弾はまだのこっとるがよ。
2014年、日本を代表する名優から、アーティスト、文化人、そしてお笑い芸人まで。
数多くの有名人たちが、惜しまれながら、てんごくへとたびだっていった。
そんな故人たちが愛する家族へ人生をかけて残したメッセージとは。
きょうのチャーハンは、うまかった。
ずっと一緒にいたいな。
なっさけねぇな。
今夜は、追悼、ことし亡くなった人たちの最期のアンサーをあなたへ。
いつか来るんですけどもね。
誰もが迎えるときなんですけどね。
お別れがいつ来るか分からないって、怖いですよね、本当に。
ねえ。
ものまね芸人、春一番。
ことし7月3日、47歳の若さでこの世を去った。
いくぞ!1、2、3、ダーッ!ばかやろう!
アントニオ猪木のものまねでブレークした春一番。
そんな春の最期のアンサーは、自分を支え続けてくれた、妻に向けてのものだった。
ただいま。
実は春、亡くなるその前日まで。
なんかおなかすいちゃったから、ちょっとごはん作ってよ。
いつもと同じように妻と会話をし、いつもと同じようにお酒を飲み、そして、知らず知らず眠りにつく。
ふだんどおりの生活を送っていた。
大丈夫?春さん。
おやすみ。
ごめんね、ありがとう。
うん。
しかし、それから僅か4時間後。
事態は急変。
春さん?春さん!
愛する妻の隣で、その顔は真っ白。
すでに息は止まっていた。
消防ですか?救急ですか?
救急車を、救急車を1台お願いします。
どうしました?
主人が、主人が息をしていないんです。
ほっぺ触ったときに、もう心臓止まってると思ったけど、でも、息吹き返すと思ったんですよ。
必死の心臓マッサージ。
1、2、3、4、5、6、7、8、9、10。
失礼します。
奥さん、奥さん。
奥さん!奥さん、代わります。
奥さん、代わります。
春さんを見たら、胸の骨折れてるし、もう運ばれてきたときには、息引き取ってたからって言われて。
春一番、永眠。
まさか死ぬなんて思ってないですもん。
朝起きたら、隣で帰らない人になってしまった?
心の準備出来てないですからね。
全く。
今なんか、本当に切ない気持ちで、私今、すぐうち帰りたいです、もう。
僅か数時間前までは、ふだんと変わらなかったのに、その命を奪った病の正体とは。
今夜、春一番の妻、綾さんが、その闘病を初告白。
いきなり独りぼっちにされて、ばかって言いたいですね。
夫の死から5か月。
綾さんは亡き夫との思い出を乗り越えようと、2人で住んでいた家を引き払い、このワンルームマンションに引っ越した。
しかし、その遺影の前には、生前、春さんが好きだった酒とたばこ。
たんすの上には、亡くなってから半年たった今も、遺骨が置かれたままになっている。
子どもがいないので、しばらく一緒にいて、寂しいから。
散骨しちゃうと、どこに会いに行っていいか分かんなくなっちゃうんで。
綾さんが見せてくれたのは。
仕事かばんと私服ですね。
そのまんま残してるんですか?
そうですね。
中には夫の宝物が入っている。
ネタ帳と、上着とガウンが入ってます。
片づけようとかっていうふうには?
そうですね、ぼーっとしちゃって、片づけらんないですね。
妻は今なお、夫の死を受け入れられない。
ものまね芸人、春一番といえば、こんな姿は記憶にないだろうか。
道はどんなに険しくとも、笑いながら歩こうぜ、ダーッ!
薄い胸板に痩せ細った腕、それにはふさわしくないふくよかなおなか。
この体形をもたらした原因は。
仕事中に酒はまずいだろ。
ちょっと、ばか!
そう、酒。
撮影の合間でも酒を飲み、酒のせいで遅刻など、仕事でトラブルを起こすことたびたび。
まるで取りつかれたかのように、酒にひたった春一番。
やっぱ確かにこう、お仕事するときに、本番前やのに酒臭かったりはしてました。
そうなんですか。
やっぱ本当にお酒、大好きでね。
一番心を痛めたのは、いつもそばにいた妻の綾さんだった。
お酒捨てたりとか、さんざんしましたよ。
泣いてお願いもしたし。
何度もお酒を控えてほしいと頼んだ妻。
しかし。
聞いてんの?やめないなら出てくから。
勝手に出てけばいいだろう。
まるで、それだけは守りたいとでもいうように、何度止めても、酒をやめようとしない春。
そしてその果てに、事務所を解雇。
もう本人が、ぼう然自失というような感じで、そのときに一気にお酒の量が増えましたね。
結構落ち込んだりはする人なんですか?
しますね。
もう何年もたってるのに、あのときはああでしくじったって、いきなり言い出して、どんどんどんどんこう、落ち込んでっちゃうんですよね。
酒で仕事を失い、そのショックで酒が増える。
まさに悪循環。
その当時、家計を支えていたのは、綾さんのバイト収入のみだった。
そしていつしか、春の酒の量は限界を超えていた。
1日にバーボン1リットル、ワイン3本を飲み干すように。
酒に救いを求めた結果、春を恐ろしい事態が襲う。
それは。
緊急入院。
すみません、通ります。
お願いします。
酒の魔力は、想像を超えるほど春の体をむしばんでいた。
腎不全の発覚に始まり、すい臓、肝臓、肺、内臓のほぼすべてがぼろぼろの状態。
3度にわたる手術を受け、春は生死の境をさまよった。
頑張って…。
その入院は3か月半。
しかし、綾さんの献身的な看病のかいもあってか、春の体は奇跡的に回復した。
退院おめでとう。
ありがとう。
乾杯はもちろんウーロン茶。
無事退院することができました。
そのとき、夫婦はこんな約束をしていた。
あんたね、せっかく助けてもらったんだから、その命、大事にしなきゃだめだよって、分かってるね?って言ったら、うんって言って、自分で管理を任せてくれって。
飲まないって決めたら、たとえ猪木さんからの誘いでも行かなかったですもん。
二度と酒の魔力に引き込まれない。
それは、命のともし火を消さず、夫婦が幸せに生きるための誓いだった。
そして春は、個人事務所を設立。
突然申し訳ありません。
あの…。
未経験ながら、綾さんがマネージャーを務め、その懸命な営業活動で、少しずつ仕事は増えていった。
ようやく夫婦の生活に、一筋の光が差し込み始めた。
ところでさぁ、春さん、お酒、ちゃんとセーブしてる?
当たり前だよ。
本当に?
うん。
さすが春さん、約束を守る男だね。
うん。
しかし。
うん?
あら。
春は、酒の魔力から抜け出せずにいた。
そしてついに。
お待たせしました。
その居酒屋には、仕事に行ったはずの春がいた。
春さん。
なんでここにいるの?なんでお酒飲んでるの?約束したじゃない。
夫の裏切りを知った妻。
しかし。
帰ろう、春さん。
ごめんね。
ありがとう。
そして、不意に訪れた永遠の別れ。
それは、今まで蓄積されたアルコールに、肝臓が悲鳴を上げたがゆえの、肝硬変という病によるものだった。
綾さんは、そんな夫のそばから、最期の瞬間まで、決して離れることはなかった。
一体なぜ、そこまで夫を支え続けたのか。
そこにこそ、今回、彼女が番組への出演を決めたある思いが。
私のほうが感謝してますけどね。
確かに大変なこといっぱいありましたけど。
春に感謝していると語る綾さん。
その理由を物語るこんなエピソードがある。
15年前、綾さんの母が他界。
綾さんは、愛する母の死に、悲しみに暮れていた。
一方、当時の春は事務所を解雇され、そのうさを晴らすかのように、酒の量が増えてしまっている時期だった。
どん底にいる春一番の妻として、さらにそれを支えるマネージャーとして、その悲しみをなんとか封印していた綾さん。
しかし、そのつらさは限界に達していた。
そんなとき、春が。
綾ちゃん、綾ちゃん、そんな悲しい顔しちゃだめでしょ。
それは、亡くなった綾さんの母のものまね。
さらに、おじいちゃんや。
おじいちゃんだよー。
姉貴。
弟まで。
俺、姉貴のさぁ、そういう悲しい顔?見たくないんだよね。
たとえ直接話はしなくても、綾さんの深い悲しみを、春は誰よりも感じていた。
家族総出で綾ちゃん、綾ちゃんって、まねして、元気出さなきゃだめよって、綾ちゃん、泣いてばっかりいると、春さん、困っちゃうよとか言って。
本人も落ち込むくせに、落ち込むとか、そういうのが嫌いな人なんですよ。
それは、自分がつらいときにでも、大切な人にはいつも笑顔でいてほしい。
そんな春の優しい人柄ゆえの行動だった。
そして、春の人柄に救われたと語る人間が、ここにも。
素直にうれしかったね。
ことし6月、最愛の妻、初美さんが乳がんのため他界してしまったダンカン。
実は、葬儀が行われたのは、春が急死してしまうちょうど1週間前。
その葬式に、春がこんな弔辞を出していた。
ご訃報に接し、心から哀悼の意を表します。
ここまではいいんです。
ここまではそれなりの、ちゃんと大人のね、対応をしてますよ。
申し上げますとともに、香典ドロに中野まで伺う電車賃にも事欠くありさまをお察しください。
さらになお、弔い酒はいつでもおつきあいいたします。
謹んでご冥福をお祈りいたします。
ダンカンさん、元気ですかー!っていうふうに締めてますけどね、春一番。
うーん、こういうのがたまらなくうれしかったけどね。
われわれ30年も、このお笑いで生きてきたわけだから、直球で接してくれたっていうのがねぇ。
綾ちゃん、そんな悲しい顔しちゃだめでしょ。
春一番。
その弱さゆえ、酒の魔力に負けてしまったと、人は笑うかもしれない。
しかし誰よりも、人の弱さを許し、そして優しく受け止めることができた男だった。
一生懸命励ましてくれて、こっちのほうが感謝してますけどね。
奥さんが、こっちも感謝してますと、いいことばだね。
最後に。
すごい優しい方で、僕らみたいなすごい若手でしたけども、そういう優しいことばかけてくれはる先輩でしたね。
うちのおやじも前の晩に、ずっとお酒、1人で飲んでて、で、おれが風呂上がりにおやすみって言って、それっきり、朝、亡くなってたんですよね。
そうなんですか。
本当にね、突然だとね、受け入れられないんですよね。
安さんのお母さんが、がんで亡くなったんですけど、そのときにもずっとついてあげられる、それも悲しかったけども、なんかこう、覚悟ができるなとかね。
だから、奥さんがずっと遺骨をね、家に置いておくってね、もうあれも、すごい気持ち分かりますね。
中華料理人、周富徳。
ことし4月8日、肺炎によりこの世を去った。
周富徳といえば、記憶に新しい姿が。
挑戦者、周富徳。
炎の料理人と呼ばれ、お茶の間の人気者に。
人生は色気と食い気。
気さくでユニークな人柄が受けて、バラエティー番組にも多く出演。
もちろん本業のほうも。
はい、鍋とそばを1つで両方味わえちゃう、鍋ソバってのを僕が作っちゃうよ。
その実力も折り紙付き。
実は、エビマヨは彼が日本で普及させたといわれており、中華料理の定番となっている。
テレビで確か、つくらはったんですよ。
へぇ。
そのとき、うわっ、エビ入れた!ってなって、みんなもう、うわっ!もう、エビにマヨネーズかけてるみたいな感じに、スタジオ内、なってたんですよね。
今は当たり前ですもんね。
定番でね。
ところが、食べたらめちゃくちゃうまかったっていう。
さらに、料理本を多数出版。
周の半生を描いた漫画本まで登場し、一大ブームを巻き起こした。
こちらの男性は、父と同じ料理の道を歩む、周のたった一人の息子。
周富徳の最期のアンサーは、その息子に向けてのもの。
1943年、第2次世界大戦真っただ中の日本で、一人の天才料理人が産声を上げた。
その名は、周富徳。
横浜で在日中国人の2世として生まれ、そして18歳のころ、父と同じ料理人の道へと進んだ。
抜きん出た料理のセンスと、厳しい修業を経て、37歳で中華料理店の名店、聘珍樓の総料理長に就任。
それは、異例の出世だった。
そんな父、周富徳は。
ひと言で言ったら、優しい父でした。
ふだんは小言一つ言わなかった父。
しかし、ひとたび料理のこととなると、違う顔を見せた。
ある日、家族で食事をしていたとき。
うわぁ、これまずい。
もう食べたくないと、文句を言う息子に。
料理を粗末にすることは、絶対に許さないぞ!
平手の3連発ぐらい。
初めて殴られたので、たぶん、泣いたと思います。
それは息子にとって、父の料理に対する真剣さに、初めて触れた瞬間だった。
そして14年後。
僕、料理人になろうと思ってるんです。
息子は父のもとへ弟子入りを志願。
しかしそれは、父と息子との厳しい闘いの始まりだった。
たとえ親子といえど。
おい、お前!皿持ってこい。
はい。
周さん、こちらです。
みんなと同じ周さんって呼んでましたね。
お父さんはなんて呼ばれてたんですか?
自分のことは呼んでないんじゃないですかね。
呼ぶ機会もない。
差がありすぎて。
超一流店の総料理長の父に対し、息子は雑用係。
そこにはたとえ親子でも、乗り越えられない高い壁が。
仕事を終えても。
ちゅう房と変わらぬ緊張感。
さらに。
見習い料理人の登竜門の意味もある、賄い作りのときでも。
おい、お前!なんて味付けしてるんだ!こんなチャーハン、食えるか!こんなの中華じゃない!
しょっぱいとか濃いとかは、よく言われました。
強い、当たりが強いですね。
不条理にも思える周の厳しさに、つい。
この味のどこがだめなんだよ。
そんなことも分からないのか。
すべてがだめなんだよ!
それじゃ、いつまでたっても分かんないじゃないか。
それを分かるまでやるのが、料理人だ!
さらに。
いつまでたっても、こんなものしか作れないのか!
そんな、落ち着いてくださいよ。
大切な跡継ぎじゃないですか。
こんなやつ、跡継ぎにはさせない!
厳しい父を見返したい。
先輩料理人たちに料理を教わり、懸命に努力した息子。
そう、ここは中華の一流店。
たとえ親子であっても、店のトップである総料理長である周が、直接、駆け出しの息子に教えることはなかった。
そして。
息子、志鴻が料理の世界に飛び込んで20年もの間、父は息子を決して認めはしなかった。
そんな中、去年8月、周は肺炎のため緊急入院。
苦しい闘病生活を余儀なくされることに。
青山の店は、大丈夫なのか?俺がいなくても、大丈夫なのか?
たとえ生と死のはざまにいても、料理への熱い思いは、決して消えなかった。
それから半年後のことし2月。
いらっしゃいま…。
病の体をおして、周が突如、店に現れた。
一体なぜ?その訳を、今夜、息子が初めて知ることとなる。
今初めて知って、ちょっとあぁーって思いますね。
天才料理人、周富徳の真実とは?そして。
周富徳の入院から半年後。
いらっしゃいま…。
一時退院した周が、突如、店に現れた。
しかし、店の様子を確認するかのように一べつしたあと、無言で立ち去った周。
何を伝えたかったのかは分からない。
しかし、結果的にこれが、周が愛する店を訪れた最後となった。
その1か月後、病状は再び悪化。
そしてことし4月8日。
肺炎により、周富徳はこの世を去った。
そして。
料理に対して、これがよかったぞっていうのは1回もないです。
最後まで、父に認めてもらえるような立派な料理人になれなかった。
今でもその悔いが、息子の胸に鉛のようなしこりとなって残っているという。
周さんね、息子さんに厳しいですよ。
しかし、今回、アンサーで息子の先輩に当たる料理人へ取材。
すると、息子も知らなかったある真実が判明した。
今、初めて知って、ちょっと、あぁーって思いますね。
息子が修業中、総料理長としての立場から、直接指導はしなかった周。
周さん、こちらです。
実はその裏で。
お前たちに頼みがあるんです。
俺は立場上、あいつに料理を教えてやれない。
だから、お前たちが、本物の中華の味を教えてやってほしい。
頼む。
ひそかに兄弟子たちに息子の指導をお願いしていた。
さらに。
こんなチャーハン食えるか!こんなの中華じゃない!
しかし、弟子の前では、こんなことばを残していた。
きょうのまかないのチャーハン作ったの、志鴻だろ?
はい。
そうですよ。
ようやく最近、志鴻もちゃんとした中華料理を作れるようになった。
きょうのチャーハンはうまかった。
そんな父の本当の思いを裏付けるかのように、周が亡くなった後に、遺品を整理していると。
えっ?ちょっと、それ見せてもらえますか?
実は、家族の知らないうちに、周は、店の名義を息子、志鴻さんに変えていた。
そう、父は息子を認めていた。
その厳しさは、息子が父に頼らず、成長してくれることを願うがゆえの優しさだった。
取材で分かったこの真実を、息子に伝える。
今、初めて知って、ちょっと、あぁーって思いますね。
周富徳。
中華料理をこよなく愛し、そしてそれ以上に、家族をこよなく愛した男。
彼は不器用な愛情で、同じ道へ進んだ息子を、いつも見つめていた。
そして今、青山にある周の店は、亡き父、周富徳の跡を継いで、志鴻さんがオーナーとして営業している。
いまや、頼もしく成長した姿を見せる息子に。
母が知っていた、周が無言で店を立ち去った訳。
口に出さなかったけど、でも自然に態度で、もう任せたって感じで、お店のことはそんなに心配してなかったみたい。
きょうのチャーハンは、うまかった。
おやじに近づけるように努力するんで、できるかどうか分かんないけど、見守っててくれと。
これはもう、息子さん、相当うれしいですよね。
本当におもしろい方で、カメラ目線がもうやっぱり、最高におもしろかったですから。
今見てもおもしろいですね。
今、見てもおもしろいですよね。
火、ぼーぼーなのにね。
僕だから、周さん、若干パクってるんですよ、カメラ目線するとき。
えっ、岡村さんが周さんをパクったんですか?
そうなんですよ。
なんか、カメラ目線っていうか、カメラが、がって寄ったときに、ぐっとカメラ見ると、技術さんが笑うっていう。
そうなんやと思った時期があって、そういうのもちょっとまねさせてもらったこともあるんですよ。
ミュージシャン、ジョニー大倉。
ことし11月19日、肺がんにより62歳でこの世を去った。
その息子が語った壮絶な最期とは?1971年、矢沢永吉らとロックバンド、キャロルを結成。
ギタリストとして一世をふうびした。
バンド解散後は俳優業もこなすなど、マルチな才能を発揮。
2009年には、血液のがんである悪性リンパ腫を患うも。
ロックンロールの神様が、僕を救ってくれました。
見事、克服し、奇跡の復活を果たした。
しかし、4年後の2013年には。
肺がんです。
余命2週間ですって言われたときに。
末期の肺がんとの宣告が。
だが、大倉は諦めなかった。
つらい抗がん剤治療を乗り越え、10か月後にまたも復活を果たす。
ファンの皆さんも、不死身だよ、やっぱりジョニーはって、思っていただけたんではないですかね、そのときは。
やっぱりがんに勝てるんだって。
しかしその後、がんは無情にも進行。
大倉は、寝たきりの状態に。
その最期のアンサーは、息子に向けてのものだった。
死の数日前、大倉は、しゃべることすらままならず、ほとんど意識もない状態だった。
自分が生きていたっていう証しを、最期に思っていたかったのかもしれない。
ケンイチ…。
おやじ!どうしたの?
立ちたい…。
急におやじが、もうつらい中、俺に、ケンイチ、立ちたいって言って、重たいおやじを持って、地面に立たせたんですよ。
おやじ、分かる?立ってるの分かる?って、うんってうなずいて。
もう一度、ステージに立ちたい。
最期まで、不屈の魂を捨てていなかった。
もうちょっと、胸がもう、いっぱいになりましたね、今のだけで。
ラーメン職人、佐野実。
ことし4月11日、糖尿病による多臓器不全により、63歳でこの世を去った。
お客さんに出せないよ、ねえ?真剣に考えてんのかよ!ばかやろう!出せないって言ってるの、出せないって。
どうすんだよ!
妥協を許さないその姿勢から、ラーメンの鬼と恐れられた佐野実。
ラーメンブームの火つけ役として脚光を浴びるその裏で、糖尿病を患い、苦しい闘病生活を送っていた。
胃に穴が開いてて、で、血が出てて、ね、貧血起こしそうになる。
そんな彼の最期のアンサーは、妻に向けてのものだった。
まさかこんなときに、そんなことばを出してくれるなんて、本当に思わなかったので、胸が詰まる思いでしたね、本当に。
佐野といえば、ラーメン屋、支那そばやで一躍人気に。
その店は。
だめだ!作り直し!きょうは店、閉めるぞ!
自分が納得のいく味にならなければ、絶対に店を開けない。
さらに。
ごちそうさまでした。
スープは最後まで飲んで!
そして。
きのうさ、この服買ったんだけどさ、かわいくない?
めっちゃかわいいじゃん、似合ってるよ。
本当?やったー!
べちゃくちゃしゃべるな!麺が延びる!
そんなラーメン一筋の夫を支え続けたのは妻、しおりさん。
しかし、家では。
なんだよ!この味付けは!これ!だしの取り方が違う。
何度も同じこと言わせるな!
厳しかったですよ。
仕事もそうですし、もう妥協は許さないっていうのは、もう家庭にいてもありましたね。
そんな佐野がことし2月、緊急入院。
取り急ぎ、処置は終わりました。
糖尿病が悪化し、腎臓と肝臓の機能が低下。
医者からは。
このままいけば、もう3日ぐらいかななんて言われて、いや、まだ死なせられないと思ったので、もうなんとか、本当になんとかお願いしますって、先生にお願いしました。
懸命な看護のおかげか、命の危機は脱したが、予断を許さない状態。
それでも。
何かしてほしいことある?
ラーメン食べたい。
ラーメンの存在が消えることはなかった。
もう、そこまでして食べたいんだなと思ったので。
なんとかして食べさせてあげたいって、相当悩みましたけど、瞬間。
しおりさんは、弟子に頼んでラーメンを用意。
それは、病床の佐野を気遣い、通常のスープをお湯で薄めた特別製。
しかし。
スープが薄い!お前ら、こんなものをお店で出してるのか?
鬼と恐れられた姿、そのものだった。
そして死の2日前。
夫婦は、こんな最期の会話を交わしていた。
今までで一番うれしかったことは何?
このあと、佐野の意外な最期のアンサーに。
まさかこんなときに、そんなことばを出してくれるなんて、本当に思わなかったので、胸が詰まる思いでしたね、本当に。
ラーメンの鬼、佐野実が、亡くなる2日前、妻へ送った最期のアンサーとは。
今までで一番うれしかったことは何?
お前と出会ったことだよ。
えっ?ほかにもあるでしょう?2番目は?
2番目もお前と出会えたこと。
じゃあ、3番目と4番目は?
3番目も一緒だよ。
同じこと何度も言わせんな!
もう本当に、まさかこんなときに、そんなことばを出してくれるなんて、本当に思わなかったので、もう胸が詰まる思いでしたね、本当に。
それから2日後、佐野実は息を引き取った。
63歳だった。
そして今、妻は夫の遺志を継ぎ、オーナーとして、佐野が大切にした店を守っている。
本当に志半ばだったと思うんですね。
その遺志をやっぱり継いで、どれだけやれるかはね、分かりませんけど、もうみんなと一緒にやっていきたいなって思ってますんで、それ以外に何もないですね、私の人生。
今までで、一番うれしかったことは何?
お前と出会ったことだよ。
その最期のアンサーは、佐野にとって人生をささげたのは、ラーメン以上に妻だったことを意味していた。
俳優、蟹江敬三。
ことし3月30日、胃がんのため69歳でこの世を去った。
いい後輩に巡り会えたと思ってるよ。
出演した作品は600本を超える名バイプレーヤー。
そんな蟹江敬三が、同じ役者の道を歩んだ息子に向けた最期のアンサーは。
そういやお前、今、どれくらい稼げてるんだ?
正直に今の年収を答えると。
情けねぇな。
情けない姿しか見せられなかったので、もちろん父の遺志も継いで、やっていきたいなと、俳優としてね、やっていきたいなという気持ちだけです。
落語家、桂小金治。
ことし11月3日、肺炎のため、88歳でこの世を去った。
本業の落語に加え、テレビ番組の司会も務め、人気番組、それは秘密ですの涙のご対面コーナーでは。
その涙もろさが評判に。
泣きの小金治と呼ばれ、お茶の間の人気者となった。
そんな桂小金治の最期のアンサーは、妻、良子さんに向けたものだった。
病状が進み、声が出せなくなっていた小金治。
そんな中、最期に妻へ伝えたのが。
ええ、どういたしまして。
妻へ感謝の気持ちを伝えようと、指で3・9と、表現したという。
ありがとうな。
その最期のアンサーは、切なくも落語家らしい粋なものだった。
元TBSアナウンサー、山本文郎。
ことし2月26日、肺胞出血により、79歳でこの世を去った。
TBS退社後は、フリーアナウンサーとして活躍。
73歳のときには、31歳年下の妻、由美子さんと再婚し、話題となった。
そんな妻に向けて送った山本文郎の最期のアンサーとは。
山本文郎が妻に向けて送った最期のアンサーは。
愛してる。
ずっと一緒にいたいな。
たまらんね。
たまんないですね。
1分1秒でも、2人の時間をむだにしたくないと、由美子さんをみずからのマネージャーにし、仕事中も常に一緒にいたという。
中尾さんなんかはね、芸能生活長い分、思い入れのある方もいらっしゃったと思うんですが。
今のVTRの方、全部仕事を一緒にしました。
そうですか。
くるくるは今後、どうするつもりなの?
今、そこか?
今、そこじゃないだろう。
でもそれ、2014/12/09(火) 21:00〜21:54
読売テレビ1
解決!ナイナイアンサー[字][デ]
【追悼…今年亡くなった有名人達】「絶対に帰ってくる…」今年47歳の若さで亡くなった、芸人春一番…死から5か月、妻がその想いをTV初告白!死を目前に妻に残した最後
詳細情報
おしらせ
・相談員を随時募集中!詳しくは番組HPへ。
番組内容
死から5か月、遺骨は未だ自宅に置かれたまま…「絶対に帰ってくるって思ってた…散骨しちゃうと、どこに会いに行っていいか分からない…」今年47歳の若さで亡くなったお笑い芸人春一番…夫の死を未だに受け入れられない妻が、その想いをTV初告白!最後を悟った春一番が妻に残した言葉とは!?炎の料理人・周富徳…息子が初めて知った父の本心…明らかになった事実…中華料理と家族を最後まで愛し続けた男の最後の言葉とは!?
出演者
【MC】
ナインティナイン
【進行】
松本志のぶ
【VTR】
周富徳
春一番
【立会人】
東貴博
中尾彬
北斗晶
監督・演出
【企画・演出】
安島隆
ジャンル :
バラエティ – トークバラエティ
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情報/ワイドショー – 芸能・ワイドショー
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