も出てしまいました。
12月15日になると、ソ連の将校たちは、さらに他の病弱者65名に営外作業を命じました。
ハバロフスクの捕虜収容所では、みんなで、
「その分自分たちが働くから、病弱者に無理はさせないでもらいたい」と必死に嘆願しました。
しかし、ソ連兵は耳を貸しません。
病状は悪化し、血圧が170、180以上になる者が多くなり、中には、200を越す者も出る始末になりました。
寒風のなか、病弱者は、あるものは友の肩にすがりながらやっと身体を動かし、ある者は虚空をつかむ幽鬼のように手を伸ばし、よろけながら歯を食いしばって頑張りました。
囚人は、作業休を認められない限りいかなる状態でも休むことは許されません。
休めば、非合法のサボタージュとみなされるからです。
「病弱者営外作業に追出し」というのは、要するに「病弱者を殺害する」ということです。
戦争が終わったのが昭和20年、それからまる10年経って、この有様だったのです。
日本に帰えることだけど夢見て、みんなで頑張ってきました。
力をあわせ励まし合って、どんな無理難題にも耐えてきました。
「それなのに、ここまで支え合ってきた仲間の命さえも、ここで失わなければならないのか。」
誰も死んでほしくない。仲間を死なせるわけにいかない。
みんな一緒に、日本に帰るんだ。
これ以上は、もう我慢できない。
日本人たちは、班長会議を開きました。
「このままでは皆死んでしまうぞ」
「そうだ。収容所側は、これからも、このような仕事の命令を繰り返すに違いない。そうすれば、病弱の者は、この冬に殺される。そして、現在健康な者もやられてしまう」
「では、どうするんだ?!」
収容所側にいくら懇願しても誠意のある対応は期待できません。
このまま自滅を待つのか・・・。
ひとりの班長が言いました。
「自滅するよりは闘おう。座して死を待つのは日本人としての恥だ」
「そうだ。同感だ」
「しかしどのように戦うのだ」
「戦うなら、勝つ戦いをしなければならない。さもなければ、生きて祖国に帰ることだけを目的にしてこれまで耐えてきたことが水の泡になる」
「先ず作業拒否だ」
いろいろな意見が交わされました。
内容は「生きて日本に帰れるかどうか」です。
ものすごく重大なことです。
だから、各班で話しあって、その結果を踏まえて結論を出そうということになりました。
そして12月19日から、各班の結論は、作業拒否で戦うということを決めました。
全体の方針は決まりました。
しかし作業拒否だけでは、ラチがあきません。
ですから、次いで代表を決め、固い組織を作って、死を覚悟の「交渉をやろう!」ということになりました。
班長会議が一致して代表として推薦した人物は、元陸軍少佐の石田三郎でした。
要請を受けた石田三郎は、作業拒否を実行する班はどの班かと聞きます。
すると班長会議の面々は、
「浅原グループを除く全部です」と答えました。
浅原というのは、シベリアの天皇といわれた民主運動(共産主義運動)のリーダー浅原正基(あさはらせいき)のことです。
この浅原正基という人物は、元日本陸軍上等兵、ハルビン特務機関員でありながら、シベリア抑留の際、イワン・コワレンコというソ連KGBの中佐と結託して、元上官などを次々に告発し、貶め、辱め、殺害に導いた卑劣な左翼男です。
すすんでソ連兵に媚を売り、日本人の同胞を辱め、売り飛ばし、自らソビエト社会主義の先鋒を勤めることで、自分だけがいい思いをしてきました。
彼は袴田陸奥男とともに抑留者から恐れられ、「シベリア天皇」(最高権力者という意味)とみんなから呼ばれていました。
その浅原は、そういう裏切り行為を10年続けたのですが、結果からみれば、ソ連が浅原に与えた身分は、単なる「抑留者」でしかありません。
要するに、軽薄な裏切り者、仲間を売るような卑怯者は、媚びた先からさえ、誰からも信用されなかったのです。
結局浅原は、ソ連兵にもKGBにも信用されず、仲間たちからも見放されてしまう。
売国奴の末路というものは、こういうものです。
どこかの政党が、衆院解散後、総理経験者までも離党して四分五裂状態にあるのに似ています。
そこに信義のカケラもない。
石田三郎氏は、作業拒否闘争の代表を引き受けました。
引き受けるということは、死を覚悟する、ということです。
せっかく十年がんばったのに、ここで死ななければならない。
けれど、みんなの熱意に動かされた石田少佐は、みんなの前で言いました。
「この闘いでは、犠牲者が出ることは覚悟しなければなりません。
少なくとも代表たるものには責任を問われる覚悟がいる。
私には、親もない、妻もない。
ただ、祖国に対する熱い思いと丈夫な身体をもっています。
私に代表をやれというなら、命をかけてやる決意です。
皆さん、始める以上は、力を合わせて、最後まで闘い抜きましょう」
静かな語り口ですが、そこには、並々ならぬ決意が込められていました。
それまでにも政治犯のソ連人や、ドイツ人その他による捕虜たちのストライキや暴動がありました。
それらに対するソ連の弾圧(というより報復)は、すさまじいものでした。
同邦人であるソ連人が収容されている収容所でのストライキや暴動でさえも、戦車が出動し、多くの死者を出し、首謀者は必ず処刑されたのです。
石田少佐を初めとする日本人捕虜たち全員が、ソ連のこのやり口を知っています。
それでも、仲間の死を座して見過ごすことができない。
仲間を死なせるわけにいかない。
という追い詰められた心情が、浅原グループを除く収容所のみんなにあったのです。
こうしてハバロフスクの日本人捕虜769名の戦いが始まりました。
この収容所の人々は、ほとんどが旧制中学卒業以上の知識人です。
知的レベルが非常に高い。
日本人捕虜たちの要求事項は次の通りでした。
1 皆、健康を害しているので、帰国まで、本収容所を保養収容所として、全員を休養させること
2 病人や高齢者を作業に出さないこと
3 高齢者や婦女子を即時帰国させること
4 留守家族との通信回数を増やすこと
5 今回の事件で処罰者を出さぬこと
そして、戦術としては、
(1) 暴力は絶対に使わない
(2) 収容所側を刺激させないため「闘争」という言葉は避け、組織の名称は「交渉代表部」とし、運動自体も「請願運動」と呼ぶことにする。
石田三郎は全員を前にして言いました。
「私たちの最大の目的は、全員が健康で祖国の土を踏むことです。これからのあらゆる行動は、このことを決して忘れることなく、心を一つにして目的達成まで頑張りぬきましょう」
長い間、奴隷のように扱われ、屈辱に耐えてきた人々です。
日本人としての誇りさえも失いかねない、虜囚としての長い服従の日々でした。
石田少佐の言葉は、日本人捕虜たちが、収容以来初めて、日本人としての誇りを感じ、人間として目覚めた瞬間でした。
石田少佐の声は静かなものでした。
けれど、みんなの心に熱いものがこみあげました。
石田少佐は、有効な作戦を立てるため、また、重要な問題にぶつかったとき、アドバイスを受けるための顧問団を編成しました。
顧問団には、元満州国の外交官や元関東軍の重要人物などもいました。
石田少佐は顧問団の名前をいっさい公表せず、個人的に密かに接触しました。
これらの人々に、危険が及ばぬようにするためです。
その顧問団の中に、元関東軍参謀瀬島龍三もいました。
瀬島氏は、回顧録の中で次のように語っています。
「平素から私と親しかった代表の石田君は決起後、夜半を見計らって頻繁に私の寝台を訪ねてきた。二人はよそから見えないように四つん這いになって意見を交換した。」
瀬島は、石田少佐に、請願書を中央のソ連内務大臣、プラウダの編集長、ソ連赤十字の代表などに送るよう助言しました。
そしてその文書は、すべて同様の、一定の「外交文書」としての形式を整えさせました。
内容も、ソ連の中央権力を批判することを避け、中央政府の人道主義を理解しない地方官憲が誤ったことをやっているので、それを改善してくれと請願するというものにしました。
例えば、昭和31(1956)年2月10日の、ソ連邦内務大臣ドウドロワ宛の請願書では、
「世界で最も正しい人道主義を終始主唱するソ連邦に於いて」と中央の政策を最大限誉め上げ、それにもかかわらず、当収容所は、
「労働力強化の一方策として、計画的に病人狩り出しという挙に出た。収容所側の非人道的扱いに耐えられず生命の擁護のため止むを得ず、最後の手段として作業拒否に出た」
だから、
「私達の請願を聞いて欲しい」と結んでいます。
また同年1月24日のソ連赤十字社長ミチェーレフ宛請願書でも、
「モスコー政府の人道主義は、今、地方官憲の手によって我々に対して行なわれているようなものではないことを確信し」と表現しています。
これらは、皆、瀬島龍三のアドバイスによるものでした。
作戦としては、中央を持ち上げて地方をたたく。そしてあくまでも、外交上の筋道をキチンと通すというものでした。
収容所側は作業拒否について、「これは暴動である。ソ連邦に対する暴動である。直ちに作業に出ろ」と執拗に迫ることでしょう。中央に対してもそのように報告することでしょう。
そして減食罰などを適用しながら、一方で、「直ちに作業に出れば、許してやる」といってゆさぶりをかけてくるにちがいありません。それらは予期できることです。
それに対抗するためには、とにもかくにもルールをきちんと守り、筋を通しきっていかなければならない。
さらに首謀者を拉致して抵抗運動の組織を壊滅させることも考えられます。
だから石田三郎氏は、各班から護衛をつけてもらって、夜毎に違った寝台を転々とすることなども取り決めました。
いよいよ12月19日、作業拒否による抵抗運動が開始されました。
石田は、正々堂々、分所長スリフキン中尉に面会を求めます。
そしてスリフキンの前で敬礼をし、直立不動の姿勢をとりました。
そして姓名を名乗り、営外作業日本人の代表たる旨を報告したうえで、
「我々は12月19日、本日作場出場拒否の方法をもつて請願運動に入ります。この解決について、当ハバロフスク最高責任者と会見交渉したい」と申し入れました。
スリフキン中尉は、
「今からでも遅くないから作業に出よ、問題はその後に相談しよう」と、作業を督促しました。
「あとで相談しよう」というのは共産主義用語です。「お前たちの言うことなど、聞く耳持たない」という意味です。
しかし石田少佐は、断固として「最高責任者にこの旨至急報告されたい」と言い残しました。
それは、ただの奴隷の言葉ではありませんでした。鍛え上げられた元帝国陸軍将校の言葉でした。
これにはさしものスリフキン中尉も畏れをなします。
その日の午前10時、石田少佐は、政治部将校マーカロフ少佐の呼び出しを受けました。
石田が団本部に入ってみると、マーカロフ少佐に、吉田団長、鶴賀文化部長が先にきています。
事態がここまできた以上、別に、団長、文化部長に室外へ出て貰う必要もありません。
かえって二人がいてくれた方が話し易い位のものだと考えた石田は、鶴賀に通訳を頼みました。
マーカロフ少佐は、元来、日本人を人間扱いしない総元締であるだけに傲岸不遜、人を見下すことを得意とする男です。この時も、ハナから威丈高に、
「囚人の作業拒否は違法だ。如何なる理由があろうとも、囚人が作業に出ないとはけしからん。不服従として厳罰に処する」と声を張り上げました。
ひとこと添えますが、昨今の左翼や在日の特徴にも同様の傾向が見られます。
よるとさわるとルールを持ち出し、大声をあげる。
自分ではルールなどさらさら守る気はないのに、他人に対してだけは、強引にルールを要求する。
そして自分が上位にあるとみるや、これ以上ないほど居丈高になる。
そんなみえすいたマーカロフ少佐の態度に対し、石田少佐は、静かに答えました。
「日ソ間の国交回復が議せられている現在、また、ヴォロシーロフ議長が、日本議員団訪ソの際、言明したように、日本人は、当然、遠からず帰国を約束せられている集団であると信じています。この最も光明ある時期に、何故かかることを断行しなければならなかったかは、貴官も先刻御承知のはずです。特に貴官の病人狩り出しは甚だしい非人道行為です。このような事態が続くとすれば、私たちの健康状態は」
しかしマーカロフ少佐は、話をさえぎり、
「よろしい。即刻作業に出ないとあれば昼食を支給することはできない」と会見を打ち切りました。
石田少佐は、団本部から戻りました。
すると数十名の若者が、営庭の片隅で盛んに大工仕事をしていました。
何事かと近よってみると、
「ソ連兵が弾圧のため営内に進入してくるに違いないから、バリケードを作っているのです」といいます。
石田少佐は、はっとしましました。
そうか。私はウカツだつた。
みんな同胞の生命を守るため本当に死を覚悟しでいるんだ。
そして今、決死の抵抗を準備している。
そうだ。この決意こそが必要なのだ。
けれど、こういう手段をとってはいけない。
私たちは正義と人道の上に立っている。
これで充分なのだ。
暴力を用いてはいけない。
暴力を用うれば、敵に攻撃の機会の口実を与えてしまう。
ソ連各地のロシヤ人囚人の暴動と同一であってはならない。
あくまで沈着冷静な、無抵抗の抵抗でなければならない。
石田少佐は、若者たちにこのことを説きました。
そして直ちにバリケードの撤去を命じました。
これこそ、覚悟というものです。
その日の正午前、石田少佐が班長たちにマーカロフ少佐との会見の模様を報告していると、炊事係がやってきました。
「今、政治部将校から許可あるまで、全員に昼食を支給することまかりならぬ、と命令がありました」
ソ連側の圧力がはじまったのです。
そしのこの圧力は、最終的に約三ヶ月後の3月11日、ソ連邦内務次官中将が、自ら指揮する兵力2500名と消防自動車8両とを用いて行った大武力弾圧にまで発展しました。
話を戻します。
作業拒否闘争が始まって間もなくのことです。
35歳以下の若者130名が、自発的に青年防衛隊なるものを結成しました。
そして石田少佐のもとに、その結成式をやるから出てくれと言ってきました。
石田少佐が表に出ると、シベリアの雪が静かに降る中で、若者たちが整列しています。
そして青年たちの代表が凛(りん)とした声で、宣誓文を読みあげました。
整列した若者たちの瞳は澄み、顔にかかる雪にも気付かないかのようです。
敗戦によって心の支えを失い、ただ屈辱に耐えてきたこれまでの姿が一変し、何者も恐れぬ気迫があたりを制していました。
彼らの胸にあるのは、自らの意思で、人としての尊厳を取り戻すために、友のために、同胞のために、正義の戦いに参加しているのだという誇りです。
「私たち青年130名は、日本民族の誇りに基づいて代表を中心に一致団結し、闘争の最前線で活躍することを誓う!」
代表が読み上げた檄文は、
我々は石田代表と生死を共にする、
我々は老人を敬い病人を扶ける、
我々はすべての困難の陣頭に立つ、
我々は日本民族の青年たるに恥じない修養に努力する、
と続きます。
石田三郎元少佐は、答辞として、次のように答えました。
「運動の目的は、あくまでひとり残らず日本に帰国することです。そのためには、暴力は絶対にいけません。
諸君の任務は、暴力に訴えることが生じないように監督してくれることです。そして、私を拉致するために血を見るような事態に至ったときは、私ひとりで出て行きます。」
すると一人の青年が、石田の言葉をさえぎりました。
「代表が奪われるよりは、私達青年は、銃弾の前に屍をさらす覚悟です」
このとき、集った130名の青年たちの目には、必死の覚悟が浮かび、頬に涙が伝っていました。
石田元少佐の耳にも、彼らのすすり泣く声が聞こえました。
全ての青年が泣いていました。
石田少佐も泣けてきました。
これまで、如何なる拷問にも耐え、如何なる困難を前にしても泣いたことのない石田三郎です。
けれどその石田少佐が、青年の手を握って泣いたのです。
みんながこのように、純粋な気持で涙を流すことは祖国を離れて以来初めてのことでした。
外の力で動くのではなく、内なる力に衝き動かされ、その結果、人間として一番大切な生命をかける。こうなったときの日本人がどれだけ強いか。
そのことは、ソ連軍もよく知っています。
民団や、在日グループ、あるいは左翼や支那工作員などは、すべて、上からの圧力で動きます。
これに対し、日本人が動くときは、内なる力によります。
そしてそれこそが時代を変える真のエネルギーとなります。
石田三郎少佐たちは、ソ連に連行されてから11回目の正月を、闘争の中で迎えました。
まだ打開策は見つかっていません。
闘争の行方にも、大きな不安があります。
しかし、彼らの心には、それまでの正月にはない活気があふれていました。
体はやせ細っていたけれど、収容所の日本人たちの表情は明るく、かつてない生気が蘇っていました。
日本の正月の姿を少しでもここシベリアの収容所の中に実現しようと、みんなで前日から建物の周りの雪をどけ、施設の中を、特別に清掃しました。
器用な人は、門松やお飾りやしめ縄まで、代用の材料を見つけてきて工夫しました。
各部屋には、紙に描いた日の丸を貼りました。
懐かしい日の丸は、人々の心をうきうきさせました。
このときの作業に取り組む日本人の後ろ姿は、どこか、日本の家庭で家族のためにサービスするお父さんを思わせるものがあったそうです。
それが、自らの心に従って行動する人間の姿です。
石田三郎氏は、後年の著書『無抵抗の抵抗』の中で、次のように語っています。
「ソ連に連行されてから、この正月ほど心から喜び、日本人としての正月を祝ったことはなかった。それは、本来の日本人になり得たという、また、民族の魂を回復し得たという喜びであった。」
元旦の早朝、日本人は建物の外に出て整列しました。
白樺の林は雪で被われていました。
林の向こうから昇る太陽が、樹間を通して幾筋もの陽光を投げました。
そして全員で、日本のある東南に向かって暫く頭を下げました。
やがて誰ともなく歌を歌いました。
君が代は
千代に八千代に
さざれ石の 巌となりて
苔のむすまで
長い収容所の生活の中で、国歌を歌ったのは、これが初めてのことでした。
歌いながら、日本国民としての誇らしい気持ちと、家族、故郷への思いがよぎりました。
みんな歌いながら、滂沱の涙を流しました。
「民主運動」と呼ばれる共産主義の嵐の中では、君が代も日の丸も反動のシンボルだったのです。
歌ったり、貼ったりすることは、全く不可能なことでした。
「民主運動」の中での祖国は、日本ではなくソ連なのです。
共産主義の元祖ソ同盟こそ、理想の国であり、資本主義の支配する日本は変えねばならない。
だからソ同盟こそ祖国なのだ、というのが、ソ連の考え方です。
多くの日本人は、不本意ながらも、民主教育の理解が進んだことを認められて少しでも早く帰国したいばかりに表面を装って生きてきていました。
収容所では、表面だけ赤化したことを、密かに赤大根と言いました。
心ある者は、このようなことを卑屈なこととして、後ろめたく思ったし、自分は日本人ではなくなってしまったと自虐の念に苦しんだりもしていました。
それが今回の作業拒否闘争で、みんなが一致団結して収容所当局と対決することで、日本人としての自覚が高まり、日本人としての誇りと心が蘇ったのです。
この湧き上がる新たな力によって、共産主義「民主運動」のリーダーで、シベリアの天皇として恐れられた浅原一派は、はじき出されました。
彼らは、恐怖の存在ではなくなり影響力も失いました。
浅原正基を中心とする「民主運動」のグループは、作業拒否闘争に加わらず、同じ収容所の中の一画で生活していたのです。
闘争が長びき、作業拒否組の意識が激化してゆくにつれ、闘争を行う青年たちと、浅原一派の関係は、次第に険悪なものになっていきました。
とくに、彼らを通じて収容所側に情報が漏れてゆくことが、みんなを苛立たせ、怒りをつのらせた。
いまもあるどこかの国のネット工作員みたいなものです。
そして、浅原一味に対する緊迫感は、いつ爆発するかも知れない状態となりました。
ソ連兵に拉致されるや否や、祖国への誇りを失い、そくさくと「理想的」社会主義者に転向しただけでなく、かつて世話になった上官や、互いに助け合い、支えあった仲間を平気で売ったのです。
売られた多くの上官たちや仲間たちの命が、どれだけ犠牲になったことか。
その姿を全員がみているのです。
しかもこうして日本人みんなでまとまって抵抗運動をしている最中に、コソコソと仲間の様子をソ連兵に告げ口をしています。
血気の青年防衛隊は、このままでは、闘争も失敗する、浅原グループを叩き出すべきだと代表に迫りました。
しかし石田は、断固として青年たちに申し渡しました。
「いかなることがあっても、浅原グループに手を加えてはならない。それは、ソ連側の実力行使の口実となり、我々の首をしめる結果になる」
ついに収容所側は、浅原グループを全く分離する方針をとるに至りました。
1月31日、病院長にミリニチェンコ中佐が赴任してきました。
彼は従来のソ側の非をさとり、石田らの病院関係にたいする改善要求を素直に聞きいれ、彼のできる範囲内で、真剣に改善に骨折ってくれました。
日本人軍医を信頼して、その起用を計画もしてくれました。
病人食の支給にも大いに努めてくれました。
注射、投薬等も多量に施してくれました。
入院を宜告されていたが、まだ入院できないでいる約30名のために、新たな病窒拡張を計画してくれました。
病院炊事を拡大し、医務室日本人勤務員の過労を見てとり、勤務員の増加の計画もたててくれました。
病院勤務員の手当の増額についても努力してくれました。
ミリニチェンコ中佐の着任によって、ソ連人病院勤務者の態度が一変して親切になりました。
しかしミリニチェンコ中佐が「計画」したものは、まるで実施されませんでした。
一部実施されたものも2週間たらずのうちに、また、もと通りに戻ってしまいました。
ミリニチェンコ中佐の上司である、ハバロフスク地方官憲当局者が、彼の申請を却下したからです。
とにもかくにも、政治国家というものは、権限がすべてを左右します。
ミリニチェンコ中佐がソ連側の非をさとり、どんなに改善に真剣に取り組もうとしても、彼の上司の見解、決定が変更されない限り、彼一人がいくら躍起となっても、所詮、無駄骨折りになる。
そういう政治体制こそ「理想」と考えるヒトは、要するに自分だけはいい思いができると勘違いしています。
これに対し、日本はシラス国です。
指示や命令、規則やきまりといった外の力ではなく、内なる力に衝き動かされて人々が動きます。
だからこそ日本人は、権限や規則、きまりを尊重するからいっけん従順だけれど、あまりの不条理が目立てば、ある日、日本人は内なる力によって豹変するのです。
2月3日、第16収容所所長が交代しました。
マルチェンコ大佐に代って着任したのは、ナジョージン少佐です。
彼は着任当初は、いかにも温和な態度で、彼の表現を借りれば「日本人の立場に入り込んで事の解決に努力する」と言明します。
しかし事件の原因の説明、私たちの要求の説明という段になると、用事があるといって引っ込んでしまい、出て来ない。
そして何かというと「私は新たな立場で着任した。従って以前のことについては何も知らない。君らの要求に対する回答は、今度できた新指導部(彼の上司のこと)の命令がくるまではどうにも動けない」と言い逃れをしていました。
しかも、「作業の問題については、当分、言及しないことにする」と言明したかと思うと、3日もすると、
「作業だ。作業に出れば万事解決する」と、作業を強要します。
言うことがコロコロ変わる。
全ては責任逃れのためです。
こういう人間は、目が二つとも上についている。
覚醒した日本人たちが結束して闘う姿は、同じ収容所の外国人を驚かせまています。
ハバロフスクには、支那人、朝鮮人、蒙古人がかなりの数、収容されていたのだけれど、彼らの代表が、ある時、闘う日本人を訪ねて共闘を申し込み、こう発言したそうです。
「私たちは、これまで、日本人は何と生気地がないのかと思っていました。日本に帰りたいばかりに、何でもソ連の言いなりになっている。それだけでなく、ソ連に媚(こ)びたり、へつらったりしている。情けないことだと思いました。
これが、かつて、私たちの上に立って支配していた民族か、これが日本人の本性かと、実は、軽蔑していました。
ところが、この度の一糸乱れぬ見事な闘いぶりを見て、私達が誤っていたことに気付きました。
やはり、これが真実の日本人だと思いました。」
石田三郎氏らは、この言葉に感激しました。
そして、これまでの自分たちが軽蔑されるのは当然だとも思ったそうです。
ソ同盟万歳を叫び、赤旗を振って労働歌を歌い、スターリン元師に対して感謝状を書くといった、同胞のこれまでの姿を、石田三郎は、改めて思い返し、日本人収容者全体の問題として恥じいります。
いくつもの抑留者の手記で述べられていることなのですが、戦いに敗れて、同じように強制労働に服していたドイツ人は、収容所側の不当な扱いに、毅然とした態度をとりました。
ある手記によれば、メーデーの日に、日本人が赤旗を先頭に立てて祝賀行進していると、一人のドイツ人捕虜の若者が、その赤旗を奪いとって地上に投げ、
「日本の国旗は赤旗なのか」と怒鳴ったそうです。
この若者は、同じようにソ連から理不尽な扱いを受けている仲間として、日本人が共通の敵であるソ連に尾を振る姿が許せなかったのです。
しかし、日本人には、ドイツ人達のような行動がとれません。
なぜなら日本人は、自分の身よりも他人の身を気遣うからです。
自分が一線を飛び越えることで、他の仲間に迷惑がかかる。
自分が暴走するのは簡単です。
しかしそのことで、仲間たちみんなに迷惑がかかったら、取り返しがつかない。
ひとりひとりに祖国の家族が待っているのです。
だから耐えたのです。我慢したのです。
自分がつらいときは、他人もつらい。
だから我慢しよう。
そしてみんな一緒に日本に帰ろう。
それが日本人です。
でも、内なる力が、全員の心となったとき、日本人は変わります。
ひとりひとりが自らの意思で闘い、いさぎよく命をかける。
まさに豹変するのです。
昭和31年の2月も終わろうとする頃、石田たちの作業拒否闘争は膠着状態となっていました。
作業拒否を宣言してから2ヶ月、中央政府に対する請願文書の送付も、現地収容所に握りつぶされているのか、まるで中央政府から返答がありません。
一方、日本人たちの団結は固く、志気も高い。
けれど、何とか、この状態を打開しなければという危機感が高まります。
石田少佐たちは、知恵を絞りました。
人材には事欠かないのです。
元満州国や元関東軍の中枢にいた要人が集まっているのです。
かつて陛下の軍隊として戦った力を、今は新たな目標に向け、新たな大義のために役立てる。
みんな真剣に考えた。
収容所側を追い詰め、中央政府に助けを求めざるを得ない状態を作り出す手段。
そして、ひとつの結論を導き出します。
それは「断食」をする、ということでした。
収容所の日本人全体が断食して倒れ、最悪の場合、死に至ることになれば、収容所は中央政府から責任を問われます。
収容所は、そういう事態を最も恐れるだろう。
それで現状のこう着状態を打開できるかもしれない。
全員一致して、断食闘争に参同します。
そして密かに計画が練られ準備が進められました。
健康で生きて祖国に帰ることがこの闘争の目的です。
断食をいつまでも続け、自滅してしまったのでは元も子もない。
ただでさえ、みんなの体力も落ちている。
そこで、みんなが少しずつ蓄えていた日頃配られた食料の一部や、小麦粉から密かに作った乾パンなどを、貯蔵し、秘かに断食闘争に使おうということになりました。
完全な断食によって、体力を消耗し尽くし、倒れてしまったら元も子もないからです。
そして断食闘争に入った場合、相手が変化して中央政府が何らかの行動が入るまでに、およそ一週間と見通しをつけます。
闘争代表部は、断食宣言書を作り、収容所のナジョージン少佐に渡します。
「作業拒否以来70日が経過しました。この間、何等誠意ある対応はみられません。
ソ連邦政府の人道主義と平和政策を踏みにじろうとする地方官憲の卑劣な行為に対して我々は強い憤激の念を禁じ得ません。
そこで、今、自己の生命を賭して、即ち絶食により中央からの全権派遣を請願する以外に策なきに至りました。
3月2日以降、我々は、断固として集団絶食に入ることを宣言します」
そして断食闘争に耐えられない病弱者を除き、506名が断食に入ったのです。
このような多数が一致して断食行動に出ることは、収容所の歴史にも例のないことです。
彼らは態度を豹変させ、何とか食べさせようとして、なだめたりすかしたりしました。
しかし、日本人の意志は固く、ある者は静かに目を閉じて座し、ある者は、じっと身体を横たえて動きません。
それぞれの姿からは、死の決意が伝わり、不気味な静寂は侵し(おか)難い力となってあたりをおおいます。
収容所の提供する食料を拒否し、乾パンを一日二回、一回に二枚をお湯に浸してのどを通す。
空腹に耐えることは辛いことです。
けれど、辛いときは、零下30度を越す酷寒の中の作業や、長いこと耐えてきた様々な辛苦を思いました。
そうすることでみんなで空腹に堪えました。
ところが、3月11日午前5時、緊急事態が起こりました。
気温零下35度、全ての生き物の存在を許さぬような死の世界の静寂を、ただならぬ物音が打ち破ったのです。
「敵襲! 起床!」
不寝番が絶叫しました。
「ウラー、ウラー」
威かくの声と共に、すさまじい物音で扉が壊され、ソ連兵がどっとなだれ込んできました。
「ソ連邦内務次官ポチコフ中将の命令だ。日本人は、全員戸外に整列せよ」
入り口に立った大男がひきつった声で叫び、それを、並んで立つ通訳が、日本語で繰り返しました。
日本人は動きません。
ソ連兵は、手に白樺の棍棒を持って、ぎらぎらと殺気立った目で、大男の後ろで身構えています。
大男が手を上げてなにやら叫びました。
ソ連兵は、主人の命令を待っていた猟犬のように、突進し、日本人に襲いかかりました。
ベッドにしがみつく日本人、腕ずくで引きずり出そうとするソ連兵、飛びかう日本人とロシア人の怒号、収容所の中は一瞬にして修羅場と化しました。
「手を出すな、抵抗するな」
誰かが叫ぶと、この言葉が収容所の中でこだまし合うように、あちらでもこちらでも響きました。
長い間、あらゆる戦術を工夫する中で、いつも合言葉のように繰り返されたことは、暴力による抵抗をしないということです。
今、棍棒を持ったソ連兵が扉を壊してなだれこんだ行為は、支配者が、権力という装いを身につけてその実、むき出しの暴力を突きつけた姿です。
暴力に対して暴力で対抗したなら、更なる情け容赦のない冷酷な暴力を引き出すことは明らかです。
そうなれば、全ては水の泡になる。
予期せぬ咄嗟の事態に対しても、このことは、日本人の頭に電流のように走った。
「我慢しろ、手を出すな、全てが無駄になるぞ」
引きずり出されてゆく年輩の日本人の悲痛な声が、ソ連兵の怒鳴る声の中に消えていきます。
柱やベッドにしがみつく日本人をひきはがすように抱きかかえ、追い立て、ソ連兵は、全ての日本人を建物の外に連れ出しました。
収容所の営庭で、勝者と敗者が対峙しました。
敗れた日本人の落胆し肩を落とした姿を見下ろすソ連兵指揮官の目には、それ見たことかという冷笑が浮かんでいます。
ソ連がこのような直接行動に出ることは、作業拒否を始めたころは常に警戒したことです。
けれど断食宣言後は、中央政府の代表が交渉のために現われることを期待していていたのです。
それが予想外の展開になりました。
もはやこれまでか。
「首謀者は前に出よ!」
石田三郎元少佐は、ポチコフ中将の前に進み出ました。
ボチコフは、中央政府から派遣された将官です。
あたりをはらう威厳を示してイスに腰掛けています。
石田は敬礼をし、直立不動の姿勢をとって、将官の目を見詰めます。
沈黙。
緊張。
「こいつがソ連の中央政府の代表か」
石田少佐の心には、走馬灯のように、かつて、満州になだれ込んだソ連軍の暴虐、混乱、逃げまどう民間人の姿、長い刑務所での労苦、収容所の様々な出来事が、よみがえりました。
悔しさ、悲しさ、怒り。こみあげる感情の中で、石田は、あることに気がつきます。
ポチコフ中将の態度が、これまでのソ連軍のそれとはなにか違っています。
石田は、この時になって、はっと思い当りました。
(さっきソ連兵が収容所に踏み込んできたとき、彼らは白樺の棍棒を持っていた。銃を使わなかった!)
石田の胸にずしりと感じるものがありました。
石田三郎は、日本人の誇りを支えにして貫いてきたこの長い闘争を改めて思いました。
こみ上げる熱いものを抑え、彼は胸を張って発言しました。
「私たちがなぜ作業拒否に出たか、そして、私たちの要求することは、中央政府に出した数多くの請願書に書いたとおりであります。改めて申し上げると・・・」
「いや、主なものは、読んで承知しています。改めて説明しなくもよろしい。いずれも、外交文書としての内容を備えている」
石田の言葉を遮ったポチコフ中将の言葉には、立派な文章だと誉めている様子が言外に感じられるものでした。
「しかし」とポチコフ中将は、鋭い目で石田を見据え、一瞬、間をおいて強い語気で言い放ちます。
「お前たち日本人は、ロシア人は入るべからずという標札を立ててロシア人の立ち入りを拒んだ。これはソ連の領土に日本の租界をつくったことであり、許せないことだ」
これは、石田が拉致されるのを阻止しようとする青年たちが、自分たちの断固とした決意を示すために収容所の建物前に立てた立札を指しています。
ポチコフの言葉には、処罰するということが、言外に含まれています。
石田は、自分が厳しく処罰されることは初めから覚悟していたことです。
けれど、青年達は守らなければならない。
どうしようと石田が黙っていると、ポチコフ中将は、今度は静かな声で聞いてきました。
「日本人側にけが人はなかったか」
「ありませんでした」
石田は続けました。
「お願いがあります。私たちの考えと要求事項は、この日のために、書面で準備しておきました。是非、調査して、私たちの要求を聞き入れて頂きたい。このために日本人は、死を覚悟で頑張ってきました。
私の命は、どうなってもいい。しかし他の日本人は、処罰しないで頂きたい」
「検討し、追って結論を出すから、待て」
会見は終わりました。
形の上では、ソ連の武力弾圧に屈することになりました。
けれど、日本人の要求事項は、事実上ほとんど受け入れられたのです。
病人の治療体制は改善され、中央の病院は拡大され、医師は、外部の圧力や干渉を受けずにその良心に基づいて治療を行なうことが実現されました。
第一分所が保養収容所に生まれ変わりました。
他の分所の営内生活については、日本人の自治も認められました。
その他の、日本人に対する扱いも、従来と比べ驚くほど改善されました。
そして石田三郎を中心とした、闘争の指導者に対しては、禁固一年の刑が科されました。
彼らは別の刑務所に収容されたのです。
この事件について、瀬島龍三は、回顧録で次のように述べています。
「この闘争が成功したのは国際情勢の好転にも恵まれたからであり、仮にこの闘争が四、五年前に起きていたなら惨たんたる結果に終わったかもしれない。」
このハバロフスク事件は、昭和30年12月19日に発生し、ソ連による武力弾圧は、翌年3月11日に行われました。
そしてその年の12月26日、興安丸が舞鶴港に入港しました。
最後の日本人シベリア抑留者1025人が、日本に帰国したのです。
ハバロフスク事件の責任者石田三郎の姿もその中にありました。
一足先に帰国していた瀬島龍三は、平桟橋の上で、石田三郎と抱き合って再会を喜びあったそうです。
この事件について、ロシア科学アカデミー東洋学研究所国際学術交流部長アレクセイ・キリチェンコは、その著書「シベリアのサムライたち」の中で、以下のように語っています。
「第二次世界大戦後、64万人に上る日本軍捕虜がスターリンによって旧ソ連領内へ不法護送され、共産主義建設現場で奴隷のように使役されたシベリア抑留問題は、近年ロシアでも広く知られるようになった。
しかし、ロシア人は当局によって長くひた隠しにされた抑留問題の実態が明るみに出されても、誰一人驚きはしなかった。
旧ソ連国民自体がスターリンによってあまりに多くの辛酸をなめ、犠牲を払ったため、シベリアのラーゲルで6万2千人の日本人捕虜が死亡したと聞かされても別に驚くほどの事はなかったからだ。
とはいえ、ロシア人が人間的価値観を失ったわけでは決してなく、民族の名誉にかけても日本人抑留者に対する歴史的公正を回復したいと考えている。
今回ここで紹介するのは、私が同総局などの古文書保管所で資料を調査中、偶然に発見したラーゲリでの日本人抑留者の抵抗の記録である。
(中略)
敵の捕虜としてスターリン時代のラーゲリという地獄の生活環境に置かれながら、自らの理想と信念を捨てず、あくまで自己と祖国日本に忠実であり続けた人々がいた。
彼らは、自殺、脱走、ハンストなどの形で、不当なスターリン体制に抵抗を試み、収容所当局を困惑させた。
様々な形態の日本人捕虜の抵抗は、ほぼすべてのラーゲリで起きており、1945年秋の抑留開始から最後の抑留者が帰還する1956年まで続いた。
(日本人による抵抗運動のことを)ソ連の公文書の形で公表するのは今回が初めてとなる。
半世紀近くを経てセピア色に変色した古文書を読みながら、捕虜の身でスターリン体制に捨て身の抵抗を挑んだサムライたちのドラマは、日本研究者である私にも新鮮な驚きを与えた。
(中略)
これは、総じて黙々と労働に従事してきた日本人捕虜が一斉に決起した点でソ連当局にも大きな衝撃を与えた。
更に、この統一行動は十分組織化され、秘密裏に準備され、密告による情報漏れもなかった。
当初ハバロフスク地方当局は威嚇や切り崩しによって地方レベルでの解決を図ったが、日本人側は断食闘争に入るなど拡大。
事件はフルシチョフの下にも報告され、アリストフ党書記を団長とする政府対策委が組織された。
交渉が難航する中、ストライキは三ヶ月続いたが、結局内務省軍2500人がラーゲリ内に強行突入し、首謀者46人を逮捕、籠城は解除された。
しかし、兵士は突入の際銃を持たず、日本人の負傷者もほとんどなかった。
スト解除後の交渉では、帰国問題を除いて日本人側の要望はほぼ満たされ、その後、労働条件やソ連官憲の態度も大幅に改善された。
1956年末までには全員の帰国が実現し、ソ連側は驚くほどの寛大さで対処したのである。
(中略)
極寒、酷使、飢えという極限のシベリア収容所でソ連当局の措置に抵抗を試みた人々の存在は今日では冷静に評価でき、日本研究者である私に民族としての日本人の特性を垣間見せてくれた。
日本人捕虜の中には、浮薄(ふはく)なマルクスレーニン主義理論を安易に信じ、天皇制打倒を先頭に立って叫ぶ者、食料ほしさに仲間を密告する者、ソ連当局の手先になって特権生活を営む者なども多く、この点も日本研究者である私にとって、日本人の別の側面を垣間見せてくれた。」
この事件の総括は、上に示すアレクセイ・キリチェンコ教授のまとめの通りと思います。
日本人の中には、
「浮薄(ふはく)なマルクスレーニン主義理論を安易に信じ、
天皇制打倒を先頭に立って叫ぶ者、
食料ほしさに仲間を密告する者、
ソ連当局の手先になって特権生活を営む者などもいた。
いまの日本でも同じです。
日本人の中には、日本の歴史・伝統・文化を学ぶこともせず、安易にGHQの日本解体工作を信じ、天皇を否定し、国旗や国歌を否定し、カネ目当てに他国に媚を売るような恥ずべき人もいます。
しかし、それでもなお多くの日本人は、いまでも天皇を愛し、自分より子や配偶者、部下たちの幸福を第一に考え、誰かのために、何かのために貢献できる生き方をしようという心を胸に秘めています。
そして日本人が内なる力に突き動かされるとき、時代は大きく変わる。
戦前の通州事件や、尼港事件の際、殺された多くの日本人たちは、「日本人は逃げろ~!」と叫びました。
阪神淡路大震災や、東日本大震災のときも、多くの日本人は、自分より先に、家族を助けてくれと救助隊に懇願して果てています。
そしていまなお、多くの企業戦士、多くの母親たちは、規則やきまりなど、外の力で動くのではなく、会社を守ろう、部下を守ろう、家族を守ろう、子に恥じない親になろう、父母に叱られない自分になろうという、内なる力に衝き動かされ、毎日を生きています。
それは、ひとりひとりの人間として一番大切な生命をかけた戦いです。
日本は法治国家だという人がいます。
たしかに、今の日本はそうです。
しかし、非常に治安が良かった江戸時代や、戦前の日本には、現代日本にあるような事細かな法律や省令、政令なんてものはありません。
そんなものがなくても、日本人ひとりひとりの中にある、道義心によって、現代社会よりもはるかに安心して暮らせる日本ができあがっていたことを、私達はもういちど思い返す必要があります。
日本人は、基本的に、周囲にとても気を使う民族です。
それは、過去の日本も、現代の日本人もまったく変わりません。
ですから、いかに暴政があろうと、そこで自分だけの我がままで、まわりのみんなに迷惑をかけてはいけないと、ひたすらこらえ、我慢し、明日を信じて恭順の姿勢を取り続けます。
けれど、それがある一線を越えたとき、日本人は立ち上がります。
そしてそれは、上から強制されてとか、命令だからではなく、常にひとりひとりの自発的な心の「内なる力」によっておこります。
そして不思議なことに、日本人をないがしろにした者達は、最後は必ず滅んでいます。
※本編は群馬県議員中村紀雄氏のHP「今見るシベリア強制抑留の真実」を基に構成させていただきました。
http://homepage3.nifty.com/kengi-nakamura/siberia/02-01.html本日のお話は、2009年に当ブログでご紹介したものを、リニューアルしたものです。

↑ ↑
応援クリックありがとうございます。
異国の丘
【メルマガのお申し込みは↓コチラ↓】
ねずさんのひとりごとメールマガジン有料版
最初の一ヶ月間無料でご購読いただけます。
クリックするとお申し込みページに飛びます
↓ ↓
- 関連記事
http://blogs.yahoo.co.jp/umayado17/62340957.html
■昭和十七年三月に第1894部隊第五中隊に編入され、その後第六中隊付きとして第六中隊と共に歩み、二龍山地区の陣地構築中に終戦となり捕虜の身となってあのシベリア生活が始まった。
約一年後には412分所作業班長として中隊の皆さんとも別れ、昭和23年には416分所(六十名位)長として任に着いたが、
作業長プ○ラプによるシゴキに体力消耗、全身クタクタになり作業も手に付かず痩せ細り、明日死ぬか明日死ぬかの思いでようやく昭和24年9月、母国日本に上陸した。
シベリアは小野田さん横田さんの居た生易しい環境ではない。 零下四十度も下る所に何がある?馬が食べるワラ位しかない。
そのワラの根を木棒や板で叩き柔らかくして食べて生きて来た。
皆様の引き揚げ時期は分かりませんが、私の時は1894部隊の人は一人も居らず、私一人大侑丸にて引き揚げました。(以下略)
↑その他多くの体験記が載ってますが、とりあえず義叔父の分は『シベリア抑留遺児の会』というブログさんに以前書いときました。
書かなきゃ消えてしまう先人の体験話を、今の内にネット上に記録化しとく事も重要だなと思う昨今。
↓
来年=2015年・平成27年・皇紀2675年がその時=一線を越えるとき=日本人が立ち上がるときになるのではないでしょうか。
その気を強くしている今日この頃です。
http://youtu.be/YQksCffu_Rg
(動画)
【関連情報】
【愛信選挙情報】[第47回2014年衆議院議員選挙情報]
http://www.aixin.jp/ssjh/sjmenu.cgi
一つの選挙区で投票は3種類の投票が行われる。 1つは衆議院議員選挙で
あり2つ目は比例代表選挙で11ケ所の比例代表選挙ブロックの政党に投票す
る。 3つ目は最高裁判所裁判官国民審査投票です。
有権者か投票した票数は三つとも同数になります。 しかし関連情報に掲載
した選挙管理事務所が発表している票数に数10%の差異が発生しています。
この事は投票券の水増し(偽票の投入)や投票券の抜き取りによる不正開票
の犯罪行為の証拠になります。
詳細は
【動画ニュース掲示板】最新版
http://www.aixin.jp/axbbs/kzsj/kzsj6.cgi
ウラン鉱山で被曝しながら強制労働させられた人もいたんですよね
先の総選挙で、反自民としての共産票を安易に投じた人たちに、このブログを読んでほしいものです。学校できちんと教えないから、「戦争反対」「増税反対」のイメージ戦略に騙されるのです。
これから、日本人がアイデンティティーを取り戻す時代が来ると思います。キーワードは「先祖の名誉回復」「子供たちに、日本人の誇りを伝える」ことではないでしょうか。
日本の軍隊は、日本の終戦を知って戦闘を停止し、武装解除されて捕虜となったのですが、その後の兵士に対しての扱いについては、ソ連が恥知らずの国家と言うほかありません。(国際条約も適用しないのです。)
ところで、日本の軍隊の戦い、捕虜になった一方で、非戦闘員は避難したのですが、その方々の苦労も大変でした(大変の一言で、済ませられるものではなかったと思います。)。
このことは、サンデー毎日の満州棄民が連載されたことで、一般国民は広く知ることになったと思います。しかし、その内容は真実にほど遠く、日本の国を貶める内容ではなかったかと思います。
国際条約も力関係が変わると躊躇なく反故する国に対しては、日本の誠実や好意は伝わらないと思いました。
しかし、抑留時代のことを決して話すことはありませんでした。
唯一抑留時代のことを話たのは、木製の麻雀パイを見せて
くれた時です。
父の目がやさしく微笑んだていたことを覚えています。
ちなみに、この木製麻雀パイは地方紙に報道されたこともあります。
これからも訪問させて頂きます。